月と暮らせば

【寿月】数年後プロ時空*嫉妬とわがままと同棲の話。コンビ枠で柳さんも。

(1)

 駅の階段を足早に駆け上がり、混雑をすり抜け改札を通過する。この程度の動きで息が乱れることはないけれども、日曜日の混みあった駅構内で、毛利寿三郎の気は逸るばかりだった。
 なにせ恋人との待ち合わせの時間に三十分近く遅れている。利用予定だった路線の遅延に運悪く巻き込まれ、迂回路を取って目的地に行き着いたところである。もちろん遅刻を悟った時点ですぐに連絡を入れ、了解の返事も受け取っているものの、それはそれ、というものだ。

 今日は彼が以前から行きつけにしている都内のテニス用品専門店へ出向く予定で、最寄り駅で落ち合ったあと、隣接の商業ビルの中で少し早めの昼食を済ませる段取りになっていた。
 歩きながら腕時計の文字盤を確かめる。集合場所は、商業ビルへ繋がる広場に設置された大型デジタルサイネージ前。待ち合わせによく使われるエリアで、すでに昼時に差し掛かっていることも相俟って、自分たちと同じように待ち合わせをする人々は増える一方の様子だった。
 自身も彼も人並み以上の長身で、街を歩けど頭ひとつふたつはゆうに抜けているものだから、混雑に埋もれて待ち人を見失うことはありえない。
 むしろその中心部に到達するかなり前から、雑踏越しにでも彼の居場所は把握でき――毛利の気掛かりは、それゆえのものだった。

(あー、やっぱ土日はアカンねぇ……

 スマートフォンで通話や操作をしながら彼に視線を向けている見知らぬ人々の姿が、遠目にでもちらほらと見受けられる。
 人目を惹きやすい出で立ちの彼が周囲の人々の目印にされてしまうことは学生時代から時折あったが、やはり人出の多い日や場所は特にその可能性が高くなる。

月光つきさん!」
「毛利」

 ようやく彼――越知のもとへ辿り着き、両手を合わせながら頭を下げる。持っていたスマートフォンを上着のポケットへ戻した彼が、静かにこちらに向き直った。

「遅うなってほんっまスンマセン……
「かまわない。災難だったな」
「いやもう俺は全然! お腹空いとりますよね、はよ行きましょ」

 こういうときは彼の指先を早々にさらって移動してしまうに限る。それが許される立場であることに、彼との関係にあたらしい名前がひとつ増えて三ヶ月あまりが過ぎた今でもいささか慣れないのだけれども。
 越知を目印にしていた人々からの視線を感じているのはおそらく自分だけではないだろうが、彼はいつも黙って手を引かれていてくれる。不器用に、けれど確かに示される応えに気がつくたびに、面映ゆい心地がする。
 人波を抜けるまでの束の間の温度を惜しんで緩む歩みを誤魔化すように、肩越しに彼を振り返りながら口を開いた。

「やっぱ、土日はすごい人出やね」
「ああ」
「どっかええ店空いとるとええけど……何食べたいでっか?」
「お前の食べたいもので構わない」
月光つきさんの食べたいものがええんです」
…………そうか」
「そーです、」

 掴んだままの指先のわずかな揺れを、やわく手のひらを強めて閉じ込める。
 いつにも増して繋いだ手を離しがたく思うのは、季節が少しずつ冬へ向かい始めたからだろうか。それらしい理由を探すべく巡らせかけた視線は、ふいに行きあたった馴染みのある色彩に「あれ、」と小さな声に変わった。
「どうした」
「あー、いや……
 呟きを逃さず拾い上げた彼が、目線の先を追いつつ問うてくる。自身の迂闊さを少々決まり悪く思いながらも、答えを求める直線のまなざしに勝てるはずもなく。
…………その、前からあんな店あったっけ思て」
「店?」
「ほら、あそこの角んとこの」
 そう言って、前方でなにやら賑わっている様子のテナントブースを指さす。壁にかかっている看板には、かわいらしいロゴマークと「うさいぬ期間限定ポップアップストア」の文字が躍っていた。

