史加
2026-04-29 01:27:36
14332文字
Public サンプル
 

【5/5サンプル②】”Happily ever after.”

ルカキリ/2026年5月5日スパコミ頒布予定サンプル





 それはまだ冬が始まったばかりの、きんと冷えた空気に星々の冴え冴えと輝く、美しい夜だった。
 酔っ払いたちがひとり、またひとりと帰路につき、すっかり客のいなくなったフラッグシップのカウンターで、フリンズはほどよく酔いの回っているファルカの横顔を眺める。照明の光を受けてにぶく輝く金の髪の向こうには、普段よりもどこか溶けた青色が透けて見えていた。
「はあ……やっぱりモンドからナド・クライまで酒を持ってくるとなると、どうしても途中で味が落ちちまうな。まずくはないが、モンドで飲む酒には劣るのが惜しいもんだ」
 ジョッキを煽り、中に満ちる酒を飲み干したファルカの、郷愁の滲む声に胸のあたりがしくりと痛む。
 西風騎士団大団長という肩書はすっかり背負い慣れてしまって、もう重たいと感じることなどないのだろう。だがこうしてふたりで飲み交わすとき、ファルカは愛する故郷に思い馳せるただのひとりの男としての顔を見せることがある。
 風と自由の国に生まれ育ち、常人であれば枷のように感じるだろう立場と肩書をものともしない男は、あまりにもたくましくてまばゆい。騎士としての誠実さも、国を愛する心の清らかさも、少年のような愛嬌も、根拠もないのにこのひとなら大丈夫だと思わせる頼もしさも、すべてが彼の魅力であり、その生き様は美しいの一言に尽きる。まるで必ず訪れる黎明のような男が、しかしフリンズの隣でこうして等身大の表情を見せる瞬間に覚える寂しさと喜びを、愛と名付けることにしたのはいつだったか。そんなに遠い日のことではないけれど、真新しい記憶の中のことでもなかった。
「品質の低下はやむを得ないでしょう。ただ僕としては、こうして遠いモンドのお酒をナド・クライで飲めるという事実そのものに付加価値があると思いますがね」
 ジョッキの中に残るこがねの色をした酒をひと口飲み、舌の根に広がっていく豊かな苦味と酒精を味わいながら、フリンズは一度たりとも足を踏み入れたことのない風の国からこの地へ渡ってきた一杯に思い馳せる。
「この一杯の酒を運び込むために、いったいどれほどの数の鉱夫が鉱石を掘り、木こりが木材を用意し、技術者たちが試行錯誤を重ねて、長い航海にも耐えうる船を造り出すに至ったのでしょう。荒波に揺れる船の中でも割れることのない丈夫な酒樽にも、相当な努力と時間が費やされていると思います。安全な輸送ルートを確立するため、船乗りたちが危険を顧みずに幾度となく海へと繰り出した時代もあったに違いありません。もっとも、目的は酒を運ぶことに限ったわけではないでしょうが、人々が心血を注いだ結果として今、僕たちはこうして遠く離れた国で生まれた酒を分かち合うことが出来ています。刻まれた歴史の存在を意識すると、わずかに損なわれた風味さえも美酒を美酒たらしめる証であるように僕は思いますよ」
 いつからか古銭や宝石を手にして眺めるときと同じように、フリンズはモンドで生まれ、ナド・クライへと渡ってきたものに思いを寄せる時間が好きになっていた。つい饒舌に話し込んでしまったことに気付いてわずかばかりの恥ずかしさを覚えるものの、これももう一度や二度のことではない。フリンズとふたりきりで過ごすひとときだけファルカがありのままの姿を見せるように、フリンズもまたファルカの前では普段の紳士の鎧を外して、身軽な姿を見せてしまうことがあった。
 フリンズの声に耳を傾けていたファルカの頬が赤らんでいる。それなりに酔っているのもあるのだろうが、まなじりをとろりと下げてうれしそうに笑う顔はなんだかあどけない。遠い故郷を懐かしみ、寂しげに眉を下げているよりはよっぽど良い表情だ。
「ははっ、なるほどな。そういう考え方もあるか。そうか……ありがとな」
 フリンズの言葉をゆっくりと噛み砕いて飲み込み、静かに礼を言うファルカの声のやわらかさがむずがゆく、フリンズも笑みをこぼす。
「思っていることをそのまま話しただけですよ。礼には及びません」
「だとしてもお前の言葉が俺にはうれしかった。そういう考え方もあるのかと感心もしたしな」
 言いながらファルカは自分のジョッキに酒を注ぎ、ごくりと一口飲む。それから中にまだ残っている酒へと視線を落とし、ぽつりと呟いた。
