もち粉
2026-03-23 19:18:37
12593文字
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婚約破棄してもらうため浮気を画策しましたが、何一つうまくいきません。(前編)


カブミス
政略結婚 婚約破棄を目論むミスさん
※名前のあるモブが出張ります


正式タイトルは「婚約破棄してもらうため浮気を画策しましたが、何一つうまくいきません。――悪役令嬢に扇子はつきものです――」なんですが長すぎて入り切りませんでした



西方の使節団は、季節風の恩恵を受け、想定よりも幾日か早くメリニへと降り立った。

占いが弾き出す婚姻承認の吉日はまだ先であり、正式な調印式はそれを待たねばならない。
​だが、形式に縛られぬ「友好の証」としての私的な会合は、その限りではなかった。

――要するに、品定めである。

エルフ本国の使節団を招く茶会は、ミスルンの主催で、彼の屋敷において執り行われることとなった。メリニ側からの出席者は、婚約者であるカブルー、外務局代表のジュリエッタ、そして数名の補佐官。


当日、開始時間よりも随分と早く現れた婚約者にミスルンは目を瞬かせた。

「準備でお忙しいところ、早く来てしまって申し訳ありません。
……貴方と、少し話したくって」
「か、構わない。準備はすでに万全だ」

あまりに眩しい笑みを向けられ、正視できずに外の景色を眺めるふりをする。そんなミスルンの背をそっと包み込むように、カブルーが背後に立った。

​「聞きましたよ、外務局での一件。ジュリエッタを諌めてくれたそうですね」

​窓枠に置かれたカブルーの腕が、ミスルンの顔のすぐ横にある。至近距離から漂う石鹸の匂い。ミスルンは緊張で指先までこわばらせた。
静まれ、心臓。せっかくのカブルーの声が聞き取れない。

​「異動してからの彼女の態度については、いくつか芳しくない報告も受けていたんです。でも、この国で女性があれだけの地位に就くのは初めてのこと。周囲もどう接したものか、及び腰になっていて……

カブルーの体温が空気を通して背中に伝わってくる。

もしも今、すべてを投げ出して振り返り、彼の胸に顔を埋めたなら。カブルーは私を抱きしめ返してくれるだろうか。

……今はまだ、形式上だけでも私が彼の婚約者なのだ。せめて、一度だけでも。
ミスルンは縋るような思いで、そっとカブルーの方へと向き直った。

​「あれでは、ジュリエッタの評判も落ちてしまう。せっかく有能な女性ですからね。俺も、ずっと心配していたんですよ」

感謝を込めて語るカブルーの声。
その響きに含まれた「心配」という言葉の重みに打ちのめされて、ミスルンは気づかれぬよう、上げかけた腕を力なく下ろした。

……私は、当然のことをしたまでだ」

そう答えた声は、思ったよりも平静だった。
胸の内で荒れ狂う虚しさを悟られないよう、意識して息を整える。

「ジュリエッタは、能力のある人間だ。もっと経験を積ませれば、よい上司になるだろう」
「ええ。だからこそ、今日の茶会も彼女に出席してもらうことにしました」

カブルーはそう言って、少し困ったように笑う。

「使節団の前に立たせるのは、正直迷いました。でも……メリニもこれからは女性の社会進出を真剣に考えていかなくては」

​腕を組んだカブルーが、どこか自嘲気味に苦笑する。

「男女同権のエルフから見たら、この国の女性官吏の少なさは奇異に映るでしょうね。
元々なり手が少ない上に、結婚すれば家庭に入ってしまう人がほとんどなんです。
……でもジュリエッタは家庭に収まるような人ではないので、それもあって貴方の結婚相手には、俺が立候補したんですよ」

カブルーは組んだ腕から拳を上げ、口元を隠した。そのまま、反応を窺う視線をミスルンへ投げる。

(ジュリエッタを、自由に羽ばたかせてやりたかったのだな)

……そろそろ、他の客人たちが到着する」

目を伏せたミスルンがそう告げると、カブルーは名残惜しそうに一歩引いた。

「ええ。では、のちほど」

​遠ざかっていく背中。その足音が完全に消えるまで見送り、ミスルンは胸の奥で静かに誓う。

(これから私は――お前が愛するジュリエッタを、徹底的に貶めてみせる)

だからお前は、傷心の彼女を優しく労ればいい。
お前なら、簡単だろう?



