目を開けた瞬間、違和感が先に来た。光が均一すぎる。影がない。視界に入るすべてが白で塗り潰されていて、距離の基準になるものが何一つ見当たらない。重悟は数秒かけて状況を認識し、ゆっくりと上体を起こした。
床も壁も天井も、すべて同じ質感の白で構成されている。継ぎ目は見えず、塗装というより一体成形された箱のような空間だった。反射も陰影もなく、ただ均一な光だけが満ちている。
直前の記憶を辿ろうとしたところで、すぐ近くに人の気配があることに気づく。視線を向けた瞬間、重悟はわずかに目を細めた。
千速が、すぐ隣に横たわっている。身構えるより先に、状態を確認する方が早かった。外傷は見当たらない。呼吸も乱れていない。重悟は一歩寄り、しゃがみ込むと、軽く肩に手をかけた。
「……千速」
低く呼びかけるが、反応はない。いつまでも硬い床で寝かせるわけにもいかず、少しだけ力を込め、今度は優しく肩を揺する。
「おい、起きろ」
呼吸は規則的だ。体の力の抜け方も、不自然ではない。意識を失っているというより、単に眠っている状態に近いと判断できる。助手席で爆睡している時の千速そのままだ。
もう一度、今度は先ほどより少しだけ強めに揺する。
数秒遅れて、千速のまぶたがわずかに動いた。やがてゆっくりと目が開く。
「気がついたか」
「……なんだここは?」
珍しく戸惑っているのがわかった。
「不明だ」
重悟は短く答えながら立ち上がる。ふたりで部屋着を着ており私物を何も持っていない状況。つまり署から帰っている時に何らかの形で意識を失わされた可能性は高い。しかし、拘束も体に違和感もないのが引っかかる。
千速もすぐに立ち上がり、周囲へ視線を走らせる。その動きに合わせるように、重悟も壁際へ歩き出し、手を当てた。感触は均質で、冷たくも温かくもない。押しても沈まず、叩いても音が吸われる。
「……継ぎ目がないな」
「見りゃ分かる」
千速は軽く拳で壁を叩き、同じ結論に至る。
「扉は」
「ない」
「窓も」
「ない」
短い確認を交わしたあと、二人は無言で壁に沿って歩き始める。構造的な弱点を探る動きだが、どこまで行っても同じだった。角も段差もなく、完全に閉じた空間であることが分かる。結果は共有するまでもなかった。
「閉鎖空間だな」
「それにしてもどうやって俺たちをここに閉じ込めたんだァ?」
「重悟の見ている都合のいい夢じゃないか?」
「ナッ……!」
異常な空間に入れられているにも関わらず、千速は異常にマイペースだ。重悟は視線を落とし、そこで初めて床の上の異物に気づく。白一色の中で、わずかに浮いた存在。
紙だ。
拾い上げると、簡素な紙片に短い文章が記されている。衝撃的すぎて言葉を失った。
“キスをしないと出られない部屋”
重悟が固まっていると千速に髪を奪われる。同じ文言を見た千速も固まっている。
「……は?」
「そう書いてある」
「見りゃ分かる」
重悟は紙を受け取り直し、もう一度目を通す。書かれている内容は単純で、だからこそ扱いに困るものだった。現時点で提示されている条件はそれだけであり、無視するには根拠が足りない。一方で、即座に従う理由も見つからない。
「他の方法を探す。そもそも何もない空間なのにこの紙の内容を誰が確認するんだ」
構造的な脱出経路を確認せずに条件に従うのは、判断として早計に過ぎる。そう考えての発言だったが、千速は一拍だけ間を置いたあと、あまり深刻さを伴わない声音で返した。
「とりあえずキスしてから考えてもいいんだぞ?」
「ハア!?」
抑えきれずに声が出た。自分でも分かるくらい素の反応だったが、千速はそれを気にする様子もなく、むしろ面白がるようにこちらを見上げている。
「どうせ条件それしかないんだろ」
言い返そうとして、言葉が詰まる。理屈としては間違っていない。それでも、即座に実行に移す話ではないはずだ。
ふと、視線が落ちた。
千速の顔が近いわけではない。距離はさっきと変わっていないはずなのに、なぜかそこだけが妙に意識に引っかかった。白い空間の中で、輪郭だけがやけにくっきりと浮いて見える。
―――唇。
一瞬だった。
自分がどこを見ているのか理解した瞬間、反射的に顔を逸らす。無意識にやわらかそうだと思った。重悟は首を振る。軽くでは足りず、はっきりと振り払うように。
「……まだ検証することがある」
さっきよりも明らかに語気が強くなる。思考を立て直そうとしているのが、自分でも分かる。千速は一瞬きょとんとしたあと、ゆっくりと目を細めた。
「どこを見てた?」
「見てねぇ」
「いや見てただろ」
「見てねぇ!」
さらに強く言い切る。自分でも苦しいと分かるくらいの否定だったが、引くわけにはいかない。千速がニヤニヤと生意気な笑顔をしているのがわかった。
