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09/キス、熾天使、終わりに天罰
愛してるよ、と、あの日お前はそう言った。
愛している、と、あの日俺もそう囁いた。
それが世界のすべてだった。それだけがすべてだった。何十、何百、何千と生まれ変わりを繰り返して、そのたびいつもふたりはその結論に辿り着き、そしてそれゆえに破滅した。始まりがどんなに最低で最悪でも必ず恋に堕ち、惹かれ合って、最後は恋に殉じるため命を落とす
——その繰り返し。
『ずっと、お前のことが大好きだよ』
いつかどこかで悪魔はそう泣いた。
『幾度生まれ変わろうと永遠に、お前だけを愛してる』
いつかどこかで天使はそう叫んだ。
『俺お前のこと、昔より嫌いじゃないかも』
いつかどこかで悪魔になりかけている男の子はそう呟き。
『お前が好きだ、たとえ世界のすべてを敵に回したとしても』
そしていつかどこかで、天使になりかけている男の子はそう囁く。
漏れ出る言葉たちはまるで涙無き悲鳴の群れだ。神はあと何度こんなクソッタレな悲喜劇を繰り返せば気が済むのだろう? たくさんだ。もうたくさんなんだ、お前と結ばれない世界なんてまっぴらだ、全部全部全部滅ぼしてしまいたい、一度ぐらい違う結末があったっていいはずじゃないか!
いつもそう思うのに、どんなに願っても、辿り着くことは出来ないのだ。
この恋はいったいどうすれば許されるのか。
ただただ慈しむように祈るだけのこの愛は、いつになったら
——あなたの執念から逃れることができるというのだ。
◇ ◇ ◇
あつい。ただひたすらに、あつくて、あつくて、頭がどうにかなりそうだ。
「ぐ
……ぅ
……ぅああっ
……」
二十一世紀の真冬のミュンヘン、そのど真ん中で、カイザーは呻き、じくじくと痛む額を抑えている。天には変わらず厚く雲が垂れ込め、そんな悲嘆に暮れた空を埋め尽くすように〝何か〟たちがうじゃうじゃと漂っていた。そしてそれらの合間からは怒濤のような豪雪がびゅうびゅうと叩き付けてきている。
常軌を逸した天候だ。
こんなの天変地異みたいなものだ、尋常じゃない、すくなくとも家着で長時間耐えられるような状況じゃないのに、まったく寒さを感じない。だってそんなものより、煮えたぎる怒りの方がずっと熱いから。
「あ
——あぁ、あぁあっ
……!」
脳味噌が全部シェイクされて新陳代謝していく。身体が真新しく造り変わる。血液が沸騰する。全身の隅々にまで制御しきれないほどの衝動が駆けずり回っていた。だからカイザーは咄嗟に己の首を絞めようと手を伸ばし、けれど背後で呻く
潔世一の吐息にハッと息を呑み、異様な輝きを放つ黄金の瞳を顕示するように瞬きする。
世界のすべてが引っ繰り返る。
「
——跪け」
荒れ狂う何かに衝き動かされるようにして、パチン、と指先を弾いた。
そうしなければいけない、それが自分には許されているのだから当然なのだという根拠のない確信が、その時カイザーの思考を席巻していた。頭上に浮かび上がった円環が眩く輝く。そしてあたかも神が罪人を処刑するかのように激しくまたたき、
≪
————、≫
その光に〝何か〟たちは為す術なくよたよたと狼狽え、怯えるように震えてはぶつかり合い、カチカチと金属質な音を立てた。
それは紛れもなく彼らの悲鳴だった。
これから間もなく自分たちが消滅すると、〝何か〟たちは
——下級天使たちは、正しく理解していた。
≪熾天使、さま
————≫
天使が呻く。
≪ミカエルさま、こんなところに
————≫
≪御身を、ずっと、探しておりました
————≫