……航海、か」
 先ほどフリンズが口にした言葉が彼の中の何かに引っ掛かったのだろう。普段の彼のものと比べるとずいぶん小さなその声には、羨望のようなものが滲んでいるように思えた。
 フリンズは急かすでもなく酒を飲みながらファルカが続きを話し始めるのを待つ。話したいと思うのなら話せばいいし、やっぱり話したくないと思うのならそのまま黙って酒を飲み、別の話題を口にすればいい。無理に暴いてやろうという気はなく、フリンズは沈黙を酒の肴にしてジョッキを空にする。
……実はな。いつか騎士としての務めを果たし終えて、大団長の座を若いやつに譲ったら、世界を見て回りたいと思ってるんだ。そのときにまだ身体が動けば、の話だがな」
 瓶にまだ残る酒を注ごうとしたところで、ファルカが自らの夢を口にした。それは紛れもなく彼自身のための夢であり、自由で壮大な夢だった。
 ファルカが騎士になる前、あるいは騎士団長の座に着く前に、どのような人生を送ってきたのかをフリンズはまだ知らない。少なくともナド・クライへの大遠征の途中で、彼はいくつかの国を渡り、世界を見てきているはずだから、モンド以外の国を一切知らないなどとは言わないだろう。しかし、いつか責務を果たし終えて身軽になったら世界を旅したいだなんて、まるで冒険者のような夢を語る彼は、外の世界や英雄譚に憧れる少年と変わらないように見えた。そんな男が冒険者の楽園と呼ばれるこのナド・クライで、国のために肩書を背負い戦っているのは、なんだか皮肉なことのようにも思えた。
 夢を口にした男の目は透き通っていてきれいだ。願わくはどうかそのまま美しく在ってほしい。だからいつかファルカの願いが叶う日が訪れたらいいと、フリンズは心の底から思う。重たい鎧を脱ぎ捨てて軽装で世界を渡り歩く彼は、きっと行く先々で出会う人々に慕われるのだろう。困っているひとを見かけては手を差し延べ、多くの物語を残すに違いない。本人にその気はなくても、彼が歩いてつくられた道の後にはいくつもの叙事詩が生まれて、それは各国の語り部たちにより後世まで語り継がれてゆく。もしかすると、いつか未来で生きながらえているフリンズの耳にも届くのかもしれない。
 そんな未来がやってきたら、きっと素敵だろう。この愛しいひとの生きた軌跡が輝かしい物語となることを想像するだけで炎が胸を焼き焦がす。なんとも幸福な未来の話であるはずなのに、焦げ付いた胸を冷たい風がざらざらと撫でつける錯覚に襲われる。夢を叶えて幸せになってほしいのに、その姿を想うと胸が痛む。
 経験したことのない己の心のちぐはぐさにフリンズは驚愕して、狼狽えそうになった。
 出会いがあれば必ず別れが訪れるというこの世の理を、フリンズは正しく理解している。ファルカには近い未来置いていかれるのだということも分かった上で、それでも彼を愛し、愛されることを選び、彼からの告白を受け入れた。
 覚悟は出来ている。そのはずだ。なのになぜこんなにも胸の奥が痛い。必然の未来のことを考えるだけで息が詰まり、ひとしきり揃ったパズルのピースが欠け落ちていくような感覚に苛まれる。こんなものは知らない。この感情を、ひと息に飲み込むことの出来ない悲しさを、一体何と呼んだらいい。
……フリンズ?」
 石のように固まってしまったフリンズを、どこか心配そうにファルカが見つめてくる。何かフリンズの気に障ることでも言ってしまったのだろうかと、案じるまなざしがそこにあった。
 ああ、なんという失態か。ファルカは何も悪くないし、そんな顔をさせたい訳でもない。
 フリンズはゆっくりと目を閉じ、開いて、いつも通りの微笑みを浮かべてみせる。
「ああ、すみません。あなたの語る夢があまりにも素晴らしいものでしたので、国々を旅して回るあなたの姿を想像していました。そうですね……
 緩んだ唇が愚かな言葉を紡いでしまわぬようにと細心の注意を払い、自らの胸に浮かぶ上澄みの感情を掬い上げて、そっとこぼす。
「ただの冒険者となったあなたの叙事詩を肴にしたら、きっとこのお酒はますます味わい深いものになるでしょう。いつかその味を確かめられる日が来ることを楽しみにしていますね」
 どうかあなたの夢が叶いますように。
 そう、祈りを紡ぐ声は、震えなかっただろうか。
……ああ」
 頷いた彼が何かを言おうと唇を開いて、けれどぐっと飲み込み耐えるさまに、フリンズは終わりが見えた気がした。