横たわる山のような巨体を、男は溜息をついて眺めていた。数えきれもせぬ、夥しいほどの古傷。今日日見ないような原始的で巨大な剣、常日頃から振るっていたのだろうと思えるほどの体つき。ほのかに鼻をつくのは、身の手入れができていないからこその悪臭と、そして、血の臭い。極めつけには、額に刻み込まれた深い深い、十字の傷。…身なりだのなんだのを含めて、ここらの人間ではないことは明らか。とはいえ、路上にぶっ倒れているその男を放っておけるほど、見守る男――浮世絵師も薄情ではなかった。なにより、連れの能楽師がずっと気にかけては、稽古してはまた様子を見に来る始末。ここに運び込んだはいいものの、顔つきが、体つきが、粗野な男なのだろうという予想ばかりしてしまって、妙な不安はぬぐい切れない。
眠る男のこめかみに指を当て、絵師は意識を集中させる。普段はあまりこういうことをしないが、万が一に備えてだ。夢路の深く、深くへと潜り込んでいく。…しかし、広がるのは暗闇ばかり。どこを向いても、なにひとつありやしない。絵師は諦めて手を放す。どうしようもなければ、逃げるしかないが…。
ふ、と。眠る男の瞼が動いた。絵師は姿勢を直し、じっと顔を見る。ほどなくして、男の青い目が絵師を向いた。どうにも呆けたような目は、あちら、こちらと見渡しては「またか」、と呟き、項垂れる男に、絵師は腹を決めて声をかけた。
「よう」。その声に、男はまた目を向けた。「…すまない、驚いただろう」。男は絵師が何かを口にするよりも前に、口を開いた。「名乗りたいところだが、名乗る名がない。どこから来たのかと尋ねられても、それも…答えられない。……何も覚えていないんだ」、と。絵師は首を傾げた。「…記憶喪失ってぇことか?」、絵師が尋ねれば、男は頷く。「あちこちをぶらついてきた。戦乱の城、甘い菓子のような国、だの、なんだの。…そうだな、そういうところから来た。だが、俺はもっと…その前があるはずだ。だが…それを、思い出せないんだ」、と。
なるほど。絵師はひとまず、男が暴れる様子がないことに安堵した。しかしながら、新たな…それも解決が極めて難しそうな問題が湧いて出て来てしまった。けれども、まあまずは。「腹、どうだ。減ってるか?」。絵師が尋ねれば、男は俯き、しばらくしてから、また顔を上げた。「腹は減っている。だが金がない。体で払えれば…とは、思う」。男の要求に、けれど絵師は笑って頷いた。「それなら、先に風呂入って来てくれよ。あ、シャンプーとかソープは使ってくれていいしさ。その間に、なんか食えるもん用意しとくぜ。それに、やってもらいたい仕事もある。ひとまずは、それでどうだ?」。男は絵師の提案に頷き、「なら、決まりだな」、と。
絵師は男を風呂場に案内して、踵を返す。曲がり角には、琴を携えた雅楽師が立っていた。「…ひとまずは、大丈夫そうじゃの」。ふうと大きく息を吐きだす雅楽師に、絵師は笑った。「なんだ、そういう準備もしててくれたのか」、と。「そりゃあ当り前じゃろ。これでも、精いっぱいのつもりだったんじゃ」、なんて。琴をようやく降ろしては、「さぁて、飯じゃな。とびきり旨いのを用意してやろう」と、張り切って厨房へと向かっていった。
つくづく。つくづく。仲間に、友に、恵まれたと。絵師は先ゆく背を追いかけては、その通りがかり。奥の人形師の部屋の前に積みあがった大量のパーツに、苦笑をこぼした。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.