史加
2026-04-29 01:27:36
14332文字
Public サンプル
 

【5/5サンプル②】”Happily ever after.”

ルカキリ/2026年5月5日スパコミ頒布予定サンプル





 たとえ美しく咲かせたとしても、いつかは散って枯れゆくだけで、あとに残る種子は何の糧にもならぬというのなら、はたして咲かせることに意味はあるのだろうか。
 仮に結ばれた実を噛み砕き飲み込んだとして、それが毒となって全身に回り、この身を永きに渡って蝕む可能性があるというのなら、一時の甘さに惹かれるままに果実を望むのは得策とは言えないのではないだろうか。
 あるいは地を這う根が互いの足元を掬うおそれがあるのだとしたら、花を望むまでもなくこの手で芽を摘み取ってしまうべきではないだろうか。

 フリンズはこの世に芽吹き咲き乱れる花々を、けっして無駄なものだと思ったことはない。それは人々の目を楽しませるだけでなく、蜜蜂や蝶、動物、そして人間の糧となる実を結び、数多の命を未来へと繋いでゆく役割を果たしているからだ。
 だが、自らの心に芽生えた想いは世に咲く花々と同じようには扱えないと思った。唯一無二の想いはしばしば尊いものとして物語で描かれるが、現実はそうではない。この想いを大切に育み続けていけば、いつか花は咲くだろう。そっと手折って差し出せば、きっと彼は優しく微笑み喜んでくれるに違いない。しかしいつか必ず散る花の残骸がフリンズを苦しめると分かれば、その表情が瞬く間に曇るのも想像がつく。そもそもふたりの逢瀬は限りのあるもので、彼が為すべきことをすべて為し終えてナド・クライを訪れる目的を失えば終わるものだ。ならば胸を痛ませるだけの毒花など咲かせないほうが互いの身のためと言えるだろう。
 生まれた国も、種族も、立場も、生きる時間の長ささえも異なる自分たちに、花は似合わない。
 ともにいたいのだという願いから咲く、脆く儚い花なんて。
……別れましょう、ファルカさん」
 硬い種子にナイフを突き立てるように、フリンズは静かな声で言の葉を紡いだ。それはモンドへの帰郷を果たしてからしばらくして、再びナド・クライへとやって来た彼と久方ぶりに酒を酌み交わした夜のことだった。
 昼間のうちに亡霊たちに声をかけておいたのもあって、夜明かしの墓は静寂に包まれている。空に輝く星々の瞬く音すらも聞こえそうなほどだ。ゆえに目の前の男が息を飲む音はよく響き、フリンズの耳にはっきりと届いた。
 澄み渡る春の海を閉じ込めたようなひとみの中にさざ波が立つ。ファルカは何と言うべきか迷い、思いを巡らせているようだった。
 しばしの沈黙のあと、胼胝のある節くれだった大きな手が緩慢に持ち上がり、フリンズの頬へ伸びようとして、けれど静かに引っ込められる。
……明日にはモンドに帰るが、まだここでやることが残っているから、近いうちに戻ってくるつもりだ。そのときはまた今日みたいに一緒に酒を飲んでくれるか」
 応とも否とも言わず尋ねてくるファルカは優しい。なんの前触れもなく突如として切り出された別れ話に激昂することも、フリンズを問い詰めることもせず、ただ静かに言葉を受け止めて、飲み込んでくれたようだった。
 ひどいことをしている自覚はある。けれどこれが最善であるのだと信じるフリンズは微笑んで、自ら引くと決めた線の輪郭を抉ることにする。
「ええ。友人としてそのくらいなら構いませんよ」
 関係性をあらわす名詞をはっきりと音にして示すと、ファルカはわずかに身を強張らせたあと、静かに目を伏せた。傷付いたというよりはどこか寂しそうな、あるいは不甲斐なさを悔いるような表情だった。
 ファルカは周りを見ることに長けていて、気遣いも出来、頭の回る男だ。だから自分たちが恋仲などというものに収まり続けるのは得策ではないと、本当は前々から分かっていたのだろう。もしかしたら彼もまたどこかのタイミングで幕引きをしなければと思っていて、先にそれをフリンズにさせてしまったことを後悔してくれているのかもしれない。そんな淡い期待を抱き、それはあまりにも傲慢すぎると己をたしなめる。相手がファルカだからこんなにも穏やかに、諍いや押し問答のひとつもなく終えることが出来るのだ。彼の寛容さに感謝し、誠実さを裏切ることを罪として受け止めるべきであって、ほの暗い喜びなどというものを覚えるのは褒められることではない。