キンキンと耳障りな金切り声を囀り、混乱した下級天使たちが攻撃どころではなくなったように羽根をばたつかせはじめる。その様子に舌を打ちながら、しかし今はそれどころではないと世一の身体を抱きしめ、翼を広げた。ボコボコと隆起して異様な速度で肥大化していた黒い翼を咎めるように純白の六枚羽根で優しく撫でると、怯えて泣く迷子のように寄る辺なかった世一の呼吸が次第に穏やかになり、異形化が落ち着いていく。
「かい、ざ
……? お、俺
…………」
苦しげに歪められていた表情を僅かに緩ませ、世一が、息も絶え絶えに唇を動かした。
「無理に喋るな、深呼吸しろ。
……翼もこれ以上動かすな。精気は無駄に放出せず腹に溜め込んでおけ。お前がそんなコトをしなくても俺ひとりで撃ち墜とせる」
「え
……? てかお前もその格好なに
——うわっ!」
何を言っているのかカイザー自身よくわかっていないのに、口からスラスラと知らない単語が、概念が、流れ出ていく。カイザーは額を抑える手にもう一段強く力を込め、六枚羽根を高々と広げ掲げた。立場の差を分からせる。ふたたび指先を弾くと、白すぎるその翼がカイザーの身の丈の数倍ほどにまで巨大化して展開される。身体が熱すぎるほどに熱い。その意味を本能的に察してカイザーは舌打ちをし、不快な金属塊どもへと照準を定める。
「頭が高い」
凍てつくような宣告と共にパチンという乾いた音がみたび響きわたり、〝何か〟たちの
紡錘形の構造体がぎゅるりとねじれた。
パン生地を捻るより簡単に、指先ひとつで、彼らは細長い紐状へとツイストされていく。「
————っひ、」その有り得ざる光景に世一が息を呑むのが聞こえた。だが構っている暇はない。コイツらの
報復機能が働かないように細工して破壊するにはこうするしかない。
何せ
前回はこれをやらなかったばかりに時間稼ぎに手間取ったのだ、
……前回ってなんだ? さっぱりだが、とにかくこれがベストだ。ミヒャエル・カイザーは不可能を啓示する存在にして合理性を好む男である。無駄なことはしない
——そもそもただ甚振って遊ぶためだけにこんなコトをしている余力は残念ながら無い。
≪どうして、なのですか
————?≫
金属がかち合うような悲鳴。
≪どうして
————≫
天使たちはざわめき続ける。不快な鳴き声が輪唱のように広がっていく。彼らは翼をばたつかせ、命乞いすら許されず、呆然と疑問を述べ立て続けた。忌々しいメロディがカイザーとカイザーに守られる世一の耳朶を打つ。天使たちはなおも嘆き続けている。
≪どうして、悪魔を、庇
————≫
「クソうるせぇ」
パチン。
四度目の音が軽快に鳴るのと同時に、カイザーの瞳が爛々と黄金色に輝き、下級天使たちはポップコーンが爆ぜるようにねじれた身体を弾けさせた。
パン、ポン、パンパンパンパンパンポン!
この世の終わりみたいなポップコーン・パーティーを開いて、猛吹雪の空がキラキラと輝くガラス片のようなものでいっぱいになり、飽和する。天使の死骸だ。彼らはその輝く破片を塵に変え、瞬く間に消滅していく。あとには塵一つ残らない。
その光景に世一が息を呑んだ。カイザーはその青褪めたくちびるを見てぼうっとあたりを見回す。
この空を知っている気がする。
こんなことが昔もあったような、
「
…………、ぁ、」
——だがあれはいつのことだっただろうか。
けれど既視感の正体を確かめるより早く、ドクン、と心臓よりも鋭利な部位が激しく脈打つ感覚が走り、カイザーは咄嗟に己の唇を手で抑えた。全身にあまりにもあつすぎる血が猛毒のようにまわり、脆弱な人の身を蝕んでいく。そして細胞の末端から壊死させんばかりの勢いで荒れ狂い、それから、ごぽり、と、口から血の塊が漏れ出る。
「ぅ、ぐ、ぐぁあっ
……!」
カイザーは耐え難い感触に呻き、立っていられずに地べたへとへたりこんだ。食道の中を、吐き気と怖気が猛烈な勢いでせり上がってくる。酸っぱくて最低なゲロの味よりなお酷い、命を酷使して磨り減らしていることを如実に表す鉄錆の味。
