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遊音。(ゆね)
2026-04-25 20:49:27
5275文字
Public
記憶喪失
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かりそめ。⑥
トガカバ(tgkb)でtgsが記憶喪失な話です。捏造設定あり。
①~⑤はこちらのシリーズ一覧から→
https://privatter.me/user/yune100m?category=109886
1
2
なんとなく、トガシにはわかっていた。
走ったら思い出す気がしていた。
走れるようになったら、元に戻る気がしていた。
スタートラインに手を添えたとき、馴染む感覚を覚える。
この感覚を知っている、とトガシは思った。
ちらりとカバキを見る。不安そうな顔が見えたので、安心させるように唇を引いた。
大丈夫、とトガシはつぶやく。
絶対に忘れるわけがない。
号砲が聞こえた途端、体が反応した。考える間もなく足が動いた。
途端、世界が真っ白になった。
――
なんだ、これ。
この感覚を知っていた。過去に何度かあった。
何もない世界。背中を押す風。軽い体。
脚が勝手に出る。
前に押し出される。
風を感じる。
音も聞こえる。
思い出す。コレを前にも経験している。
――
そうだ。
トガシは走りながら思い出す。
――
俺は、
全力疾走
はしって
る。
一瞬、真横を通り過ぎる翠玉色の影を見た。
――
なんだっけ。忘れちゃいけないことがあった気がする。
それでも、今この世界ですることは、一つだけ。
――
走る。
トガシは、まっすぐに走り抜けた。
「え、俺、いまカバキくんと住んでるの?」
日本陸上で走った楽しさの感覚が残ったまま、急に放り出されたのが冬のクサシノ練習場だったため、トガシはとにかく混乱した。海棠と小宮との会話からとりあえず自分が半年以上も記憶を失っていたことを知ったトガシは、茫然としているあいだに、かかりつけだという医者に行かされた。とりあえず混乱はあるが問題がないと確認できて、解放されたのは夕方だった。海棠と小宮は言いたい事だけを言った後、カバキによろしくと言って去っていったので何故かと思っていたところ、残ったカバキが一緒に住んでいるというので、トガシは本当に驚いた。
「え、まって
……
ほんとに?」
「はい。トガシさんは一度実家に戻りましたけど、なんか実家が馴染まなかったとか色々あって
……
その時ちょうど俺も家探してたんで」
記憶がなくなった自分があの実家に馴染まないのは想像に難くないが、それでもカバキと一緒に住むという状況が単純にトガシには信じられなかった。というか、人と一緒に住むという選択をしたことがない。
「なんていうか
……
俺の面倒みてくれてありがとうね」
海棠と小宮の話をつなぎ合わせると、記憶を失った自分の世話をしてくれたのは主にカバキのようだった。それも驚くポイントだが。カバキが自分に対してそんなに親身になってくれたのが不思議だった。特別仲が良かったわけではない。単純に同じ所属の後輩である。
「とりあえず、いったん帰りますか?嫌だったら、実家に戻ってもらってもいいですけど
……
」
「いや、一緒に帰るよ。一旦現状も確認したいし」
そういうと、カバキは小さく頷いて先に歩き出した。カバキは今までと変わっていない
――
ように見えた。最後に会ったのは日本陸上の決勝戦。隣で走っていたのは覚えている(自分の方が少し早かったと思う)。しかし、それまでは練習場やクサシノ本社でたまに会って挨拶や世間話をする程度の仲だ。一緒に住むまで仲が良かったわけではない。
先ほど別れた海棠にどれだけカバキに世話になっていたか聞いたので、お礼を言わないと、とトガシは思った。あの時あんなに痛かった足はなんともなくなっている。今足が治っているのも、筋力が落ちないままの体形を保てているのもカバキのおかげだという。
「あのさ、カバキくん
……
ありがとう、ね。ほんとに。足も治ってるし、体には違和感もないし
……
」
「
……
っス」
相変わらずすました様子のクールなカバキだが、本当に一緒に住んでいたのか疑いたくなる。いや、こんな感じだからうまくやれていたのだろうか。
電車に乗って移動する間、トガシは降りる駅を確認する。
「あ、いいね。そこだと色々便利そう」
「いま、トガシさんはバイトしてるんで。そこも明日教えますね。まぁ、記憶戻ったんでどうするかはトガシさん次第ですけど」
「ありがとう。なんのバイト?」
「スポーツ店です」
友人の伝手だというその名前を聞いて懐かしくなる。知らない間に色々な人の世話になっている。この半年の記憶がないのは恐怖や不安というよりも、単純にタイムワープしたような気分だ。
「俺って
……
記憶ない間、どんな感じだった?」
そう聞くと、カバキはスマホに視線を落としたまま「別に」と答える。
「
……
大して変わりませんよ。今までのトガシさんと」
「そうなんだ
……
?困った事とか、なかった?」
「
……
靴下裏返したまま洗濯機に放り込まれる、くらいですかね」
「え
……
俺の洗濯物しててくれたの?」
そんなことまでしてもらっていたのかと、少し恥ずかしさも覚えて後ろ首を撫でる。