ウェイティングルームに集ったメリニ側の招待客の中で、ジュリエッタの姿は一際目を引いた。

ミルク色の肌に、深みのある緑のドレスが映える。昼の茶会という場をわきまえた、露出を抑えつつもメリニ最新の流行を取り入れた斬新なカッティング。品位を失うことなく、彼女の美しさを際立たせていた――だが。

「ジュリエッタ・キャドゥ」

背後から突き刺さるような硬い声に呼ばれ、振り返った彼女の表情がわずかに和らぐ。

「ミスルン様。先日は――

見ればミスルンは、茶会が始まる前だというのになみなみと紅茶を注いだカップを手に佇んでいた。場違いな光景に、ジュリエッタが言葉を途切れさせる。
紅茶をこぼさないように踵を鳴らすのが難しかったミスルンは、代わりに「ふん」と鼻を鳴らした。

「これだから、庶民の出は」
ミスルンは冷ややかに言い放った。

「そのような趣味の悪い装いで、わが国の使節殿に目通りするつもりだったのか?――動くなよ」

ぱしゃり、と。
緩やかな弧を描いて放たれた琥珀色の液体が、ジュリエッタのドレスの裾へまだらに広がった。

……っ!」
「ミ、ミスルン様……!」

会場の空気が一瞬にして凍りつく。ミスルンの小さな手がカップを卓に置く音だけが、思いのほか大きく響いた。

青ざめるジュリエッタ。視界の端では、カブルーが衝撃に弾かれたように立ち上がるのが見えた。
チクリと痛んだ胸には、気づかないふりをして、ミスルンは尊大に腕を組んで顎で出口を指した。

「私が用意したものがある。今すぐ着替えろ。――恥の上塗りをする前にな」

​ジュリエッタは唇を強く噛みしめながらも、深く一礼した。
……承知いたしました」
その声には、怒りよりも深い混乱が滲んでいた。

ミスルン宅の侍女たちが、影のように音もなく入室し、ジュリエッタを連れ去っていく。残されたミスルンに対し、周囲からは戸惑いと、隠しきれない非難の視線が突き刺さった。

……やった)

これでいい。
これで、私は嫌われる。

「使節団の方々も先ほど到着された。ジュリエッタ嬢が戻り次第、開会とする」

ひらりと扇子を開くと、それだけ言い残して部屋を出る。
カブルーがどんな顔をしていたかは――見ることが出来なかった。



別室で、侍女たちの鮮やかな手つきによって着替えさせられながら、ジュリエッタは混乱の渦中にいた。

​(ミスルン様――一体、どうして?)

​女だてらに出世して、この地位まで這い上がった。けれど、周囲を見渡せば同年代は皆、家庭を持ち、守るべきものがある。
焦っていた。有能であらねば居場所を失うと、自分で自分を追い詰めすぎていた。

そんな私を​、あの日厳しくも温かく導いてくださった御方が、今日はなぜこれほど理不尽な振る舞いを。

……いえ、待って。
​(あのお茶、熱くはなかったわね?)

​思い返せば、ミスルンがカップを手にしていた時、そこには湯気ひとつ立っていなかった。かけられたのもドレスの裾のみで、肌には一滴も触れていない。

​(本当の嫌がらせなら、もっと熱いものを、顔にでも浴びせるはずではないかしら?)


