ぽい
2026-03-25 20:26:49
11338文字
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【SS】親愛なる同僚へ

良秀×シンクレア/9章直後くらいの話/湿っぽい話/10,000文字くらい







親愛なる同僚へ

 ほんの少し未来から、僕は僕自身によって呼び起こされ、ここに辿り着きました。これを書き留める間、僕に満足な時間が与えられるかは分かりません。僕が元の場所に引き戻されるのか、あるいは僕が死ぬように消えるのかは分かりません。ただ、僕が考えているのは、いまここにいることが、この僕に与えられた役割だったのではないかということです。

 煙戦争の起きた世界で僕は戦い続けていました。かつての旅は遠く、貴方と二度と会うこともありませんでした。
 けれど、いまここで、貴方のために用意された物語の一部になることを、僕は喜んでお引き受けします。
 きっと貴方は僕の知る貴方と同じように、難しい言葉を使って周りの人を不思議がらせているのでしょう。
 僕はいまでも考えることがあります。離れてしまった貴方は、会話に不自由を感じてはいないだろうかと。もう僕は貴方の言葉を解き明かしてあげられないのが残念です。
 もしこの世界の僕も、この僕と同じように貴方と言葉遊びをしているのなら伝えてください。それは短い期間でしか楽しめないものかもしれないということを。
 そして、もし貴方が僕との会話を少しでも楽しいと思ってくださっていたのなら、
 その時は僕とたくさん話してください。
 きっと、この世界の僕も喜ぶと思います。

 貴方と直接話せなくて残念です。
 けれど、僕がここに来たことが、少しでも貴方の助けになったのなら嬉しいです。

親愛なる同僚 良秀さんへ



 小さく折り畳まれた紙切れには、見慣れた筆跡で知らない相手からのメッセージが書かれていた。
 イシュメールから手渡されたそれは、戦いの後にシンクレアから渡されたものだと説明されていた。

 紙を畳み直して顔を上げる。良秀は煙草が恋しくなってポケットを漁ったが、そこには何もないことに気付く。仕方なく部屋を出て、まだH社に停車しているメフィストフェレスから降車し、シィレンに頼むために怡紅院の方へと歩み始めた。大観園は建造物の高さのせいか、空がやけに遠くに見えた。

 あれは回顧の手紙だった。そして同時に隠された意図のある内容にも思えた。
 良秀は未来のシンクレアによって書かれた言葉を思い出す。彼は二人の間にあった言葉遊びを懐かしんでいた。文面通りに受け取れば主な内容はそうだった。だが、ある一文に──「物語の一部になる」ことへ目を向ければ、この手紙はただの回顧の手紙ではないようにも見えた。これが拡大解釈なのか、それとも彼の指し示した通りなのかは、確認する術はない。

 答えが与えられる訳ではないのに彼の意図を探ろうと何度か手紙を読み返してしまう。そんなことを繰り返した後、良秀はふと自分の行動を振り返り気が付く。彼の言葉を解読しようとするこの行為は、普段の自分達の言葉を介した戯れと、反対の立場に置かせていた。
 言葉を解読させるなんていいご身分じゃないか。良秀は知らぬうちに笑みを浮かべていた。

 怡紅院に辿り着き、シィレンから煙草を受け取るとすぐさまそれに火をつけた。蜘蛛の巣のことを考えるたびにやけに煙草が恋しくなった。そうして煙草を吸って、自分が何かの記憶を欠落していることだけを実感する。埋まらない穴を煙で埋めるように、煙草を吸った。

 バスへ戻る途中、ふと足を止めた。大観園内に植えられた桃の木に身体を預け、そこでしばらく時間を潰した。気温も高くなく、淡い日差しによって作られた薄い日陰の下で、大観園の広々とした風景をただひたすら眺めた。

 人影がこちらに向かって歩いて来ているのが見えた。それが誰かを見分けてから、良秀は今からこの場を離れてやろうかという反骨心が沸いたが、こちらに向かってくる彼にとっては知らぬ話だろうと思うと馬鹿馬鹿しくなって辞めた。

「良秀さん、こんな所でどうしたんですか」

 シンクレアは良秀の寄りかかる木の近くまで歩み寄ると、日差しの下に足を止めた。良秀が視線をほんの少し下げれば、少年らしさの残る顔立ちが目に入る。イシュメール達が見たという、未来からやってきた彼はどんなものだったのだろうか。

