もち粉
2026-04-29 12:33:00
19583文字
Public
 

あなただから


カブミス
恋人だから


黄金城の宴会場に隣接した休憩室は、分厚いカーテンが閉め切られて昼間でも薄暗い。
寝椅子と小さなテーブルが置かれただけの簡素な小部屋だった。

​カブルーは、書類仕事の合間にほんの一時だけ休もうと寝椅子の影に身を沈めていた。

日ごとに春が近づき、暖炉の火がなくとも室温は暖かい。
ドアと寝椅子の間には仕切りの布が天井から垂らされ、カーテンの隙間から筋のように差し込む光をやわらかに遮っていた。ドア越しに聞こえる微かな人の気配にかえって落ち着く。
うとうとと微睡んでいたカブルーの意識は、人の気配にゆっくりと浮上した。

​興奮を押し殺したような男の声と、衣擦れの音。

(おいおい、こんなところで逢引かよ)
​カブルーは内心で舌打ちをした。

​「……下、ジャマだね、脱いでしまおうか。
――そう、いい子だね。そこの壁にもたれて。こちらを向きなさい」

逢引という雰囲気でもなさそうだ。
他人の情事を覗き見る趣味はない。だがただならぬ雰囲気に思わず息を潜めた。
​とりあえずは闖入者が誰かを見定めようとしたカブルーの耳に飛び込んできたのは、色気も素っ気もない声だった。――とても聞き覚えのある。

​「こうか?」

カブルーの眠気は一瞬で吹き飛んだ。
胸の奥で、嫌な音がした。

寝椅子の影からそっと覗くと、ミスルンの前に跪いた男が彼の服の中を下から覗き込みながら、自らのズボンをくつろげようとしていた。
ミスルンは抵抗も嫌悪感も見せず、静かに男を見下ろしているのみだった。

​「足を、もっと開けるかな?
しかし、エルフというのは本当に、少年のようだな。……大人なのだよな?」

​ごくりと生唾を飲む男に、ミスルンはただ事実だけを告げる。

​「二回目の成人の儀を迎えておつりがくるぐらいには、大人だな」
「なんと……、実質私と同年代ということか? しかし美しい脚だな。傷があるのもまた艶めかしい。
裾を、自分で持ってごらん。そう、そのまま、胸の上までたくし上げて」

​「……それがおまえの求めなら」

​ミスルンが、自分で上着の裾へ指をかけた。
彼の白い腿が晒されようとしたその瞬間、カブルーの体は勝手に動いていた。

​「――ちょっと、何してるんですか!」

​布をかき分けて飛び出したカブルーの怒声に、男は目をむいた。

​「ひっ……! な、なんだお前はっ!」
​「何って、こっちの台詞です。そこの彼から離れてください!」

​カブルーが一歩詰め寄るだけで、男は情けないほど簡単に後ずさり、扉にぶつかった。
視線が泳ぎ、次の瞬間には逃げ出すように部屋から飛び出していった。足音は廊下を必死で駆け抜け、そのまま遠ざかっていく。

​静寂が戻った小部屋に、カブルーはようやく息を吐いた。

​「……危ないじゃないですか、ミスルンさん。なんであんなやつに大人しく――

​振り返ると、ミスルンはまだ上着の裾をつまんだまま、きょとんとしていた。

​「どうして止める? 見せてほしいと頼まれていたのに」

その​純粋な声音に、怒りとも悲しみともつかない熱が喉の奥から込み上げた。

​「……っ、そんなこと、する必要ありません! あなたが嫌な思いをするだけでしょう!?」

​「嫌……?」

​ミスルンは小首を傾げる。少し伸びかけた銀髪がふわりと肩に触れた。

​「別に私はなんとも思わない。求められたから応じただけだ」
​「そんなことしちゃだめです!……見られただけですか? 触られたりは!?」

​「あいつには触られてない」

――今にも手を伸ばされそうではあったけど。

​「あいつ"には"!?  他にもいるんですか!?」

​「何人か。皆よく喜んでいた」

あごを上げたミスルンの唇がかすかな弧を描いたのを見て、カブルーは頭を殴られたかのような衝撃を受けた。
目の前の美しい男が、世界有数の大貴族で、すぐれた頭脳と魔術の才を持ちながら、ただ"求められたから"という理由で体を晒してきたという現実。
その事実が、理解より先に痛みとして胸の奥に落ちた。

