もち粉
2026-04-29 12:33:00
19583文字
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あなただから


カブミス
恋人だから



​二日後の休み。
連日の深夜までの仕事で体は重たかったが、カブルーは目を覚ますなり跳ね起きた。
今日はミスルンと初めての「休日デート」である。

待ち合わせの広場へと早めに向かう。
ひんやりとした朝の空気が心地よい。一昨日の、不格好なサンドイッチを思い出すたび、胸の奥がほこほことする。

木の芽時の陽光がだんだんと空気を暖める中、恋人が現れるのをうきうきと待つ。


約束の時間ぴったりに、ミスルンが姿を現した。

​「すまない、待たせたか?」
「いえ、今来たところです。行きましょうか?」

ミスルンは背筋を伸ばしてはいたが、その面持ちはどこか緊張していた。​どうするのが正解なのかと戸惑うように、あいさつしたきり両の手を腿の前で軽く握って突っ立っている。
けれどカブルーの差し出した手に、握った手をほどいて乗せた瞬間、堪えきれないようにふにゃりと笑った。

​ああもう――かわいい。

​ふたりは手を繋いで城下の小道をゆっくりと歩いた。
市壁沿いの並木からは新緑が鮮やかに葉を広げ、新しい季節を告げていた。遠くからパン屋の香りが漂ってくる。

屋台の焼き菓子にカブルーが一瞬視線をやると、ぴくりと反応したミスルンがさっさと注文してしまう。

​「……食べたそうだった。こういう時は、買うものなのだろう?」
「ふふ、まあ、はい。デートですから」

​(ミスルンさんが好きそうかなって、見てただけなんだけど)

​カブルーの真似をして歩きながら焼き菓子を口に運ぶ仕草がぎこちなくて愛しい。
カブルーは、ミスルンの唇の端についた粉砂糖をそっと親指で払ってやった。



​今日のミスルンの服は、形はいつもと同じだが、生地が普段のものより柔らかく襟の部分に刺繍がされている。

(これって、おしゃれしてきてくれてるよね……俺のために)

​カブルーが横目でミスルンを見ながらくすぐったく微笑んだ時、ふいにミスルンが横を向いたので目があった。
見つめていたのがバレたかと、照れくさい気持ちになりながら咳払いをする。

​「ミスルンさん」
「うん?」
「助言を頂いたお陰で、例の統計、なんとか形になりました。来週の会議で資料の一つとして使われます」

「そうか、お前の役に立ててよかった」
​ミスルンは目を細めて微笑んだ。

​「会議が終わったら、前みたいに閉門までには上がれるようになりますから」

「うん」

「約束通り、大使館に迎えに行きますよ」

「うん。――待っている」


​川沿いの店で軽く食事をした後は、市場をぶらぶらと冷やかす。
​古本を並べた露天商の前を通りかかると、ミスルンがふいに勢いよくしゃがみ込み、一冊の本を手に取った。興奮した面持ちで、カブルーへ表紙を突き出してくる。

​「カブルー! あった! お前が探していたもの、これだろう?」
​「!! これ!」

​政治の基礎を学ぶのに最適だと勧められていたが、すでに絶版でなかなか見つからなかったものだ。

​「ああそれね。前の持ち主が書き込みしちゃってるから安くしておくよ」
「ありがとうございます!」

​ようやく手に入った念願の本を大事そうに抱えたカブルーにミスルンが微笑んだ。

​「よかったな。私も本屋に行くたびに探してはいたんだが、まさかこんな露天で見つかるとはな」

​「え……? 探して、くれてたんですか? ていうか俺がこの本を探してるって、どうして知ってたんですか?」

なぜ当然のことを聞くのかとばかりにミスルンが目をまたたかせて答えた。

​「以前に言っていただろう? お前のことだ。覚えていないわけがない」

​「……
​そういえば、本の話をしたことはある。
けれどそれは――付き合い始めるよりずっと前のことではなかったか。

​ミスルンの声音には打算も気負いもなく、ただひたすらに、まっすぐだった。

​その瞬間、胸の奥にすとんと何かが落ちた。

――ああ、この人。
俺のこと、好きなんだ。

​「恋人」という言葉の響きに浮かれているわけでもなく、誰でもよかったわけでもない。
俺を――きちんと、好きなんだ。

​気持ちを隠したい欲も、外聞を取り繕いたい欲もない。ミスルンは心のままに好意を惜しまずこちらへ向けてくる。

​繋いだ手が、ひどく熱い。
隣を歩くミスルンの肩がそっと触れ、急に手汗が気になったカブルーは、さり気なく指だけを絡める恋人繋ぎに変更した。



​最近髪が伸びてきたからと、小間物屋の店先でミスルンが足を止めた。カブルーはリボンを見ているミスルンの後ろに立ち、彼が選ぶのを見守っていた。
もし彼が自分で選べたら、それを買ってあげたいと思って。

