河童の皿箱
2026-07-12 21:31:59
3854文字
Public
 

珈琲を一杯

パロ味がある。ある喫茶店での一幕。

 からり、からから。ドアベルが揺れる。静かな音で閉じられた扉の前には、青い髪の若い男が立っていた。がらんどうの店内。こだわりのインテリアたちはその色味と共に静かに、外からの雨音とボサノヴァのナンバーに、そしてやってきた客の足音に、耳を傾けた。
 その男は濡れ鼠、といった様子はなく、マットで少し足を拭いてから、真っすぐにカウンターに向かってきた。ハイスツールが初めて引かれ、男を迎え入れる。男は言った。「よう、生憎の雨だな」、と。ちらりと窓の外に向いた視線。往来の人気はまばらで、突然の雨に戸惑ってか、それとも単純に傘を忘れたのか。暗がりに灯り始めた外灯の下、誰かが大急ぎで走り去っていくのが見えた。「ここ、開いたばかりだよな。開店すんの、楽しみにしてたんだぜ」。男は視線を改めて、カウンターの向こう側に向けた。
 「さて、まずはおすすめをひとつ。頼むぜ」。男は柔和に笑った。その声に応えるように、ひとつ取られた瓶の中。ぎっしり詰まった仕入れたての豆を取り出しては、男を見る。男はじっとカウンターの向こう側を見つめ、瓶の並んだ棚や、取り出したばかりのミルをじっと見つめていた。手には多くの肉刺があり、いくつも潰れて、いかにも硬そうであった。とはいえ、粗野な位置ではない。態度は実に友好的で柔らかく、威張る様子もない。するりと垂れた青い髪が肩にしなだれかかり、気のせいか、いくつかの色がちらちらと反射する。目は爛々と、背は地震に満ち溢れるようにぴんと伸び、提供を純粋な楽しみとして、今か今かと待っているようだった。
 ミルを回す。回す。回す。粉が小さく、小さくなるまで。粉になったそれを、専用の型に押し込んで、マシンにセット。ついでにミルクの準備してから、一気に仕上げる。とろりと滴り落ちるコーヒーが、抽出によって噴き出す蒸気が、開いたばかりの店舗のムードを、伝統的な老舗のように塗り替える。真っ白なカップに注がれたエスプレッソに、蒸気で温め、泡立てたミルクのピッチャー。その双方を男に差し出せば、男は声を漏らした。
 「おいおい。俺に描けって?」。おどけたように肩をすくめたが、けれど男は口角が上がるのを抑えきれないようで。嬉々としてピッチャーを指先で拾い上げれば、同時にじ、と香り高いキャンパスに目を落とす。傾いた先から白があふれ出れば、滑らかな泡が深い深い熱を淡く宥めていく。そう、指先がちろりと繊細に傾きを操るごとに、流れが変わる。白が留まり、茶が穏やかになり。徐々に融和していくカップの上には、あっという間に水鳥が姿を現していた。
 「んーま、アドリブにしちゃあまあまあってとこか?」。男はどこか不服そうであったが、その水鳥は大きな翼を広げ、今にも飛びだちそうなほど。「それじゃあ、合作が出来上がったところでいただきます」、と。恭しく手を合わせては、男はスイと、カップに口を付けた。じっと目を閉じ、また僅かに傾け、一飲みにはせず、じっくり、じっくりと。
 ボサノヴァがよりファンキーなナンバーに切り替わる頃。男はカップを置いては、大きく、長く、そしてゆるやかに息を吐いては、「美味いな」、と小さくこぼした。「こりゃあ、良い店を知っちまった」と続けては、また窓の外に視線を投げた。
 「ここは、静かでいいな。落ち着ける。なかなか、こういう場所って見つからないんだ」。雨を割くように走る車から、ヘッドライトが飛び込んでは、去っていく。「アンタ、良い目をしてるよな。あぁ、目の輝きってのもそうだけどよ、俺の職業を見抜いてラテを出したんだろ?」。水面の大鳥の姿は既になく、けれど男は、残っていたミルクをさらに注ぎ込んだ。「粋だねぇ、気に入った。もちろん、味もな」。そうして、男はゆっくり、ゆっくりと、特別な一杯を口にした。
 かつり、と。カップが置かれる。「俺はよ、普段はあっちこっち飛び回って仕事してる。しばらくはこの街での仕事があるからな、また来させてもらうぜ。それに、これだけ静かなら、仕事もはかどりそうだし……なにより、アンタのところには良い客が集まりそうだ。あぁ、あっちの小さい席も良いな」。男はぽつり、ぽつりと。けれど明瞭な声で、自らの考えを口にする。指先でファンクのリズムを捕まえては、また時折に外に目をやり、話を投げかけ、冷めやらぬエスプレッソの香りを舌の上で転がす。

 「ごちそうさん。……お、雨がこれなら、今のうちに帰るかな。会計、頼む」。いくばくかの通貨を置き、彼はまたドアベルを鳴らす。「じゃあ、また。今度もきっと良い夜になるだろうな」、と。閉じられた向こう側に咲いた雨傘は、じきに暗闇に溶けていった。