有栖川
2026-03-03 20:11:00
16508文字
Public 天使悪魔パロ
 

ネバーエンド/08

天使悪魔パロのkiis
色々捏造と妄想で厨二病、何でも許せる人向け。最後はハピエンです
nsとna多め。

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08/メリーメリー・バッドエンド





 ——その昔、世界には楽園があった。

 これは夢だ。はそのことを誰よりよく理解っている。だから素朴な花々が咲く小さな村を純白の翼で気ままに飛び逢瀬にはしゃぐ天使の姿を、ぼんやりと宙空に寝転んで、まるで他人事のようにぼうっと眺めているのだ。六枚羽根を翻して天冠を期待と喜びの金に染める男の姿は、今のからしてみれば、滑稽な道化ピエロそのものであった。
 バカだな。
 は冷淡にその後ろ姿を見ている。大バカ野郎だ、その恋がやがてどんな悲劇を引き寄せるかも知らず、無邪気に浮かれきって、この世の春を信じて疑わなかった。

『ヨイチ!』

 天使は、悪魔に恋をしていた。
 なお間の悪いことに、天使は神の寵愛を一番に受けた三大天使ミカエルであり、焦がれた悪魔はかつて天界から堕落した忌子、魔王サタンであった。
 ただでさえ天使と悪魔の必要以上の接触は天界の禁忌とされているのに、そんなことをすればどうなるかは、火を見るよりも明らかだ。だが天使は恋に恋をして盲目になっていた。なまじ己に力があるばかりに、そんな規則など名目以上の意味を持たないと過信していた。己の領分を履き違えていた。手に入らないものがあることを知らなかった。

『こらミヒャ、はしゃいでんなって。図体がデカくなっても子供のままだなお前は』

 悪魔は天使にとって兄であり、恋人であり、家族であり、唯一だった。
 魔王サタンがかつて天界でルシフェルと呼び習わされていた頃、大天使ミカエルはまだ生まれたばかりの幼子で、その力ゆえに孤立していた。力だけではない、あまりに麗しすぎる見目からも、神の依怙贔屓と陰口を叩かれ同じように他の一般天使たちからは疎まれていた。
 唯一の同族と呼べるものとして自分以外の二体の三大天使たちがいたが、彼らとはそりが合わず、いつも、天界の片隅にある薔薇園でひとり蹲っていた。神は寝所で寝静まり、生み出した子らの様子ひとつ見にこない。
 力はあれど、天使は異質であり、孤独だった。
 寂しかった。誰かに愛されてみたかった。
 そんなところに現れたのが、ルシフェルの冠を戴く大天使、ヨイチであった。

『ヨイチっていうのは、人間風の名前ね。俺が自分でつけたの。神様のくれる名前って仰々しいからさぁ』

 はじめて名前を教えてくれた時、ヨイチはそう言って、天使の頬をそっと撫でてくれた。

『ひとりがさみしいなら俺と一緒にいようよ。お前が自分の力をちゃんと使いこなして、一人前の大人の天使になれるまで育ててあげる』

 ヨイチは天使の中でもとりわけ旧い個体だったらしく、出逢ったころには既に成人しており、力の使い方に関しても熟知していた。その頃まだヨイチの半分しか背丈がなかったミカエルはヨイチを兄として慕うようになり、何をするにも一緒になってべったりとあとをついてまわった。
 たくさんのことを教わった。
 幸せなこと。美しいこと。素晴らしいこと。あと神に悪戯する方法。
 満ち足りた日々だった。ミカエルは少しずつ自身に与えられた強大な力を使いこなせるようになり、それに伴って外見年齢も成長していった。やがてミカエルはヨイチの半分から、ヨイチの肩ぐらいの背丈になり、人間でいえば、思春期のはじまり、ギムナジウムの半ば頃の年齢になった。

『ミヒャエル』

 ある日世一はミカエルを呼び出し、彼を神に与えられた役職ではなく、真新しい不思議な名で呼んだ。人間風の名前だ、お前にあげるよ、と、彼は言った。どうして急に名前をくれたのかわからなかったが、ミカエルはそれを喜び、その日から、彼はミヒャエルになった。ミヒャエルは二対四枚の白翼でヨイチの身体を一生懸命にハグした。ヨイチは三対六枚の白翼でミヒャエルの身体を抱きしめ返し、『愛してるよ』と優しく囁いた。
 それが大天使ルシフェルとミヒャエルが交わした最後の会話になった。

 それからすぐして、ルシフェルは死んだとの報せが入った。ルシフェル——ヨイチは神に逆らったのだと告げられ、二度とミヒャエルの前に現れることはなかった。
 ミヒャエルは嘆き悲しんだ。しかしどうしていいかわからないから、気を逸らすために、死に物狂いになって神の尖兵となり、任をこなすことに注力した。硫黄で街を焼き、堕落した人間を裁き、神の執行者として振る舞った。そうして数え切れないほどの歳月が経ち、ミヒャエルはいつしかヨイチの背丈を超すほどの大柄な美丈夫になり、背中の翼はかつてのヨイチと同じ三対六枚になるまでに成長した。
 ミヒャエルが奇妙な悪魔と出逢ったのは、ちょうどその頃だった。

