スプリングが合わなかったんだろう。
高級マットレスを謳うベッドの上で、獅子神は眠りが浅い理由をそうこじつけた。現在時刻を確認すると、案の定いつも起床する時間よりだいぶ早い。
二度寝に失敗し、持て余した時間を潰そうと獅子神はホテル内のジムへと向かう。二十四時間営業がウリの設備だが、この時間では他に利用客の姿はなかった。
頭の中を空っぽにしたくて無心に身体を動かす。静まり返った空間でトレーニングマシンの音と自分の息遣いが耳についた。十分な運動量に汗はかくのに、いつもの爽快感はカケラも得られない。それどころか気を緩めれば昨夜のやり取りが不意に蘇り、思わず顔を歪める獅子神がいた。真正面の鏡の中にそんな自分の顔を見つけ、被害者然とした表情に嫌気がさす。別れを切り出したのは自分なのに。
昨夜の別れ話に叶は納得がいかない様子だった。無理もない。納得させるための材料は何一つ出さないまま押し切ったのだから。
唐突で一方的な別れに、叶は腹を立てているだろうか。ああいった話は最低限、対面でやるべきだとは獅子神も分かっていたが、あの男を目の前にしてすんなりと事が運ぶとは到底思えず苦肉の策があれだった。もう少しやりようはあっただろうが今更だ。
昨日からこうしてホテルに滞在しているのも、言ってしまえば叶対策で。自宅まで乗り込んでくる可能性を考えての逃げだったが、取り越し苦労だった気もしている。通話を切ったあとで怒涛の着信どころかスマホは一度だって鳴らなかった。案外、このままあっさりと終わってしまうのかもなんて考えは、さすがに都合が良すぎるか。
トレーニングを終え、朝食を済ませると獅子神は早々にチェックアウトをしてしまう。これ以上ホテルですることも特になかったからだが、乗り込んだ車の時計を目にして、さすがに少し早すぎた気もしている。平日なら既に起きている人間のほうが多い時間。だが、他人の家を訪れるには些か非常識な時間だ。今から訪問しようとしていた先へこのまま向かっても良いものか逡巡する。が、相手は常識云々で他人をとやかく言える人物でもないかとすぐに思い直した。
目的地から徒歩五分ほど距離があるコインパーキング。獅子神はそこに車を停める。行き先に駐車スペースが無いわけではないが、自分の痕跡を不用意に残したくなかった。
晴れ渡った空の下、時折、犬の散歩やジョギングに励む人がすれ違っていく。なんとも平和な日曜朝の風景だ。馴染みのない通りは少しだけ新鮮な心地を獅子神に味わわせる。なんの憂いもなくシンプルに遊びに行くだけなら良かったのに。数分の気晴らしの末に辿り着いた先は教会だった。
門扉前で足を止め、目の前の建物を視界に収める。いざこうして辿り着いてしまうと、朝っぱらの訪問に迷いが生じた。インターフォンを押そうか押すまいか。先にスマホへメッセージを入れようか。
ポケットのスマホを探りながらのそんなためらいは、敷地内を掃き清める天堂の姿によって解決された。
獅子神が天堂の姿を認めたとき、既に天堂は獅子神の存在に気付いていた。その証拠にノータイムで迷いなくまっすぐと獅子神目掛けて向かってくる。助かりはしたが同時に、やっぱり会うのはやめようと回れ右をする選択が消えた瞬間でもあった。
「礼拝への参加なら時間はまだ早い」
目の前まで来ると天堂は唐突な訪問に表情を動かすことなく応じる。日曜のこの時間帯だ。来訪者の目的は順当に考えれば日曜礼拝になるのだろう。
「あー、いや礼拝じゃなくて。オマエに用事っつーか、なんつーか
……。朝っぱらに突然わりぃんだけどよ、今時間あるか?」
礼拝じゃなければ何をしに訪れたのか。ここに来た目的を改めて問われたら、確としたものを持ち合わせておらず困ってしまう。端的に言えば叶との話を聞いてほしい、という一言に集約される。ただ、そんなことを軽はずみに頼むほど親密なわけではない。だからこそ、という部分もあるのだが。
昨日のうちに相談先として天堂が浮かんだ理由は消去法だった。真経津相手だといつも世話を焼いている分、賭け事以外のこういった方面はどうにも話しにくく感じてしまい、では村雨はどうかと言えば、この手の相談はお門違いな気がしてしまう。
その点、天堂は思考回路はさっぱりでも、その行動にはなんらかの思惑があると村雨とのタッグマッチの結果からも伺えた。目の前の人間がそれぞれ自覚していない情の向け合いにいち早く気付くのだから、そういった方面の相談事も明るいのではないかという印象を受けたのだ。
