shika
2026-03-10 13:14:20
9811文字
Public 🇺🇲軸/現役選手の流×引退後のリョ
 

Someday the rain reaches the sea

🇺🇲軸同棲/流リョ
○現役選手の流×引退後のリョ
○同一カテゴリーの過去作と同じ二人

リョの引退後、付き合う前の二人と付き合ったあとの二人の話。
事後の描写がほんのりあります

 パークウェイから海に浮かぶフェリーの様子まで見えるような、よく晴れ渡った日だった。
 午前十一時、家から車で一時間強。訪れたロングアイランドのビーチは観光地や州立公園に比べると穏やかな賑わいで、Googleマップの口コミどおり穴場と言っていい場所だった。併設された無料の駐車場にアバランチを停め、そこから十歩歩いた砂浜の先に壮大なグレートサウス湾が広がっている。この天気に誘われたらしい人々が犬を連れて散歩したり談笑をしている傍で、もうすぐ訪れるであろう夏の影が潮の香りを纏って風になり、前を歩くその人の白い麻のシャツが空気を含んで膨らんだ。
「風気持ちいいな」
「でも夕方から雨になってた」
「長居はできないか」
 頬をかすめた癖毛を耳にかけ、リョータさんが海を眺めながら言った。天気の話をしながら空ではなく海の果てを見るから、代わりに首を少し上に逸らす。真っ青な空に真っ白い雲。青も白も、絵の具のチューブから出したままの濃い色だった。水で希釈されない、強い色。
「湘南の空に似てる」
「え?」
「昔部活中に見た空もこんな色だった」
「あー確かに。海は全然違うように感じるのにな」
 ここに来てもう何年も経つというのに、毎年この二色を見ては決まって湘南の夏を思い出す。部活の休憩中に体育館の外で仰ぎ見た空であったり、ロードワークの海沿いで見た辻堂海岸と鵠沼海岸であったり。あの街も目に入るものがすべてはっきりとした濃色だった気がするが、もしかしたら記憶に残る思い出が濃いからそう錯覚しているだけなのかもしれない。
 立ち止まってようやく空を見たリョータさんが「懐かしいな」と目を細め、その視線の先で海鳥が飛び交う。出掛ける前に見ていたCNNの天気予報が疑わしいほどに、雨の兆候は見られない。
 
