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史加
2026-03-19 00:20:44
20996文字
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【5/5サンプル①】セントエルモの灯に祈る
フリンズ+イルーガ/2026年5月5日スパコミ頒布予定サンプル
1
2
3
どうかいつまでもまばゆいままで
やるせなさと悔しさ、そしてひと握りの罪悪感が胸の奥を焼いている。
「
……
ああ、どうして
……
どうして
……
!」
壮年の女性の嘆く声が、イルーガの若く健やかな心臓に突き刺さった。普段なら誰かのためにとたやすく伸ばすことの出来る手も、今だけはだらりと下がったまま、耐え忍ぶように握り締めることしか出来ない。張りのない、くすんだ頬を落ちる涙と、慟哭する女性の腕に抱かれたランプと帽子、左手の薬指に鈍く輝く古めかしい指輪、そして一通の手紙をただ見つめるのが精一杯で、イルーガは立ち尽くしていた。
ピラミダに駐在しているライトキーパーの中には、当然だがナド・クライの別の地域に家族が住んでいる者もいる。ゆえにライトキーパーは定期的に遺書を用意してマスター・ライトキーパーに預けておき、「もしも」のときはだれかが届けに行くのが決まりとなっていた。熟練のライトキーパーたちによるとかつてはそういう決まりなどなかったのだが、十年前の戦いを機に、イルーガの義父であるニキータがそれを半義務的なものにしたのだという。それだけあの戦いで失われた命は多く、残された家族に届けられたものはごくわずかであった。苦い記憶を礎につくられた決まりは、まだ若いイルーガの双肩にずっしりとのしかかっている。
なりふり構わず泣き続ける夫人を前に、かける言葉はなにひとつ見つからない。ライトキーパーは皆同じ誓いを胸に戦場に立ち、日々ワイルドハントと戦っているが、彼らの最期がどれほど立派であったかを語ったところで遺族の胸には刃として刺さるだけだろう。
遺品と遺書を届ける以外に何も出来ることはないのか。否、そもそも自分がもっと強ければこうして遺品を届けることもなかったのではないか。後悔と自責の念が込み上げてきて、イルーガをただ俯かせる。暗澹たる感情が空まで滲み出してしまったのか、遠くでごろごろと雷の鳴る音が聞こえた。
鈍色に覆われた空からぽつ、と冷たい雨が降り出す。目の前の女性に声をかけて、せめて雨に濡れないよう家の中に入ってもらわなければ。停滞していたイルーガの思考がどうにか回り出したとき、ふっと頭上から影が落ちる。
瞬く間に強くなった雨足の、ばたばたと布地を打つ音がどこか遠くに響いた。
「失礼。手紙は無事ですか」
普段耳にするよりもどこかやわらかな声が夫人へと尋ねた。
ぼろぼろと泣いていた彼女がはたと我に返ったように顔を上げ、抱きしめたままの手紙を見つめたあと、緩慢に頷く。
「よかった。雨に濡れてインクが滲んでしまっては、読めなくなってしまう可能性がありますから」
冷雨から守るように大きな傘を夫人とイルーガのほうへ傾ける紳士の声はやはり静かで、けれど不思議と雨音には掻き消されぬ芯の強さがあった。
数度の瞬きのあと、夫人はそうね、とつぶやく。先ほどまで泣き喚いていたのが嘘のように落ち着いた彼女はふとイルーガを見ると、申し訳なさそうに微笑んだ。
「ごめんなさい、若いライトキーパーさん。
……
いつかこんな日が来ると、わかってはいたんです。けれど
……
これじゃあだめねぇ。あのひとに笑われてしまうわ」
「そんな
……
」
「主人の手紙を届けてくれてありがとう。ランプと帽子まで
……
大変だったでしょう。そちらの方も、お迎えかしら? 風邪をひかないよう、ふたりとも帰りはどうかお気を付けて」
