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由崎
2026-04-12 18:15:19
4586文字
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名探偵イギリスと容疑者フランス
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地下牢の空気は湿っていた。石の壁は冷えきり、低い天井の通路には古い鉄と湿気の匂いが染みついている。揺れるガス灯の光が鉄格子の影を長く床に落とし、その影は炎の揺れに合わせてゆっくりと歪んでいた。
その格子の向こうに、一人の男がいた。
長い金髪を肩へ流し、顎には無精髭。乱れた身なりのまま鉄格子にもたれかかり、片肘を格子に預けている。片足は石床へ投げ出され、その姿は牢というより酒場の椅子にでも腰掛けているような気安さだった。
口元には、この場所には似つかわしくない軽い笑みが浮かんでいる。
「はぁい♡坊ちゃん」
湿った地下の空気の中で、その声だけが妙に軽く響いた。
フランスは鉄格子に肩を預けたまま顔を少し上げる。ガス灯の光が長い金髪に鈍く反射した。
階段を降りてきたイギリスは通路の途中で足を止める。何も言わず、しばらく牢の中の男を見つめていた。視線は動かない。眉間にはわずかな皺が寄っている。
「
……
ずいぶん余裕だな、クソ髭。どうやら俺の出番はなさそうだ」
そう言うと、ため息にも似た息を吐いて踵を返した。石床に靴底が当たり、靴音はそのまま遠ざかっていく。
その瞬間、鉄格子が激しく鳴った。
「待て待て待て!!」
フランスが両手で格子を掴み、体を前へ乗り出す。金属が軋む音が地下に反響した。
「坊ちゃん!おいイギリス!ちょっと待て!行かないで!」
イギリスの足が止まる。肩だけがわずかに動いた。
先ほどまでの軽い声とは違う。焦りが言葉にそのまま滲んでいる。
ゆっくり振り返る。イギリスの視線が通路の奥から静かに戻る。
牢の中ではフランスが鉄格子に顔を押しつけていた。長い金髪が乱れて頬に張りつき、格子を握る両手の指の節が白く浮き上がっている。
「元気そうだったが」
イギリスの声は低く、抑えられていた。石の通路にわずかに反響する。
フランスは顔をしかめる。
「元気に見えるのかこれが!殺人犯扱いだぞ!」
格子を揺する。金属が軋み、乾いた音が地下の壁に反響してから、すぐに静けさへ沈んだ。
フランスはやがて額を格子に押しつけ、短く息を吐く。冷たい鉄が肌に触れ、眉がわずかに歪んだ。
イギリスが小さく肩を落とす。
「お前が人を殺すとは思えねぇ」
一歩だけ牢へ近づく。靴底が石床を擦り、小さな音を残した。
「俺たちはそういう存在じゃない。違うか、フランス共和国」
フランスはすぐには答えない。格子を握る手の力が強くなる。しばらく黙ったまま床を見つめていた。
やがて小さく言う。
「殺してない」
言葉はほとんど囁きだった。
フランスは額を格子から離し、顔を上げる。
「坊ちゃん」
声が低くなる。
「俺はやってない」
沈黙が落ちる。
ガス灯の炎が小さく揺れ、鉄格子の影が床の上をゆっくりと横切っていった。
イギリスはポケットに手を入れ、革の手袋を外す。指先で整え、丁寧に折りたたむ。掌の上で軽く叩いて形を揃える。その動作は妙に落ち着いていた。
「
……
だろうな。だから来た」
視線を落とす。
そう、俺たちは国だ。戦争でもない限り、人を殺す理由などほとんど存在しない。戦争ならば話は別だ。互いに刃を向けたこともある。同盟を結んだこともある。
フランスとは長い腐れ縁だ。互いに戦争もした。互いに協力もした。最近ではアフリカで睨み合っている。
新聞はそういう話を好んで書き立てる。
イギリスとフランス。古い宿敵。今もなお張り合う二つの国。
そんな国の外交官が、ロンドンで貴族未亡人を殺した。新聞はそう騒ぎ立てている。
「笑えねぇ冗談だ」
もし本当に外交官が殺人犯なら、この話は単なる殺人事件では終わらない。外交問題になる。
大英帝国の首都ロンドンで、フランス共和国の外交官が英国貴族を殺した。
だがフランシス・ボヌフォワの正体は違う。
フランス共和国そのものだ。フランス共和国の化身が、ロンドン郊外でグレートブリテン貴族の未亡人を殺した。
