もち粉
2026-04-29 12:33:00
19583文字
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あなただから


カブミス
恋人だから



​その日、カブルーはどこか変だった。
歩き方にも声にも、いつもの覇気がない。
仕事終わりのカブルーと落ち合った瞬間、ミスルンは眉を寄せた。

​「どうした。今日は、顔色が悪い」
……ちょっと、仕事でミスをしてしまいまして」

​それ以上を語らないまま、カブルーは苦笑して話題を変えようとした。
しかしミスルンは、珍しいほど強い調子で言った。

​「今日は私がお前を送る。恋人が落ち込んでいる時は、そばにいるものだ」

​いつもならカブルーがミスルンを閑静な住宅街にある彼の屋敷まで送って、城の方向に引き返すように街の中心部にある自分の部屋へと帰る。
​だが今日のミスルンはそのまま、カブルーの手を引くようにしてカブルーが間借りしている酒場への道を辿る。
もっとも方向音痴の彼は見当違いの方へばかり進もうとする。その度にカブルーは「こっちですよ」と道筋を修正してやらねばならなかった。

​そのまま、当然のように酒場の地下──カブルーの部屋へついてきたのだ。

初めて入る部屋のはずなのに、物怖じする気配はない。靴をきちんとそろえて脱ぐと、ためらいもなくベッドの真ん中に座り込む。
そうしてこちらに両腕を広げてみせた。

​「……ほら、おいで」
「あの、これは……

「慰めてやる。恋人だからな」

​ベッドに腰掛けたカブルーに、ミスルンは後ろから抱きつくように、腕を回してきた。けして柔らかくはない、骨ばった身体だ。

地下の部屋は、外気よりいくらか暖かい。冷えた頬に、ミスルンの体温がゆっくりと染みた。そのぬくもりと微かに鼻をかすめた甘い紅茶のような香りに、カブルーの張り詰めていた心がゆるんでいく。

​ミスルンは何も聞かない。
ただ、静かに寄り添うだけだった。

​その無言の温かさが、カブルーの胸の奥をそっと溶かしていく。
気付けば、カブルーは体を反転させて、ミスルンの胸元に額を寄せていた。

​「……ミスルンさん、俺、やっちゃいました」
「うん」

「俺、自分は仕事ができて、細かいところにも気が回ると思っていたんです」
「うん」

「まさか自分が、単純なチェック漏れとかやらかすなんて、思ってもなかったんですよ……
それで、とんでもない迷惑をこれから皆にかけることになる……

​「うん。大丈夫だ。
失敗など誰にでもある。普段真面目に働いているお前を知っている者たちが、お前を責めたりするものか。きっと周囲がお前を助けてくれる」

​それきりミスルンは何も言わず、カブルーの頭を抱き寄せる腕にだけ優しさを籠めた。

​上階の酒場の喧騒が遠く聞こえてくる。
ミスルンが慈しむようにカブルーの巻き毛を撫でる。その単調なリズムにだんだんとカブルーのまぶたが落ちる。

そのまま二人は、言葉を交わさないまま眠りについた。


​ ✢

​薄い朝日が天井近くの小さな空気穴から部屋の隅を照らすころ、寒さで目覚めたカブルーはうっすらと目を開けた。
知らぬ間に靴を脱いでベッドの上に横たわってはいたが、布団もかけず服も緩めずにそのまま眠っていたようだ。

カブルーを守るように抱きしめていたはずのミスルンは、いつの間にかカブルーの腕の中にすっぽりと収まり、静かな寝息を立てていた。
その朝日に白く光る小作りな顔と銀色のまつ毛を眺めながらカブルーは、なにか神聖なものを手にしているような気持ちになって、なかなか彼を起こすことができなかった。



​「なあ、言える範囲でいい。少しだけ……何があったのか教えてくれないか」

​ふたりは、早朝からやっている屋台でパンとスープにウィンナーを頼んで道の片隅にしつらえられたテーブルで朝食を取った。

どれほど落ち込んでいても腹は減る。なにせ昨日は夕飯を取ってない。
温かい食事を前にカブルーの胃がきゅうと鳴く。問題は何も解決していないけど、昨日よりはずっとマシな気分だった。

​ミスルンは平気そうな顔をしていたが、自分が食べないと恋人が心配すると知っている今の彼は「食欲がない」などと言わなくなった。大人しくスープを口に運んでいたが、やがて先ほどの言葉を発した。

