ソファに放りっぱなしのスマホがヴゥゥンとくぐもった音を響かせた。キッチンから戻った叶は冷えた缶を片手に音のほうへ近寄り一瞥する。そうして、そこに表示された名前を目にした途端、大して興味もなさそうだった顔をあからさまに明るくさせた。空いているほうの手がいそいそと発信源を掬いあげると、そのまま親指をディスプレイに滑らせる。
「敬一君? 体調もう大丈夫になった?」
「あ、おう。悪ぃな、今日」
「いや、それはいいんだけど」
腹の調子が悪いから、今日の約束はキャンセルさせてほしい。
そう獅子神から連絡があったのは今朝早くのことだった。
デートというほどでもないが、お互いに予定が空いているから出かけようかなんて話をしていて。どこに行くかは決めないまま、とりあえず会うことだけが決まっていたようなそんな約束だ。残念と言えば残念だが、三日前にも顔を合わせているし、なんなら顔以外も合わせた。長らく会えなかった末の逢瀬というわけでもないので「お大事にー」なんて返しながら、特段不平不満を抱くことなく獅子神の申し出を了承していた。そんな経緯があっての今だ。丸一日休んで回復したのだろう。
電話口の獅子神は体調が戻ったというのに、なんだか浮かない声色だ。今日の約束なんて誕生日や記念日ではないのだから、罪悪感を覚えるのはおかしい。
「どうしたの?」
「あー
……」
訝しむ叶に応じる声は依然として晴れない。今更驚くようなことではないが、それでも小さな異変を当たり前のように看破してくる叶に対して獅子神はきまりが悪そうに口ごもる。
ざっと思い返しても叶には獅子神が自分相手になにかをやらかしたような記憶はない。過去に思い当たる節がないのなら、あるいはこれから先のことなのか。握っているエナドリの缶に口をつけながらそこまで思考が巡ったところで、ふたたび獅子神の声が耳に届く。
「急なことばっかで悪いんだけどよ」
「うん?」
「オレ、オマエと別れるわ」
飲み口に寄せていた唇の動きが狂い、一回で飲み込むには多すぎる量の液体が叶の口内にそそがれる。そのまま喉奥まで流れ込んだ炭酸はジュワジュワと強い刺激のまま食道を痛めつけていく。どうにか咽ずに堪えたものの、不意のダメージに喉が使い物になるまでの数秒、沈黙が流れる。
「はぁっ?」
調子を戻した喉が発したのはバカみたいにありふれた反応で。上げた声には意図した以上の剣呑さが帯びた。獅子神の想定外な発言に、叶は自分の動揺を思い知らされる。が、今はそんなことどうでもいい。
「冗談のつもりなら全然笑えないんだけど。なに? オレなんかした?」
なんかした? と尋ねはするが己の非など思い当たらない。仮になにかあると言うなら教えてみろ。そんな非難めいた物言いだ。たとえ冗談でも突然別れるなんて言われれば、叶が気を悪くするくらい獅子神なら分かるはず。
つまり裏を返せば、これは冗談なんかじゃないということで。そこまで察しがついてしまうから、余計に語気が荒くなる。
「別にオマエがどうとかじゃねぇんだよ。オレがオマエの恋人やってく自信がなくなった」
「なにそれ? 意味分かんねー。なんで」
「なんでもクソもねぇよ。なんか無理だなって思っちまった。そうなったらもう、どうにもなんねぇだろ」
叶の言葉を遮って、獅子神は半ば強引に話を終わらせようとする。言葉も気持ちも、自分の全部をないがしろにするような振る舞いに苛立ちが滲む。
「敬一君さ、それってオレのこと丸ごと無視して話進めてるって分かってる?」
「ああ。これは完全にオレのワガママだし、オレにしか非がねぇ。悪いのはオレだ。これからもダチで、っていうのは虫が良すぎるってオレも分かってるからよ。もう顔も見たくないってならそうする。連絡先消すなり、全部オマエの気の済むようにしてくれ」
「いや、だから、なに勝手に話まとめ」
そこまで言いかけたところで、ピロンッと軽くて安っぽい音と共に、通話は一方的に切られた。全く成立しない上、投げっぱなしで逃げられた会話のキャッチボールに、叶は思わず手の中の端末を凝視する。
いや、マジで何? 意味わかんなすぎるだろ、コレ。
さすがの叶も電話に出た時点で、こんな展開が待ち受けているとは思いもよらなかった。別れ話を切り出されたことも、獅子神があんな一方的な告げ方をしてきたことも。
別れの理由は自分のワガママだと言った。獅子神がねだるワガママなんていくらでも叶えてやりたいところだが、さすがにこれは受け入れられるわけない。
時計を見る。日付こそ超えていないが、一般的には夜中とされる時間帯だった。