「お心遣い痛み入ります。貴女もどうか、ご主人との最後の時間を穏やかに過ごせますよう」
気丈に振る舞う夫人になんと返すのが正解なのか、向けられた優しさをどう受け取ればいいのか。イルーガが困惑している間に、そのちいさく丸まった背中がトタン屋根の家の中へと消えてゆく。ぱたん、と扉の閉まる音のあと、世界は雨霧に包まれた。
雨が傘を叩く音が絶え間なく響いている。じっとりと湿った空気は冷たい。土のにおいが濃く漂い、イルーガの胸に宿るやるせなさを増長していく。
「坊ちゃま」
普段通りの声が狙い済ましたかのようにイルーガを呼んだ。ただのそれだけで灰色に染まる世界がほんの少しだけ明るくなった気がした。
人々の平和な生活を奪う怪物たちへの憎しみと無力感、そして大切なひとを失ったばかりだというのに他者を責めるでもなく気遣った夫人の優しさに対する困惑と罪悪感で押し潰されそうになっていた心に火が灯る。顔を上げて、ようやくイルーガは隣に立つ同僚
――
フリンズを見た。
月のような金の目が、静かにイルーガを見つめている。
「もうすぐ日が暮れます。今からピラミダに向かうと夜中になってしまいますから、よろしければ僕の家に泊まっていきませんか」
自分から直接イルーガを夜明かしの墓に呼びつけることの多くないフリンズの、珍しい提案だった。
先ほどの件についてイルーガはまだお礼を言っていないし、未だ胸の中にはもやもやとして上手く消化の出来ていない感情がある。それらを整理するためにも、今夜彼と話をして過ごすのは悪くないのかもしれない。
「
……
いいんですか?」
しかし本当にいいのかと、ひとをからかうのが好きなこの男の気まぐれを訝しむように尋ねると、フリンズは微笑んで頷く。
「ええ。こんな雨の中ひとりであなたをピラミダに帰したと知られれば僕がニキータ様に怒られてしまいますから。報告書三枚でいかがでしょう」
報告書、という言葉ではっとイルーガは思い出した。今日は元々亡くなった仲間の遺族に遺品を届けたあと、夜明かしの墓を訪れて溜まっている報告書を出してもらうつもりでいたのだ。
「それはそれ、これはこれですよ。
……
どうやら君が残りの報告書をきちんと書き上げるまで見張ってあげないといけないみたいですね。わかりました、お邪魔します」
義父には帰りが遅くなるかもしれないと伝えているし、闇夜の鶯に所属する仲間たち一人ひとりにはイルーガが不在の間の指示を出してある。だからピラミダに帰るのを急ぐ必要はないと結論付けて、イルーガは遠慮なくフリンズの家で一晩世話になることにした。
手厳しいですねえ、なんてのんびりとした声で言うフリンズが、イルーガに傘を傾けたまま歩き出す。普段は途中途中小走りにならないと開いてしまう距離が今日はずっと並び合ったままで、イルーガとは反対側の肩を覆う外套が色濃く濡れているのに気付くのは、夜明かしの墓の灯台の光がすぐ近くまで見えた頃だった。
「フリンズさんでも、報告書はともかく遺書はきちんと書いていますよね」
ぐつぐつと煮え立つ鍋の中身をかき混ぜながら、イルーガは世間話でもするように尋ねた。
定期的に渡している物資の中から缶詰をいくつか選び、フリンズが昨晩釣って塩漬けにしていた魚と一緒に煮込んだスープは、主にイルーガの腹を満たすためだけのものであるから味付けも何もかもが適当だ。香草をちぎって入れるなど多少の工夫はしているものの、何を作って出したところでフリンズが料理そのものの味に舌鼓を打ってうれしそうにすることがないのを知っている。ただイルーガとともに食事をする時間そのものは気に入っているようなので、 せめて少しでも彼が食べやすいもので、イルーガも腹いっぱい食べられるものを作ることが増えていた。
「おやおや、坊ちゃまともあろうお方がお忘れですか? 僕はしがないライトキーパーである以前に墓守ですよ」