​「私がお前からここで知り得た情報を、悪用しようという欲などないことは知っているだろう?」とミスルンがパンをちぎりながら何でもないことのように言う。

パンから微かな湯気が白く立ちのぼる。カブルーは観念して、簡単に説明した。

――再来月、国の政策を話し合う大会議が控えている。その重要資料の作成を任されていたが、必要な統計が不足し、用意できなくなったこと。
――それは、そのためだけに毎日記録を取るようにと、一年前の時点でカブルーが指示を出していないといけなかったものであること。

​具体的な中身は伏せたままでも、深刻さは十分伝わる。
​ミスルンは黙って聞き、少し思案する素振りを見せた。

​「詳しいことは分からないが……その数値が『本当に』必要なのか、確認したか?」

​「……え?」

​「必要なのは詳細な数値か? この新興国で政策を話し合うなら今後の国の方向性についてでは?
傾向か平均値で用をなす可能性はないか?
似た種類のものなら、民間の農業組合や漁業組合でも毎月まとめているはずだ。そちらで一部の数値を流用できないか、聞いてみるといい」

​「流用……

​「天候と気温なら、新聞社が記録を持っている。それから小麦の流通を管理している部署はないか? 意外と部署独自に統計を取っていることもあるぞ、他にも――

ミスルンは次々と必要な数字を持っていそうな場所を上げていく。カブルーは啞然と聞いていた。

​なんてこった。建国初日から王の側近くで全ての決済を見てきたはずの自分よりも、ミスルンの方がよほどこの国のどこが何をしているのかを把握しているのではないか?
しかもこの言い方では、あれだけぼかして伝えたにも関わらず、きっとミスルンには何のための資料でどんな統計が必要なのかすっかり解ってしまっている。
改めて西の大国の情報収集力とミスルンの頭の良さに舌を巻いた。

​「……これだけ揃うなら、あとは――

ミスルンは内ポケットから取り出した小さな手帳に計算式を書き付けるとページを破って差し出してきた。

​「この式で、かなり近い数値が割り出せるはずだ」

​カブルーは目を瞬いた。一気に胸のつかえが軽くなるのが、はっきりと分かった。

​「……そんな発想、全然なかったです。俺はもう、どうしようどうしようってそればっかりで……

春の水色の空の下、ミスルンはふっと柔らかく笑った。

​「おまえはひとりで全部背負い込む癖があるな。私はこれでも長く生きている。困っているなら頼りなさい――恋人なのだから」


​ああ俺は、すごい人を恋人にしちゃったかも。
残りの朝食の味など、まるで覚えていなかった。



​カブルーの手を引いて城の見える角までやってきたミスルンが上着の襟を直してくれる。
​「さあ、やるべきことは分かっただろう」
​朝の澄んだ空気の中、ミスルンの小さな手が城門に向かって軽くカブルーの背中を押した。

​「行ってこい、カブルー」

​その一言だけで、胸の底から力が湧き上がる。
冷たい風が頬を撫でる。芽吹きの気配を含んだ空気の中で、ミスルンの手の温かさだけがいつまでも残っていた。

​「……行ってきます」

​小さく手を振って見送ってくれるミスルンに、この人に「ただいま」も言えたらいいのに、とカブルーは思った。




それから会議までの数週間、失態を取り戻すためにカブルーは朝から晩まで走り回ることになった。
あらゆる組織に連絡を取り、担当者に確認し、過去の統計を取り寄せ、足りない数値は推計し……

​せっかくミスルンが迎えに来てくれても、一緒に帰る余裕なんてどこにもなかった。
二日続けて閉門ぎりぎりに一度下へ降り、「先に帰っててください」と告げた時点で、カブルーはもうあきらめた。

​落ち着いたら、自分が必ず大使館へ迎えに行くから、それまで待っててほしい。
そう言うと、ミスルンは「わかった」と素直に頷いた。
……が、その返事のあとの様子が妙だった。いつもの涼しい顔ではなく、何やらそわそわともじもじと落ち着かない。

​いや、こんなミスルンを見るのは初めてだ。
​顔をよく見ようと屈んだカブルーに向かってほんの少し耳を下げたミスルンがおずおずと腕を広げた。

​「あの、な。しばらく会えないのだったら……

​その言葉が最後まで届く前に、カブルーの身体が勝手に動いていた。気づけばがばりと抱きしめてしまっていた。



……なんだあの可愛い生き物は。
周りに人がいなくてよかった。自分の行動を思い返すと恥ずかしい。
​ミスルンを城門で見送り、執務室に戻ったカブルーは机に肘をついて広げた手の中に顔を埋めていた。