「煙草が切れた」
「ああ……

 シンクレアの視線が煙草に向けられた。それから、シンクレアは来た道を振り返り指差して言った。

「昼食をいただけるそうですよ。バスの近くに用意してもらってます」
……そのうち行く」
「食欲、ないんですか?」
「別にそういうわけじゃない」

 相変わらずシンクレアの視線は饒舌だ。僅かな機微だけで相手の意図や違和感を悟ることができる良秀からすると、それは過度でうるさいくらいだった。
 心配しているのだろう、窺うような瞳の動きを見て、よくもそんな表情豊かに感情を表現できるものだと感じる。感心と共に同時に煩わしさがあった。他人に心配されるのはあまり慣れていなかった。

 そもそも、いまの自分が考えている事柄の一つはお前の事じゃないか。彼からしたら理不尽だろうが、不満を感じる。そこで疑問を抱いた。彼は手紙のことを知っているのだろうか?

「シン。イからお前の話を聞いたか」
「え? ああ、煙戦争に参加した僕のことですか?」

 あまりにも短く足りない言葉でもシンクレアには意図が伝わり、良秀の言葉を理解した。そのまま良秀は話を続ける。

「そうだ。そいつが残したもんだ」
「残したもの……?何ですか?」

 シンクレアは不思議そうに首を傾げて尋ねたが、良秀はそれには答えずに紫煙混じりに息を吐き出した。

「じゃあいい」
「えっ!?き、気になるんですけど……
「知らなくていい。他の奴にも聞くなよ」
「ええ……!?」

 イシュメールに尋ねられたら面倒なことになるかもしれない。あの元航海士は慎重に見えて重要な事をあっさりと喋ってしまう気がする。あの手紙の内容を知られると面倒な気がした。

……どんな物を残したんですか?」
「気にしなくていい」
「そ、そうですか」

 シンクレアはやたらと気にして聞き出そうとしてきたが、良秀は一切答えなかった。言ったところで大した内容だと受け取られないかもしれないが、手紙の一部分がどうしても気になる良秀は、シンクレアに伝える気にはならなかった。
 良秀から回答がないと分かると、シンクレアは最終的には諦めたようで、別の話題を口にし始めた。彼と他愛のない話をした後、良秀はようやく木にもたれかかっていた身体を起こす。バスへと歩み出した良秀を追いかけるようにシンクレアも後に続いた。



 日が暮れるまで良秀は自室に籠った。燃えかけた床板の上に腰を下ろし、太刀を手に持って眺めたり、鞘に刻まれた文字を指で読み取った。それ以外の長い時間は、瞑想のように無心でいることに努めた。
 日が暮れたことにすら気付くことはなかった。来訪者が扉を叩く音が聞こえて、その扉を開けてやった時にようやく外の世界が暗がりに包まれていいると知った。

 部屋に訪ねてきたシンクレアは良秀の様子を伺ってから、来訪の理由を伝えた。

「そろそろ食事の時間ですよ」
「お前はいつから召使いになったんだ?」
「別にそういうのじゃ……

 冗談混じりに良秀が尋ねると、シンクレアは穏やかに笑った。

「ただ、僕が気になるだけです」
……

 思わぬ言葉に脳裏にあの手紙の内容が思い浮かぶ。良秀は口を開いてから、言うべき言葉を何とか探してから声を発した。

……飯は後で食う。先に行ってろ」
「そう言うと思ったので……
「?」

 シンクレアが手を掲げた。彼が持っていたのは二本の瓶だった。

「せめて何か飲みませんか」
「中身はなんだ」
「大観園でよく飲まれてるジュースだそうです。せっかくなのでどうですか?」
「ふん」

 扉を広く開けて入るように促した。シンクレアはおずおずと中へと入る。

「適当に座れ」

 室内に客人用のまともな椅子はなかった。端に寄せられていた、作業台用の木製の質素な椅子を引っ張り出すとシンクレアの前に置いた。
 良秀はベッドに座る。シンクレアから瓶を受け取ると蓋を開けた。

「もう数日したら、H社を発つそうですよ」
「そうか」
……長居したので少し寂しいですね」
「ふん。ここの空気は鬱陶しい」
「はは……、」

 良秀は瓶を煽り、中身を口にした。シンクレアはその様子をじっと見つめている。相変わらず雄弁な視線に、良秀は気付かないふりをした。おおよそ何か他に言いたいことがあるのだろうが、それについては聞く気になれなかった。