 己の浅ましさを叱咤し、フリンズはファルカに勘づかれぬようほっと胸を撫で下ろした。フリンズはファルカのことが好きだ。心より愛しているし、幸せになって欲しいと願っている。だから別れを切り出すことで彼がひどく傷付いた顔をすることだけがどうしようもなくおそろしかった。今この場において思いのほか傷が浅く済んだのは救いであり、幸いなことだった。
 この夜が終わり、明日がやってくれば、フリンズとファルカは恋人ではなくなる。だが今までと同じように顔を合わせることがあれば酒を酌み交わし、他愛のない話をして過ごすのだろう。もう唇を重ね合わせて、身体に触れ、熱を分かち合うことはないけれど、彼と過ごす時間はきっとフリンズの中でかけがえのない宝物になり、いつかの未来でまばゆく輝く過去になる。
 色褪せて枯れ果てた花の残骸を見つめて嘆き、全身に回る毒に心を灼かれる、そんな未来が互いを苦しめる日はこれで訪れない。それでいい。
……わかった。なあフリンズ」
 ジョッキの中の酒を煽ったファルカが、真っ直ぐフリンズを見つめて口を開いた。
「たとえモンドに帰っても、もうお前に触れる権利をもらえなくても、俺はお前を愛している。この生涯で選ぶのはただひとり、お前だけだ。どうかそれだけは覚えておいてくれないか」
 北風が聞いて呆れるほどの熱をはらんだ声とまなざしに、フリンズは胸が痛むのを感じた。別れを紡いだばかりの唇で「僕もだ」と言いそうになるのを必死になって押し堪え、やわらかな微笑みを崩さずファルカへと向け続ける。
 ほんの少しでもフリンズが表情を歪めるようなことがあれば、未来でよりいっそう深く傷つき合うことになるとわかっていたとしても、きっとファルカは今のフリンズの痛みを和らげようと手を差し延べてくるだろう。だから彼の優しさにほんの少しでも応えられるよう、恋人でいられる最後の夜はせめてずっと笑っていたかった。
……あなたの人生はどこまでも自由なもので、まだまだ長く続いてゆくでしょう。きっと多くの人と出会うはずです。なのでこれから先、その道のりの途中でもしあなたが心より手離したくないと思うひとに出会えたら、僕のことなど忘れてしまってかまいません。別れとはそのためにあるものですから」
 ああ、なんとひどいことを言っているのか。胸中で己の愚行に嘆息しながらも、フリンズは身に馴染んだ鎧が崩れぬよう気を引き締める。
 フリンズはけっしてファルカの愛を疑っているわけではない。今こうしている瞬間も彼はフリンズを愛し、想ってくれているのだと分かっている。別れとはそのためにあるなどと口にしておきながら自分はそうする気が一切なく、嘘をついているようなものだとも自覚している。
 だがたとえ今日フリンズが別れ話を切り出さずとも、時の流れがふたりを引き裂く日が訪れるのは確定事項だ。その日が迫ってきている気配を感じるたび、けっして分かち合うことの出来ない痛みに思い悩み、深く傷付き、もがき苦しんでいくというのなら、そうなる前にこの手で終わらせてしまったほうが予後はきっと悪くないだろう。
 これは、致命傷を負うことをおそれて選んだ道だ。ただの臆病であることはとうに分かっている。それでもフリンズは自らの言葉を曲げる気はない。
 もし花を咲かせていたらそれはどれほど美しかったのだろうと、すでに真っ二つに割られた種子を前に夢想する権利さえ残されていれば、隣に彼がいない事実が悲しくても生きていけると、そう思ったからだ。
 ――残念ながら、口にしてすらいないはずのそれに含まれている毒はすでに、身体に回ったあとだったのだけれど。



 さらさらと穏やかに風の吹き抜ける夜明かしの墓で、フリンズは机に向かい報告書をしたためる。そこかしこで咲いているフロストランプの香りが鼻をつき、胸のあたりにむかむかとした不快さが広がっていくのを耐えながら、ペンを動かすことに集中していた。