重悟は視線を外し、再び壁へと向かう。言葉を交わすより先に、確認すべきことがあると自分に言い聞かせるように、手を当ててなぞる。だが感触は変わらない。どこにも継ぎ目はなく、構造的な逃げ道は存在しない。検証を進めれば進めるほど八方塞がりだ。紙に書いてある言葉が脳内に占める割合が増えていく。
壁に寄りかかっていた千速はそのまま数歩進み、自然な動きで重悟の正面に立つ。互いに視線が合う位置で止まった。
「新たな発見はあったか?」
「残念ながらねぇよ」
「他に方法がないなら、その紙を試すしかないな」
千速の言い方は変わらない。軽くもなく、強くもない。ただ事実を述べている調子だった。
「まだ、確かめることがあるだろ」
「全部やっただろ」
千速の視線がわずかに動く。壁、床、天井を一瞥してから、再び重悟へ戻る。
実際、その通りだった。確認できる範囲はすでに確認している。残っているのは、紙に書かれた条件だけだ。重悟は答えず、わずかに視線を外す。思考の整理に入ろうとするが、うまくまとまらない。理由は分かっている。状況ではなく、距離の問題だ。変な汗が吹き出してきた。
千速はその様子を数秒見ていたが、やがて一歩だけ前に出る。距離がわずかに縮まるが、それ以上踏み込むことはしない。
白い空間に戻った静けさは、先ほどまでとは少し質が違っていた。やるべき確認は終わっている。出口がないことも、構造的な突破が不可能なことも、二人とも理解している。そのうえで残っているのが、あまりにも単純で、だからこそ扱いに困る条件だけだった。
「なあ重悟」
「なんだ」
「重悟は、私とキスしたくないのか?」
声音は軽くなかった。試すでもからかうでもなく、ただ確認するような言い方だった。
重悟は一瞬だけ言葉を失う。浮かんだ答えをそのまま出せば済む話のはずなのに、それを選べない。代わりに出てきたのは、別の言葉だった。
「……付き合っている相手以外と、する気はねぇ」
ぶっきらぼうに言い切る。言った瞬間、自分でも分かる。これは誤魔化しだ。本音を外して、余計な形に整えた言い方だと。
千速はすぐには反応しない。てっきり真面目だなぁなどからかいながら背中でも叩かれるのかと思った。ただ一度だけ目を伏せ、それからわずかに視線を外す。その動きは小さいのに、はっきりと距離ができる。
「そうか、当たり前だな」
その一瞬で、重悟は理解する。言い方を間違えた。遅れて焦りが来る。
「……いや」
言い直そうとするが、言葉が続かない。何をどう補えばいいのか、整理できないまま時間だけが流れる。
千速はそれ以上何も言わず、半歩下がって距離を取ろうとする。その動きは強くはないが、確実に一歩引こうとしているのが分かる。重悟は反射的に踏み込んだ。
「待て、千速」
腕を伸ばし、そのまま引き寄せる。今度は迷いがない。距離が一気に縮まり、千速の体温がはっきりと伝わる位置になる。千速がわずかに目を見開く。
「ここから出たら、ちゃんと言うから。だから恨むなよ」
そのまま視線を落とし、距離をさらに詰める。呼吸が触れるほどの近さで一度だけ止まり、ほんのわずかに間ができる。その一瞬で、互いの呼吸の乱れが分かる。
重悟は迷わず、唇を重ねた。触れ方は強くない。だが、条件を満たすためとは違い、確かめるようにゆっくりと重ねる。離すことを前提にした動きではなく、そのまま数秒、静かに留める形になる。
柔らかい。予想していたよりもずっと、はっきりとした感触だった。思考が一瞬遅れる。離れるべきタイミングを測りながらも、すぐには動けない。わずかに呼吸が混ざる距離で、そのまま時間が伸びる。
千速の指が、ほんのわずかに重悟の服を掴んだ。その反応に気づいた瞬間、重悟の手に入る力が少しだけ強くなる。
やがて、ゆっくりと唇を離す。距離は完全には戻さず、近いまま止まる。互いに一度だけ呼吸を整える時間ができる。重悟は視線を逸らさず、そのまま低く言った。
「……出たら絶対に伝える」
短い一言だった。千速はすぐには答えない。数秒、何も言わずに重悟を見てから、ふっと小さく息を吐く。さっきまでよりも、ほんのわずかに力の抜けた表情だった。
「意外と情熱的なんだな」
声音はいつも通りだが、わずかに硬い。自分から仕掛けた側であるにもかかわらず、距離を取るタイミングが遅れている。
そのまま沈黙が落ちる。さっきまでとは違う種類の静けさだった。互いに言葉を探していないわけではないが、何を言うべきか決めきれないまま、数秒が過ぎる。
そのときだった。視界がわずかに揺れる。
重悟は違和感に気づき、反射的に周囲へ視線を向けたが、焦点が合わない。空間そのものが歪んでいるような感覚がある。千速も同時に体勢を崩しかけるが、支えるより先に意識が途切れる。白い空間が、急速に遠ざかった。