「良秀さん。蜘蛛の巣での戦いで……
………

 意を決した様子でシンクレアが口を開いた瞬間、彼の腹が切なそうに鳴った。

…………
「腹が減ってたのか」
………い、いえ」

 シンクレアは顔を赤らめた。どうやら空腹を我慢してここに来ていたらしい。

「夕飯の支度はできているんだろ。もう行け」
「でも」

 先ほど言いかけた言葉やここ数時間の振る舞いを見るに、先日の戦いについて気にかけているのだろう。空腹を我慢してまで、自分はそのような心配をかける相手ではないという呆れを感じた。

「後で行くから、お前はもう行け。……何が気になるのかは知らんが、俺を心配してるなら無用だ」

 良秀が刀の方へと視線を向けると、シンクレアも同じようにそちらを見た。刀を抜けば記憶を失う。蜘蛛の巣での戦いで良秀は何かを失ったが、それが何だったかはもはや覚えてはいなかった。
シンクレアにも意図が伝わったらしい。何と言うべきか考えあぐねているのか、しばらく俯いてから彼は口を開いた。

「ちゃんと後で来てくださいね」
「分かってる」

 後ろ髪を引かれる様子を見兼ねて良秀は適当に約束してやった。食欲がない様子だと重ねて指摘されてようやく、あまり気が向かないことに気が付かされる。

 シンクレアを部屋から送り出してから、棚の上に置いていた手紙を手に取る。折り畳まれたままのそれを見下ろしながら、胸の奥に行き場のない感情が渦巻くことを感じ取った。

 蜘蛛の巣の全てを焼き払い、捨ててきた。家を出てきた時と同じように、リアンを再び斬り伏せた。生まれてから長らく住んでいた部屋も、昔はよく訪れた屋上も、灰に帰してしまった。そして、「何か大切なもの」を失い、力を得た。それが、寄る辺ない不安と化していた。

 息を吐き出し、手紙を元の場所に戻す。シンクレアが座っていた椅子に腰掛けて、時が過ぎるのを待った。目を瞑るとシンクレアの姿が脳裏に浮かんだ。一瞬、彼に傍にいて欲しいと願い、同時にこんな姿を見られたくないと思い、否定した。



 リンバス・カンパニー本社襲撃によって進捗は緩やかであったが、H社からの出発の日は確実に近付いていた。
 囚人達には手が空いていれば本社の修復に向かうようにと通達されており、用事がなければ大半の囚人がそこに向かっていた。しかし良秀は相変わらずそれには参加せず、大観園をあてもなくほっつき歩くばかりだった。

 その日、良秀が他の囚人に出会ったのは、日が暮れてからだった。遠くからでも目立つオレンジ色の髪色は、夕日の色に溶けこんでいるかのようだ。

「良秀さん。どこに行くんですか?」

 イシュメールは両手で大きな箱を抱えていた。中身は大小様々なサイズの送電用のコードであり、おそらく本社の修繕に使われるのだろう。良秀はイシュメールと向かう方角が同じだと知り、彼女と歩幅を合わせて歩き始めた。

「バスに戻るところだ」
「ああ、そうなんですね。最近夕食時に見かけないので、別のところで食事しているのかと。今夜は来ますよね?」
「気が向いたらな」

 良秀は億劫さを誤魔化すために煙草を口にやった。イシュメールはさほど気にした様子もなく荷物を持ち直す。その横顔を見て、良秀はとある疑問を確認したくなった。

……そういえば、お前の寄越した手紙があっただろ」
「ああ、シンクレアさんの」
「お前は読んだのか」

 わずかに緊張を感じたが、イシュメールは不思議そうに首を傾げた。

「? いえ、流石に他人の手紙を勝手に読むような非常識なことはしませんよ」
……ふうん」
「シンクレアさんも教えてくれなかったので、私は内容も知りません」
「は?」
「何ですか?」

 良秀は愕然として足を止めた。吸いかけの煙草が指から零れ落ちる。イシュメールは良秀の顔と落ちた煙草をそれぞれ見てから、困惑した顔をした。

「何か問題があるんですか?」
「あいつは読んだのか?」
「未来の自分とはいえ、ご自身が書いた手紙ですから、シンクレアさんも読みましたよ。その上で、私から渡してほしいと言われたので……