魂が抉れるほど不味くて、舌を噛んで死にたいぐらいの嫌悪感が爆発的に膨らんでいく。
けれど神に祝福されたこの魂は壊れることすら許されないから
——代わりに肉体が抉れ、崩れ、滅びゆこうと藻掻き始めている。それが否応にも分かる
……。
「く、そ、
……これしきで、」
其は人の身にあまる権能を振るいし代償。
神の寵愛を拒みながらその祝福を行使した罪科。
何も分からないはずなのにそれだけがハッキリと脳裏を駆けずり回って、カイザーは乱雑に、忌々しげに、強く、頭を左右へ振った。
畢竟、天使以外の肉体に天の力は劇毒と同じなのだ。
だから痛い。こんなにも苦しい。この力は確かにミヒャエル・カイザーのもののはずなのに、だけど今のカイザーはなまじ
前回より人間としての成り立ちを強く持って生まれてしまったから、
……神との繫がりを中途半端に削ってしまったから、この身はもはやこんな簡単な権能の行使にも耐えられない。それに気付いていなかったのはカイザーの落ち度だった。
……元より気付く術など無かったのだが。
「かっ
……カイザー!?」
すぐそばで、カイザーがのたうち回る異様な姿を見た世一の、引き攣れたような悲鳴が上がったのがわかる。だが、減らず口ひとつ叩いてやる余裕もないのだからたまったものではない。ひゅうひゅう、ぜぇぜぇ、と掠れた呼気を喘がせるのがそのときのカイザーの精一杯だった。血はまだ唇から流れ続けている。ごぷり、ごぽり、と、永遠に終わりなどないのではないかというぐらい垂れ流れ続けている。こんなことをあと数分も続けていたらいよいよこの肉体は限界を迎えて死ぬだろう。
まだ世界一のストライカーにもなっていないのに、ようやく世一と手を取り合ったばかりなのに、まだなんにもできていないのに、自分の中で暴れ回る天使の力を制御できない。どうしたって抑えられる気がしない、
……こんなところで死ぬつもりなど毛頭無いというのに!
——死にたくない!
その瞬間カイザーの脳裏を過ったのはそんな情動であった。だが思い虚しく、身体は加速度的に限界へ追い詰められていく。やがてカイザーは膝立ちでへたりこむような姿勢すら維持出来なくなって、雪に染まったテラスの床へと力なく倒れ込む。
「おいカイザー、ッ、
……カイザー!」
その有り様に、世一がいよいよ顔を青ざめさせた。その表情を見た瞬間、思うようにならないクソみたいな肉体の苛立ちを上回り、こんな顔をしてコイツが自分を求めてくれるならそれも悪くないかという気の迷いが走り抜けて、
——それからカイザーは力なく溜息を吐く。
つくづく、自分はこの男に絆され、狂わされ、イカれ果てていたようだ。
遅まきのうえに他人事のようにそんなことを思って、カイザーは倒れ伏した床の上で大の字になり、荒い呼吸をやっとの思いで繰り返し続けた。
「くそ、ったれ
……」
腕が動かない。
持ち上がらない。脚のひとつも動きやしない。だというのに膨れあがってもとに戻らない翼だけが狂ったようになおも育ち続け、ミヒャエル・カイザーの命を神気に変え、吸い上げている。
世一を守るために手を伸ばした力はつまるところエデンの林檎だった。
これでは助けようとしたはずの世一の二の舞ではないか。翼はいつの間にかテラスのウッドデッキ全域を埋め尽くすほどに成長し、宿主を干からびさせる寄生虫が如く傲慢に振る舞っている。
(このまま死んだら、俺はまた、てめぇの傀儡に戻るのか? クソ
神)
くちびるが凍り付いたように青褪めて、もはや喉を喘がせるのすら億劫だ。