そんな話が成立すれば、それは外交問題ではない。それは国家同士の問題だ。
フランスの眉が、ほんのわずかに動いた。格子の向こうの顔は相変わらず軽い笑みを残しているのに、その目だけが一瞬だけ冗談をやめて、灯の影を映したままイギリスを測るように見た。
イギリスはその視線を受けたまま鉄格子の前まで歩く。距離はほんの数歩で、靴音は石床に吸われるように短く響き、止まった。二人は格子を挟んで向き合い、ガス灯の揺れが鉄の影を細い縞にして、それぞれの頬と鼻梁にかけて落としていた。
イギリスはポケットから紙を取り出す。折り癖のついた書類が指先で鳴り、開く音が湿った通路に乾いた輪郭を与えた。
「女王陛下の命令だ。フランス共和国の身柄は保護する。外交官フランシス・ボヌフォワの正体は公表するな。そしてこの事件の調査は俺が引き受ける」
読み上げる声は淡々としていたが、言葉の節目ごとに紙面から目を離さない癖が見えた。フランスはゆっくりと顔を上げる。さっきまで格子にもたれていた姿勢のまま、背中だけを鉄に預け、目線だけでイギリスを捉え直す。
イギリスは続けた。
「ロンドンで殺人だ。被害者はグレートブリテン貴族の未亡人。新聞は今ごろお前を犯人に仕立てて騒いでる」
フランスは背中を再び格子に預け、肩をすくめる。軽く見せる仕草はいつも通りで、笑みも薄いままなのに、呼吸だけがさっきより浅い。
「人気者はつらいね」
わずかに笑う。湿った空気の中で、その声音だけが妙に軽い。
イギリスの眉が動いた。ほんの一瞬、紙の端を持つ指先に力が入ったのが見え、次の瞬間には抑え込まれた。
「冗談言ってる場合か」
フランスはしばらく黙っていた。視線を横へ逸らし、格子の一本を指先で軽く叩く。乾いた金属音が、ガス灯の揺れに遅れて通路の奥へ消えていった。
「
……
じゃあさ、出してくれる?」
イギリスは肩を竦める。視線は外さず、答えだけを落とす。
「無理だ、今はな」
少し間を置く。その間に、遠くで水滴が落ちる音が一つ聞こえ、二人の沈黙に釘を打った。
「どうやら陛下は、お前をロンドンで吊るす気はないらしい」
フランスはしばらく黙っていた。やがて息を吐き、指先で乱れた髪をかき上げる。金髪が指の間をすり抜け、格子の影がその上を細く横切る。格子に背を預けたまま、視線をイギリスへ戻した。
「そりゃありがたい」
肩を小さくすくめる。口元の笑みが少しだけ深くなる。
「怖いなあ、探偵さん?」
イギリスの眉がわずかに動いた。ほんの一瞬のことだった。すぐに視線を外し、ポケットの中で手袋を握り直す。
フランスはその様子を見て、格子を指先で軽く叩く。乾いた金属音が地下に響いた。
「最近ロンドンで流行ってるだろ。あの探偵」
イギリスは答えない。通路の奥へ視線を向けたまま黙っている。沈黙は拒絶というより、考えを外に漏らさないための蓋に見えた。
フランスは続ける。
「煙草の灰を見ただけで犯人が分かるとか何とか」
口元をわずかに歪め、格子にもたれたまま首を傾ける。軽い調子を崩さないまま、言葉の先だけを鋭くする。
「ロンドン中が夢中の名探偵だ。ちょうど今みたいな事件、ああいう男が解決するんだろ?」
少し笑う。その笑いは短く、すぐに消えた。
「どうだい、探偵さん」
イギリスは短く鼻を鳴らす。返事の代わりに、紙を折り直す指が一度だけ止まった。
「せいぜいそこで頭冷やしてろ、クソ髭」
そう言い捨てて振り返る。外套の裾がわずかに揺れ、湿気を含んだ空気がその動きに遅れて追いすがる。階段へ向かって歩き出すと、コツ、コツ、と靴音が石の通路に響き、ゆっくり遠ざかっていった。
フランスはその背中を見送る。しばらく視線を動かさない。格子の影が顔の上を滑り、ガス灯の炎が揺れるたびに笑みの輪郭だけが薄く変わる。
やがて小さく笑う。
格子に背を預け、頭を後ろへ倒す。首筋が鉄に触れたのか、ほんのわずかに喉が動き、それから天井の暗がりへ視線が向く。
「本当に頼むよ、探偵さん」
地下牢には、再び静けさだけが残った。ガス灯の炎が一度だけ大きく揺れ、鉄格子の影が床をゆっくり横切ってから、また元の位置に戻った。
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