 先日のやりとりが脳裏に浮かんでは消えていった。
 あいつはあの手紙を読んだ上で素知らぬ顔をしていたのか?どんな気持ちで目の前に現れたんだ?あの手紙を渡しても問題ないと判断したのか?
 頭の中に浮かんだ疑問により動揺したが、良秀は数秒後には冷静さを取り戻した。あの手紙を深く読み解いているのは自分だけかもしれない。字面通り読めば、あれはただの思い出を語った手紙に過ぎない。

……分かった」
「中に何が書いてあったんですか?」
「ただの同僚の近況報告だ」

 地面に落ちた煙草を拾い上げる。らしくもなく動揺して、蓄積した疲れが実感として襲ってきた。
 シンクレアがどう解釈したにせよ、手紙の存在について知らぬふりをしたのは事実だ。素知らぬ顔で一芝居打ったあの少年をどうしてやろうか。良秀は面白くなさを抱きながら、そんなことを考えていた。

 その夜、夕食の場に久しぶりに現れた良秀を、ダンテ達はそれが数日ぶりだということをまるで気付いていないかのように自然に受け入れた。夕食は、メフィストフェレスの近くにテーブルが設置され、シーチュンの指示によって用意された食事が並んでいた。囚人達はそれぞれ好きな場所に椅子を置いて腰掛けたり、テーブルをあちこち移動して立食する者もいた。
 ロジオンは良秀の隣に腰掛けて、相変わらず何かしらの食べ物を皿いっぱいに乗せていたが、美味いものがあれば食べるように促した。それが彼女なりの心配と励ましと分かっていたから、良秀はなるべくその提案に沿って食事を摂った。

 シンクレアは離れた席に座っていた。そちらを見やると、彼と目が合う。良秀は思い切り睨んでやったが、普段の彼女の不遜な態度からすると日常的なものでしかなかったのか、シンクレアは不思議そうに笑うだけだった。

 宴会のような夕食の時間が終わり、良秀はすぐに件の人物を追う。メフィストフェレスに戻ろうとしていたシンクレアを呼び止めた。

「おい、随分と名優だな」
「え?」
「お前、知ってたんだな?」
「あ……手紙の事ですね……?」

 シンクレアは少し気まずそうな顔をして頷いた。追及に対して言い訳をするかと思っていたが、意外にもシンクレアは素直に頷いた。

「知らない振りをするとはな、どういう魂胆だ?」
「す、すみません……良秀さんはどういう意味に捉えたのか知りたかったんです」
「ほお?」

 シンクレアはその場を少し見渡してから、「少し歩きませんか」と提案した。
 すっかり日が落ちた大観園は、シーチュンが家主となったとは言え、どことなくひっそりとしていた。

「あの……知らないなんて言ってすみません。貴方が未来の僕が書いた手紙をどう読み取るのか、分からなくて」

 良秀の顔色を伺うようにシンクレアは言った。良秀は彼がこれから始めようとしている話が何なのか図りかねて、曖昧に相槌を打った。

「それに、戦いの後だったので、貴方にこんな話をするのも違う気がして。でも……僕の話を聞いてもらえますか?」
……さっきから聞いてる」
「あ、あはは、ですね。すみません」
「数日前から俺を気にしていたな。……手紙の反応が知りたかったのか?」
「それもそうですけど……。手紙を読んで考えていたんです。僕にも何かできないかなって」

 シンクレアの視線が一度良秀に向けられる。良秀からの返事を求めていた訳ではなく、彼はそのまま続けた。

……未来の僕は、薬指との戦いで仲間を守ることができました。僕は……その力に頼るだけで、戦うことも出来ませんでした」
……

 良秀は黙ってその言葉を聞いていた。シンクレアの力は、未来のものであろうと彼自身のものだ。良秀はむしろ、戦いという普段のシンクレアなら遅れを取る物事に関して彼が仲間を窮地から救ったと考えていた。
 だが、シンクレア自身はそう思わなかったのだろう。彼の語り口には、未来の自分自身といまの自分とを分けた思考が見てとれた。

「それに僕は良秀さんの過去も、あの日どんな戦いがあったのかも知りません」

 彼の言う通り、今回の作戦では各チームが親方を撃破し、不完全なマルクトの能力によってリアンを討ち取ることになっていた。離れた場所で戦っていた囚人達は、戦闘にこそ参加はしたが意識はなく、良秀と──彼女が失った者を目にすることはなかった。
 だが、ヒースクリフがバットに文字を刻み直したのと同じように、良秀の鞘に刻まれた字が変化したことを知りはしても真相を掘り起こすような真似をする者はいなかった。それがバスに乗った囚人達の適切な距離だったからだ。
 シンクレアも同様の立場だった。良秀が何を失ったのか、刀に何の変化がもたらされたのか。彼は事細かに聞くつもりはなかった。