***
次に意識が浮上したとき、視界にあったのは見慣れた天井だった。重悟はしばらく瞬きを繰り返し、ようやく現状を認識する。自室のベッドの上、配置も光の入り方もすべて現実のものだ。先ほどまでの白一色の空間は、跡形もなく消えている。
ゆっくりと体を起こし、額に手を当てる。妙に現実感のある夢だった、という結論が一度は頭をよぎるが、同時に引っかかるものも残っていた。記憶は曖昧なはずなのに、感触だけがやけに鮮明で、思考の端に残り続ける。
「……チッ、なんだってんだ」
小さく舌打ちして、そこで思考を打ち切る。夢オチだと言い聞かせるが、考えても答えは出ない。現実に戻っている以上、優先すべきは日常の方だった。
いつも通り支度を整え、何事もなかったかのように家を出る。外の空気も、街の音も、すべてが現実で、あの空間との連続性は感じられない。業務に入れば自然と意識は仕事に切り替わり、違和感も次第に薄れていった。
―――昼過ぎ、本部の廊下。
書類を手に移動していた重悟は、ふと足を止める。視界の先に見覚えのある姿があった。千速が、壁際に立っている。交通機動隊の人間がここにいること自体は珍しくないが、千速の場合はだいたい面倒ごととセットだ。
「千速」
その瞬間、千速の肩がぴくりと跳ねた。振り返る動きが明らかに遅い。普段なら即座に視線を合わせてくるはずなのに、今回はほんのわずかに間があった。
「……なんだ」
声は平静を装っているが、目が合わない。わずかに逸れている。その時点で違和感は確信に変わる。
「まァたなんかやらかしたか?」
「今朝起きた事故に事件性があるから呼ばれたんだ」
短い返答。内容としては問題ない。だが様子がおかしい。視線が定まらず、落ち着きがない。言葉と動きが噛み合っていない。重悟は一歩踏み込む。
「……おい」
「なんだ」
「体調悪いか?」
端的に言う。千速は一瞬だけ言葉を詰まらせ、それから小さく息を吐いた。
「た、体調は悪くないが……」
否定はするが、視線は戻らない。耳がほんのり赤いその瞬間、昨夜の記憶が一気に繋がる。重悟の思考が止まった。
「……まさか覚えているのか?」
「ナッ、何の話だ」
カマをかけたつもりだった。千速の肩がわずかに揺れる。その反応で確信が一段深くなる。重悟は数秒言葉を探し、結局そのままぶつけた。
「白い部屋の話だよ」
千速は一瞬だけ固まり、それからゆっくりと顔を上げる。目が合う。だが次の瞬間には逸らされる。頬にわずかな赤みが差している。千速は否定も肯定もしない。
「いや待て待て待て」
思わず言葉が荒くなる。
「なんだそれ、そんな都合のいい話あるかよ」
完全に取り繕う余裕がない。現実として処理しきれない。
「同じ夢を、同時にか?」
言いながら自分でもあり得ないと思っているが、目の前の反応がそれを否定しない。千速は黙ったまま、顔を背ける。その沈黙が答えだった。
「……おい、冗談じゃねえぞ」
重悟はこめかみに手を当て、小さく息を吐く。思考が追いつかない。状況を整理しようとしても、前提そのものが現実と噛み合っていないせいで、どこにも落としどころが見つからなかった。廊下を行き交う人の気配や足音は確かに現実のものなのに、その中心にいる自分たちだけが、妙にそこから切り離されているような感覚がある。
「……後で聞かせてくれるんだろ」
ぼそりと落とされた言葉だった。視線は合わせないまま、それでも逃げる気も誤魔化す気もない声音だった。重悟は一瞬だけ言葉を探し、結局、短く息を吐いて答える。
「……ああ」
それ以上は言わない。その一言で足りると判断した。ふと、視界の端に、ほんの一瞬だけ白いものが差し込んだ気がする。均一な光も、継ぎ目のない壁も存在しない。見間違いだと判断するには十分な光景だった。それでも、完全に否定しきれない感覚だけが、わずかに残る。
「……チッ」
小さく舌打ちが漏れる。夢にしては、妙に続きがある。まだ夢を見ているのかと頭をかいた。
どちらも言葉にはしないが、同じ違和感を抱えているのは明らかだった。あの空間が、完全に終わったものではないかもしれないという感覚を、互いに共有している。
「……今夜、飯行くぞ」
「……ああ」
確認ではなく、決定に近い言い方だった。千速は一拍だけ間を置き、それから短く返す。
それ以上の言葉はなく、二人はそれぞれの方向へ歩き出す。だが、さっきまでとは違う。何も解決していないはずなのに、続きがあることだけは、はっきりしていた。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.