「
……
まさか、書いていないんですか?」
回りくどい言い方にイルーガは眉を顰めて、火を弱くしつつ机に向かうフリンズを見る。その美貌に浮かぶ柔和な笑みは、イルーガが定期的に物資を届けるついでに報告書の提出を求めたときに見るものとまったく同じだった。
「死者の眠りを守る墓守が、置いていく側になると思いますか」
まるで自分は置いていかれる側なのだと、そう言わんばかりの静かな声に、イルーガは最近隠す気がなくなったなと胸の内でひっそり思う。この友人が人間であろうがそうでなかろうが、イルーガが態度を変えることは有り得ないのだけれど、彼の言動に雑さが見えるたびにそれを喜んでいいのかは正直わかりかねることだった。
ライトキーパーの中でもフリンズと一番仲が良いのは自分だろうとイルーガは自負している。ほかのライトキーパーを相手にしたフリンズはもっと徹底した紳士の身のこなしで、それはもう丁寧に他人を寄せ付けないようにするのだ。本当はひとをからかって反応を見るのを好む、まるで童話の中の悪戯好きな妖精のような側面を持つのだとイルーガが他の同僚に熱心に語ったところで、だれもそれを信じてはくれないのが何よりの証拠である。つまりイルーガに対しては他者よりも少しばかり心を開いてくれているのだと、そう勝手に結論付けている。
フリンズの手に握られたペンの進みは悪い。反してその口はよく回る。
「まあ、そうですね。真面目にお答えすると、僕は遺書を書いたことがありません。知っての通り身寄りはいませんし、遺書を残してやらなければならないくらい手のかかる友人もいませんから」
なんてことないように紡がれた言葉が、どうしてかイルーガの胸の奥をひやりと撫でた。
「ただ、彼やあなたのように家族のいる人や、親友、仲間に対して何かを残したいと願う人が、想いを言葉にして綴っておくのは悪くないことだと思います。遺書を読む時間は生前のそのひとと過ごす最後の時間となり、残された人々への慰めになりますからね。もっとも、遺書を書いたひとと遺書を書かれた相手がふたりで手紙を読んで笑い飛ばせるような、そんな日々が訪れるのが一番なのでしょうが」
語り終えたフリンズが、金色の目を静かに伏せる。苛烈な戦場を駆け抜けた経験などイルーガよりもはるかに多い彼は、一体どれほどの命が目の前で散るのを見届けてきたのだろうか。あるいは人知れず散った命を、どれほど見つけてきたのだろうか。
十年前にイルーガはすべてを失ったが、そういう経験をしたのは自分だけではないということをよく理解している。長年ライトキーパーとして戦地に身を置き、だれも知らないところでその身を危険に投じていることの多いフリンズは、ライトキーパーの誓いの誠実さも、その誓いを立てた人の命のまばゆさも、そして儚さも、きっとイルーガより知り尽くしているだろう。
遺品を前に取り乱す夫人に対し冷静で、それでいてランプの火のように寄り添う姿勢を見せた彼を思い出して、イルーガは胸の奥がしくりと痛むのを感じる。あんなふうに振る舞えるよう立派にならなければと思う一方で、自分がそうなるまでにはあと何度仲間の遺書を届けることになるのかと思うと、自分がフリンズのような振る舞いの出来る人間になるのはなんだか違うような気もした。
「坊ちゃま。鍋が焦げてしまいますよ」
閉口するイルーガへと、不意にフリンズが口を出す。言われてみると香ばしいにおいがして、はっとしたイルーガは慌てて鍋の中身をかき混ぜた。
スープはもう十分に煮えていて、これ以上煮込めば魚の身が崩れてしまうだろう。イルーガは火を止めてふたり分の皿を用意する。イルーガが物資を届けに訪れるようになったばかりの頃は食器すらなかったフリンズの家に、あるとき物資と一緒に持ってきて無理やり置いていったものだ。捨てるという選択肢だってあるだろうに、埃をかぶることなく置かれているそれは、すっかりフリンズの家の住人と化している。