——ヨイチ?』

 神の下命に従い、天界から人界に降りていたミヒャエルは、ある街で無防備に眠りこけている悪魔を見つけた。まだ人々が信心深く、天界と人界、そして魔界の層がはっきりと重なりあい、神秘がほど近かった時代のことである。その頃は、悪魔が人里に紛れて暮らしているなんていうのもありふれた話であり、そういった悪魔を排除するために天使が人に化けて調査をするのも茶飯事であった。
 とにかくミヒャエルは、彼を見つけてしまった。かつてミヒャエルに人の名をくれた大好きな天使と同じ顔をした、漆黒の翼と厳つい角をもつ悪魔を。ミヒャエルは悪魔を忌むべきものと教えられ狩り続けてきた立場も忘れ、その悪魔の寝顔に魅入られた。やがて悪魔は熱っぽい視線にあてられて目を醒まし、あふ、と子供っぽい大あくびをしながら、目を醒ます。
 彼の双眸は美しく深い、海のような青色をたたえていた。
 かつてミヒャエルが愛した彼と同じように。

……え、ミヒャエル?』

 死んだはずのヨイチは堕天し、悪魔に生まれ変わって、生きていた。ミヒャエルは狂喜した。大好きな兄との再会を喜び、子供の頃のように大手を広げて抱きついた。ヨイチははじめミヒャエルの姿に驚き——あまりに大きく、強くなっていたものだから——困惑した様子を見せていたけれど、図体ばかりが大きくなって中身があまり変わっていないことに気がつくと、やがて諦めたように溜息を吐き、昔と同じく、優しく愛してくれるようになった。

『ごめんな。悪魔になったこの身だと、俺から逢いに行くわけにはいかなかったから』

 ヨイチはミヒャエルの純白の翼を撫でながらそう囁いた。

『不文律みたいなもんだ。堕天した罪を負う俺は見つけてもらうまで天使であるお前を視ることが出来ない。引き逢わないようにっていう枷みたいなもんでさ。今こうして喋っていることも、神にバレたらどうなるか分かったもんじゃない——

 囁き声はらしくもなく畏れを孕み、掠れて、強張っていた。ミヒャエルを再び失うことが恐ろしいのだと彼は言った。元々大天使だったヨイチは悪魔に堕ちてもなお強大な力を保持しており、今では魔王と呼ばれるほどの権威を得ていたようだが、しかしそれでも、己の巻き添えになってミヒャエルが傷付くことを怖れていた。
 だがミヒャエルはそんなヨイチの怖れを下らないとして一蹴した。

『ならバレなければいいだけだろう?』

 ミヒャエルには驕りがあった。神の片腕として悉くを滅してきた自身に神が甘いことを理解していた。そして自分の力に及ぶものが、天界魔界あわせても片手ほどしかいないことも。
 隠し通せると思っていた。最愛が手に入るならそれ以外の何も要らなかった。
 ミヒャエルはそれからヨイチが身を寄せるちいさな村に時折出向くようになった。はじめは兄弟のように振る舞い、時折お互いの立場の違いから衝突しては好敵手のように振る舞い、そしてそのうち、どちらからともなく手を伸ばしあって恋仲になった。
 ミヒャエルはヨイチのすべてを手に入れたかった。ヨイチが天使だろうが悪魔だろうが些細なことだった。ヨイチもまた、ミヒャエルを受け入れて求めた。初めのうちこそ成長したミヒャエルに対する僅かな戸惑いを見せたものの、その理由が大人びて美しくなったミヒャエルに抱く胸の高鳴りだと理解したあとは、むしろヨイチの方こそミヒャエルを求め、甘え、溺れていった。
 ——悪魔の名に恥じぬほどに。

『ミヒャエル、好きだよ、好き……大好き』

 ミヒャエルの逞しい腕に抱かれながら、ヨイチは幾度も、優しい声音でそう繰り返した。

『ずっと、お前のことが大好きだよ。……愛してるんだ、ミヒャエル』

 優しく手を伸ばし、ミヒャエルの大きな背中に腕を回して、子供のように愛をねだった。ミヒャエルは求められる度に空恐ろしい程の悦びを覚え、愛を極め、すべてを彼に注ぎ込んだ。

——俺も、』

 ミヒャエルはヨイチの柔らかく甘い肢体に耽溺しながら狂おしいほどの祈りを込めてそう繰り返し続けた。恋いあい、身体を重ね、天使の身に許されざる禁忌と知りながらひとつに繋がる歓びを知ってしまったミヒャエルに、もはやヨイチと愛し合わないことなど耐えられようもなかった。

『俺も愛してる。幾度生まれ変わろうと永遠に、お前だけを愛してる——ヨイチ』

 天使として生を受け、長い永い歳月を美しき楽園で過ごし、それでもなお埋まらなかった己の魂の欠落が、ヨイチと繫がりあってはじめて、埋められたような気がした。
 あぁ、己は、この悪魔とつがうために生まれてきたのだ。
 ミヒャエルはいつしかそう盲信して疑わなくなり、逢瀬を幾度も重ねたある満月の夜、ヨイチにつがいの誓いを結ぼうと持ちかけた。それがミヒャエルにとって最大の、しかし決して消すことのできぬ過ちとなった。
 神は寵愛するミカエルの傲慢をすべて見逃してきたが、唯一それだけは、お赦しにならなかったのだ。

