mishiadd
2026-04-26 23:28:09
11797文字
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ツツジの花の咲く頃に

【現パロ/本編軸】GWなので今年もまた怖い宮本伊織が美味しい季節がやってきました(じっとり系ホラー風なんにも起こらないただ宮本伊織がいるだけの小咄集)【その他】


その弐、『お香の原料になる宮本伊織さん』



客間に通した馴染みの外商員が頼んでいた一通りの品物を見せてくれた後、「そうだ、お見せしたいものがあるんです」と声を潜めて言った。

自邸の客間だ。曾祖父の趣味で当時でも既に時代遅れだった和洋折衷の造りとはいえ、どこぞに音が洩れるような脆弱な建付けでも狭さでもない。メイドも廊下に控えていて、私と外商員の他に居るのは口が堅くて出しゃばらない我が家の執事だけだ。今更どうしたのかと思い軽く目を瞠ると、「お目の高くていらっしゃるお嬢様にも、こればかりは少し刺激が強いかと」とますます声を潜めて言った。

「ねえ、勿体ぶった言い方は嫌いだわ。見せるなら早く見せて」
「これはとんだ失礼を。……お嬢様は、少し前に香水に凝ってらしたでしょう」

これまで別段の興味もなく生きてきたが、先日の欧州旅行でたまたま見つけた香水がとても良い香りだったのだ。見つけた場所はパリだったが、香水自体はグラースで作られたものだということだった。とりあえず棚にあったものはすべて買い上げ、残りの行程でもさまざまな町で香水を買い漁った。日本に帰ってきてからも、今更ながらいつも普段着を買い付けているブランドが出している香水を外商員に頼んで取り揃えてもらい、すっかり数も増えてしまったので邸宅の蔵に急拵えのコレクション部屋を造った。そのことを言っているのだ。

「そうね。……でも、少し前に飽きちゃったの。今はあんまりよ」
「お香はどうです? 興味はおありですか?」

香水に夢中になっていた頃、別の百貨店の外商員にも「こちらはどうですか」と持ってこられたことが何度かあった。あまりピンとこなかった。

「香木って退屈だわ。結局どれもみんな似たような香りじゃないの」
「さようですか」

「ふむ」とわざとらしく残念そうな顔をした外商員が、片眉を上げながらゆるゆると頭を左右に振った。

「それでは、これはお目汚しとなるやもしれません。このまま持ち帰りますね」
「待って。……言ったでしょ、勿体ぶるのは嫌いよ。見せるだけ見せて」

じれたようにそう言うと、狐顔の外商員がにやりと口の端を持ち上げる。この男は、頼んだものは必ず持ってくるので腕は信用しているが、その人となりは本当に気に入らない。
マホガニーのテーブルの上に、ことん、と男が両手で差し出してくる。――見れば、小さな木の破片、だった。

それを見下ろしながら、「――で?」と説明を促す。今時珍しいような揉み手をした男が、「伽羅ですよ」と言った。

「江戸時代から伝わる、最上級の伽羅です」
「伽羅ならいくつも持ってるわ。貴男も持ってきたじゃない。毎回『これは特別な香りがするんです』って言ってたけど、どれを嗅いでもてんで同じじゃないの」
「これは違いますよ。特別ないわくがあるんです」

目を眇めて男を見る。そうやって、もういくつも違いのわからない香木を買わされている。押し売りをすることは決してないが、気付けばこの男の口車に乗せられている。

私の警戒に気付き、気付いた上で何食わぬ素振りでひとつ咳ばらいをした男が、「今は昔、江戸時代のお話です」と切り出した。

「慶安の頃だったそうです。――ある晩、若い侍が浅草寺で殺されました。下手人はわからずじまい。侍には妹がひとりいたので、彼女が遺体を引き取ったそうです。妹が養女に入っていた屋敷で葬式も済ませて、それでは荼毘に付そうか、というところで、あることに気が付いた」

揉み手をしていた男が、手を組んだままに語っている。手を付けていないティーカップの透き通った茶色い水面に、男の顔が映っている。

腐らないんですよ。白い死装束着て、守り刀持たせてね、棺の中で静かに横たわっているんですが、いつまでもまるで生きているかのような、つやつやした綺麗な肌をしている。
元々妹にとってはたったひとりの肉親で、彼女を引き取っていた屋敷も彼女には甘かったものだから、その若侍がまるで眠っているかのような顔をしているうちは土葬にも火葬にも出せやしないって、しばらく仏間に置いておいたんです。――それが、三日が一週間になり、一週間が一ヶ月になり、一ヶ月が一年になって、一年が数年になった」

「腐らないんですよ」と男が繰り返した。

「死蝋というやつだったのかもしれませんが、如何せん当時のことですから、本当のところは誰も。……妹が生きているうちは、屋敷の者も含めてね、その棺に眠っている者が誰なのかわかっていた。それが、妹が亡くなり、事情を知る者も皆亡くなって、孫や曾孫の世代になると、仏間に棺のようなものが置いてあるという事実しかわからなくなった。やがて、その中に入っているのが一体誰だったのかどころか、そこに遺体が入っているということ自体、皆忘れてしまいました」