心臓の裏側をざらざらと撫でられているような錯覚がまたもイルーガを襲った。
「遺書を書いたひとと遺書を書かれた相手がふたりで手紙を読んで笑い飛ばせる、かあ
……
」
確かにそんな日が訪れるのが一番だろう。フリンズの言葉には同意する。
ただ、フリンズはイルーガのことをその相手にしようとは思ってくれていないのかと思うと、なんだか寂しいような気がした。
――
そんなやり取りをフリンズと交わしたのは、いつのことだったか。そう遠くない過去の話だが、最近というには少し遠い気もする。
「イルーガ」
明かりの灯るピラミダに足を踏み入れるなり、自身を呼ぶ声が聞こえてイルーガはぴたりと足を止めた。冷たい夜風が頬を撫でる感触も、底の厚いブーツが鉄板を踏む音も久しく、やっと帰ってきたのだと安堵を噛み締めていたところだった。
このところイルーガは長期に渡ってピラミダを離れ、ナド・クライをすみずみまで歩き回っていた。月の狩人の一件からずいぶんと時が経ち、ワイルドハントの数はすっかり減って落ち着いたが、アビスとは狡猾で執着深く、完全に絶えることはない。以前と比べるとライトキーパーたちの粒も揃い始め、余力が出てきた今のうちに備えをしておこうと、闇夜の鶯に各地にある潮印石の封印にほころびがないかを確かめ、新たなアビスの発生の兆しがあれば報告するようにと任務が下されたためだった。
部下のひとりにピラミダへの定期報告を頼んでいたので、封印に問題がないことも、アビスの兆候がないこともニキータには滞りなく伝わっているはずである。なのに固い声で名を呼ばれたので、なにかあったのだろうと即座にイルーガは身構えた。
まだ若いイルーガや隊員たちでは見抜けぬ異変を、ベテランのライトキーパーたちが報告書から見つけ出したのか。それともイルーガたちと行き違いでアビスが新たな侵略の兆しを見せ始めた地点があるのか。いずれにせよ長旅で消耗した物資の補充や各報告などの雑務を部下に任せて、イルーガはニキータの元へと向かう。
「
……
ついてきなさい」
息子の無事を確かめたニキータは、沈痛な面持ちのままそう言って歩き出した。大きくたくましい義父の背には、痛みと悲しみが入り交じって滲み出している。ざらざらと心臓の裏側を撫で上げられているような錯覚がして、イルーガはひどく嫌な予感がした。
冬の夜風がひゅうひゅうと音を立てて吹き抜けていく。澄み切った空はなんだかいつもよりも暗い。通りすがるライトキーパーたちはいつも通りの様子で、これから夜回りに行く支度をする者もいれば、交代の時間を迎えてほっと胸を撫で下ろしている者もいる。少なくとも全員が警戒体制を取らせなければならないような、差し迫った状況ではないのだろう。
では何があったのか。どうして自分が呼ばれたのか。考えるうちに、ニキータが足を止める。
そこはイルーガの自宅の前だった。見晴らしがよく、ピラミダの周囲に広がる海や島々の見えるそこで、イルーガは違和感を覚える。馴染み深い景色に、何かが足りない。
「イルーガ。落ち着いて聞いてくれ」
「
……
義父さん?」
既になにかを察している本能に駆られて、どくどくと心臓が嫌な音を立てていた。
寒気がして、背筋を冷たい汗が伝い落ちていく。
ようやく振り返ったニキータは
――
ひどく憔悴しきった顔で、言った。
「
……
フリンズが、亡くなった」
まるでイルーガの知らない国の言葉を言われたようだった。
フリンズ。フリンズという名を持つ、ニキータとイルーガ共通の友人にはひとりしか心当たりがない。それに彼は現役のライトキーパーの中でおそらく一番と言っても過言ではないほどに腕の立つ戦士だ。
そんなフリンズが、死んだ?