 ふと生暖かな風が強く吹きつける。シンクレアの前髪が翻り、月明かりに照らされた白い額が露わになる。
 シンクレアは真剣に、しかし、なんてことはないような軽やかな視線を向けて、今一度良秀に向き直った。

「未来の僕が戦いで役に立てたなら、いまここにいる僕ができることはなんだろうって考えていたんです。それで……良秀さんの傍にいようと思ったんです。いまの僕なら、貴方の困り事を助けられると思って……

 シンクレアは照れくさそうに笑う。彼がここ数日気にしていたことを概ねを理解し、良秀は納得した。
 あの手紙はシンクレアにとってもただの同僚の近況報告ではなかったのだろう。二人の間に残された手紙は、他人から見ればなんてことのない内容で、曖昧な表現と意味を持って存在していた。しかし、二人は同じように手紙を読み、自分の立場を顧みていたことを良秀は理解した。

「ここ数日、やたらと視線を感じたのはそれか」

 良秀は納得を持って言った。そして、シンクレアの言葉を受け止めながら考えた。本来ならば喜び、感謝すべき場面なのかもしれないが、良秀にはまず先に自分自身への失望のような感情を抱いた。

 今回の戦いにおいて、シンクレアは仲間を守り抜いた。対する自分はどうだっただろうか?
 シンクレアは傍にいたいと申し出たが、そう言われる以前から自分は彼の存在を渇望していたのではないか?

 ごまかし続けた自身の感情に、弱さに、良秀は失望した。それは自分の立っている場所が揺らぐような感覚があった。そして一方では、自分が本当に求めているものを認めざるを得ないことを薄々感じてもいた。

「お前が……

 草木が風に揺れ、遠くで気まぐれに鳥が鳴く声が響いた。良秀は開いた口を閉じ、それからもう一度何かを言いかけたが、それは言葉にならなかった。

……言いたいことは、分かった」

 どうにか捻り出したであろう言葉に、シンクレアは頷いた。良秀が他人の手を素直に取るような性格でないことは分かっていた。
 むしろ、良秀がシンクレアの言葉に深く考え込んだことすら意外であった。

「突然、こんな話をしてすみません」
……

 シンクレアが見つめた先にある良秀の端正な横顔は年齢を曖昧にさせていた。月光に艶やかに照らされた黒い髪と、節目がちに視線を落とす長い睫毛はどことなく幼く、表情も相まって子供のようにも思えた。

……良秀さん」
……なんだ」
「あの手紙、大事に持っててくれたんですね」
「うるさい」

 棚に置いたままだったのを見たのだろう。シンクレアは笑顔を浮かべて指摘したが、良秀は不機嫌そうに睨みつけた。
 良秀の葛藤など気付かぬまま、シンクレアは無邪気に笑っていた。その笑みを横目で見ながら、良秀はここ数日自分が彼に振り回されていることに面白くなさを感じるのだった。

 その後メフィストフェレスに戻ると、良秀は自室に置いたままにしていた手紙を手に取った。
 未来のシンクレアは翻訳を懐かしんでいる様子であり、同時にそれらの行為が終わりを迎えるものであるとも忠告していた。

 良秀はここ数日のシンクレアとのやりとりを思い返した。彼に知らぬふりをされたまま手紙を読み、食欲がないことや蜘蛛の巣での戦いに疲れた心を知られていた。気付かぬうちにシンクレアは自分を掌握し、まるで自分の秘匿した部分を誰よりも知り、己に伝えているかのようだった。
 シンクレアの柔らかな視線は耐え難かった。けれど、その終わりがあることを知ると惜しい気持ちが湧いた。

 折り畳まれた紙を開く。筆跡は見知ったものだったが、書かれた言葉は見知らぬ人からのものだと感じた。けれど、先程のやりとりを思い出せば、シンクレアがこの未来に進む可能性も分からなくはなかった。彼もいつまでも未熟な若者ではないのだ。LCB部門の囚人達がいつか散り散りになることは想定内ではあったが、終わりがいつか訪れることを改めて実感するには十分だった。
 良秀は紙を持ったまま瞼を下ろす。遠い未来に想いを馳せ、己が離れがたく思っていることを感じ取った。