カイザーはぼんやりと滲みゆく視界をゆっくりと揺らし、己の頭上にハッキリと顕現して消えなくなってしまった円環を見上げた。またたく円環はウイルス汚染されてバグったコンピュータのように赤と黒にチカチカ明滅し続けている。それに降りかかって彩る白色は過剰なほど猛烈に吹きすさぶ吹雪に間違いなく、この地は今や人間が生きるのにまったく適さないコキュートスと化してしまったのに違いない。
だがそれでもカイザーは何の温度も感じられず、薄膜に隔てられた遠い国の出来事のように土気色に染まりゆく己の指先を見つめている。
「よい、ち
……?」
錆び付いたブリキ人形のように鈍い手のひらをゆっくりと揺らし、カイザーはその名前を口にした。
どうしてこんなことになっているのだろう。何も分からない。天使どもの消えた空は分厚い雲に占拠されて星すら見えずどす黒くて、地には掻いたはずの雪がしとどに降り積もりっている。白と黒の鬱屈としたコントラストの中、自分という存在がぼやけてちいさくなっていくのを遠くで感じ、カイザーはもう一度その名を呼ぶ。
……よいち。
「やだ、死ぬな、死なないで
……カイザー!」
ハメられたな、と、カイザーはそう思った。
このミヒャエル・カイザーともあろうものが、一時の熱情に気を取られて、自ら道を誤った。遅まきながらその事実が脳を冷え渡らせて、どこまでも熱く煮えたぎっている心の臓とは真反対に残された僅かな自由で事実を分析していく。頭が割れるように痛い。こんな屈辱的な
結末は、世一とのサッカーに身も心も堕落させられた
新英雄大戦フランス戦以来ではなかろうか。
あの時は本当に腸煮えくり返るかと思うほどブチ切れた。それでその後しばらくは、自分でも理解出来ないほど世一に執着して、中継で抜かれる世一が笑ってるのを見る度缶コーラ潰してキレ散らかして、おかげさまであの時期は何着服を駄目にして床を汚したかもわからなかったっけな。
「やっとお前の気持ちが聞けたのに
……!」
だというのに今はお前の声を聞いて終わりに出来るならちょっとは救われるかと思うんだから、
……なんだかおかしい。
「よ
……いち、」
ぐらぐらと茹だって覚束ない視界をそれでも懸命に動かし、声がする方を見遣る。潔世一は、憎悪が灯った紅い瞳をどこかへ忘れ去り、カイザーが惹かれたあの海色の瞳を一生懸命に見開いて名前を呼んでいた。背中から広がる翼は消滅こそしていないものの常識的な
——ハロウィンのコスプレ衣装程度の大きさに戻り、焦りを反映するかのように忙しなくバタバタとはためいている。
それだけで十分か、とふと鼻を鳴らした。それからまったくこんなことを考えている場合ではないと思うが、バカで可愛いなと、そう思う。だってやっぱり、自分のために心を乱されている潔世一を見るのが一番気持ちが良くてクソ快感なのだ。これはきっと生涯治ることのない病なのだと思う。
「すき、だ
……」
零れ落ちた言葉に呼応するように、つんざくような悲鳴が世一の口から上がった。気分が良かった。あの自由を煮詰めて人の形にお仕着せたような男の心をここまで揺さぶることが出来たというのならこんな人生にもすこしは意味があったかと思えて、それから、カイザーは本当に本当の最後の力を振り絞り、世一の指先を握る。
「
——ぁ、」
世一の肩が、ビクンと大きく震え、それから、あの丸い瞳が大粒の涙に彩られて滲み、瞳孔を大きく開かせる。
「あぁぁあああああっ
……!」
世界が白む。ぼやけてたわみ、いくつもの幻が交差する。耳をつんざくほどの絶叫がカイザーの脳味噌を叩いて揺らした。それが全部の最後だった。
間もなく、音を立てて、大地が揺らいだ。
それから天を裂いて雷鳴が轟き、吹雪は激しさをいや増していく。だけどカイザーの耳には世一の悲鳴しか聞こえない。それ以外聞きたくはない。心臓が灼き尽くされるような痛みを抱えながら、ミヒャエル・カイザーは今一度、潔世一の姿を見上げる。