…………えっ?』

 ふたりが誓いを結ぼうとしたその瞬間、神は激怒し、許されざる恋人たちにその鉄槌を下した。
 悪魔と天使の身体は一瞬のうちに蒸発し消滅した。恋人たちの願いは潰えた。そのうえ、二度と成就せぬようにと、神は御自らの手でふたりが二度と結ばれぬための呪いを掛けたのである。
 幾度生まれ変わり、幾度出逢い、幾度恋に堕ちようとも、そのたびすべての悪意をもってあなたがたの血にまみれた手を斬り落とさんがために。

 ——天罰は、今も、下り続けている。

……クソったれが……

 そんな愚かな記憶をたゆたう闇の中で見つめながら、は静かに目を閉じた。
 夢から醒める時が近づいてくる。



◇ ◇ ◇



…………あぁ、」

 目を醒まし、まばたきを繰り返すと、ミヒャエルは力なく声を漏らした。安普請のボロっちいドアに、凍り付いた窓。見慣れた建物のかび臭い天井。ミヒャエルの身体は硬くて狭いベッドに横たえられており、その真上に悪魔が猫のように身を丸めて眠りこけている。

「ヨイチ……ヨイチ、おい悪魔、」

 ためしに悪魔に声を掛けてみたが、彼は力を消耗して疲れ果てているのか、そう簡単に起きる気配もなかった。ミヒャエルは諦めてのそのそと上体を起こし、額を抑える。
 ——アパートの周囲百メートル圏内に下級天使の気配、数は多数。
 自身がそれを感知出来る・・・・・・・・・・・ことに溜息を吐き、ミヒャエルはやれれと首を振る。

「ッ、は……。見つからないワケだ、悪魔の記憶も、失踪事件の手がかりも」

 そうして口からこぼれ落ちたのは、重々しい自嘲だ。
 ミヒャエルはふたたび溜息を漏らした。もうここまで愚かしいといっそ笑い話にもならなくてほとほと嫌気が差す。頭の中で次々とパズルのピースが繋がっていく。思い出せ。失踪事件はどういうタイミングで起きていた? いつもミヒャエルが寝静まった頃にだ。それ自体はそこまで不思議なことじゃない。だが、いくつか、偶然にしては奇妙な符合があったはずだ。
 まず失踪事件はどこでぱたりと鳴りを潜めたのか。
 そのくせ最近になってもう一度だけ起こった理由は何か。
 ……そして事件の夜ミヒャエルが取っていた行動は何か?

「悪魔がやって来て、事件は止まった。だがその後も俺が気絶した夜だけは、二回とも事件が起こった」

 指折り数え、状況をあらためる。加えて今見た夢に、この身体から溢れかえる神気・・。ミヒャエルは三度目の溜息と共に背中から生える忌々しいモノを広げた。凝り固まった肩の筋肉を解放するように思いっきり伸ばすと、その振動で、三対六枚の翼から白すぎる羽根がひらりと落ちる。そしてその羽根に引きずられるようにして、見たこともないはずの光景が蘇ってくる…………
 うらぶれた廃教会。膝をついて無意味な祈りを捧げ続ける男。その姿を朽ちた聖母像に腰掛け、傲岸不遜に足を組みながら見下ろしている。

 ——喜べ。願いは確かに聞き届けられた。

 薄っぺらい笑みを静かに浮かべながら。

 ——お前は選ばれたのだ。その魂が神の御前にゆけることを今生の救いと栄誉とせよ。

「なるほどな。連続失踪事件の犯人は俺か……

 舞い落ちる羽根をつまんでつまらなそうに息を吐くと、ミヒャエルはひとりごち、首を横へ振った。そして今度こそ悪魔を叩き起こすため、指先に力を込めてヤツの顔に手を伸ばす。
 そして今までは一度だって触れられなかったはずの悪魔の頬へ確かに指先を触れ合わせ——耳元でこう囁くのだ。「起きろ、今こそすべての真実を解き明かす時だクソ悪魔」と。



 答え合わせをしよう。一八九八年ミュンヘンにおけるすべての解答を詳らかにしよう。ミヒャエルは起き抜けでぼんやりしている悪魔の頬に手を伸ばし、愛おしげに撫で、そして嘆息する。悪魔の寝顔は警戒心を取りこぼした野良犬に似てあどけなく、こんな時だっていうのにかわいいなんて単語が口から転がり出そうになる。
 結局己はどうしたって、この誰より悪魔らしいエゴイストに惹かれてしまうさだめらしい。神がどれほどの制約を設けたとしても関係がないのだ。
 ミヒャエルはフッと鼻で笑うとおもむろに悪魔の頬を抓った。結構な力を込めて、思いっきり、だ。もう絶対に朝まで寝かすわけにはいかないぞという悪意を込めて引っ張った頬はゴムのように伸び、やがて悪魔は、情けない悲鳴を上げて目を醒ます。

……うぎゃっ!?』
「おはよう。よく眠れたか? 自殺志願のクソ我が侭悪魔くん」

 なにすんだよ! 悪魔が飛び跳ねて、むにゃむにゃとまぶたを擦った。それから彼は自分の頬を抓りっぱなしだったミヒャエルの手を思いっきり払い抜け、ぷんすこと湯気を立てて当たりを見回す。
 窓から見える空は薄暗く、壁の外ではびゅうびゅうと豪雪が降りしきっていた。時刻はまだ深夜遅くだ。部屋の中の明かりは、悪魔がミヒャエルを連れ帰った時に異能で点けた微かな蝋燭の光しかない。
 そう、だからつまり、この街にはまだ悪魔を滅そうと追いかけてくる無数の下級天使どもがうろついていて。
 いつ、この部屋にまで襲ってくるかわかったものではなくって。
 けれど今、そんな有象無象よりもよほど強い神気を放つものが、目の前にいて……