 今日の空は薄曇りで気温は高くも低くもなく、外の空気を吸いながら事務仕事をするのに適している日だ。そう思い灯台の地下にある部屋から出てみたのだが、このところ不調の続いている身体は鋭敏で、自然の香りも障るほどに弱っているようだった。気持ちの悪さを誤魔化すように深く息を吐き出すと甘いにおいがむわりと広がって、ぐっと喉の奥から何かがせり上がってこようとする。たまらずペンを置き、手套に覆われた手で口を抑えて、フリンズは身の内に宿る炎を燃え上がらせた。
 ひとのかたちを模した器の中で蒼炎が爆ぜて、体内に生まれた異物を瞬く間に燃やし尽くす。けほ、と咳き込むと今度は物の燃えて焦げたにおいが漂い、白い粉のようなものが呼気とともにこぼれた。
 風にさらわれ海へと運ばれていくそれを茫然と見つめたあと、フリンズは長椅子の背もたれにぐったりと体重を預けて目を閉じる。身体がひどく重くて怠い。禁忌を犯して鍛造された生命であるはずのフェイには珍しいほどの不調も、もうすっかり慣れてしまったものだった。
……しかしまさか、あの病を患うとは。参ったな……
 だれもいないのをいいことに、フリンズの口からは一切取り繕われていない言葉がこぼれ落ちる。
 不調の兆しがあらわれたのは、ファルカに別れ話を告げて恋人からただの友人へと戻り、一週間が経った頃のことだ。いつものようにランプと槍を携えて夜回りへ向かおうとしたフリンズは急に胃のあたりに不快感を覚え、かと思えばなにかが食道を逆流してせり上がり、胸のあたりを圧迫する感覚に苛まれた。しかしフェイであり、人間のような食事を必要とするわけでもないフリンズは、そもそも「吐く」という動作についての経験がない。世間一般で吐き気と呼ばれるものに襲われるも対処のしかたがわからず、膝を着いて呼吸を拙くさせているところを、なんと不幸なことにイルーガに見つかってしまった。
 元より白い肌を青白くさせ、脂汗をかいて蹲り、胸を掻きむしって息を乱すフリンズを見つけたイルーガの行動はおそろしく早かった。彼はフリンズの口を強引に開けさせて迷いなく自分の手を突っ込むと、奥の方で丸まろうとしている舌を引きずり出し、喉奥を容赦なく指で押し込んだ。反射的に嘔吐いてごぽりとなにかが喉からあふれてくるのに生理的嫌悪感を覚え、フリンズは咄嗟に暴れそうになったが、イルーガはその小柄な体躯からは想像もつかないほどの力で抑え込んでくる。挙句、フリンズの喉に詰まり気道を塞ごうとしているものを指で器用に掴んで引っ張り出した。おかげでフリンズは嘔吐せざるを得ず、イルーガの目の前で吐瀉物をぶちまけるという醜態を晒すことになったのだった。
 フリンズが自力で吐けるようになるとイルーガは手を引き、もう片方の手で優しく背を撫でさすってくれたが、あまりの無様さにフリンズの自尊心がズタズタに引き裂かれたのは言うまでもない。初めての嘔吐という経験も相まって涙まで出てくる始末で、あのときの醜態といったら、正直思い出したくもないほどだった。だが異常事態というのはそれに留まらなかった。ようやく吐き気が落ち着き、呼吸のしかたを思い出したフリンズは、視界に映り込む己の吐瀉物の大半を占めるのが胃液ではなく、本来体内に生じるはずのないものであるのに気付いて、再び顔を青くした。
 そこに散らばっていたのは、青く小さな花だった。イルーガの手で喉から引きずり出されたのも花の房で、それを見ていた彼も明らかに狼狽えている様子だった。
 だって人間であれ妖精であれ、花を吐くなど普通はありえない。仮にフリンズの頭がおかしくなって自ら花を食べるような真似をしたのだとしたら、多少なりそれは消化されて形を崩していただろう。しかしフリンズから吐き出された花はまるで今しがた咲いたばかりのように瑞々しく、鮮やかで、とてもじゃないが食したものを吐いたとは思えない色かたちをしている。つまりはその身のうちから生じたものを吐き出したと、そう結論づけるしかない状況だった。
 いずれにせよ花を吐き明らかに弱っているフリンズをイルーガが放っておくはずもなく、半ば強引にピラミダへと連れて行かれた。そうしてニキータも立ち会う中、年老いた医者の診察を受けて、病名を告げられた。
 嘔吐中枢花被性疾患。通称花吐き病と呼ばれるそれはひとに限らずフェイの身を蝕むこともあるという、奇病のひとつだ。