口を開いたけど、声が出なくてただミスルンを見据えるカブルーに、ミスルンはふと眉を下げると心細げな声で尋ねた。

「カブルー……なにか、怒っているか?」

​「……怒ってるわけじゃありません。でも、もうこんなことしないで下さい」

……いけない、ことだったろうか?」

​途方に暮れたようなミスルンにカブルーは言葉を失い、強く奥歯を噛んだ。
ミスルンの感情は今、生まれたての赤ん坊のようなものだ。彼はこれから人生を生き直す。

​あの日、ミスルンは龍となったファリンを切りながら泣いていた。悪魔の食べ残しである自分は無意味な存在だと泣きながら、「それでも……誰かを完食させることには力を貸すことができるのかもしれない」と言った。

でもだからって。

彼の最初に獲得した欲が、
誰かのためになりたいという美しい気持ちが、どうしてこんな形に結実してしまうのか。
こんな危険な状況を、"役に立てた"と信じて疑わないなんて――

欲を失った彼は、自らの意思で行動することがひどく少ない。
誰の言葉にも「うん」と素直に頷く。
その姿はあどけない幼子のように見えることさえあった。

​ああ、彼には誰か、彼そのものを肯定してくれる存在が必要だ。
そう理解したのと、胸の奥から言葉が突き上げてきたのはほぼ同時だった。

​「ミスルンさん」

​呼びかける声が、自分のものとは思えないほど震えていた。

ミスルンは服を直していた手を止め、ゆっくりと顔を上げる。繊細な銀色のまつ毛が、薄暗がりの中でわずかに光った。

​「……なんだ?」

​「俺と、恋人になってください」

​その一瞬、部屋の空気が水のように止まった。

ミスルンは、ぱちくりと瞬きをしたきり、数拍のあいだ声を出さなかった。

​「……恋人?」
​「そうです。恋人です。お互いに……大事にし合う関係です」

​言ってから、カブルーは自分がひどく息苦しいことに気づいた。返事を待つ数秒が永遠のように長い。

​ミスルンは、ゆっくりと理解を追いかけるように視線を下へ巡らせ、それからまたカブルーを見る。
その目の奥に、ほんの微かな光が点る。

​「……そうかぁ。私に、恋人」

​まるで、生まれたての子猫を両手にそっとのせられた子どものように、ミスルンはくすぐったそうに目を細めた。

淡くほどけた微笑みは、あまりにも無垢で、あまりにも嬉しそうで――カブルーはその一瞬で息を呑んだ。

​「いいぞ。今日から私たちは恋人同士だ」

後ろに手を組んで承諾の返事をしたミスルンに、ぱちりと、カブルーの胸の奥で小さな火花が散ったかのような感触がした。
その笑顔だけで、世界の重心が変わってしまったようだった。

​「……ありがとうございます。あの、じゃあまず約束を」

​カブルーは慎重に言葉を選んだ。

​「今後は、他の人間に服を脱いで見せたり、身体を触らせたりしないでください。……恋人がそんなの嫌がるって、分かりますよね?」

​「恋人の頼みならば、当然叶えよう」

​ためらいすらなかった。
ミスルンはほんの少し胸を張り、どこか誇らしげに答える。

​「私は恋人を尊重する」

​そのあまりにも真っ直ぐな視線に胸が小さく痛んだ。
こんなにも嬉しそうにされてしまうなんて。

​本当の愛の告白ではなかったことに、罪悪感がじわりと身体の奥底から滲み上がる。
​それでも――

​(いずれミスルンさんが……自分の心を、自分で守れるようになるまででいい)