『ッ、そうだ、俺たちは下級天使に襲われて……それでミヒャから、羽根、が、生えて…………

 そこで状況を察し、一気に眠気が吹き飛んだのか、悪魔が言葉を失った。背中から六枚羽根を翻すミヒャエルの姿に、ゾッとしないものを感じ、勢いよく宙空に後ずさりながら。

『ミヒャ——ううん、教えてミヒャエル。お前のその翼は何?』
「何って、見りゃわかるだろ」
『六枚羽根を許されるのは神の寵愛を受けた三大天使だけだ。お前は誰? まさか——天使に乗っ取られた?』
「あぁ……

 ゆえに悪魔はまず第一の疑問を解消しようと慎重に言葉を選び、ミヒャエルを問い詰めた。その緊張感を隠そうともしないピリついた空気に、ミヒャエルは肩を竦めて唇の端を歪める。

「いいや。俺は何も変わってない。お前に恋に堕とされた哀れな人間そのままだよ」
『嘘つけ……! 人間が羽根六枚生やして、下級天使どもを自爆させられるわけない。それに悪魔の俺に触れられるはずが……!』
「ああ、ただの人間ならな。……恐らくだが、俺は天使の転生体だ。悪魔をたぶらかすために神によって人間の身体に閉じ込められた。その際に記憶と——権能を封じ込められて」
『はぁ……?』
「要するに俺もお前と同じ記憶喪失だったんじゃないかってコト。そんで現状、名前しかわからないヨイチくんよりは情報を持ってる気もするが、すべてを思い出せたってワケじゃない。……俺自身俺のことがよくわからないんだ、だからまずこの街で起きていた連続失踪事件——〝ホワイトチャペルの天使事件〟を紐解き、そこから俺の正体を探ってみようじゃないか」
……そんなの信じる理由が、』
「俺は天使の力を使ってでも悪魔のお前を助けた」

 戸惑う悪魔の顔に手を伸ばし、かじかむ頬を優しくさする。悪魔はピクリと肩を震わせ、けれど、複雑そうな表情を浮かべながらも、ミヒャエルの手をはね除けなかった。出来なかったのだと思う。悪魔の方だって、この数ヶ月間ですっかりとミヒャエルに絆されていたのだから。
 ——それこそ悪魔のくせして人間のために命を捨てようとするほどに。

「お前に死んでほしくなかったからだ。勝ち逃げされるなんて真っ平ゴメンで、死ぬなら一緒に死にたかった。なぁヨイチ、俺たちの気持ちはきっと同じだろ」
『ッ……ミヒャ、』
「頼む、俺をひとりにしないでくれ……俺を愛して……愛してくれ、ヨイチ…………

 ミヒャエルが縋り付くと、悪魔は喉を鳴らし、そしてゆるやかに首を振る。切々とした声に、声音以上に雄弁に震えてへたり込んでいく翼、そして何より弱り果てた幼子が親を求めて泣くときのようなその瞳に見つめられて、疑い続けられるほど——悪魔は冷酷ではない。

……ばか。そんな顔されたら、くそ、何にも言えねぇよ』

 悪魔は溜息をこぼし、ミヒャエルのそばへふよふよと飛んでいった。そしてちいさく呼吸を整えると、その黒き翼を大きく広げ……白翼ごと、ミヒャエルの身体をそっと抱きしめる。
 それはさながら子を守る親のように。
 あるいは生き別れた恋人を、変わり果てた姿と知りながら、それでも疎むことができず共に堕ちる意思を決めた愚かな人間の如く……

『俺がいる……ちゃんとそばにいるから、教えて。ミヒャエルの出した答え』

 それから悪魔が子守唄を歌うように囁くと、ミヒャエルはちいさく頷き、彼の知る限りのすべてを話し始めた。



 ——結論から言うと、ミヒャエルが自覚したのは次の三点だ。

 ひとつ、自分は恐らく天使の生まれ変わりであり、その力を持っている。微かだが天使としての記憶も蘇ってきた。……何度も神に罰され、再生・・を繰り返したことも含めて。
 ふたつ、生まれ変わりを繰り返しているのはミヒャエルだけでなくヨイチもだろうということ。天使の記憶には、太古の時代のヨイチの姿があり、数えきれぬほど転生を繰り返してきた記録もあった。一八九八年に現れた悪魔が記憶喪失だったのは、恐らくその中で記憶が漂白され、名前以外の殆どを喪ってしまったためであろう。
 そしてみっつ——〝ホワイトチャペルの天使事件〟の犯人は恐らくミヒャエルであろうということ。それを裏付けるように、過去六件すべての犯行の様子がうっすらと蘇りつつある。神の命に従い、自分と同じ顔かたち、そして魂を持つ天使が人間を手に掛けるそのさまが。

「俺はどうも人間としての器に天使の魂を入れられているらしく、魂だけ抜け出て霊体に変わることで人格をスイッチする仕組みになっていたらしい。そんでその方法ってのが、人間の身体が昏睡状態に陥ること」

