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十年ぶりに帰ってきた実家は驚くほど昔のままだった。いい意味でも悪い意味でも時が止まっていて、だけど、住んでいる人々と建物は着実に老朽化している。美化されてしまった、懐かしい子ども時代の思い出そのままのような村に足を踏み入れ、目の前に広がる、収穫直前の黄金色の麦畑を見つめた。
風に揺れる麦畑の穂が擦れて独特のざわめきがあたりに満ち、黄金色の波がいい香りを鼻先に運んでくれる。土と太陽と麦の香りを胸いっぱいに吸い、長く吐いた。
陽の沈みかけた空を見上げ、思いっきり背伸びをする。フライトで凝り固まった背中や腕の筋肉が伸びて気持ちがいい。時差ボケなんて無縁だったはずなのに、今回の帰省ではそれが起きてしまっているようだ。やっぱり手段は正しく、僕は休むしかなかったらしい。
左手の時計を見つめると、すぐに落ち着かない気分になった。いつであればシフト交代で退勤しているか、反対に副操縦士とブリーフィングをしている時間だった。制服に腕を通す行為はまるで儀式のようで、それを合図に頭のスイッチを仕事とプライベートで切り分けていたように思う。
今日の風なら燃料は
……——、
「
……仕事のことを考えるのはなるべくやめろと言われたっけな」
無意識に頭の中でルートを組み立てていたことに気付き、胸を撫でる。僕が仕事で操縦する大型ジェットはこの村にはやってこない。オクヘイマから十三時間のフライトでヤーヌスに行き、そこから小型ジェットで四時間。一日一本しか離発着しない小さな小さな飛行場のある、海に面した小さな村。麦とさまざまな果物の特産品があり、狩人もいて、森の奥深くにはかつて妖精が暮らしていただとかなんだとか言われる洞窟がある(大人になってしまった僕たちには到底くぐれないサイズの穴が大木の下に開いているだけで、その先に妖精が住んでいたかどうか村の誰の記憶にもなかった)。
今時電波も途切れがちで、テレビだけはかろうじて数チャンネル映ることがある。地元のニュースと、オクヘイマでは到底見られないローカルなバラエティと、オクヘイマではあまり人気のない古典を題材としたドラマ。うっかり衛星通信をレンタルするのを忘れていたので、二ヶ月は強制デジタルデトックスだ。
『休職』
『はい。先日のメンタルチェックに引っかかった時点で自覚もややあるのではないかと思いますが、問診により、やはり療養したほうがいいと判断しました。副操縦士とのクロスチェックではわからなかったとのことですが、早期発見で治りやすくなります』
産業医の言葉を呆然と聞いていたのは、終わった、と思っていたからだ。ようやく機長になれてこれからだと思っていたのに、ここで仕事をクビになるなんて冗談じゃない。復帰できるなんて嘘で
——。
『落ち着いてください。私たち産業医やピアサポートのスタッフが必ずあなたが職場に復帰し、操縦桿を握れるようになるまでサポートします。これは会社の規定にも書いてありますので安心してください。
ですから今はとにかく、のんびり仕事のことは忘れて、リラックスして、穏やかにすごしてください。シフト勤務は生活リズムが崩れますから、まずは決まった時間に眠り、決まった時間に起きることだけをやってみてください』
カウンセラーの言葉は、きっと本来であればありがたいものなのだろう。会社のピアサポートの案内を見ても、別にパイロットとして永久に職を失ったわけではなく、むしろ早期に復帰をしてもらうために休んでもらうだけだ、と書かれていた。確かに、パイロットの人数はLCCの台頭によって常時不足しているから、以前のように、精神疾患や病気の兆候で即クビにしていたら立ち行かない。
それでも、ほとんどの操縦士にとってこれは事実上のクビ宣言のようなものだった。ピアサポートプログラムで復帰してきた人はまだ少ない、というか、そもそもプログラムに沿って休職をする前に辞めてしまう先輩たちの方が多い。もう空を飛べないのかもしれない。その絶望感で頭がいっぱいになり、未来のことなんて考えられなくなるからだ。
僕もその一人で、呆然と休職の手続きを進めながら、ふと、二年は電話をしていない母さんに電話をしてみようと言う気になった。メールを送っても届かないから、やり取りは手紙が殆どで、それも年に三度、両親の誕生日と新年の挨拶を送っているにすぎない。電話をしたいなら、日中、村の宿屋にかけるしかなかった。
恐る恐る電話をかけると、声の変わらないおかみさんが電話口に出てくれる。アウダタへ取り次いで欲しいんだ、と母のことを口にすると、「ファイノンだろ? 久しぶりだね! 元気にしてたのかい?」と快活な声が落ちた。元気だったら電話してないんだ、とは言えず、苦笑して誤魔化しておくと、五分後に母親が通話口に出た。懐かしい声だった。
「やあ母さん」
そう口にした瞬間、ダムが決壊するように号泣していた。仕事をクビになるかもしれない。あんなに夢だったのに。言われてもいない不安を散々に喚く僕に、「母さんがそっちに行こうか? それか帰っていらっしゃい」と母さんは優しい声で口にした。
『大丈夫。息子一人帰ってきたって嬉しいだけよ。畑仕事はいつだって人手が欲しいんだから。住むところもお隣のご夫婦が息子さんとお孫さんに連れられて出て行ったから空きがあるの。心配しないで、着の身着のまま帰ってらっしゃい』
その優しい言葉に、うん、と頷いていた。会社の上司と家の管理人にしばらく実家に帰ることを告げて、宿屋の電話番号を伝えた。多分僕の連絡先には通じなくなるからよろしくお願いします、と言い添えると、そんな田舎から出てきたの? と誰もが驚いた。
そう、何もない田舎から、空を飛んで、人々を運ぶことを夢見て必死にやってきたつもりだった。誰かの人生の一路になりたい。何かの救いの道行を手伝える日が来ればいい。ずっとそう考えていた。
もしかすると気負いすぎだったのかもしれない。仕事は楽しく、誇らしく、責任もあり、充実していて、忙しかった。それが正しいと思っていた。
「ファイノン、そろそろ夕食よ。はちみつクレープを焼いてあげるから、冷めないうちに食べて」
「今行くよ!」
坂の上から、母さんが僕に向かって手を振っている。正直なことを言えば近頃食欲があまりなかったのだが、母さんのはちみつクレープと聞いた瞬間、珍しくお腹が鳴った。
土の道をゆっくりと歩き、坂を登り切って、また段々と揺れている麦畑の海を見つめる。
夕陽を反射してきらきらと穂を輝かせるこの光景こそ、僕の思い描いていた故郷、エリュシオンだ。
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