​カブルーは、小さく息を吐いた。

​(それまでは、俺が隣にいよう。この人は……放っておいたら、とんでもない方向に行ってしまいそうだから)

​誰よりも強くて、誰よりも無防備な男の隣を。
「恋人」と呼ばれる役割を借りてでも――守ろうと、そう思った。


​ ✢

翌日、仕事を終えたカブルーは城の階段を下りながらぼんやりと考えていた。
ミスルンさんにはとりあえず「恋人」って言ったけど、今後どう接したらいいんだろう。

昨日はそのままミスルンを彼の屋敷まで送って別れたが、彼に「自分を大切にする」という事を学んでもらうにはどうするべきか。

​思案しながら一階のホールまで降りた時、「カブルー」と声を掛けられた。
黄金城の前庭と一階ホールは、閉門までの時間は一般向けに開放されている。その隅に置かれた休憩用のソファにミスルンが座っていた。

​「ミスルンさん!?」

​今日は彼の登城予定はなかったはずだ。驚くカブルーの元へ、ミスルンが軽い足取りで近づいてきた。
​「待っていたんだ。一緒に帰ろう」
​にっこりと笑う。

​「恋人なら、こうするんだろう?」


​次の日からもミスルンは、大使館での職務が終わると黄金城へカブルーを迎えにくるようになった。

​大使館で一番上の立場のミスルンと、王の側近とはいえ何でも屋のようなカブルーではどうしたってカブルーの方が遅くなる。
閉門までに仕事が終わらず、通用口から出ることも多いカブルーだ。

待たせるのも悪いから、毎日来なくてもいいと言ったのだが「気にしなくていい。恋人を待つ時間というのは楽しいものだ」と一階のソファに腰掛けて、ホールを行き交う人々を眺めながらにこにことカブルーを待っている。

​そうしてカブルーが姿を表すと、ぱっと立ち上がって駆け寄ってくる。
「おつかれさま」と微笑むミスルンに出迎えられて、今日もカブルーはミスルンと並んで家路を辿る。
暦がめぐり、日が少しずつ長くなってゆく。最初の頃は門を出る頃には一番星が瞬いていたはずが、最近はまだ夕暮れ時だ。

大抵はそのままミスルンを家まで送り届けるが、時には食事を共にすることもあった。

​正直カブルーは、ここまでミスルンが「恋人」という言葉に反応するとは思っていなかった。
カブルーがあの時、咄嗟に「恋人」と言ったのは、緊急避難的な措置のつもりだった。
とりあえずミスルンが、あんな人との関係をまともに作れないような卑劣漢に好きにされないように。

​けれどカブルーが、ミスルンにどうしてやればいいのか、などと頭を悩ませる必要すらなかった。
ミスルンは「恋人」という言葉ひとつで、一人でどんどんと回復していった。

顔色は随分と良くなった。
「恋人を心配させない」という指針ができたことで、食事も睡眠も取らずに倒れているようなことはなくなり、日常生活での問題が少なくなってきた。

(俺まだ何にもしてあげられてないのに……

​そうして、「ええと、おふたりは……?」「付き合ってるの?」と人に聞かれるたびにミスルンは、何のてらいもなく「うん。恋人だ」と嬉しそうに笑って答える。
もう、城中の人がふたりの交際を知ってるんじゃないだろうか。

​お陰で最近、女の子からのお誘いがめっきり減った。
でもまあ、誤解されて困るような相手も今いないし。仕事が忙しすぎてそんな暇もないので、かえって助かるくらいだった。


(もう来てるかな)

​仕事の切りがついたところで立ち上がる。
以前は深夜まで仕事をしていることも多かったカブルーだが、ミスルンが待っていると思えばそうもいかない。しかしやってみると不思議なもので、仕事はちゃんと回っている。