 三本の指をぴんと立てたまま淡々とミヒャエルが語ると、悪魔は忌々しげに下唇を噛んだ。

『確かに——ついこの間の聖パウロ教会での被害者が出た時、ミヒャエルは気絶してた。それにその前の、廃教会で被害者が出たと思われる前夜は——
「押し掛け悪魔に契約された直後で、これもやはり気絶していたはずだな」
……条件は揃う、か。でもなんで急にそのバランスが崩れて、人間の自我のまま……

 そうしてブツブツと呟いていた悪魔の言葉が、そこで一度止まる。『あ』悪魔はぽかんと間の抜けた声を漏らすと、パラパラとパズルのピースが嵌まっていくようなゾッとしない表情をして、ギョッとしたように顔を上げる。

——ガブリエルの羽根か?』
「たぶんな」

 ミヒャエルはその言に肩を竦めて首を振った。

「実際にガブリエルのものかは知らないが、とにかくあの時俺の身体に入り込んだ羽根が元々の魂と融合し、力が強くなりすぎたことで完全な制御から外れちまったんだろう。とはいえ神の造りだした肉体という檻は頑丈だった。別に俺は悪魔を滅したくなることもなく今まで通り日々を過ごしていたが、ここに来て無視出来ない大事が起こる」
…………
「愛した悪魔が、目の前で、自分を置いて満足げに逝こうっていうんだ。——許せなかった。そして力は強い怒りに応えた」

 そもそもが、コップのふちいっぱいに、限界ギリギリまで水が注ぎ足されていたような状態だったのだ。
 均衡が一度破れてしまえば、あとは呆気ないものだった。ミヒャエルは己の肉体が既に不可逆な状態に変化しつつあることを自覚している。この翼や円環を一時的に隠すことは、出来なくもないが——最早知らなかった頃には戻れない。
 ミヒャエル・カイザーの肉体は今やどうしようもなく三大天使のソレだった。ここまでハッキリ覚醒してしまえば、人は欺けてもそう長く神を騙くらかすことは出来るまい。

「そもそも、神の目的を考えれば、もう俺を野放しにはしないだろうな……

 状況は限りなく詰みに近かった。下級どもを自爆させて連絡を遅らせ、多少の時間稼ぎをしたとはいえ、その効力も間も無く切れようとしている。
 今こうしているあいだにも、神は自爆で消し飛んだ下級をかき集めて補充し、ミュンヘン市街に放っているのだろう。
 見つかるのは時間の問題だった。そして神に囚われれば、ミヒャエルはきっとまた、記憶を消されて悪魔のことが分からなくされる。
 これまで幾度となく繰り返されてきた悲劇と同じように。
 何度も、何度も、何度も、悪魔を求めるほどに神の怒りに触れ、呪いに絡め取られ、互いに命を失い、生まれ変わって、その繰り返しで魂を磨り減らす。
 ミヒャエルが天使でありヨイチが悪魔である限り、この呪いの輪廻から逃れる方法は無い。かといってこのまま永遠に転生を繰り返されていても、神としては目的が果たせず、埒があかない。

『その口ぶり……お前はまだ、何か知ってるのか?』

 ぼそりと漏らされたミヒャエルの声に、悪魔が眉をしかめた。まだるっこしいのはなしにしろ、のサインだ。掠れて明瞭としない天使の記憶なんぞに頼らなくとも、コイツと共に過ごした数ヶ月間でその表情の意味は嫌と言うほど刷り込まれている。

「いいや。だが推測はできる」

 だからミヒャエルは小さく首を振り、続けて推論を述べ立てていく。

「理由は知らんが、神は俺とお前が転生する仕組み自体には手を出せず長い間手をこまねいているようだ。だがとうとう今世において悪魔は記憶を失い、力を喪いつつあることが明らかになる。そしてこの状況において神は俺に、〝ホワイトチャペルの天使事件〟を指示した」
『えっと……つまり?』
「ヨイチ。連続失踪事件の被害者たちはな、もうどれだけ探してもその肉体が見つかることはないんだよ」

 手のひらを広げ、ふわり、と持ち上げた。
 ミヒャエルの大きな左手の上に、キラキラと輝くまばゆい光が集まり、球体を形作る。それ・・を目にした瞬間、悪魔はゾッとしない表情になり色が抜け落ちたような顔でミヒャエルへ振り返った。

『おい』

 悪魔の唇が震える。紫色に塗られているせいでチアノーゼでも起こしたみたいだ。いや、もしかしたら、本当に気持ちとしてはそんな感じだったのかもしれない。

『それは——そんなモノ、本当にお前の中にあったのか、……それなのに俺は気づきもせずのうのうとお前に取り憑いてたのか?』

 ミヒャエルは悪魔の問いに頷いた。そう、これは、ずっとミヒャエルの中にあった。それこそ悪魔がミヒャエルから感じ取っていた天使の気配の何割かは、恐らくこれが漏れ出たものだ。

「その顔を見る限り既に気付いているだろうが、これは失踪者たちの魂を肉体ごと高純度エネルギーに変換し、抽出したモノだ」

 ミヒャエルの言に悪魔は呻いた。

『ま、さか……俺を滅ぼすために……? そのためだけに、神は信心深い人間達を犠牲にしたっていうのか!?』
「そのまさか、だな。おまけに信心深いだけでなく、本来なら列聖に値するだけの魂を持ちながらこの世に絶望した連中を、わざわざ選りすぐってるときた。死にたいならせめて神のお役に立ちなさいというワケだ、——クッソ反吐が出る」
…………