先ほどのミスルンは、抱きしめられた瞬間、ぴょこりと耳を立て、それから頬を緩ませた。「ん」と身を擦り寄せてきた夢見心地のあの顔が、まだ瞼の裏に残っている。

​(あんな、ぽやっぽやな顔して夜道歩いて平気かな……またナンパなんてされないだろうか……

​「失礼します。取り寄せていた統計、届きましたよ」

​ノックとともに部下の声がして、ハッと我に返った。

​「ああ……ありがとう」

​私事で浮ついている場合ではない。
もう二度と、皆に迷惑をかけるわけにはいかないのだ。

​きっちり片をつけて。
そのうえで――堂々と、ミスルンを迎えに行こう。

​カブルーは深く息を吸い込み、机の上の資料に向き直った。




​帰り道の石畳には夜の湿り気がしみていた。
白木蓮の甘い香りに視線を上げれば、白い花灯りが夜目に浮かび上がっている。

まだカブルーの腕の感触が身体に残っている。ミスルンはふわふわと地に足がつかないまま歩いていたが、明かりが灯り始めた街角を曲がった瞬間、足を止めた。

立ち塞がっていたのは、以前ミスルンに身体を見せろと迫り、カブルーに追い払われたあの男だ。先日の件で職位を落とされたと噂で聞いた。
宵の口とは思えないほど泥酔し、顔を赤黒くさせている。酒臭い息をミスルンに吐きかけた。

​「よォ……また会ったな。前は邪魔が入ったろ? 続きを、しようじゃねぇか」

​王宮で装っていた丁寧さは影もなく、舌がもつれた卑しい声に夜が濁った。

​「……もうできない。恋人が嫌がるからな」

​そっけないミスルンの声を聞いた瞬間、酔漢の顔がぐにゃりとゆがむ。ヒステリックな甲高い叫びが嘲りを叩きつけてくる。

​「聞いてるぞ、外交官サマ。あの時の──王の側近と付き合ってるそうじゃねぇか。身体でたらし込んだかよ」

​「そんなことはしていない。私の恋人は、そんなことをする人間ではない」

事実を述べただけだ。
だが酔漢は鼻で笑い、毒を吐く。

​「触らせもしねぇお前に価値なんかあるのかよ、この――

​瞬間、空気の密度が変わった。

ミスルンが片手を伸ばし、指先で男に軽く触れた。
魔術の光がかすかに瞬き、次の刹那、男の輪郭は水塊と入れ替わる。バシャリと石畳に砕け、冷たい飛沫だけが宙を散った。

​二本先の大通り──噴水のあたりで水音が響き、誰かの悲鳴がかすかに聞こえた。

​静寂が戻る。
ミスルンは息を細く吐いた。

(そうかも、しれない)

​「……そんなこと、ない」

絞り出した​声は喉の奥で引っかかり、胸がざらりとした。

​カブルーは言った。
恋人同士になろうと。
互いを大事にし合う関係になろうと。

​その言葉に救われてからというもの、ミスルンの日々は静かに変わった。
ただ自分を大切にしてくれる人がいると思う。それだけで朝の光のように自然と生きる力が湧いてくる。

かつては自分が何を望み、何をすべきかも分からず、透明な膜越しに世界を見ていた。
時間だけが無為に過ぎていった。

​今は違う。
カブルーの存在が、自分の輪郭を保たせている。

……それでも。
さきほどの男の言葉は、鋭い棘のように胸をなぞった。

カブルーは、自分を必要としてくれているのだろうか。
自分が彼を求めている重さの、半分でも。

先日は助けになれたと思う。だが、普段は?

ミスルンの生活はカブルーという軸がなければ成り立たない。
カブルーはミスルンがいなくたって何でもできる。

​「……カブルー」

​名前をつぶやいた瞬間、胸がぎゅっと縮み、どうしようもなく会いたさがこみ上げた。

声を聞きたい。
顔が見たい。
ただ隣にいてほしい。

​身体が勝手に城へと向かいかけ――ミスルンは、石畳の上で足を止めた。

つい先ほど、忙しいからしばらく会えないと言われたばかりだ。
寂しさを抑えきれず抱擁をねだったのも、自分。

恋人が懸命に努力している時に、邪魔をするべきではない。

ぎいぃ、と――どこかの家で鎧戸が閉まった。

​胸の痛みをなかったことにして、ミスルンは屋敷への道を歩き出した。
何も感じないことは――大得意だ。


 ✢

​衛兵がそろそろ門を閉じようかと声を掛け合う頃だった。退城する人々の波に逆らって、咲き始めたリラの茂みの前を足早に入ってくる白い影があった。
「刻限にすまない、まだ入れるだろうか?」と軽く息を弾ませる。衛兵たちは顔を見合わせたが、彼の腕の中の物に目を留めると「内緒ですよ」とその小柄な訪問者をこっそり通してやった。