嘘だろう、とイルーガは思った。だがこちらを見るニキータの後ろに広がる景色が
――
イルーガが最後にピラミダを発ったときには見えていた夜明かしの墓の灯台の光がないことが、すべてを物語っていた。
「
……
どう、して。どうして、フリンズさんが。何が、あったんですか。まさか、アビスが
……
」
ニキータは頷き、語る。
イルーガが偵察任務のため北部へ向かってすぐの頃、パハ島でワイルドハントが発生した。その規模は月の狩人が軍勢を率いていた頃に劣らぬほどで、ナシャタウンに駐在するライトキーパーをはじめ、ピラミダからも人を派遣して鎮圧を試みたという。しかしワイルドハントの勢いはすさまじく、せっかく成熟し始めたライトキーパーたちの命がまたも刈り取られかねない状況にまで追い込まれた。そこで犠牲を最小に抑えるために名乗り出たのがフリンズで、彼はワイルドハントを夜明かしの墓に引き付けて封じ込め、そしてそのことごとくを「焼き払った」。
ニキータ曰く、その日夜明かしの墓の灯台の光がふっと消えたかと思うと、孤島全体が煌々と蒼白く光り出し、瞬く間に燃え上がったそうだ。蒼炎は一夜の間燃え続け、黎明を迎える頃に鎮まった。状況を確かめるためニキータ自ら夜明かしの墓へ向かい、そしてそこで
――
割れ砕けて煤けたランプと、フリンズの愛槍のみを見つけた。
義父の語る言葉を、とてもじゃないがイルーガは受け入れられなかった。あのフリンズがそんなふうにあっけなく死んでしまうだなんて、想像もつかなかったのだ。だが夜明かしの墓に集められたワイルドハントは消滅し、焼け野原となった孤島にフリンズの姿はなかった。彼がどうにか魔の手から脱して生き延びていないかと、霜月の里のラウマや秘聞の館のネフェルの手まで借りて探したが、ランプの残骸と槍以外にフリンズの痕跡は見つからなかった。いくらいたずら好きな側面を持つフリンズといえども、人を過度に心配させるような嘘はつかない。なにより最終手段だとラウマが連れて来てくれた月神コロンビーナが、夜明かしの墓に残るクーヴァキに触れ、ゆるやかに首を横に振ったことで、その死は確かなものとなったという。そこまで言われてしまえば、それは真実として受け入れるしかないのだろう。
突如として突き付けられた友人の死という現実を前に、イルーガは目の前が黒く塗りつぶされていくような錯覚を抱いた。それはかつて経験した二度の喪失と同じく身を引き裂くような痛みを伴うものであり、落雷のようであった。
胸の奥でアビスへの憎悪が燃えたぎる。またも奴らが奪っていった。同時に罪悪感と無力感がイルーガの背にのしかかる。過去と比べてずいぶんと成長したはずなのに、この手ではまだ守れないものがある。どれほど「今」を守ろうと必死になってもがいても、大切なものは呆気なく手のひらからこぼれ落ちていってしまう。
ならばこの手にライトを握り照らし続ける意味はあるのだろうか?
結局彼は明言しなかったが、おそらく人ならざるものであるフリンズですらアビスの化物に殺されるというのなら、奴らを根絶するためには自らも化物になる必要があるのではないだろうか
――
?
「
……
イルーガ」
ぽん、と肩に触れる手の温かさで、イルーガは我に返る。戦友を失いひどく傷付いているのは同じだろうに、こちらを気遣う義父のまなざしを前に、一瞬己の胸を過ぎったどす黒い感情をおそろしく思った。
「明日から一週間、休暇を取れるように調整してある。
……
自分の目で確かめて、ライトキーパーの誓いを思い出しなさい」
義父はイルーガのアイスグレーの目に滲み出た憎悪を正しく見抜いたのだろう。そう言い、踵を返して去っていく。
闇夜の鶯の分隊長として、義理の息子として、本当ならイルーガは私情を持ち込まずニキータの手伝いをすべきなのだろう。フリンズが抜けた穴は大きいが、今までフリンズがなしていたことを正確に把握しているライトキーパーはあまりにも少ないのだ。穴埋めは困難で、ひとりでも多く事情を知る人間の手を借りたい状況に違いない。