 押し黙ってしまった悪魔の前で、パッ、と手のひらを閉じて光球を仕舞い込む。エネルギーはミヒャエルの魂に注ぎ戻され、血肉の如く馴染んだ。その事実に悪魔が顔を俯かせる。だがミヒャエルは悪魔の感傷に今この瞬間は見て見ぬ振りをして、話を続けていく。
 だってそうだろう? 本題はここからだ。

「とにかく——これだけエネルギーが集まっていればいかな大悪魔・・・のヨイチくんでも死んで終わりとはいかないだろう。転生する余地すらなく存在ごと消し飛ぶだろうな。そしてヤツの予定通りであれば、俺はそうと気付くこともなく、七人目を手に掛けたあたりで命令を実行していたに違いない。下級天使共の手を借りることすらせず、莫大な時間をかけ自らの命を削り、……非合理的にも」

 そもそも、こんなやり方、効率が悪すぎるのだ。
 ミヒャエルは悪魔の背にそっと腕を伸ばし、その細くしなやかな身体をかいなに掻き抱いた。悪魔はその手を拒まなかった。ただ、聡明すぎるゆえに何かを察してしまったらしい彼は、ミヒャエルの二の句を待たず、小さく鼻を啜っている。
 優しいのだ、この悪魔は。
 天使や神などよりよほど人の心がある。ミヒャエルは首を振ってヨイチの耳元に言葉を流し込んでいく。

「なぁヨイチ、クソ笑えるだろう。神はそうまでして俺の手でお前を消滅させたかったらしい」

 ミヒャエルが囁くと、悪魔は言葉では表しきれないほどの種々の感情でくしゃくしゃになった面を上げ、ちいさく喉を震わせた。

『度を過ぎた力を一介の天使、それも人間の器に閉じ込めた転生体に壊れる寸前ほどに背負わせてまで?』
「そう、それでもだ。その手で自ら最愛を滅ぼしたとなれば、流石の問題児も絶望し、反省・・して、神のもとに戻ってくる——神のお考えはそんなところだろう。クソゴッド様ときたら、魔王サタンに恋した愚かな大天使を、しかしそれでも未だ諦め切れていないとみた」
『はは……ひでぇ話…………
「だから俺は神に一矢を報いたい。……俺たちならそれが出来る」

 静かに、しかし確かに言い切ると、悪魔がゆっくりと顔を上げる。『……なぁミヒャ』悪魔は優しく唇をすぼめ、そしてミヒャエルの頬をそっと撫でた。『お前に触れるのが嬉しいのに悲しいのは、なんでなんだろうな』かつて夢で見た青色かれがそうしてくれたように。『契約してから、ずっとお前に触ってあげたかったのになぁ。叶うのがこんなときだなんて』慈しむように、キスをするように、悪魔はミヒャエルを憐れむ。
 温かく優しい指先で存在を確かめるように輪郭をなぞりながら。

『俺、こんなになっても一応まだ、お前の契約者だからね。そこまで教えてもらえれば、お前が何を考えてるかは、……さすがにもう大体理解ったよ』

 海色の美しい双眸を嘆きの色に染めて、辿々しく悪魔がそう言った。

『確かに今の俺たちなら、理論上、神に一矢報いるのも可能だ。俺たちの記憶・・・・・・を出来る限り完全に戻して、大天使と大悪魔としての権能を復元さえ出来れば、……まぁ出来ちゃうだろうな、きっと』
「ああ、俺は六枚羽根だしお前も大天使と顔見知りの大悪魔だ。……それにどのみちタイムリミットが近い。下級共が形勢を整えきる前に勝負を決めなければ、忌々しい神のいいようにされて終わりだ。悠長に手段を選ぶ時間はない」
『勝利へ向かう合理的思考としてはベストな選択、ってわけだ。でも……
「でも?」
『お前はそれでいいのかよ……

 指先が、ミヒャエルの頬を、甘ったるく引っ掻いた。革手袋に覆われているからさして爪が食い込む感触もなかったが、しかしその代わり、悪魔の心に、深い傷が刻まれたかのような、そんな感慨だけがはっきりと残る。

『本当にそれでいいのか?』

 悪魔が食い下がった。あんまりこういう話は得意でもなかろうに、もたつく舌を一生懸命に動かして、どうにかこうにか、天使の転生体やら何やらとは無関係の、十九歳の人間の魂を探り出し、もう一度繰り返す——お前は本当にそれで良かったのか、と。

『だって俺の知ってる人間のミヒャエル・カイザーは、こんなところで命を投げ出すような予定じゃなかったはずだ』

 悪魔が言った。
 切れ切れに震えていて、今にも消え入ってしまいそうな、儚い声音だった。

『そんな人生設計してなかったじゃんお前、ブツクサ言いながらも熱心に大学通っててさ、学ぶことが好きで、マジで少ないけど友達もいて。教授さんとは口喧嘩ばっかしてたけどなんだかんだ言って楽しそうだった。バイトも頑張って、青春してさぁ、お前の人生これからじゃんか、……でも天使として目覚める道を選べばどうあれそんなありふれた日常には二度と帰れなくなるんだ』
……そうだな」
『そうだなじゃねぇよバカ、お前の人生だろーが! それを、そんな、まるで天使の記憶に振り回されてるみたいに一瞬で棄てちまうなんて、』
——ヨイチ」