 特定の人物への想いを拗らせると花を吐くという病は、昔からナド・クライではおとぎ話のひとつとして語られているものだ。多くの人々の間でただの物語に過ぎないと思われているそれは実在する病で、罹患者の吐いた花より感染するおそれもある。長き時を生きるフェイであるフリンズは当然その病が現実のものであることを知っていたから、自分が罹患者であると診断されるなり、真っ先にイルーガの身を案じた。もちろん叱られた。ひとの心配をしている場合ですか、と言い放ったあと、たくましい青年は手套をしていたから直接フリンズの吐いた花には触れていないことと、そもそも恋を患うような相手もいないことを恥ずかしげもなく晒し、それから躊躇いがちに治る見込みはあるのかと尋ねてきた。それは医者にではなく、フリンズに対する質問だった。
 世間で語られる花吐き病の物語では、病にかかった者は想い人と結ばれると銀の百合を吐き、病が治るとだけ語られている。しかし現実はそう甘いものではない。無から生まれるものはないというこの世の理を知る大人ならだれもが思うはずだ。本来人体から咲くはずのない花は、どのようにして生まれているのか、と。
 花は罹患者の命を糧に咲く。次々と咲き続ける花は内臓を圧迫して食物や水を受け付けづらくし、吐くという行為自体も体力を要するから、罹患者は徐々に弱っていくことになる。やがては花に生命力のことごとくを奪われるか、あるいは咲いた花を上手く吐き出せず窒息して死に至ることさえもあるのがこの病の本質だ。ましてこの奇病はただの風邪や頭痛とは異なり薬も存在しない。想い人と結ばれることでしか治ることのない病なのだと、フリンズはやむなくイルーガに答えるほかなかった。それは「治る見込みはあるのか」という問いの答えとしてはいささか正しくなく、しかしその正しくなさが答えのようなものだった。
『お相手の方は、僕の想像しているひとで合っていますか』
 話を聞き終えたあとのイルーガの真剣な表情を、フリンズはよく覚えている。
『君のために、僕に出来ることはありますか』
 それが彼の善性というよりも、純粋に喪失をおそれる心から生まれた問いかけであることは言うまでもなかった。
『君が伝えられずにいる想いがあるのなら、代わりに届けます。君が素直に甘えられないというのなら、君の代わりに甘やかしてあげてほしいって、僕が頭を下げに行きます。もしもあのひとが君の想いに応えられないというのなら、心を入れ替えてもらえるよう僕が何度でも説得します。だから、』
『坊ちゃま、』
『だから、そんな……諦めた顔をしないでください……
 ぼろぼろと泣き出してしまったイルーガを前に、フリンズはかけてやる言葉を見つけられなかった。普段ならいくらでも思いつくはずの嘘は何ひとつ浮かばず、彼を慰める言葉すら紡げなかった。どこか俯瞰したところからその事実に気付き、そのくらい自分は衝撃を受けているのだと理解した。
 黙り込んでいると、それまでふたりのやり取りを見守っていたニキータがイルーガの背をさすってやりながら、フリンズ、と優しい声で呼んだ。ひとまず一週間の休暇を与えるからその間にこれからのことを考えなさいと、助けが必要ならいつでも頼ってくれと言って、一夜をピラミダで明かしたあと、親子揃って夜明かしの墓までフリンズを送り届けてくれた。心優しいふたりの友人を真っ先に自分のどうしようもない事情に巻き込んでしまったのが悔しく、しかし病を治す術もなくて、八方塞がりだった。
 長い人生の中で、フリンズは花吐き病を患い目の前で亡くなった人間を見たことがある。それはまだスネージナヤの宮廷にいた頃のことで、庶民の娘との恋に溺れた貴族の男は、冬国でまず咲くことのない赤や黄、オレンジ、ピンク、青、様々な花を吐き散らしていた。日に日に痩せ細っていく彼は必死になって娘にアプローチをしたが、娘は身分の差を理由に彼の愛を断り続けた。そうして男はある夜会の日に突然呻き声を上げたかと思えば、喉に真っ赤な薔薇の花を詰まらせて、そのまま息絶えた。