加えて、天堂は叶と仲が良い。本人たちがどう思っているのかは知らないが、一般的には後ろ暗い質の趣味を共有している。そういう意味でも、獅子神が知らない叶の側面をよく知っているんじゃないかという思いがあっての人選だ。
獅子神の様子を数秒見つめた後、天堂の手が門扉にかかる。
「入れ。神を頼り、救いを求めに来たこと。お前にしてはなかなか賢明な判断だ」
満足気にそう言いながら獅子神を招き入れると、天堂は礼拝堂へ向けて歩みを進める。
「そりゃどうも」
敷地内へ足を踏み入れ、開いた門を元の位置に戻しながら誉め言葉らしいそれに応じる。
「供物を持参してきたのも良い心がけだな」
獅子神が片手に提げていた紙袋の役割も目敏く見抜く。手土産だなんて一言も言ってはいないのに。まあ、ある意味迷惑賃として持参した物だから、供物と言えば供物なのか。そんなことを思いながら天堂の背を追った。
礼拝堂の奥のドアの向こう。いくつかある部屋の一つに獅子神は通された。少し待て、という言葉に従い、手近な椅子に腰かけると手持ち無沙汰に部屋の中を見回す。いつかの祭りのときに敷地内まで入ったことはあったが、こうして建物の中に入ったのは初めてだった。礼拝堂の奥にプライベート空間がある造りになっているのかと、考えたこともなかった教会の間取りに関心を寄せる。部屋の中はルームフレグランスかなにかはっきりとは分からないが、なんだか落ち着く香りがほのかに漂っていた。
ぼんやりと獅子神が待っていると、天堂はお湯を入れたポットと茶葉の入った缶、ティーセットと空の皿を大きなトレイに載せて現れた。早速、獅子神の手土産を食べる気らしい。というか、中身が焼菓子だとは教えていなかったのだが、もう今更驚きもしない。
トレイをサイドテーブルに置くと、天堂は窓際のソファに腰かける。獅子神にお茶の準備をしろということか。カップが二つあるあたりに最低限の気配りを感じながら、天堂に紅茶と茶菓子の用意をし始める。
「で、今日はどうした? 黎明か」
どうした、なんて問いかけながらも確定口調で言い当てる。話題の選択肢がほぼ一択なのだから当然と言えば当然か。
「昨日さ、アイツと別れたんだよ」
「
……ほう? 聞かせろ」
深い緋色の液体がカップに注がれると、天堂はすかさずソーサーと焼き菓子の載った皿を掠め取っていく。獅子神は椅子に落ち着き、自分用に入れた紅茶に口をつけ、乾いた口内を湿らせた。バターたっぷりの焼き菓子に合わせた紅茶は濃厚で飲み口がしっかりとしていた。苦みを感じるのは、いれ方が悪かったのか、本来こういうものなのか。普段から嗜まないのでいまいち分からない。口にした天堂が文句を言わないのだから及第点なのか。
「獅子神」
低く、けれどもはっきりと届く天堂の声にハッとする。現実逃避なのか、つい、どうでもいいことを考えてしまう。迎え入れてくれた天堂にはいい迷惑だろう。礼拝の開始時間を考えれば、そこまで時間に余裕もない。
獅子神はスマホを取り出すと、フォルダからとある写真を選択し天堂へと送った。天堂は何も言わずそれを確認し、少しだけ眉を上げる。引っ掛かる点があったということか。
「これ、オマエから見てどう思う?」
獅子神が送った写真はカフェだかレストランだかにあるテラス席のものだった。四人席となっているそこには叶と見知らぬ男児が向かい合わせで座っている。男児の隣の席には女性も一人。ズームで撮っているので写真はあまり鮮明ではないが、それでも人相は分かる。
「他人の空似とするには無理があるな」
天堂の言葉は写っている男児を評したものだった。まん丸な頭にさらりとまとまった髪。ヘアスタイルが同じなら自ずと雰囲気も似通って見えがちだが、それを差し引いても目元や口などのパーツが似ているように思えた。まるで叶をそのまま小さくした、は言い過ぎかもしれないが、言いたいことは伝わるだろう。
このワンシーンに獅子神が遭遇したのは、本当に全くの偶然だった。
その日は新たな投資先の値踏みを兼ねて注目していたスタートアップ企業に見学と会食の予定があった。それが思ったより早く終わり、さてどうしたものかと考えたときに、現在地が叶の家とそこまで離れていないことに気付いてしまった。翌日会うのだから、わざわざ今日時間を取らせることもない。だが、近くまで来たのに声もかけずに帰るのもなんだか惜しい気がしてしまう。
今近くまで来てるんだけど、家に居るならなんか差し入れるか?