「海行かね?」。朝、ロードワークから戻ってきて朝食を食べた後、リョータさんが空になった皿を重ねながら言った。
 海。海か。そういえばオフシーズンに入って日本から帰ってきてから日用品の買い物くらいしか出掛けていない。走った時も温かくて気持ちよかったしな。
「オレ運転する」。そう返してすぐに二人でテクノロジーを駆使して下調べに入った。近すぎず遠すぎず、できればあまり混みあっていない場所。で、当たりを付けたロングアイランド周辺を適当にピンチインしたりピンチアウトしたりを繰り返し、目的地が決まった十分後には財布とスマートフォンと鍵だけを持って車に乗り込んでいた。洗濯物がよく乾きそうな日に洗濯を放棄し、シンクに皿やカトラリーを残したまま。
 出掛ける時は先に支度を終えるオレが家の戸締りを確認し、着替えて髪までがっつりセットしたリョータさんがバスルームから出てくるのを待って家を出る。一緒に暮らし始めてからできた習慣のひとつだ。
 ところが今日は違った。スタイリストかってくらい服が好きな人だから、歯を磨いて顔を洗ってからあと十五分はかかるなとふんでバスルームを出たら、既にサンダルを履いているリョータさんがドアの前で待っていた。髪は風呂上がりのようにふわふわしていて、昨日洗濯してハンガーに干してあった服をそのまま身に纏った体に、ほとんどつけっぱなしの左耳のピアスだけが鈍く光っていた。
 クローゼットの中からコーディネートを組んだり整髪剤を使って髪を整えたりという動作は、この人にとってルーティンのひとつだったと思う。仕事の日でも今日みたいにどこかに出掛ける日でも、行くべき場所へ、行きたい場所へ一歩を踏み出し、前に進むための。またはなりたい自分になるための鎧みたいなもの。そして理想の自分を体現してアピールする。昔から自己プロデュースが上手い人だった。バスケも、彼自身のことも。
 たまたま面倒くさかっただけなのかもしれない。もしくは行き先とか気温とか、この人の頭の中で熟考された上での選択だったのかもしれない。――でもなんとなく、どちらも違う気がした。
 食器を片付ける間も惜しいくらい、人一倍身だしなみに気を使う人がそれを気にする間も惜しいくらい、衝動に突き動かされるように外へ出たがっているように見えた。外へ、というか、海へ。
「昼飯、マップで見たそこの……海の家?カフェ?でいいか。何食いたい?」
「ポキとロブスターロールとオニオンリング」
「最高。……ビール欲しいな」
「帰りもオレ運転するけど」
「んー……どうせなら一緒に飲みてえな。帰ってからでいいや」
 レジャーを楽しむ人々とどこか一線を画すように、リョータさんはサンダルが濡れることも気にせず波打ち際寄りを歩き続けた。その斜め後ろを三歩分の距離を空けて付いていく。時折リョータさんが立ち止まって、オレが二歩分近づき、距離が一歩分になるとまた歩き出した。俯き加減に歩くから、太陽が焼けたうなじを更に焦がそうと照らす。
 人の感情の機微に疎い自覚はあって、けれど疎いなりにも“何かが違う”ことは分かる。そしてこの人は敏いからそういったオレの特性を解っていて、解った上でたまに隠そうとする。後ろめたさとか、申し訳なさみたいなものを抱えて。
 隠し事は別にあっていいし、誰にだって言いたくないことや言いづらいことはある。打ち明けるも内に留めるもこの人が決めることで、それは守られるべき権利と尊厳だ。
 でも何かに苛まれている状態であることを「知らない」と「知っている」では全く違う。
 ――だからせめてもう少し、オフィシャルに内をさらけ出してくれると助かるっちゃ助かるんだけど。
……足冷える」
「んー?」
 歩幅を大きく踏み出して一歩分の距離をなくし、隣に並んだところで腕を引く。海水で濡れた足が乾いた砂浜に濡れたサンダルの跡を残し、波が運んできた砂利が足についてキラキラと光った。