 もしフリンズが花吐き病を患ったことを明かし、ファルカに命乞いをすれば、きっと優しい彼はすぐさまフリンズ自ら遠ざけた愛を再び手繰り寄せて、救ってくれるだろう。だがそんなの冗談ではない。そうして咲いた銀の百合はいつか枯れていく。その哀れなさまを見て、フリンズもファルカも互いに分かち合えない痛みを抱え、苦しむことになるのだ。そうなる未来を厭うから、フリンズは彼を離してやることを決めた。だからファルカにだけは絶対に、何としても病のことを知られるわけにはいかなかった。
 かつての恋人であり、今も想いを寄せるただひとりの手を借りることだけはしないと誓ったフリンズは、一週間の休暇の間に花吐き病について調べた。だが目ぼしい情報は得られなかったため、ニキータにはライトキーパーとしての日々の勤めに集中することで恋心を忘れられないか試したいと曖昧なことを申し出て復職した。
 その程度で忘れられる想いならこうして病を患うこともないとわかっているが、こんなところであっけなく花に呑まれて死ぬわけにはいかない。幸いにもフリンズはランプのフェイで、その身の本質には炎がある。花が咲く気配を察知するなり身体の中で燃やすことで体力の消耗を抑え、他者が花を介して病に感染するリスクを排除すれば、ある程度は今まで通りの生活を続けることが出来る。なるべく時間を引き延ばし、その間にどうにか病の原因である恋心そのものを摘出する方法を見つけられないかと探すことを決め、闘病を始めて今に至る。
 病を患ってもう三ヶ月以上経つが、残念ながら今のところ花吐き病に関する新たな情報はなく、ファルカを想う心も薄れることを知らない。事情を知るイルーガとニキータの口を封じた上で、ときおりモンドからナド・クライへとやってきている彼にフリンズの挙動を訝しまれぬよう、酒の誘いがあればかつてと同じように応じているので、忘れられるはずがないのも当然だ。
 病を治すことを優先するのなら、なにかと理由を付けてファルカとは距離を置くべきなのだと分かってはいる。しかし、おそろしく勘の鋭い彼はほんの少しの異変も見逃すことをしない。フリンズにあからさまに避けられていると分かればニキータやイルーガにそれとなく探りを入れるだろうし、そうなればニキータはまだしも、純粋で素直なイルーガは口を滑らせてしまうおそれがある。こんなことになるなら別れ話を切り出すときに、友人としてなら、なんて言うべきではなかった。もっと徹底して線を引き、彼を拒絶すべきだったと後悔しても後の祭りだ。まるでファルカと別れようとしたこと自体が間違っているみたいに、あらゆる因果がフリンズに牙を剥いている。
……ぐっ、げほ……ッ」 
 また体内で花が咲いた気配を察し、吐き気ごと燃やす勢いで蒼炎を唸らせる。加減が上手くいかず食道を焼いてしまうこともこのところは増えていて、ひりつく喉が悲鳴を上げた。咳き込むと焦げた味が口の中いっぱいに広がって、白い灰がこぼれ落ちていく。どうしても花を燃やすことで生まれる灰だけは体外へ排出しなければならず、そのせいで少しずつライトキーパーとしての仕事も、長時間の外出も難しくなり始めていた。
……都合よく記憶を失うことの出来る呪いや薬があれば、いいのだが」
 ぽつりと呟く。もちろん、そんなものはこの世に存在しない。
 悪いのはフリンズだ。自分の勝手でファルカと別れることにしたくせに、ファルカを必要以上に傷付けたくもなくて、友人という関係を続けることを選んだ。仮にファルカの記憶をすべて失えたとして、そうなればファルカとの間に残っている「友人」という関係性すらも失ってしまう。ひととの関わり合いを大切にしているファルカは、たとえその相手が一度恋仲になり、別れて友人に戻ったひとならざるものだとしても、自分の一切合切を忘れられてしまったと知ればきっと傷付くだろう――否、ファルカのためと言いながら本当はフリンズがそれを惜しんでいるだけだ。あまりの未練がましさと図々しさに自嘲せずにはいられない。花吐き病を患うのも当然だと言えるくらいに、ファルカへの想いは拗れ切っている。
……ファルカさん、好きです。あなたのそばにいられたら、どれほど幸せなことでしょうか。けれど、僕は――ッげほ、ぅ、ぐ……かはッ……!」
 心からあなたを愛している。
 けっして消えることのない情念に応えるように花の咲く気配がして、フリンズは炎を燃やし、色を失った唇から真っ白な灰を吐く。