 良秀があてもなく大観園を徘徊する頻度も少なくなった頃。良秀は久しぶりにメフィストフェレス内に留まっているところをダンテに見つかった。彼との会話は言葉数少なかったが、久しぶりに隣に腰を落ち着けると、かつての日常が戻ろうとしていることを感じた。

〈今回も黄金の枝を無事に回収できたね〉
「ああ」
〈どうだった、良秀?〉
……。ま、少なくとも今回の作戦は退無怠無いや、そこそこオモロだった」

 珍しく良秀が難しくない言葉使いをしたので、ダンテは何も問題はなく内容を理解することができた。しかし、通りすがりに会話が聞こえたのか、シンクレアが親切そうな笑みを浮かべながら会話に加わった。

「あ、今回は退屈でもなく、だるくも……あれ?」

 解説されるまでもなく、言葉は既に分かりやすく表現されている。そしてダンテには、その若者らしく短縮された言葉がかつてアラヤの教えたものだと知っていた。当の二人には知る術はなかったが、それを伝える必要もないと思ったダンテはただ二人の会話の成り行きに任せることにした。

「わぁ、良秀さん。自然に言葉を縮められるようになったんですね」
……

 シンクレアは良秀の変化に喜び、笑ってそう言った。横でやりとりを見ていたダンテからすれば、確かにそれは喜ばしいことのようにも思えた。アラヤは自身の習った短縮語を良秀に教えていたのだ、それが良秀の中に残り続けるのは決して悪い変化ではないだろう。
 だが、良秀は少し首を傾けて彼を見下ろし、不満があると言わんばかりに眉根を寄せた。

「面・無」
「え?」

 その時良秀は数日ぶりに、腹立たしさと言うべきか、不機嫌な気持ちを明確に抱いていた。
 自然に略された言葉は美しかった。記憶のない良秀にとっても、何故かそれは悪くはないと思えた。けれど、翻訳不要な言葉ではシンクレアが解説してくれることもないだろう。それを彼に喜ばしく思われるのは心外だった。
 良秀は、意図の伝わっていないであろうシンクレアを見据えて言った。

「こっちがいい。元に戻す」
「いや……なんで褒めた途端に……

 振り払うようにその場から歩き出す。呆然としていたシンクレアだったが、慌てて良秀を追いかけた。良秀は駆け足で付いてくるシンクレアの存在が嬉しくて、自分の機嫌があっという間に凪いでしまうのを感じる。

……まさか僕が褒めたからじゃないですよね?ねっ?」
「言っただろ。面・無」
「ええ……?」
………

 立ち止まり、振り返ると、不思議そうな顔をしたシンクレアと目が合った。

「お前が……

 あの晩に言えなかった言葉は、自分のちっぽけなプライドに邪魔をされていたのだと、そこでようやく認めることができた。

「お前がいないと不便だ」
「え?」

 良秀の言葉に、シンクレアは初めは驚いた顔を見せたが、一呼吸おいて、それがどういった心情で発せられたのかを悟った。本当に不便だと感じるのなら、先程のように伝わりやすい短縮語を使えばいい。そうはしないと良秀は言っているのだ。

 シンクレアは思わず顔を綻ばせた。思えば、良秀独自の短縮された言葉を聞くのは久しぶりだった。そして、ふと手紙の内容を思い返していた。

 それに対して、良秀は静かに煙草を口に咥えて、ふぅと息を吐いてからシンクレアをまっすぐに見据えて言った。

「傍にいて、俺の言葉を翻訳しろ。それだけだ」

 その言葉に全てが込められていた。シンクレアは、それだけではないことは言わずとも理解していた。言葉に出来ない部分に良秀の寂しさと愛慕が隠れていることは、何の言葉も介す必要もなく悟ることができた。

「また、貴方の言葉を解読できますね」
……フン」

 良秀は、静かに微笑んでいるシンクレアを見つめた。彼の瞳は何よりも雄弁で、心から喜んでいることが伝わってくる。良秀はその輝きに一瞬、魅入られた。

 故郷は燃え尽き、大切な誰かを失い、この若者との関係もいつか終わるのだろう。それでも彼が変わらず傍にいてくれること、通じ合えることへの安堵がいまはあった。
 目の前にある刹那は、まるで永遠に変わらぬもののように見つめることができるはずだ。良秀は戦いの傷から静かに立ち直り、そしてシンクレアに向けて、彼と同じように愛を込めた視線を返すのだった。




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