だが、イルーガはフリンズの死を未だに受け入れられなかった。夜明かしの墓に行けばすべてが嘘で、彼がいつものように水を用意し、報告書をたんまりと溜め込んでイルーガを待っている気がした。灯台の光が消えたのは燃料が底を尽きたからで、イルーガが物資と一緒に持ってきてくれるのを待っているのではないかとさえ思った。
だから、義父の言葉に甘えて夜明かしの墓へ向かうことにした。
凍えるような冬の風が吹き抜ける。同時に白い灰が舞い上がり、陰鬱とした島の景色をぼんやりと霞ませた。
かつてはフロストランプのほのかな香りが漂い、静謐とした空気に包まれていた夜明かしの墓の姿は見る影もない。草花は燃え果て、墓石は一部が崩れて灰をかぶり、辺り一面が白く染まっている。高温の炎がすべてを焼き払い、文字通り焦土と化したそこにひとどころか生きものの気配は何ひとつなかった。
目の前に広がる光景にイルーガは茫然自失とする。しかし目の前の光景を現実として受け入れがたい身体が逃避に走り、無意識のうちにふらふらと歩き出す。頭の中には通い慣れた灯台の光景が浮かび、毅然と輝く光を背負って立つ黒衣の墓守の姿があった。しかしそれが灰色に染まる世界に現実のものとして現れることはなかった。
光の消えた灯台は壁面のところどころが焼け爛れて黒ずんでいる。かつてここでイルーガを出迎えた男がコレクションを眺めたり、報告書をサボってのんびりと座っていたりしたベンチは骨組みしか残ってない。激しい戦いの痕すら残さずすべてが燃えて灰に変わったそこはあまりにも無慈悲だ。風に舞う灰は絶望そのものとしてイルーガに降り積もり、その心臓を激しく軋ませる。
何ひとつ残っていない。ここでイルーガがフリンズと日向ぼっこをしたり、魚釣りをしたり、肉を焼いてバーベキューをしたり、他愛のない話をして過ごした日々の痕跡は、フリンズごと燃えて消えてしまった。彼の正確な正体をイルーガは今になって知ることとなってしまった。
ランプの妖精。冬国の蒼炎。いつか燃え尽きたときには灰ばかりを残して消える、古の失楽園が造りし生命。
――
だとしても、彼がこの世にふたりといないイルーガの友人である事実は変わらないのに。
それを明らかにする形あるものは何ひとつ残さないで、あのひとは、ライトキーパーらしく逝ってしまった。
「
……
ッ、フリンズ、さん」
本当に、何ひとつ残っていないというのだろうか。
イルーガはフリンズと一番仲の良い友人であると思っていたけれど、それは一方的なものであり、彼にとっては何も残すに値しない相手だったのだろうか。
喪失の痛みに悔しさが混じり、イルーガの心臓をぎちぎちと締め上げる。怒りとも哀しみとも言い難い感情がどろどろと渦を巻いて胸を塞ぎ、呼吸をたどたどしいものへと変えさせる。
血走った目でイルーガは灰の中を睨めつけた。くすんだ白の中に何か、ニキータや手練のライトキーパーたちでは見つけることの出来ないものが潜んでいやしないかと目を凝らした。イルーガの知るフリンズというひとの言動を思い返しながら、夜明かしの墓の中を歩き回った。
もしもフリンズがイルーガのことを本当に、ただの友人のうちのひとりとしてしか認めていなかったのだというのなら、それでもかまわない。ただ他のライトキーパーでも、彼の知人たちでも見つけられない彼の生きた証を自分だけは見つけ出せるのではないかと、諦めずにはいられなかった。
灰をかぶった墓石の群れの中を歩き、イルーガは中でもひときわ多くそびえ立つしるべの前にたどり着く。確かこの墓石の近くには地下室があった。いつの間にかフリンズはその入口を塞いでしまっていたけれど、もしかしたら
――
思い当たったイルーガは屈みこみ、降り積もる灰を手で必死になって掻き分け始める。
手套がみるみる白く染まっていく。舞い上がる灰のすすけたにおいが鼻につき、息を吸うたびに微弱のそれが気管に入り込んでむせ返りそうになりながらも、がむしゃらに灰の中を掘っていく。
どれほどそうしていただろうか。こめかみからぽとりと汗が伝い落ちたとき、イルーガの指先に何かが引っかかった。灰をさらに掻き分けると、取っ手のようなものがついた鉄の板が姿を表す。重厚な金属はまるでその下にある何かを守っているかのように、業火が大地を舐めとったあとも朽ちることなく口を閉ざしていた。