世一の泣き顔に、紫色に唇を染めた別の誰かの絶望が重なって過る。
そしてその慟哭に引き摺られるようにして、いつかどこかで誰かが抱いた愛と絶望と希望の記憶が
——ふたりの中に流れ込んでくる
……。
◇ ◇ ◇
これは夢だ。
でもいつもの白昼夢とは、なんだか様子が違う。一八九八年の煤けたミュンヘンの街ではなく、純白の花々がどこまでもどこまでも永遠に咲き続ける気が狂ったような丘の端で、一羽の天使が、真っ赤な血を流して倒れ伏している。
『あ〜あ
…………』
天使は、自分の命が長くないことを自覚していた。六枚の翼は爛れて羽根が抜け落ち、醜くみすぼらしかった。人間に踏みにじられ死を間近に迎えた鴉のようだった。羽根の付け根から腐り落ちて黒ずんだその姿は、天の御使いというよりは不吉の遣いと評した方がよほど似付かわしい。
『神さまの寵愛なんてほんっとロクでもない
……』
実際のところ、それは正しく天使の死体だった。かつて天使であったはずのものだった。鴉の濡羽色をした黒髪をべったりした赤茶色に染め、彼は呻く。あいつ、こんな姿を見たら、落胆するかな。失望されるかもしれない。それでも俺はおまえを愛するよ。おまえを永らえさせるためならなんだってするよ、神にだって背こうじゃないか、
——あんなクソ野郎になど奪わせてなるものか。
『へ、へへ
……ざまぁみろ。これでクソ神様も、ミヒャの身体を、簡単には使えない。あの子はもうただの
神の似姿じゃない。かわいいミヒャエル、おまえはたったひとりの命なんだよ、心のないスペアなんかじゃ、ない
…………』
天に向かって、よたよたと腕を伸ばす。もうこれっぽっちしか身体が動かせないのだ。それはかつて神にいと近き力を持つとまで言われた大天使の死に様としては信じがたいほどに無様なものだった。しかし悔いは無い。一矢報いた、というやつだ。神は今頃大わらわであろうと思うとあまりに愉快で笑みすらこぼれてきてしまいそうだ。
『俺を愛してくれてありがとう』
力なく伸ばされた指先が太陽に透かされ、熱い血潮が見えた。
神が憎い。今も。あの子を身勝手な寵愛で縛り付けて自由を許さない。そんな横暴が許されるはずが無い。天使にだって誰かを愛する権利があるはずだ。その愛の向かう先が神じゃなくとも、親なら祝福して然るべきだろうが、だからこうしてやるのだ。
『もし、もう一度、生まれ変わって出逢うことがあるのなら。その時もまたお前が、俺を選んでくれるのなら。
……そうしたら今度はさ、』
傲慢なる神よ、わたしはあなたからその寵児を奪いましょう。愛と恋を盗み取りましょう。そのためにすべての犠牲を重ね、代償を払いましょう。この白翼が抜け落ち堕天する罪科をも、至上の栄誉として甘んじ、受け入れ、放埒な忌子として振る舞い続けましょう。
『
……今度はさ、ふたり一緒に、手ぇ繋いで同じ空を見上げて生きてみたいんだ。星が生まれて死んでいくみたいに、恋をして、お前と生きて死にたいよ
——』
ゆえにこの魂は、天使の力を受け止められる唯一の悪魔として生まれ変わる。
繰り返す煉獄の果て、最後のおわりにはささやかな幸せを手にできると信じて
——特別な悪魔に為り果て、この身はあなたのすべてを否定する。
「
————ぁ、」
ハッとして、潔世一は大きく目を見開いた。一瞬の白昼夢が過ぎ去り、周囲には、信じたくもないような狂った現実だけが広がっている。大地は揺れ、天は裂け、大嫌いな雷鳴が辺り構わず鳴り響いている。おまけに白く吹きすさび続ける大地の上では世一の想い人が肩を喘がせ狂ったようにびかびかと円環を煌めかせていて、
「カイザー!」
そこでやっとのことで我にかえり、世一は一生懸命にカイザーの身体へ手を伸ばして抱き寄せる。
「くそっ、あっつ、なんだよこれ
……!」