​「カブルー!」
その時背後から華やかな声を掛けられた。振り返れば食堂の看板娘が立っている。

​「久しぶりじゃない? あなたお城勤めになってから、ちっとも来てくれないんだもの。みんな寂しがってるわよ?」
「ごめん、仕事が思った以上に忙しくて。今度行くよ」

「なんなら今から来なさいよ。みんなもきっと喜ぶわ」

​気軽にカブルーの腕に手をかけて誘う看板娘にカブルーは困ったように微笑んだ。

​「ああっと、ごめん、今日はもうお昼は食べちゃって。それに今は……

​そっと上着の裾を引く感触に振り返れば、ミスルンがカブルーの上着をつまんで見上げてきていた。黒い瞳の端が緊張に強張っている。服の裾をつまむ指に力がこもった。

​カブルーに隠れて見えていなかったのだろう。看板娘は「あら」というように目を見開いた。
次いで片手を口の前に当てると、にんまりと目を細めた。

​「……恋人?」
「うん、恋人。今デート中」

​きっぱりと言い切ったカブルーに、看板娘は破顔してカブルーの腕を勢いよく叩いた。
​「やぁだぁ、早く言ってよー! お邪魔しちゃったわね、ごめんなさい」

​「また店にも来てねー」と手を振りつつ去っていく看板娘を見送ってミスルンの方に向き直れば、彼は顔を真っ赤にして立ちすくんでいた。

​「……どうしたんです? リボン決まりました? あ、これ?」
ミスルンの握りしめていた鮮やかな青いリボンを店主に渡して会計を頼む。

​「今、私のことを、『恋人』と……
「恋人同士でしょう? 俺たち」

​今さらどうしたのかとカブルーが瞬くと、はにかんだミスルンが小さな声で言った。

​「お前が……私のことを他の誰かに恋人だと言ってくれたのは初めてだったから」

​そんなことはないだろうと思ったが、思い返せば誰かに関係を問われたときは、ミスルンが率先して「恋人だ」と答えてしまうのでカブルーは隣で曖昧に笑っていただけかもしれない。

もしかしたら、不安にさせていたのかもしれないな。

店主からリボンの入った紙袋を受け取り、ミスルンの手を取って、そっとその手のひらに載せてやる。
​「……恋人ですよ、俺たちは恋人同士です。
次のデート、このリボンつけてきてくださいね」

​ミスルンは小さな包みを見つめ、そっと胸元に抱きしめる前に、一瞬だけ、涙を堪えるように瞬きをした。

​「……うん」


 ✢

​夕方には広場での楽団演奏を眺めた。
後半は女性歌手が登場して、古めのラブソングや、定番の名曲を歌い上げる。

​夕暮れの中、ラストナンバーのバラードが、
"あなたでなければ意味がなかった。
あなただから、私は愛した"
と切々と訴える。

カブルーはそれを聞きながら、ミスルンが欠けた耳の先をゆっくりと揺らしているのを見ていた。
ただのリズムではない。まるで歌詞に頷いているようだった。

(​歌の意味を、ちゃんと受け取っているんだ)

彼は順調に回復している。
ミスルンが己の心を取り戻すまでと思って申し出た「恋人」の役割だったけど――

茜色の光に照らされた銀髪が淡く揺れる。夕餉の香りがどこからともなく流れてきて、遠い恋を歌う歌手の声に郷愁のようなものが胸に押し寄せる。

ふいにミスルンを抱き寄せたくなり、慌てて人前だと思いとどまった。

​(今更手離せるわけがないだろう? )
――こんな、愛おしいと感じる存在を。

​大きな拍手が鳴り響き、広場に集まっていた観客たちが解散していく。
歌手を囲んで握手を求めるもの、夕飯をどうしようかと相談するグループ、買い物の途中だったと慌てて走り出す主婦。

​カブルーもこれからどうしようかと考えながら、歩き出す。出来れば夕飯も一緒に取りたいが、もしミスルンが疲れているようなら家まで送った方がいいかもしれない。
ミスルンに聞こうと振り返った時、彼がついてきていないことに気が付いた。

​ミスルンは人々の波の中で、ただひとり取り残されたように佇んでいた。
夕日を受けた銀髪が風に揺れ、どこか痛いような目でこちらを見ている。

​「カブルー」

​ミスルンがそっと口を開く。遠い日を愛おしむような口調だった。

​「なあ。私な、今日ずっと楽しかった。朝起きた時から、もうすぐお前に会えると思うと心が躍った。
お前と食べる食事はいつもより美味く感じた。お前が知り合いの誘いを断ってくれて嬉しかった。リボンを買ってくれてありがとう。
お前はずっと優しくて、恋人というのは、当然のようにお前を一日独占できるのだなと夢を見ているようだった。
ただ……その……