 好きなひとと一緒にいたい。そう願うのは当たり前のことだろう。
 けれど彼は老いていき、近いうちに必ずフリンズを置いていなくなってしまう。そうでなくとも彼の帰る場所はモンドであり、自由の国が彼という存在を必要としている。だとしたら厳冬に極めて近いところにあるこの寒々しいナド・クライよりも、温かな風の吹くモンドで生き、大切な友人や仲間とともに他愛のない日々を過ごし、もしもそこで良いひとが見つかれば愛を交わし合って、家族となり、ありふれた幸福を享受して生きるのが彼には似合いで、望ましいものではないだろうか。
 ファルカを追ってモンドへ行くことも考えなかった訳ではない。だが今のフリンズの帰る場所はナド・クライにある。未だワイルドハントの蔓延るこの地を見捨てて、愛のためにモンドへ向かうだなんて選べるはずもないし、選びたいとも思えなかった。互いに互いの故郷で生きながら、ときおり逢瀬を重ねて細々と愛を紡いでいくことも考えたけれど、それはファルカの自由を奪い、負担になっていくだけだという考えのほうが強かった。
 いつかの酒の席で、大団長の座を後進に譲ったあと、まだ身体が動くようであれば世界を旅してみたいと静かに語った横顔を覚えている。その夢を叶えられたらいいと、そのときフリンズは心から思った。長年肩書を背負って母国のために戦い続けた英雄が、彼自身のまっさらな自由を取り戻す日が来るのなら、それまでの彼の献身は報われるべきであり、褒賞として夢のひとつやふたつ叶う日が訪れるべきだ。自由にテイワットを旅して回る彼の姿を脳裡に浮かべて、それが現実になることを祈ったあの瞬間を忘れたことはない。フリンズとの関係が彼の足枷になるくらいなら今のうちに手離してやるべきだと思ったのも、あのときからだった。
 ファルカのすべてが好きだ。どうか風のように自由で、太陽のようにまぶしいその姿のままでいてほしい。幸せでいてほしい。だから手を離してやらなければならない。望んではいけない。そう思って別れを切り出したのに、こんなにも苦しい。手中にあったはずの愛を惜しんで、みっともなく望んでいる。
 ごうごうとフリンズの身の裡で炎が燃え盛る。ファルカを想えば想うほどに咲く花のすべてが醜悪であるように思えて、嫌悪感と不快感が心を苛む。こんなどす黒い恋心など燃やして、清めなければ。自らの命を糧に生まれた花を燃やして真っ白な灰に変えることは、最早フリンズの中で浄罪のための行為になりつつある。
 ああ、恋とはなんとおぞましいのだろう。
 こんなにもファルカには幸せになってほしいし、幸せでいてほしいのに、欲深くも求めることをやめられない。自分だけをと性懲りもなく望みそうになる自分の醜悪さに吐き気がする。ただ、置いていかれた未来を慈しむ覚悟が足りなかっただけなのに。
 恋はひとを強くするというが、恋は妖精の弱さを暴いただけだった。
 風に当たっているのもつらくなり、震える手でどうにか書き終えた報告書をかき集めて抱え、地下室へ戻るとフリンズはベッドに横たわる。ランプのフェイである自分には本来不要で、長らく使っていなかった人間用の寝床も、ファルカと恋仲になったのをきっかけに寝具を一新して整えた。もうここに彼を招かなくなってずいぶんと経ち、彼の纏う風と日なたのにおいさえも消えてしまったけれど、愛を分かち合った夜を思い出して心臓が悲鳴を上げる。
 ごう、と蒼炎を燃やした。激しく咳き込んで真っ白な灰を吐く。部屋の中はどこもかしこも薄く灰をかぶっているが、もう掃除をする気力も起きない。
 これは、もうまずいかもしれない。少し休んで筆を取るだけの体力を取り戻したら、ニキータに手紙を書くべきだろう。
 ライトキーパーとしての仕事を少し休みたいと正直に綴れば、あの親子は心配して夜明かしの墓を訪ねてくるかもしれないが、きっと彼らはフリンズの気持ちを尊重してくれるはずだ。
……まったく。ただの造られた命が愛で死ぬなど、馬鹿馬鹿しい……」 
 だがひとならざるものだからこそ、本来人と人の間に生まれるはずの感情が毒となるのもまた世の理かもしれないと、そんなことを思いながらフリンズは意識を手離した。