今すぐ獅子神の家に乗り込むという選択肢が叶の脳裏をよぎったが、行ったところで、あの調子では取り付く島もないだろう。叶には寝耳に水でも、獅子神にしてみれば十分に心の準備をした上で切り出した別れ話だ。憤慨した叶が取りそうな行動も、きっとある程度は予測している。予防線として自宅以外から連絡を寄越してきた可能性だってある。獅子神の用心深い性質を考えればあり得る話だ。なんにせよ、今、このまま感情任せに動くのは得策ではないと思い直した。
いつの間にか空になっていた缶を八つ当たりのようにグシャと握り潰しながら叶は状況を整理する。と言っても、そもそも整理するほどの情報量はないから推測ベースだ。
獅子神が深夜に無関係の友人を叩き起こす真似は考えにくいから、自分からの猛攻を避けるために誰かを頼りにするにしろ、それは翌朝になる。既に誰かのもとに身を寄せているパターンもあるが、それは今から消し込んでいく。別に難しい話ではない。難しいのは、そもそもなぜ獅子神が別れると言い出したのかを突き止めることだ。
恋人をやっていく自信がなくなった。なんか無理だなと思った。そんな言葉を仮に真に受けたにしても、なんのきっかけもなく、突如そんな気持ちに襲われることはない。なにかがあったはずだ。
叶は最後に会った三日前のことを思い返してみる。大きな喧嘩や獅子神の地雷を踏み抜くような真似はしていない。一昨日から今日までのあいだにも、獅子神に対して疚しいことはなんらしていない。
こうなってくると、獅子神がなにか勘違いを起こしているくらいしか原因が思いつかなかった。ライン越えをした観測者があることないこと吹き込んで絡んできたか。だが、そんじょそこらの相手に易々と騙されたり、強請られて別れを決めるほど獅子神もやわじゃない。
この数日で獅子神がどこかの誰かと運命的な出会いをした可能性もゼロではないが、それならそれで、さっきの口振りにももっと後ろめたさがついて回っただろう。
心変わりではない。そう判断する自分の観測が本当に間違ってはいないか。さっきの獅子神の声音や息遣い、間の取り方をもう一度よく思い返しながら、叶はスマホをタップした。
叶が教会のドアに手を掛けたのは、正午よりまだ少し前のことだった。日曜午前に行う礼拝が終わる頃合いを見計らっての訪問だが、タイミングが良かったようで信者の姿は見当たらない。礼拝堂は明かりをつける必要がないくらいに、窓からたっぷりと陽の光を取り込んでいる。ついさっきまで集っていただろう人たちの気配が微かな匂いと湿度を伴い空気に混じり残っていた。
「ユミピコー」
声をかければ、がらんとした空間に思ったよりも大きくよく響く。
「珍しいな。昼前から外に出て活動しているとは殊勝な心掛けだ」
出入口に背を向けていた天堂が悠然と振り返る。信者たちに説教をくれてやる神父様は一段高いところに居て、長椅子が並んだスペースを見下ろす格好になっている。
珍しいな、なんて言いながらも、アポなしで叶が現れたことに驚いた様子はない。叶の来訪は想定内なのだろう。
やっぱ、ユミピコのところでアタリかな?
天堂の様子に叶は確信めいたものを覚える。
今朝時点で獅子神が足を向ける先として浮かんだのが天堂だった。理由は簡単。消去法だ。村雨は昨日からの当直でまだ病院。真経津にいたっては昨夜の段階で叶が直接赴き、獅子神の不在をその目で確認したあと、そのまま居座っていた。もしも深夜にうっかり相談にでもきたら捕獲してやろうかとも思ったが、獅子神が真経津に連絡を寄越すことも、家の前に現れることもなかった。「残念。あてが外れちゃったね」なんて真経津の軽口も気にならない。可能性を一つ潰せただけでも意味はあった。
他の面々と比べ接点が薄い天堂を獅子神が頼るかどうかは疑問が残った。それでも可能性が多少なりともあるのならと、叶はこうして足を運んだわけだ。昨夜のうちに確認をとった他二人と違い、朝を迎えた後でのアプローチにしたのは、趣味の天罰予定が無い夜半に天堂の眠りの邪魔をすることは自殺行為となるからだ。協力を仰ぐどころの話ではなくなる。当の獅子神だって、そんな危ない橋は渡らないだろう。
そんな具合に考えを巡らせた末の訪問だったが、どうやら読みとしてはイイ線をいっていそうだ。
「オレがこうして朝っぱらから出歩いてる原因、分かってんだろ?」
余裕のなさを滲ませているのが面白いのか、天堂は叶の質問には答えず意味ありげに笑みを浮かべる。
「告解室と私室、どちらがいいか希望を聞いてやろう」
ひとまず、叶の話を聞く気はあるらしい。
「告解はマジで心当たりないからユミピコの
……趣味部屋じゃないほうでよろしく」
「ついてこい」