「見ていくか?」
――……、」

 自分の気に入りのキャラクターのグッズショップだと思い至った彼からの気遣いに、それだけで満ち足りた気持ちになる。そう伝えたら、彼には呆れられてしまうだろうか。ずらりと商品が並ぶ店舗の横をゆっくりと通り過ぎながら、ゆるく首を横に振った。

「帰りに時間があったらでええです。先にご飯と買い物しやりましょ」
……そうか」

 もちろん彼とグッズを見て回ることは自身にとって大変魅力的な提案だけれども、いまはただでさえ予定がずれ込んでいる。寄り道をするには少々不向きなタイミングだ。
 まだ物言いたげにこちらを見ている彼の視線には気付かなかったふりをして、「そういえば」と話題を切り替える。

月光つきさん、ずっとあそこで待っとってくれはったんです? どっかカフェとか入れました?」
……近くの店は満席でな。さして長い時間でもないから、そのままでいた」
「そうなんや~……。ほんまスンマセン……
「お前のせいではないだろう。遅れた理由が寝坊なら話は別だが」
「ね、寝坊はしまへん! 月光つきさんと出かける日は目覚まし三つかけちょるんで!」
「三つ……
…………そんだけ楽しみにしとるんです、月光つきさんとのデート」

 ああ、本当にこのところ、彼の前で格好がついたためしがない。(否、それ以前にもさほどないかもしれないが。)
 肩を落としたくなるのを堪えながらぽつりとそう呟いて、せめて胸のうちの熱を伝えようと手を握る指先を強くする。「そうか」とだけ応える彼の手のひらもほんのりと温んでいるように感じられるのは、自分の気のせいではないと思いたかった。

 それからはどちらともなく口を噤んだまま、黙々と通路を進む。しばらくそうしたところで、ようやく雑踏の切れ目――屋外に広々と開けたロータリーが、人波の向こうに見えてきた。
 混雑を理由に繋いだ手は、じきにその口実を失って解かなければならなくなる。ロータリーに繋がる出入口から、冬の気配の混ざった風がかすかに滑り込んでいた。

…………、」

 彼が待ち合わせの場所から動かずにいたのは、単に近場の店が満席だったから、というだけではないだろう。休日の混雑のなか、待ち人を探す見知らぬ人々のために、彼はきっとあの場にひとり佇んでいた。
 彼は優しい。鋭い目元や口数の少なさからは想像もつかないほどの、深いあたたかさを持っている。
 相棒として、恋人としての自分に対しての姿勢はもちろんながら、家族を真摯にいたわる姿も、愛猫を見つめる眼差しの柔らかさも、友人や後輩といるときの楽しげな様子も、すべてが慕わしくて仕方がない。相棒として彼とともにコートに立っていられるだけで十分すぎるほど幸せだと、ほんの数ヶ月前までは確かにそう思っていた。そのはずだった。
 握りしめた手は離せない。視線を前に向けたまま、気付けば彼の名前を呼んでいた。つきさん。

「引っ越しませんか。俺と、一緒に」

 人混みに佇む彼の手をさらって歩き出すたびに、誇らしいような、口惜しいような気持ちがした。
 彼の大きな手をとることを許されている喜びと、彼の優しさをそれと知らずに受け取っていく通りすがりの誰かへの子どもじみた嫉妬心。その両方が自身の内側にあることを、……本当は、少し前から知っていた。そしてその嫉妬が、どれほど我儘なものであるのかも。
 同じ家から出かけていけるようになれば、そんな感情を覚えることもなくなるのではないか、などと――あまりにも安直で、身勝手な申し出だった。

 黙り込んだままの彼を肩越しに振り返る。長い前髪の向こうのひとみが、射るようにこちらを見つめていた。
 自分が何を口走ったのか、それに相応しい場面とは到底いえないことも頭の隅で理解はしていたが、いまさら取り消すこともできない。口にした願いが嘘ではない以上、曖昧に誤魔化すことはできなかった。
 ばらけていた歩みが、完全に停止する。
 知らぬ間に解けた指先と、彼の応えがあいだに落ちた。

「少し、考えさせてくれないか」