「これぞアメリカ」
「まさに」
 トレーに敷かれた赤と白の格子柄の紙ナプキン、その上で具があふれ出ている二人分のロブスターロールとオニオンリング。おまけにコーク缶。
 雨風で色褪せた小さなテーブルの上に注文した物を次々に乗せていくと、あっという間に隙間なくカラフルな料理で埋め尽くされた。写真で見たポキは期間限定メニューだったらしく、代わりにオーダーしたビーチフロントサラダなるものをリョータさんが「ん」とテーブルの中央に置いてトッピングに追加したチキンを一口食べた。
「よくメニュー見てなかったけどこれシーザーサラダと何が違うんだろうな」
「いや、たぶん同じ。ソースの味とか」
「だよな? うまいけど」
「口についてる」
「ん、どこ」
「左の端」
 もぐもぐと咀嚼しながら口の端についたシーザーソース(らしきもの)を親指で拭い、それをぺろりとなめ、とれた?とはにかむ。家の外でこんな無防備な姿を見ることも珍しいと思いながら頷くと、再びプラスチックのフォークでチキンとサラダリーフをつついて今度は注意深く口に入れた。
 デッキのイートインスペースには昼食とテーブルを確保しに人が続々とやってきた。こんな絶好の天気の日にわざわざ日の当たらないダストボックスとヤシの木の間に場所をとろうと言ったのはリョータさんだったが、注文を済ませた客がオレたちと反対方向へ歩いていくのを見ながら「狙い通りだったな」とにやりと笑う。
「なんか学生の頃に戻ったって感じ」
「ん?」
「無名のアジア人に話しかけにくる奴なんて滅多にいなかったろ」
「そういやカレッジんときもこういう飯よく食った。ダイナーで」
「あーオレもよく行った。バスケも英語もさぁ、あの時全然余裕なくて……自炊できなかったよなぁ」
 そんな余力残ってなかった、と微笑んでまた海を見つめる。その横顔から、競技人生を経て彼の中で経験してきた苦労や悔しさは昇華されているのだと分かる。苦しいままの思い出に、こんなに穏やかに向き合うのは難しい。
 この人の学生時代を、オレは高校の二年間しか知らない。留学先の州も違ったしNCAAのカンファレンスも違ったから、たまに電話で近況を聞いたり話したり、噂で聞こえてくる程度の情報を知っているだけで。
 それでも分かる。やりきって終わったのだと。選んできた道に後悔など微塵もないことが、その表情が物語っていた。
「欲を言えば」
「おん?」
「アンタと同じチームでもう一回やりたかった」
 コートの上に立つだけでいつだって興奮する。熱はあの頃から変わらないどころか年を重ねるごとに強くなっていく。けれど試合が終わる度に実感する。シーズンも、メンバーやチームも、あの二年間も、すべてが一瞬で過ぎ去っていき、同じ瞬間はもう二度と訪れない。だから本当に、欲を言えば。そして、だからこそ。
「あの二年はずっと忘れない」
 アンタの下でプレーしたあの一瞬は。
 リョータさんの目が大きく見開き、数秒の後やがて眉尻が下がり、くしゃっと笑って「……オレも」と溢した。目の光彩が少し揺らいでいたのは見ないふりをした。
「あのな」
「うん」
「引退、したじゃん」
「うん」
「そんで、……だから、ここは沖縄じゃないけど、海、来たくて……兄貴と父ちゃんに、選手ではなくなったけど、ちゃんとやってるよって」
 ぽつぽつと紡がれる言葉が漣の音を伴って静かに届く。そのペースを邪魔しないように相槌を打ちつつ耳を傾け、今日一日の違和感の正体をようやく理解した。
 兄がいたということ、それと現在の家族の形について、普段は飲まないウィスキーを飲みながら語っていたいつかの夜と同じ横顔。引退した今、この時期はまとまった休みがないから先日の帰国は自分一人だったが、帰れていたら何十年も同じ姿のまま記憶の中で彼を支える二人に会いに行っていたのかもしれない。
 一緒に住んでいるからとか変に気を遣わせないようにとか、そういう理由で言いづらいのかと思っていたが、何か隠していたわけじゃなかったらしい。おそらく自分の中で感情の整理をしながら落とし込み、タイミングが重なったのが今日だった。
 少し言葉に詰まりながらオレに伝える姿を前に、こういうところだけ不器用なこの人の素に触れたようでもあり、受け渡されたような感覚でもあった。
「今日、付き合ってくれてありがとな」
 コーク缶を煽ったリョータさんがもう一度オレを見て笑う。
「言葉にしづらいときにこう出るんだなってのは分かった」
「え?」
「言いたくねーときは言わなくていいけど、必要な時はこんくらい頼ればいい」
 ロブスターロールをパクつきながら言うオレに同じくロブスターロールを食べていたリョータさんの手が止まり、リョータさんの手からはぎっちり詰まっていた具がぼろぼろトレーに落ちた。
「流川、おまえ、そんなこと言うようになったの……
「?」
「危うくオチるとこだったわ」
 もったいね、と言いながらトレーに落ちた具をフォークで集めるはいいが上手く掬えていない。こういうところはめちゃくちゃ分かりやすい。
「オチればいいんじゃねーの」
「そしたらおまえ責任取ってオレにオチろよ」
 テーブルの下で脛を蹴られたからその足に自分の足を絡ませ、足の指で脛をなぞったら素っ頓狂な声をあげたのちに顔を真っ赤にしてジロリと睨まれた。鬼なんて言われていた時代の面影はどこにもなかった。
 ん、と差し出したオニオンリングのトレーからリョータさんがひとつ摘まむ。代わりに中途半端に残ったサラダを「あと全部食っちまっていいよ」と差し出される。プラスチックのトレーが空になるたびにダストボックスに突っ込み、テーブルの色褪せた木の面積が広くなっていく。そう、この感じ。このくらいでいい。
 いつの間にか真上に来ていた太陽はウッドデッキの先でカラフルなドラム缶の椅子に座る人たちの背中を照らしていた。横一列に並んだ後ろ姿越しに見える景色に、ウィスコンシンのカレッジの近くにあったダイナーを思い出す。安くてボリュームがあるものを食べるために同じカレッジに通う学生や当時のチームメイトの行きつけになっていたその店も、こんな風に海が目の前に広がっていた。記憶の中をどれだけ探してもこの人の姿はないのに、別の州で別の海を前にあのダイナーの小さなテーブルを囲んでいるみたいだった。
 