 やりたいことがいっぱいあったはずじゃないのかよ。背中を震わせる悪魔の身体を、そっと抱き寄せた。
 悪魔の頬に舌を伸ばして舐め取るとしょっぱくてほのかに甘い。悪魔は泣いていた。無理矢理命を握って言うことを聞かせていたはずの青年の未来を想って、滂沱と涙を流していた。彼はやっぱり、真実、人間の男の子としてのミヒャエルを愛してくれていたのだと思った。ミヒャエルはそれが何よりも嬉しくて柔らかく頬を緩める。

「何か勘違いしているようだから言っておくが、俺は別に転生前の記憶や自我にアテられて自分を見失ったわけじゃない。ただ元から、棄てることに躊躇いがなかっただけなんだよ」

 呟くと、悪魔は、喉をヒクつかせて呻き、ますます涙を溢れ零した。

「俺には元々何もなかった。人生は空虚で、喜びと言えるものは夜毎夢に見る青色おまえだけがすべてだった。自分がどうしてここに生きているのか、理由を付けることができなかった。勉強は……まぁ嫌いじゃなかったが、それだけだ。俺はただ死んでいないから生きているというだけだった。生きることに理由はなく、生まれてきた意味すらも知らない、虚しいクソ物……
——ミヒャ、』
「だが俺はお前と出逢った」

 両手で頬を撫で、支え、悪魔の顔を真っ直ぐに見つめる。悪魔が躊躇いがちに目線を逸らそうとして、けれどほんの僅かの逡巡ののち、諦めたように視線を戻す。
 目と目がかちあい、見つめ合う。
 悪魔はくちびるを震わせ、息を呑み、ミヒャエルの最後の宣告を待っている。

「出逢ってしまったんだ、お前に——ヨイチに」

 だから。
 だからミヒャエルは、あぁ、キスがしてぇな、と——そう思った。

「押し掛け詐欺師同然の悪魔がやって来て、生活が騒がしくなって。生まれてはじめて生きることを楽しいと思った。十九年ものあいだ抱いたことのなかった喜びを知った。はじめて誰かを愛おしいとすら思った。それは他の誰でもないの気持ちだ。俺はお前に恋をしてようやく本物の人間になった。だからこそこの恋を真実にするために、自分勝手にこの決断をする」

 王子様のキスはクライマックスでと相場が決まっているモノだなんぞと、世迷い言を吐く気はないけれど。そもそもミヒャエルは王子様でもなければ童話も本気にしていない、だから今この瞬間身体を駆け抜ける熱は純粋に悪魔への欲情でしかないと理解しているのだけれど。
 それでもお前にキスをしたい。強く願っている——ずっとそれが夢だったのだ。


「契約を果たす時だ。俺はお前の記憶を取り戻す」


 悪魔は息を呑み、天使になりかけている哀れな男の子の頬を撫で返した。『あったかい』悪魔が呻く。『あつい……生きてるんだ、生きてるんだねミヒャ、だからなんだな』ミヒャエルは悪魔の声にただただ頷き返す。お前ならわかってくれると思っていた。だってお前の頬だって、ミヒャエルと寸分も違わず、こんなにあつくてあかく、その命を、魂を燃して輝いている。

『クリスマスには、まだちょっと、早いんだけどなぁ……

 だから最後の最後にボソリと零れ落ちたその言葉は、きっと悪魔がミヒャエルのワガママに根負けして、後戻りできない選択をする覚悟を決めた——その証左だったのだろう。

「いいだろ、……どうせそんな日は永遠に来ないんだ。今まで振り回した分ちょっとはいい思いさせろクソ悪魔」
『俺が取り憑いてた時点でだいぶいい思いしてただろーが。てかさ、どーする? ここまで熱烈に迫っておきながらさぁ、俺のなくなった記憶の中の恋人が、全然関係ない赤の他人だったら』
「草の根分けてでもソイツを見つけ出してお前の眼前で惨たらしく殺し、お前も殺し、そして世界も滅ぼす」
『今のお前が言うとシャレになんねーんだよソレ』

 でもきっと、そうはならないのだろう。
 根拠はないが予感がある。ミヒャエルは悪魔の頬をもう一度なぞる。そこにお前がいることを確かめるために、今自分がここにいることを明らかにするために。ここにいるよと、大声で叫ぶ代わりに——祈りをかけ、その指先でそのまま悪魔の唇をなぞり、続きを促す。

『うん、分かってる』

 悪魔が瞳を閉じ、くちびるをすぼめた。この愛情深く優しい生き物が、自分からのキスを待って頬を染めているのだと思うとたまらなく興奮して、なのにこんなにも悲しくて仕方なかった。ミヒャエルは静かに息を呑み、自分も目をつむって、紫色のその場所へ唇を寄せていく。

————、」

 キスは、唇の皮と、柘榴、それから罪の味がした。
 かすかなリップ音を立てて触れた唇は柔らかく、初めて触れるモノのはずなのに、どうしようもなく懐かしかった。人間のミヒャエルにとっては正真正銘のファーストキスだけれど、きっと魂が覚えているのだろう。その証拠に悪魔の唇が緩んだのを感知した次の瞬間、勝手に舌が伸びて、悪魔の口腔内に入り込んでいたのだからいっそ笑える。
 ミヒャエルは本能に衝き動かされるままキスをする。愛した悪魔の口腔内を貪って、吐息を奪い、唾液を混ぜ合わせ、命を交歓させる。どうか思い出してくれと鼓動の音だけで叫びながら。