「
……
分担してたんで。トガシさんは夕飯担当です」
「分担
……
へぇ
……
」
やはり、隣に立つカバキとの共同生活はいまのトガシには全く想像つかなかった。
家と部屋の案内をされ、今日は混乱しているだろうから、と早々にカバキはシャワーを浴びると部屋にひっこんで一人にしてくれた。
郊外のマンションで7階にある2LDKは見晴らしもよく、古いがキレイにリノベーションされていて快適そうであった。たしかにこの家賃を折半して住めるならかなり良い。部屋はそれぞれ別だし、キッチンも男2人が立っても狭すぎることもなく、リビングにはダイニングテーブルが一つ。あとは本当にシンプルな家具のみだ。トガシもカバキもあまり物を持たない性質だからか。見せてもらった自分の部屋も、今まで住んでいたのと同じくシンプルな部屋だったので違和感がなかった。
リビングのテーブルに置いたスマートフォンが鳴り続けている。自分が記憶を戻したことを誰かが伝えているのだろう。トガシはテーブルの椅子に座り、ひっきりなしに連絡がくるのを少し困りながら見つめた。通知の数が増え続けるのを見て、面倒になる。とりあえずそれらを無視して、カバキとのメッセージのやりとりを見てみた。記憶がなくなる前はメッセージのやりとりさえした記憶はない。帰るタイミングや、買い物のやり取りなど、日々の業務連絡のような会話が見える。本当に一緒に暮らしていたんだということがわかる。まったく身に覚えのない言葉の羅列が不思議である。写真アプリを見ても、空とか景色など撮った覚えのない写真ばかりだが、何か特別なものがあるわけではなかった。
たとえ記憶を失ったところで劇的に性格が変わったり生活が変わったわけではないようだ。
「
……
走れなかっただけ、かな」
1人に慣れていた。誰かと一緒に住んだり、何かするのは煩わしいと思っていた。
シーズンオフならともかく、シーズンに入ると調整が主にになる。規則正しい生活の方が優先されるし、大会が中心になる。
しかし、カバキとならどうだろう。お互いに優先するものは一緒だし、すでにカバキが自分と生活を共にしていたならそれほど違和感は抱かないのかもしれない。
「ここに半年も
……
不思議」
見慣れない景色、慣れない部屋、とても半年近くも自分がここに居たとは思えなかったが、不思議としっくりきた。すごく落ち着いた気分になる。
「いいかも
……
」
明日からの生活をぼんやりと考えながら、一番身近な人にだけ連絡を返した。
朝になってリビングに現れたカバキに此処にそのまま住みたいことを話すと、「は?」と反応した。そんな反応をされるとは思ってなかったので、トガシは少し慌てた。
「え
……
ダメだったかな
……
?今まで一緒に住んでたなら、そんなに変わらないかな、と
……
」
「いや、なんていうか
……
トガシさんは人と住めない人だと思ってたんで、てっきり記憶戻ったら出てくかと
……
」
寝起きのカバキは俯きながらぼさぼさの髪の毛をまさぐるので、ちょっと面白かった。顔の半分があまり見えない。いつもきっちりすました彼しか見ていないので、トガシにとっては新鮮である。
「たしかにそうなんだけど、いまさら実家に戻るのもあれだし。クサシノの契約なくなってるから金銭的にも厳しいし、すでに整えられた生活があるならそのほうがいいかなって
……
それにさ」
「
……
なんですか?」
「カバキくんなら、同じ競技の選手だし、所属も同じだし、優先するところも一緒かなと思ったから
……
え、嫌?」
カバキの雰囲気があまり歓迎されていないように見える。一緒に住んでたのに嫌だなんて言われたらどうしようとトガシは慌てた。記憶がない間になにかあったのだろうか。
「嫌
……
ではないですけど
……
」
「分担とかも、改めて決めさせてもらえたらと思うけど、カバキくんに負担のないようにするからさ」
「
……
わかりました。あとで、話させてください」
顔洗ってきます、とカバキはまだ目が完全に冷めていないのか、少し顔を伏せて歩き始める。しかし、何か思い出したのかカバキが振り返った。
「トガシさん」
「なに?」
「記憶
……
戻ってよかったです
……
また、走れますね
……
」
「うん
……
ありがとう。ほんとに、カバキくんのおかげだよ」
トガシは素直にお礼をいった。自分には陸上しかない。記憶を失っても元に戻れているのはカバキのおかげで、感謝してもしきれないと思った。
その時ふと気づいた。ぼさぼさの髪の毛に隠れた目と、目の周りが赤い。
「あれ? カバキくん、大丈夫?目、赤いけど」
指摘すると、カバキがばっと顔を俯かせる。
「
……
なんでもないです。花粉症なんで」
「そうなんだ?もうでてるんだね」
特に何の疑いもなくトガシがそういうと、軽く頷いてカバキは洗面所に向かう。
洗面所で顔を洗う音が聞こえてきて、トガシは空気清浄機でも買ったほうがいいのではないかと考えた。
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次回予告『トガシさん、服着てください』
次のページにカバキ視点のおまけ小話があります。
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