試しにそんなメッセージでも送ってみようか。
路肩に停めた車の中、そんなことを考えた矢先だった。
何の気なしにフロントガラスから助手席側の窓へと視線を動かした先に、例の光景は待ち受けていた。
にわかには脳が処理しきれずに見間違えかとも思ったが、目を凝らせば凝らすほどに叶以外の何者でもないように獅子神には見えた。多分、眺めていたのは十秒にも満たない時間だった。ドクドクと脈打つ音が耳の奥で煩いくらいに鳴っていて。気付けばその光景にスマホを向ける獅子神が居た。動揺で激しくなる鼓動とは対照的に、指先はやたら冷静に画面の被写体をピンチアウトし撮影ボタンを数回タップする。そうしてそのまま獅子神は逃げるようにその場を去った。
自宅に帰り着き、気を落ち着かせ、隠し撮りした写真を改めて確認する。どこをどう見ても見間違いではなく、鳩尾の辺りがぐるぐるとうねり、頭の奥はキンと冷え始めていた。そうして浮かんだのは別れなくてはという一念で。そのまま今現在に至っている。
「やっぱオマエから見ても似てるよな」
もしかしたら邪推で自分の目が曇っているのかもしれないとも思ったが、天堂の目から見てもやはり似ているという。こうなってくると、本当に叶の子どもなのかもしれない。
叶と一つしか違わない村雨に甥姪が居るのだから、もちろんその線も無くはない。無くはないのだが、残念なことに、一緒に写っていた女性は叶の女きょうだいではなかった。
以前、なんの話の流れかは忘れたが、叶が家族写真を見せてくれたことがあった。そこには叶のほかに、父母と姉が一人。叶とはあまり似ていなかったが、姉は涼し気な目元のいわゆるキレイ系に属する美人だった。対して、写真の女性は小動物系のどちらかと言えば愛らしい雰囲気で叶の姉とは似ても似つかない。
「アイツ、ちょっとだけ笑ってたんだよ。その子ども相手に」
「ほう?」
天堂が興味深げに声を上げる。
「別に子どもとか特に好きでもねぇし、相手が小さいってだけで態度柔らかくするやつじゃないだろ? それともオレが知らないだけで実は子ども好きだったりするか?」
一縷の望みをかけた獅子神の問いに、だけど天堂はきっぱりと首を横に振る。
「老若男女問わず、眼中にない人間に対する忖度も配慮も持ち合わせてはいないだろう。あの男は」
「っだよなぁー、やっぱ」
あれは世間一般の大人が子どもに対するときのような態度ではなくて、少なくとも叶の世界に存在を許されている人間へのまなざしと行動だろう。写真に写る叶はいつものパーカー姿ではなく、比較的気心の知れた相手といるときに見せるラフな私服姿だったことも地味に大きい。
それならば、もう、そういうことだ。
あのシーンを目にした時の衝撃が灼きついてまだ燻っていた。一人で悶々と抱えていた思いを吐き出してしまいたかったのか、獅子神の口からは堰を切ったように言葉が溢れる。
「母親っぽいほうの女にも邪険に扱う感じには見えなくてよ。元々ああいうのタイプなのかなとか、なんでオレにしたんだろうとか
……まあ、それは良いんだけど。いろんなのがぐるぐるしちまって、なんか、もう、これダメだなって」
「で、別れたと」
獅子神は無言で肯定する。
「黎明はこれに関してなんだと言っていた?」
「写真のことは言ってねぇ。ちょっともう無理だから別れるってだけ」
「それでアレが納得して身を引くような男だとでも本気で思っているのか?」
確実に正気を疑われている。天堂から見ても、このままで丸く収まるわけはないようだ。
「そもそもの話」
いつのまにか皿に用意された分の焼き菓子を食べ終えた天堂はサイドテーブルのプレートから追加を補充する。
「黎明に隠し子が居たとして、なぜ別れる必要がある?」
「あぁ?」