『ッ、ぅ、うぅっ……

 どうか。

「ッ、——ぅ、んぅっ、」

 どうか願いよ届いて。

『ふ、ぅ、んんんっ……♡』

 お前が俺のものだったと心臓に爪痕を立てて教えてくれないか。
 これまでもこれからも、未来永劫、お前の自由はそれでもこの愚かな男に絆されて堕ちるのだと。魂にまで刻み込んで、どうか囁きかけてほしい。

——ッ、ぁ、あ、ぁ……

 そうしてどれだけの間、口づけに耽溺していたのだろうか。
 限界を迎えたらしき悪魔がふらりと唇を離し、おもむろにこちらを見上げた。それでもなおぐらぐらと煮えたぎっている悪魔の双眸には、悪魔と同じぐらい必死の形相をして顔を紅くしているのであろうミヒャエルの顔が映り込んでいる。

『そっか』

 悪魔がふらつく腕を懸命に伸ばし、ミヒャエルの首筋を、そして後ろ頭を優しく撫でた。

『そっかぁ……

 兄のように、母のように、家族のように、恋人のように、慈しむように、どこまでも優しく。

『ずっと、ずっと、待っててくれたんだね、かわいい俺のミヒャ』

 悪魔が——いいや、ヨイチが泣きたくなるような声でつぶやいた。

『ほんと、仕方のないやつ。図体が大きくなっても子供のまま。……生まれ変わって、全部忘れてもそれでも俺に堕とされちゃうなんて、ばかだなぁ、……大ばかだ』

 ミヒャエルはその言葉へ静かに首を振って応える。ヨイチの頬にもう一筋、大粒の雫が伝って落ちていった。
 こんなに美しい涙は見たことがない。こんなに愛おしい泣き顔も。好きだ。好きだ、愛してる、その言葉が確かにお互いの胸に響いて、いばらの鎖になって、お互いの魂を確かに繋ぎ縛る。

——バカはお互い様だろ、……お前だって、ヨイチだって、結局俺のことが好きになってただろーが」
『うん。そうだね、そーゆートコが、気が合う部分なのかも。結局俺たちって考えてることが一緒なんだよね昔っから、それこそ一億年と二千年前ぐらいからさ』

 悪魔の黒い翼が、ばさりと広がって、彼自身とミヒャエルを包むようにかたちを変えていった。
 ミヒャエルがそれを真似て白翼をふわりと広げ、ヨイチの身体をすっぽり包み返してやると、悪魔はけらけらと可愛らしく笑う。『楽しかったよ、記憶喪失の生活ってのもさ』転がり出てきた言葉はたぶん本心だ。『お前が引っ繰り返ったり振り回されたりギャースカ怒ったりいろんな表情するのがいっぱい見られたのが良かった。ミヒャって基本マウント取りたがり格好付けカレシだったからさぁ〜……』何しろしたり顔でぺらぺらと喋くっているのだから間違いあるまい。
 ヨイチはそこらの天使より心優しいが、悪魔らしくキッチリと性格が終わってる部分も持ち合わせているので、人を煽ったり罵ったりするときは百倍ぐらい舌が回るのだ。
 最悪だよな。なんだかんだ言って毎度許してしまうのだからミヒャエルも大概ではあるが。

「そんなことより、もう一度だけ考え直すってのはどうなった?」

 首元に顔を埋めてスンと鼻を鳴らすと、ヨイチは子供をあやすようにまた、くしゃくしゃと頬を撫でる。『そんなの決まり切ってるだろ』ヨイチはミヒャエルの頬を撫でるのが昔から大好きだった。太古の昔に子供扱いするなとむくれたら、お前の頬がもちもちして触り心地がいいのが悪いと舌を出されたが、もう大してもちもちしないこんな年頃になってもまだ撫でているのだから、本当は単に好きでたまらなくて抑えきれなかっただけなのかもしれない。
 だったらもうなんだっていいよ。

『約束通り俺の全部をミヒャにあげるよ』
「ああ」
『終わりの鐘が鳴り止むまで、ずっと、ずっと、俺たちは一緒だ』
——ああ」

 全部許すよ、お前が俺を忘れていたことも、思わせぶりな態度をとっておきながら返事をはぐらかしたことも、寝てる間に下手くそな夢ばっかり見せようとしたことも、勝手に精気を吸い取ってご満悦になっていたことさえも、お前がずっと俺を愛してくれていたことさえ確かなら、あとはなんだっていい。

「愛してる」

 だからこっちもお前を忘れていたことは許せよ、なんてうそぶくと——ヨイチは言葉で答えるかわりにポカンと背中を叩いた。全然痛くない。それをフッと鼻で笑って、今度は甘えるように「最後に想い出がほしい」とぐずる。そうするとヨイチは心底しょうのないやつと言わんばかりに大きく溜息をこぼし、ミヒャエルの額にキスをする。

『奇遇だな。ちょうど俺もおんなじ気分になったとこ』

 ヨイチが悪戯っぽく笑んだのを確かめると、ミヒャエルはようやく手に入れた悪魔の身体を強く強く掻き抱き、ベッドになだれ込んだ。
 安普請のボロアパートの外、冷たく吹きすさぶ吹雪を掻き分けて飛び回っている数え切れないほどの下級天使たちの存在を感知しながら——

 それでも今はまだ、この微かな幸福、残り少ない蜜月に浸っていたいのだと……血の味がする唇を強く噛みしめて。



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