取っ手に手をかけて全力で引っ張ると、ぎぎ、と錆び付いたような重たい音を立てながらも板が浮き上がる。その先には地下へと降りる階段が伸びていた。
当たりだ。イルーガは自分の持ちうる力を振り絞って何とか扉を開け、地下へと降りていく。土ぼこりのにおいに満ちた階段を降りた先には、古めかしい本の詰まった棚のひしめく地下室が広がっていた。
この島で過去に起こった出来事を当時のライトキーパーたちがまとめて残した資料や、彼らがワイルドハントとの戦いに備えて集めた古書などは、まぎれもなく歴代のライトキーパーたちの生きた証だ。フリンズはこの島で何かが起こったとしても貴重な資料たちが消失してしまわぬようにと、大事に管理してくれていたらしい。
地下室には本棚のほかにもうひとつ、ぼろぼろの椅子と古びたテーブルがある。そのテーブルの上に、目に痛いくらいの白が置かれていることにイルーガは気付いた。吸い寄せられるようにテーブルへと向かい、汚れた手袋を外して、震える手でその白を
――
一通の手紙を、持ち上げる。
封のされていない封筒の中から、二つ折りの便箋が顔を覗かせている。封をする手間を惜しんだのか、あるいはそうする暇すらなかったのかはわからない。ただ、イルーガは封筒に宛名が書かれていないことを確かめると、何のためらいもなく便箋を取り出して開いた。自分宛のものかどうかなどわからないし、他人宛の手紙だった場合、その中身を勝手に読むのは決して褒められる行為ではない。けれど唯一遺されたそれの届け先を確かめないことにはどうすることも出来ないからと自分自身に言い訳をして、綴られた文字の羅列の一行目を視線でなぞった。
瞬間、ひゅ、と息を呑む。
――
拝啓 親愛なる友人、イルーガへ
幾度となく報告書で見たものと同じ筆跡が、イルーガへと語りかける。
あなたがこれを読んでいるということは、僕はもうこの世にはいないでしょう。
あなたのことだからきっと胸を痛め、足を止めてしまいそうになっているか、アビスへの怒りで我を忘れそうになっているか、あるいは最後まで何も明かさなかった僕を責めているのでしょうね。
願わくは最後のひとつだけであればいいのですが、あなたはまだ若く、喪失の痛みを誰よりも深く知っているからこそ、繰り返されるそれを乗り越えるには周りを頼ることを覚えなければならない時期にある。
なので、あまりこう言ったことを書くのは得意ではないのですが
……
本物にはなれない僕でも、他のライトキーパーたちに倣ってみるとしましょう。
いいですか、イルーガ。
たとえこれから先何があったとしても、あなたはあなたの生きる「今」を照らすことを諦めてはいけません。
過去を振り返り照らしても、そこに伸びる影が濃くなるだけです。その影の中に失った人々はいません。
あなたが大切に想い、守ろうとした人々の生きた証は、あなたの生きる「今」にある。そしてそれを「未来」へと連れてゆけるのもあなただけです。
これから先、あなたはまた幾度となく同僚の生きた証を誰かの元へ届けにいくことになるでしょう。そのたび悲嘆に暮れ、涙する人々を前に、何と言うべきか思い悩み、言葉を詰まらせて、立ち尽くしてしまうのでしょうね。ですがそれはけっして悪いことではありません。上手に振る舞えるようになる必要もないと僕は思います。ただ、残された人々が進むべき道を見失わぬようにと、照らすことさえ出来れば十分です。
どうかあなたの灯で「今」を照らし続けてください。
あなたのひたむきさは決して弱さではありません。それは何より尊いものであり、決してこの世から失われていいものではない。ああ、もちろん、そういうわけですからご自身の身体を大切にして、ときには羽休めをすることも覚えてくださいね。休み方を忘れたときは僕のことでも思い出して、真似をしてくださってかまいませんから。そんな不真面目な坊ちゃまをこの目で見られないのは少し残念なことですがね。
……
イルーガ。あなたと過ごした日々は、なかなか楽しいものでした。僕の正体などという面倒なものを抱えさせたくないと思うくらいには。