カブルーが仕事部屋で資料に埋もれていると、控えめなノックが響く。

​「カブルー。入ってもいいか」

​顔を上げると、扉の向こうでミスルンが静かに立っていた。その腕にはピクニックにでもいくようなバスケットがかかっている。

​「ミスルンさん……どうしたんです? あの、ごめんなさい。まだ帰れそうにはなくて」

​「うん、迎えに来たわけではない。
おまえが忙しくて、食事を抜いているのではないかと思ってな。おまえは私には色々言うが、自分のことには無頓着だから」

机に置かれたバスケットから、スープのいい匂いに混じって、マヨネーズで和えた卵と、てりやきソースの食欲を誘う香りが漂ってくる。
カブルーの腹が小さく鳴った。

​「使用人に作らせた。ここ、魔法陣を描いてもいいか? スープを温める」

​ミスルンが素焼きの小さな壺に入ったスープを温めている間に、カブルーがもう一つの包みを開けると、美しい断面を見せてサンドイッチが並べられている。だがその中に、一つだけ明らかに異質なものがあった。
パンに甘辛いソースで炒めた肉が山盛りに詰め込まれ、勢いよくはみ出している。もはやサンドとは言い難い。申し訳程度にレタスが顔をのぞかせていた。

​「これは?」
​カブルーが思わず指をさすと、ミスルンが得意げに言った。

​「それは、私が挟んだ。作るところを見ていたら、使用人が『やってみないか』と言ったから。おまえは若いんだから、もっと肉を食べたほうがいい」

​真顔で諭してくるミスルンにカブルーは笑いそうになるのをこらえた。
この人は本当に、時々とんでもなく豪快だ。

​「じゃあ、頂きます」

カブルーは真っ先にミスルンの豪快サンドを手に取った。
​スープの温かさが胃の腑に落ちる。サンドイッチを噛みしめるごとに、じわりと胸の奥にミスルンの気遣いがしみていく。

目の前の人が、自分のことを思って行動してくれた――ただそれだけで、疲労が霧のように溶けていった。

​「……ありがとうございます。本当に。昼から何も食べていなかったので助かりました」

​人心地ついたカブルーが改めて礼を述べる。カブルーが食べる姿をじっと見守っていたミスルンは、どこか所在なげに視線を落ち着けられずにいた。

​「なに、恋人同士なら当然のことだ。……私は、役に立てただろうか?」
期待とも、不安ともつかない影が黒い瞳の中をよぎる。

​「? ええ、もちろんです。すごく助かりましたよ」

カブルーが微笑むと、ミスルンは胸の奥から短く息を吐いた。

……そうか」

​カブルーは最後のひと口を噛み締めながら、
――この人の存在そのものに、どれだけ救われているか
言葉にして伝えられないもどかしさを感じていた。

(俺のほうが、助けられてばっかりだ)

​「ミスルンさん」

​食器をバスケットにしまっているミスルンに声をかける。

​「うん?」
「明後日、久しぶりの休みなんです。……もしよかったら、会えませんか?」

​手を止めたミスルンが確かめるように問い返す。

​「休みの日に……私と?」

二つ返事で頷いてくれると思っていたのに​、虚を突かれたように目を見開かれ、慌てて付け足す。
​「ええ。ほら、俺たち恋人でしょう?」

ミスルンはゆっくりとまばたきをした。

​「……恋人だから、誘ってくれるのか?」
​「はい。恋人だから」
​ようやく、ミスルンが顔を和ませた。

​「……うん」

​(カブルーが休みの日に誘ってくれた……嬉しい)

​恋人ってすごいな。休みの日でも、何の用事もなくても会えるのか。
カブルーが私と会ってくれる。
休みの日に! 何の用事もなく!!
ミスルンの心の中で喜びがことことと踊り出す。

​けれどその一方で、心の裏側がふとつぶやく。

でも──「私」だから誘ってくれたのだろうか。
肩書じゃない、ミスルン自身を選んでくれた人は今までいなかった。
「恋人」という肩書がなくても、カブルーは私を誘ってくれただろうか。