天堂はそう言って踵を返すとスタスタ歩き始めた。叶は置いていかれないように距離を詰めながら天堂のあとを追う。そうして先導した天堂が辿り着いた先は、モニターをいくつも誂えた趣味部屋の手前にある部屋だった。上部にステンドグラスが嵌められたドアを天堂が押し開ける。陽当たりのよい部屋の一角には天堂愛用の美容グッズが並び、部屋の中央には造りがしっかりとした木製の椅子とサイドテーブルが配されている。窓際に置かれた一人掛けソファに天堂が落ち着いた結果、叶は必然的に椅子に腰を下ろすことになる。サイドテーブルには焼き菓子が載った皿が置かれている。礼拝前に天堂がモーニングティーでも楽しんでいたのだろう。
「で、敬一君は?」
「獅子神がどうかしたのか」
「そういうのいいって分かってんだろ?」
すっとぼけた反応を見せる天堂に叶は分かりやすくムッとしてみせる。だが、天堂はそんな様子にもどこ吹く風だ。
「なんの話をしているのか分からんな。少なくともオマエの態度は神に教えを請うものではない」
「もー、意地悪言うなよユミピコ。敬一君、今朝来たんだろ? だってこれ敬一君の作ったお菓子だし」
隠す気など端からサラサラないのだろう。というか、むしろ叶をその椅子に座らせたことにメッセージ性を感じてしまう。オマエの目が節穴でない限り、分かるだろう? と揶揄するようなそれだ。
「供物を持ち、神を頼ってきた迷える子羊を易々と売るわけにはいかない。少なくとも、信仰心のかけらも見せないオマエと同等に扱うはずがない」
ソファから立ち上った天堂が叶の手から焼き菓子を取り上げると、サイドテーブルに置かれた皿も回収していってしまう。
「でも、ユミピコはそんな子羊が迎えられる大団円ハッピーエンドがあったら、そっちのルートに手を貸すでしょ?」
「それはオマエ次第だ。恋人との破局で傷心の友人に耳を傾けるくらいの慈悲はくれてやろう」
「破局してないし。勝手にバッドエンディングにするのやめてくれない?」
「そうか。オマエの中ではまだ破局していなかったな」
天堂は回収した焼き菓子を頬張りながら、そんなことを言う。どうしても、別れたのに往生際悪くごねる彼氏というポジションに叶を陥れたいのか。天堂好みの差し入れを持参しなかったことが微妙に響いているのかもしれないと少しだけ悔やむ。焼き菓子を一つ食べ終えた天堂を後目に、叶は背もたれに身体を預けると深々と溜息を吐く。
「ってかさ、マジでなに? ほんっっとーに心当たりないんだけどオレ」
身に覚えはないながらも、昨夜はもう一度念を入れてここ数日を振り返った。ネット上にあることないこと書かれた噂話の可能性まで視野に入れて確認したが獅子神の別れ話に関係しそうな目新しいものはなかった。
「オマエにとって大事じゃなくとも、相手はそうではないということだ」
天堂の言葉に、叶は脱力していた上体をがばりと前のめりに起こす。
「完全に理由知ってる奴の口振りだろそれ」
「身に覚えはないか」
「無い!」
断言する叶に、やれやれといった具合で天堂は自身のスマホを取り出す。そうして数回操作した直後、叶のポケットの中が震える。送信者はあきらかに目の前の天堂だ。画像受信の通知をタップすれば、そこには見覚えのある人物が写っていた。
天堂とは面識がないはずのその人物は、小学校低学年くらいの男児だった。テラス席の様子でそこには子供の母親と叶の姿も写っていた。叶はこれが撮られたであろう一昨日のことを思い出す。これまでの会話と送られた写真。そこから叶は、とある可能性に行き着いてしまう。
「え、まさか
……」
半信半疑というか、どちらかと言えば信じ難い気持ちが強い。言い淀んだその先の言葉は、天堂にあっけなく引き取られた。
「隠し子だと思っている」
「ユミピコ、そこは否定しようよーっ!」
的中してしまった予想と、いくらなんでもあんまりな勘違いに、嘆くなというほうが難しいだろう。勘違いのもとが分かってしまえば、別れ話を切り出した獅子神の頑ななまでの態度もスルスルと紐解ける。
「知るか。第一、オマエの子供ではないと断言できんからな。神は人の子の迷いや告解に耳を傾け、良き方向へと手を貸すだけだ」
「隠し子じゃないって確証無くて論破できないにしても、友達としてあるだろ? アイツに限ってそんなことないとかなんとか」
そんな庇い立てをされるような人徳がオマエにあるとでも思っているのか?
天堂は胸中を隠すことなくありありと表情に浮かべ、叶の世迷言を黙殺する。恨みがましい視線を向けられても動じる様子はなく、涼しい顔をしている。
「なんの証拠もなく周りが否定したところで慰めぐらいにしか思わんだろう、あの男は」
天堂の言葉に、それはたしかに一理あると頷く。どうやら、叶の劣勢を煽るだけではなかったらしい。
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