​そこでミスルンは言葉を途切れさせるとわずかに下を向いた。

​「……カブルー。一つ聞きたいことがある」
「はい」

​「もし――お前の恋人が、私でなくても。お前は今日と同じように……こうして過ごしただろうか?」

​ミスルンの問いは、夕暮れに沈む空より静かだった。
不安の震えはない。ただ、答えを必要としている。
その慎ましさが、逆に胸に刺さる。

​カブルーはほんの一瞬、息を吸い込んだ。
軽く答えてはいけない。
この人は、些細な言葉でも真っ直ぐに受け止めてしまうから。

​「……ミスルンさん」

​カブルーは一歩寄る。
俯いたミスルンの顔を両手で挟んで、そっと上を向かせた。

​「今日の俺は……"あなたじゃなきゃ"存在していません」

​ミスルンが目を瞬かせる。

​「もし別の誰かが恋人だったら?
そもそも今日誘ってないと思います。身体はクタクタなんだから、貴重な休みなら休養に当てたい。
でもあなたになら会いたかった。
ミスルンさんに会えるなら、疲れも吹き飛びます。
朝飛び起きて支度して、恋人が待ち合わせに来てくれるのを楽しみにしてたのは、俺の恋人が、"あなた"だからですよ」

​ミスルンは黙って聞いている。
カブルーの手の中で、ミスルンの頬がだんだんと熱を帯びていくのがわかる。

​「ミスルンさん。
俺はあなたとデートがしたかった。
あなたと歩きたくて……あなたの笑う顔を見たくて、今日を楽しみにしてたんです」

カブルーの言葉が、ミスルンの胸に静かにほどけて広がってゆくにつれ、ミスルンの瞳の奥から、淡雪のように不安が解けていく。
代わりに花開くのは――期待。

​ミスルンの手が、自分の頬を挟むカブルーの両手首を掴むように添えられる。

​「欲を……かいてもいいか?
その、お前があの日……私に恋人同士になろうと言ってくれた、理由を教えてくれないか……?」

​理由?
――ミスルンが、危ういと思ったから。
――この人に、自分を大切にして欲しいとおもったから。
――この人の心を、守ってあげたいと思ったから。

​それはつまり。

​「あの、あなたが……、ミスルンさんのことが、好きだからです」

​ゆっくりと、ふんわりと、カブルーの手の中でミスルンの口元がほころんでいく。気づけば頬の手をそのまま引き寄せて、唇を重ねていた。
​ミスルンの手が驚いたようにカブルーの手から離れる。つかの間宙をさまよい、ひかえめにカブルーの腰に回された。

​その瞬間、夕刻を告げる鐘が遠くで鳴り始める。ふたりを祝福するように、澄んだ音が薄紫に変わりつつある夜空に広がる。

​「――っ」

​唇を少しだけ離して至近距離で見つめ合う。
もう一度吸い寄せられるように口づけようとした瞬間、ファンファーレと指笛と歓声が響き渡った。

​ハッと周囲を見回せば、ふたりは広場にいた人々に取り囲まれていた。
楽器を片付けていた楽団員たちがニヤニヤとこちらを見て親指を立ててくる。

​(人前だったー!!)

​己の失態を呪った。ああもう、衝動に負けすぎじゃないか? 最近の俺。
やじ馬の冷やかしに「ありがとう」と返しているミスルンの手を引いて広場から逃げ出した。

​「おめでとー!!」「見せつけんじゃねー」と通行人からのやじがふたりの背中を追いかける。


​しばらく走って、住宅街に入ったあたりで足を止めた。
はあはあと肩で息をするカブルーに対して、外交官の傍ら今でも現役で迷宮に潜るミスルンは涼しい顔をしていた。
――ちくしょう、運動不足だ。

​「ふふっ」とミスルンが吹き出した。
「お前の、あんな顔、初めて見た……!」
こらえきれぬようにくすくすと笑うミスルンに、カブルーはきまり悪げに頭をかいた。

​「そんなに笑わなくてもいいじゃないですか」
​すねたようなカブルーの声にミスルンは目尻の涙を人差し指でぬぐった。

​「ふふ、すまない。お前が可愛らしかったから」

​(可愛いって……。格好良いって思われたいんだけどな)

ふと、ミスルンの笑みの奥に隠しきれない熱が揺れた。
まるで胸いっぱいに溢れてしまった何かを、もう押し留められないと言うように。

​「なあ、カブルー」
「なんですか」

楽しげに呼ぶ声に、カブルーはもういくらでも笑ってくれと諦めの気持ちで返事をした。

​「だいすきだ」

その言葉は、カブルーの胸の奥のやわらかい場所に、一直線に飛び込んできた。
​あふれ出た気持ちのままに向けられたその笑顔と一緒に、今もそこに大事にしまわれている。

思わずもう一度ミスルンに手を伸ばしかけて、カブルーは今度は慎重にあたりを見回した。
人通りは少ないが、ないわけじゃない。

​「……あの、ミスルンさん」
「うん?」

「これから、あなたの家に行ってもいいですか? さっきの続きをしたいです」

意味を飲み込むように一拍おいて、ミスルンは頬を染めた。

​「いいぞ、恋人だからな」


​並んで歩き出すと、街灯がひとつ、またひとつと輝き始めた。
夕闇に浮かぶ光は、石畳に淡い粒となって降り積もり、ふたりの影をゆっくりと一つに重ねて伸ばしてゆく。

ふたりは手を繋ぎ、肩を寄せ合いながら、灯りを追いかけるようにミスルンの家への道を辿っていった。

夜風がゆるく吹き抜ける。
微かな初夏の気配をまとった、春の暖かな風だった。

その静かな風の中、カブルーは思う。

​今、隣にいるのがミスルンでよかった――と。