「これ食ったら帰ろ」
 テーブルの上がロブスターロールのトレーだけになる頃、リョータさんが海を見ながら言った。空はまだ青空が広がっていて、未だ雨を降らせそうな厚い雲は見られない。
「まだ天気大丈夫だと思うけど」
 先程の話を顧みてゆっくり海で過ごしたかったのではと聞くと、リョータさんは首を横に振った。
「波が、高くなった。……気がする」
 ――だからずっと見ていたのか。
 些細な波の変化も心地よさを運んでくる風も、この人の感じ方は違うのかもしれない。家族を思う場所でもあり、家族を失った場所でもある海の本質を深く理解し、それはこれからもこの人の潜在意識に組み込まれる。恐怖心は完全には無くならない。それだけの経験をしている。
 だったらそれごと抱えていけばいい。
 一緒に抱えていくことで見えてくる可能性や選択肢がある。オレにそう教えたのもこの人だ。
「リョータさん」
「ん?」
「オレ実は結構稼いでて」
「えっうん。知ってるけど。急にどうした」
「明日なんか予定ある?」
「明日? いや別に……
「じゃあこのままどっかで泊まって帰ろ」
「え」
 ポケットからスマートフォンを取り出してGoogleマップを立ち上げる。今日はこれがよく役に立つなと思いながら朝と同じ動作で現在地周辺を検索するオレの横で、リョータさんがぽかんとしたまま画面を覗き込んだ。
 ――いや待てよ、どうせなら……
 親指と人差し指の幅をぐっと狭めてからこの地域の先端まで表示し、フィルター設定で一泊の料金上限をマックスまでスライドさせて再び検索をかける。
……ここでいいか。こっから一時間半。――Hello? 」
……ちょ、え? おいおいおい」
「I'd like to make a reservation for tonight, so do you have any rooms available? 」
「待て待て待て! ここリゾート地!」
「Yeah, one room‐two adults. ――OK, could you please hold it? ……Thanks, we'll be there soon. 」
「あぁぁおまえ……! オレ節約中なのに……!」
「ご心配なく」
 先週、新たに三年の延長契約にサインした。
 昨季の成績と期待を踏まえての打診だった。話が早いフロントで助かる。
『金は貯めとけ。でも自分のモチベーションとか身体にかかる金はちゃんと使え』。
 初めてプロとして契約を締結したときにリョータさんにもらった助言だ。この人で言うところの服やアクセサリーはそれに該当するのだろうと思った。
 対してオレのクローゼットはリョータさんのそれの半分にも満たない面積で、それすらも持て余している。服は契約メーカーとスポンサーから送られてくるし、たまに買い足すだけで五年は持つ。リーグの選手がつけているような高い時計やアクセサリーも、クルーザーもヘリも興味はない。
 こうして稼いだ金を使う機会がほぼなかったから、図らずしも助言は守られた末にそれなりに貯まった。いちいち貯金額なんて把握していないが、まぁこんな一日だけの突発的な豪遊なんて微々たるもんだ。むしろよほど有意義な使い方に思えた。
 とはいえ五つ星ホテルに財布とスマホと鍵だけではさすがにアレか――
 そういえばドレスコードも聞いていなかったことを思い出し、まず着替えを買える店を探した方が良さそうだった。服はこの人に任せておけば間違いない。楽しそうに大量の服を持ってきてオレにあれこれ当てている姿が目に浮かぶ。
 ホテルに着く頃にはきっと予報通り雨が降り始めている。外にはもう出ないだろうから、やたら豪華な部屋に篭ってウェットバーの酒を飲んでもいいし、やたらでかいベッドに二人で寝そべるのもいいかもしれない。……ゲラゲラ笑ってそうだな。
 そうやって大人になった贅沢を学生気分で存分に堪能して、思い出をひとつ足して、その先でこの人の中の海がずっと凪いでいればいい。