正直に言うと、あなたと遺書について話すまで、僕はあなたがたに置いていかれるのだから遺書なんてものを書く必要がないと思っていたんです。
ですがあのあと、考え直しました。妖精とは本来眠りにつくべき存在であり、僕は僕の命を懸けることにあまり抵抗がありません。なので万が一の場合、僕はあなたを置いていく可能性がある。
そのとき、あなたに何も残していかなかったら、きっと怒るのだろうと思いました。僕が遺書の話をしたとき、あなたはどこか寂しそうな、悔しそうな顔をしていましたので。
あなたにそういう顔をさせるのは、僕の本意ではありません。
なので、僕のかけがえのない友人であるあなたに託します。
我々が今まで数多の犠牲を払いながらも生きてきた証を、どうか明日へ連れて行ってください。
――
骨と血を燃料に、死よりも壮大な生を生きよう。
その誓いを胸に今日という日を築き上げてきたライトキーパーたちの輝きが失われぬよう、頼みましたよ。
キリル・チュードミロヴィッチ・フリンズ
丁寧に綴られた文字のひとつひとつが、記憶にある友人の声で蘇り、イルーガの胸を震わせた。
ぽた、と水滴が便箋の上に落ちる。慌ててイルーガは便箋を折りたたみ、封筒に戻して、美しい白を胸に抱き締めた。
膝から力が抜けて、その場に静かに崩れ落ちる。目が焼けるように熱い。喉が勝手に震えて、なんの意味もかたちもなさない声が涙とともにこぼれ落ちていく。
痛みがイルーガを襲っていた。常に寄り添い合っているはずの光と影がばらばらに分かたれてしまったかのような、そんな痛みがイルーガの心をひとのかたちのままこの世界に縫い留めていた。
アビスは、ワイルドハントは、容赦なくイルーガから大切なものを奪っていく。必死になって強さを得ても、守りたいものをすべて守ることは出来ないのだと世界は嘲笑い、同僚たちの命を刈り取っていく。自らの弱さと世界の理不尽さに憤怒の炎が燃え上がり、イルーガの身を焼き滅ぼそうとする瞬間が、確かにある。
けれど炎になってはいけないのだと、その本性を炎とする友人はイルーガに言い残した。その手に握るライトでひとの歩む道を照らし続けることこそが尊いのだと、導きの蒼炎そのものが言うのなら、どうしてイルーガは化物に成り果てることが出来ようか。
遺書を抱き締めたまま、イルーガは泣いた。声を上げてただただ泣いた。
もうイルーガに寄り添い、止まり木になってくれる心優しい友人はこの世にいない。彼の意地の悪さも、優しさも、強さも、これ以上この世から失われないようにすることは、イルーガにしか出来ない。それがあんまりにも寂しいけれど、彼にとってかけがえの友人となれたことは誇らしくもあって、うれしい。
……
それでも。
それでも、それを知るのは君が生きているときがよかった。
この手紙をふたりで読んで、なんだか気まずそうな顔をする君をこの目で見たかった。
もう二度と叶わぬ願いに胸を押し潰される苦しさにあえぎ、イルーガは泣き続けた。
かつてイルーガは遺書を二通書き、自宅に保管していた。
一通は義父であるニキータへと宛てたもの。もう一通はとある友人に宛てたものだ。
最初は万一の際にふたりへの感謝と、自分がいなくなったあとも身体を大事にするようにといった細やかなことを書いていた。だがその友人と遺書についての話をした日から、友人に対する手紙の最後には、ある一文を加えるようになった。
『願わくは今君の隣に僕がいて、君がこの遺書を面白そうに読み上げるのを真っ赤になって怒っていますように』
「
……
絶対に、これを最後にします。僕が叶えられなかったことを、他のライトキーパーたちが
……
みんなが叶えられるように、僕は「今」を守り抜いてみせる」
友人に宛てた遺書を自らの手で破り捨てて、イルーガはその胸に誓いを立てる。
その心に灯るのは、怒りと憎しみに満ちた黒い炎ではない。
ナド・クライに伝わる物語の妖精のように、蒼く澄み切った炎だ。
1
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3
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