その疑問は、エルフの使節と対面した瞬間に氷解した。
ミスルンが用意させたドレスは、西方の古き良き正統な意匠を完璧に踏まえたものだった。色、布地、身分によって厳しく規制のある装飾――すべてが、エルフの美意識における「正解」そのもの。

それを見たエルフ使節の代表が、驚きに片眉を上げた。
「ほう……トールマンの中にも、まともな感性を持つ者がいたのか」
……

答えに窮して沈黙を守るジュリエッタに、使節は皮肉な笑みを浮かべて続ける。

「いや、失敬。先ほど遠目に貴女を見かけた時は、随分と……風変わりなドレスをお召しでいらしたものでね。
だが、辺境の新興国にしては――弁えているじゃないか」

ジュリエッタの胸に、理解の稲妻が走った。
……そういう、ことだったのね)
先ほどの一件は、自分を辱めるためではなかったのだ。

彼女は背筋を凛と伸ばし、胸に片手を添えて、これ以上ないほど優雅な微笑みを湛えた。
「我がメリニへようこそ、尊きお国よりお越しの使節殿。
滞在中、精一杯のおもてなしをさせていただきますわ」

​その洗練された立ち振る舞いに、使節は満足げに深く頷いた。



お茶会が終わり、すべての招待客を見送ったミスルンの元へ、一台の馬車が戻ってきた。
帰路についたはずのカブルーとジュリエッタが、同じ馬車に乗り合わせて戻ってきたのだ。

​仲睦まじく並んで降りてくる二人を目にした瞬間、ミスルンの心臓がずきりと痛んだ。

(もう、これほどまでに距離が縮まって……

しかし二人はミスルンに駆け寄るなり、弾んだ声で口々に礼を述べ始めた。

​「ミスルン様、本当にありがとうございました……!」

ジュリエッタは胸元に両手を添え、切実な声音で続けた。
「装いは、単なる身だしなみではありませんわ。あの時、あのままの姿で席に着いていれば、私は無防備な裸身で戦場に立つも同然でした」

その言葉に、隣に立つカブルーが重々しく頷く。

​「もしあのまま不作法を晒していれば、発言の内容がいかに正当であろうと、私個人だけでなくメリニ全体の見識までが泥を塗られていたでしょう」

​ジュリエッタは、感激に瞳を潤ませ、情熱のままに言葉をほとばしらせた。

「ミスルン様は、それを一瞬で見抜き、しかもご自身が悪者になってまで、私が恥をかかぬ形で正してくださった。
後世の歴史家たちは必ずや記すでしょう。あの茶会の午後、無知蒙昧な私という原石を砥石で研ぎ澄ました一人の偉大なる御方が存在したことを。ええ、それはメリニ外交の夜明けであったと……!」

ジュリエッタの壮大な賛辞に、カブルーが今度は少しばかり首を傾げながらも、あいまいに頷いた。
――わかるのか? カブルー。

ミスルンは、彼女の溢れる言葉と情熱に戸惑うばかりだ。
ただ、最大限の感謝と称賛を捧げられていることだけは理解できた。

なぜ、そこまで。

困惑するミスルンへ、そっとカブルーが歩み寄る。

「ありがとうございます」
深く、真摯に頭を下げた。

「女性高官という前例のないメリニでは、外交の場での女性の装いや、そこでの暗黙の了解について、共有された知見がなかった。
……本来、そこまで気を配るべき立場だったのに。俺の不勉強です」
「いいえ、いいえカブルー様、私が自ら備えておくべきだったのです。本当に……ミスルン様がいらっしゃらなければ、今頃どうなっていたことか」

​一息にまくし立ててから、ジュリエッタはハッとしたように姿勢を正し、着替えたばかりのドレスの裾を優雅に引いてカーテシーを捧げた。

「ミスルン様。貴方のおかげで、私は今日、『国家の顔』として立つことができました」
「本当に、ミスルンさんのお陰ですよ」

……違う)

確かにジュリエッタが着ていたドレスはエルフ好みではなかった。だがお茶会ならば非常識というほどでもない。
逆にミスルンの用意したドレスは、私的な会には格式張りすぎて野暮ったかった。
単にあの使節がエルフとしてもかなり保守的な人物だっただけだ。

(意地悪を、したつもりだったのに)

嫌われるどころか、評価のみが石垣のように積み上がっていく。

(悪役令嬢とは、嫌われるものではないのか?)

混乱だけを胸に残したまま、傾き始めた午後の日差しは、残酷なほど美しく庭園を煌めかせている。

その光の裏で、運命は静かに息を潜め、すべての因果を階段へと集結させるべく、ゆっくりと歯車を回し始めていた――