かつん、と硬い音がしたのでびくりとして身を震わせた。男が爪の先で軽くテーブルの表面を叩いた音だった。

「明治の頃だったんでしょうね。……元々そのお屋敷に住んでいた一族も、大政奉還で家財一式ごと屋敷を手放すことになりましてね。新しく屋敷に移り住んだ別の一族は、仏間に置きっぱなしになっていた棺の由来など知りません。気味が悪いから中身を確かめるようなこともしませんし、他の家財と同様に、ただそのまんま、仏間に放置していた。……その屋敷にね、若いお嬢さんがいたんです」

「ちょうど貴女くらいのお年頃ですよ、お嬢様」などと男が冗談めかして言った。

「明治時代といえば、社交界では西洋から香水が入ってきた頃でした。鹿鳴館では西洋の香水と東洋のお香の香りが入り混じっていたなどと言いますよ。そのお屋敷のお嬢さんもね、ちょうどお嬢様と同じように、西洋の香水に夢中になったんです。方々の商人から舶来の香水を買い漁って――そんなある日ねえ、気付いたんですよ。手に入れたどんな香水よりも芳しい、えもいわれぬ佳い香りが、自分の屋敷の仏間から漂ってくるって」

ちらり、と男に気付かれぬよう、わずかに視線を落とす。――小さなガラスケースの中に納められた木の破片が、そこに置かれている。

「ふらふらと、まるで花の香りに誘い込まれる蜜蜂のように、お嬢さんは仏間へと足を踏み入れた。――すっかり埃を被っている棺のようなものの蓋を、たったひとりで開けて、中を見た。――死に装束をまとった美しい青年が、まるで眠っているかのように穏やかな顔をして、そこに横たわっていた。
お嬢さんは、固唾を呑んでじっとその青年の整った顔を見つめている。……やがて、気付きました。あの芳しいえもいわれぬ佳い香りが、一段と濃くあたりに漂っていることに」

にやりと含み笑いを浮かべて、男が私を見た。私が黙っていると、男はゆっくりと言った。

「それは、その青年の体臭だったのです。生前から青年はそんな匂いをさせていたのか? それはもう、誰にもわかりません。ただわかることは、その遺体は決して腐らず、精巧な人形のように美しいままで、そしてそれからはこの世のものとも思えぬような、極楽をも思わせる芳香が漂っている」
……それで」

先を促した声が掠れている。もはや男の顔は見ていなかった。私は、目の前の小さな木の破片を一心不乱に見つめていた。

「お嬢さんは、どうしてもその香りをまとって舞踏会に出たかった。ですからね、雇ったのです。懇意にしていた商人を通じて、香木に香りを移せる職人を探し出してね」

自分の呼吸が浅くなっていくのを感じる。どくん、どくん、とこめかみが脈打っている。――目の前の小さな木の破片から、目を離せないでいる。

「伽羅の原木一本に、香りを移すことができた。その過程で遺体は消失してしまいましたが――この欠片が、その原木から切り取った一片です」
「ひっ」

身を引いた拍子にガタタンと椅子が鳴る。フフ、と鼻で嗤うようにした男が、「ちなみに、舞踏会では大変好評であったようですよ」と言った。

「き――気味が悪いわ、さっさと下げて。持って帰って」
「お気に召しませんでしたか。……香りもまったく試されませんか? 勿論このまま持って帰ることもできますが。実際、貴重な品なのですよ。もう手に入ることはないでしょう」
……――

深く深呼吸をして、逸った心臓を落ち着けようとする。胸を軽く押さえながら、「……いいわ」と言った。

「少しだけよ。蓋を開けたらすぐに閉めて」
「ええ、勿論」

言って、男がガラスケースの蓋に指先を掛ける。カラン、と硬い音を立てて、蓋を開けた。









――ふわりと、薫る。









カラン、とガラスの鳴る音で我に還り、私は男を見た。男は既にアタッシュケースの中にガラスケースを戻していた。

一度も口をつけていなかったティーカップの中身を飲み干してから、男が言った。

――とまあ、そういういわく、伝説です。……実際は、ただのツツジの香りですよ」
「ツツジ?」
「伽羅の香木に香りが移してあるのは本当ですが、それはツツジの香りです。華やかで甘い香りでしたでしょう。――たまには、このような与太話も余興にはよいかと」

いつもは見送らない男を、自邸の門まで送り届ける。「それではまた、御贔屓に」と軽く会釈をして去っていった男の背中を見送ってから、くるりと踵を返す。――ふわりと鼻先を擽る甘い香りに気付く。目を遣れば、ツツジの花が咲いていた。

「なによ。――ツツジ、全然違う香りじゃないの

傍に控えていた執事に言って電話を掛ける。――男は、まだ駅にも行っていない筈だ。今呼び戻せば充分に間に合う






――初めて、あの男から自分の意志で香木を買った。









その弐、『お香の原料になる宮本伊織さん』・了