​一階のホールに降りると、ソファの一つに人影があった。
いつもならミスルンは、カブルーが降りてきたらすぐわかるようにこちらを向いて座っている。だが今日は、その定位置の前に立っている男がいる。カブルーの視線を遮るような背中に、嫌な記憶がよみがえる。

音を立てないようにしながら足早に近寄ったカブルーの耳に、男とミスルンの会話が聞こえてきた。

​「ねえ、あの……、いつもここにいるよね。
誰か待ってる? よかったらこれから飲みに行かない?」

……ナンパされてる。ミスルンさんが。
カブルーは少し驚いて立ちすくんだ。だってミスルンさんは、そりゃ顔立ちは綺麗だけど気軽に話しかけられる雰囲気じゃないし、無表情で隻眼なので人によっては怖がられるし。……本当に?

カブルーを待っている時のミスルンは、いつも楽しそうだ。そして彼は笑うと魅力的だ。それもとんでもなく。

​ほら今だって、ミスルンに満面の笑みを向けられたナンパ男の心臓が跳ねたのが、後ろ姿でもわかった。ハートのまぼろしが飛んでいる。

​「私の恋人を待っている」

​ナンパ男の周囲のハートが割れるのが見えた。ざまあ見ろ。
カブルーはさっと手ぐしで髪を整えると、声を掛けた。

​「お待たせしました、ミスルンさん」
「カブルー!」

​顔を輝かせて立ち上がったミスルンが、ナンパ男に言い放つ。
​「こいつが私の恋人だ。
では、恋人が来たからな。失礼する」

​立ち尽くすナンパ男に一瞥をくれて、カブルーはミスルンの手を取った。

​「!!」
ミスルンの手がぴくりと跳ねたのが伝わってきたが、そのままぐいっと強く引く。

まったく油断も隙もありゃしない。
そうだ、最近のミスルンさんときたら可愛いの大盤振る舞いだから、他の男にも気をつけないといけなかった。

(以前なら、彼の笑顔を知っているのは俺だけだったのに)

​手を引いて城門を通った際に顔見知りの衛兵に「お熱いねぇ」と笑われて、ハッと気が付いた。
無意識に手を繋いでいた。――初めて。

​「わっ、あの、すみません! 手を!」

慌てて手を離そうとした時、ミスルンがきゅっと手に力を込めてきた。

​「うん、手を繋いだのは初めてだな」
​そう言って嬉しそうに微笑んだ。

​「恋人っぽいな、すごく。――なあ、このまま家まで繋いでいてくれ」
​「……いえ、あの、ずっとは」
「だめか?」

「ええと、途中で夕飯食べて行きません?」
――うん」

​食事のあと、店を出たとこからまた手を繋いで歩きだす。

星の瞬き始めた空の下、ミスルンが幸せを噛み締めるようにぽつりとカブルーの名を呼んだ。

​「カブルー」
「はい」

「なあ、私な。誰かと『恋人同士』って初めてなんだ」

​ふふ、と小声で笑ったミスルンは、繋いだ手で軽くカブルーを引き寄せ、一瞬頬をカブルーの二の腕に擦り寄せた。

​「いいものだな、『恋人同士』というのは」

​言葉の端々に、ミスルンが「恋人」という関係そのものに恋をしているのだと、伝わってくる。
まるで初めての「恋人という存在」に浮かれる少年のようなミスルンを見ながら、カブルーの胸に小さな疑念が湧く。

――仮に、あの時恋人になることを申し出たのが俺じゃなかったら。

それでもあなたは、その「誰か」と、今と同じように手を繋いで笑うんでしょうか。

​軽く頭を振ってその疑念を追い払う。

(いや、俺がこんなことを考えてどうする。これはあくまで、彼を守るための一時的な役割だ。恋というわけではない)

それなのに、ミスルンが自分に恋をしているわけではないのを寂しく思うなんて、勝手な話だ。