「仮にその女と婚姻を結ぶと言い出せば多少の問題は出てくるのだろう。だが、子どもと母親の存在が明るみになっただけでは、オマエと黎明の間にはなんの関係もないだろう。それは黎明の問題で、オマエの問題ではない」
オマエには関係のない話だと言い切るその言葉は、耳に痛いがたしかにそのとおりだった。別に叶が獅子神になにかをしたわけではない。だから、これは獅子神の感情論でしかない話だ。
「オマエはあの男になにを望んでいる? 過去の姦淫にまで気を回すのか? 今まで起こした不義の全てを詳らかに話すことを求めるのか?」
言外にそうではないだろうと言っている。今一度自身を省みろ、己の感情から目を逸らすなと。放たれる言葉がいつになく重い。
「オレだって別にアイツに倫理的な振る舞いとかは端から期待しちゃいねぇよ」
なにせ目の前の神父様と一緒に現在進行形で法的にマズいことをしでかしているのだ。今さら過去の異性もしくは同性関係にあれこれと口を出す気も無かった。だが、今回は話が違う。
「どんな相手と付き合ってたとかは、まあ、多少面白くはねぇけど、なんでもいい。そんなのはただのヤキモチだし。けど
……子どもは、ダメだろ」
そう言って、獅子神は冷えた紅茶を流し込む。一口目よりも苦味と渋みが舌先に残る。
「仮に無碍に扱っていたのなら罪深いが、当人同士円満で問題を抱えている様子がないのなら、何の差し障りがある?」
天堂の問いが手を緩めることなく続き、矢継ぎ早に獅子神を突き刺す。逃げ道はなく、己の心に嘘を吐くことなど、きっとできはしないだろう。なにも確かめないままで別れを即決して切り出したことは、傍から見れば短慮に見える。そうするに至った本当の理由はなんなのか。
「考えろ。オマエが恐れていることはなんだ」
獅子神は大きく嘆息して、両手で顔を覆う。そうしてそのまま天井を仰ぎ、数秒固まった。天堂は急かすことなく獅子神を見据える。獅子神は観念したように顔から手を外すと、ゆっくりと顔を起こし天堂を見た。
「オレが、差し障りになっちまうだろう」
あの光景を見てからずっと「別れなきゃ」という思いばかりが先走っていた。なにが自分をそう駆り立てたのか。蓋を開けてみれば、そんなことだった。
怖いのは、なんの落ち度もない子どもから、向けられるはずの愛情を自分が搾取してしまうことだ。
叶から自分へ向けられる情愛と子どもに向くべき愛情に直接的な因果関係はないとしても、自分の存在が巡り巡って、本来その子に与えられるはずの愛情とかそういう類のものを奪っているなんて考えたくもなかった。
それは優しさでもなんでもなく、唾棄すべき人物に自分がなってしまうことへの恐れだった。もっと言えば、さっさと別れなければ、その事実を天秤にかけてなお叶から向けられる愛情を手放せなくなる。そんなどうしようもない人間になる予感がして怖かった。
だから、叶に告げたとおり、今回の別れ話は叶に責任は無くて、全て獅子神自身の問題だった。
少なくとも、獅子神はそう思っている。
獅子神の言動に天堂は小さく頷くと立ち上がる。
「礼拝の準備をする」
「あ、じゃあ」
そろそろ帰るな。付き合わせて悪かったな、ありがとう。
そう言葉を続けようとしたところで、天堂がそれを遮るように話し続ける。
「この部屋を出て右手にキッチンがある。キッチンの向かいの部屋、ここの隣室でお前は私が戻るまで待っていろ」
「は? いや、オレは」
天堂はそう言い捨てると、獅子神の意見など聞く耳を持たずにさっさと部屋を出ていってしまう。もう帰ってしまっても良かったが、自分から付き合わせた手前、さすがにそれもどうかと思い止まった。
獅子神は使い終えたお湯の入っていたポットや汚れたティーカップをトレイに載せる。せめてティーカップを洗うくらいはしておくかと、ひとまずキッチンへ向かった。
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