ぐったりと翼を広げながらのたうつカイザーの身体は、地獄の釜に放り込まれた焼き石のように熱く、およそ人間の身体が宿していい温度をしていなかった。インフルエンザで苦しんでいたときの世一なんて目じゃない。四十度を軽くオーバーして五十度はあろうかという勢いだ。並の人間ならたぶんもう死んでいる
——だがコイツは並の人間ではない。
それは何も、コイツが世一が惹かれたギラギラして餓えた手負いの獣のごとく強靱な精神の持ち主であるという話のことではなく、純然たる事実として、そうなのだ。
コイツは天使だ。だから天に還ろうとしている。
「
……ふざけんな、そんなの許すかよ」
手が、震える。滝のような汗でぐっしょりと湿った朱すぎる頬を懸命に撫で、掴み、引っ掻く。知識や記憶としてではなく魂で、潔世一はそのことを識っていた。この異常極まりない状況と想い人が死に瀕しているという極限の環境下において、理屈を全部飛び越えて強制的に理解させられた。ミヒャエル・カイザーはただの人間じゃない。だから人間にとっての死を迎えることで、歪められた存在証明を定義し直そうとしている。
まず手始めに肉体という不要な枷を棄て、愛と執着とで汚染された魂に初期化をかけるのだ。この熱はそのために起こる免疫反応のようなものだと世一は理解していた。それはまた同時に、ベルリンで生まれ、死に物狂いで底辺から這い上がり、今や世界的なスター選手となったミヒャエル・カイザーという個人を、今度こそ完全に葬り去る為の工程でもあった。
工場出荷時再整備というやつだ。クソ喰らえだよな。
「勝ち逃げすんのか? なぁ? そんなタマじゃないだろお前はさぁ、」
そんなことさせてたまるかよ。
「まだこれからだろ俺たちは、
——俺たちの人生は!」
だってサッカーでだって喰らいきっていない。おまえの人生のすべてを侵食してやらないと気が済まない。それが潔世一のエゴで愛だ。伊達に
青い監獄の申し子なんてやってないのだこっちだって、今この瞬間考えるべきは、オカルトの整合性なんかよりカイザーを取り戻す方法だけだ。
「死なないで」
ゆえに潔世一は祈る。
悪魔が天に祈るよりずっと確かに、ただ、わたしはあなたの心と魂に向けて青薔薇を手折り、願いを捧げ続ける。
変な夢を見る理由も、自分たちの正体が何かさえも、この期に及んではどうだっていい。今目の前にいるお前が愛おしいのがぜんぶで、それだけで構わない。お前を取りこぼす自分なんて許せない。そのためなら俺は奇跡だってこの手に掴み取ってみせるよ。
「死ぬな、死なないで、俺を置いてかないで、
……カイザー」
愛してくれと泣き喚き、喉を鳴らして還りゆく肉体に縋り付く。カイザーの背から生える翼はもはやウッドデッキからはみ出すほどに巨大化しており、三対六枚の翼は、ブレて六対十二枚に見えかねない勢いである。十二枚羽根は神の領域だ。そこまで行きついてしまえば最早後戻りはできない。
だから今ここで、お前という存在を卑俗な愛の名のもとに閉じ込める。
「ここにいるよ」
世一は息を呑み、上気した頬の上でその海色の瞳を細めると、ゆっくりと、けれど確かに、カイザーの唇に自らのそれを重ね合わせた。
以前に世一が暴走した際、カイザーに口移しでおさめてもらったことなんて全然知らない世一にとっては、これが正真正銘のファースト・キスだった。ちゅう、という可愛らしいリップ音が控えめになって、くちびるの感触が世一の全身に伝わっていく。はじめてのキスはレモンの味なんかじゃなくて錆びた鉄の味がした。カイザーの唇が噛みしめられて切れていたせいだ。
きっとこんなの一生忘れられない、血の味のするキスが俺の初めてなのだと潔世一は永劫膝に抱えて生きることになるだろう。
……ただ。願わくばそれが、いつかは笑い話になっていればいいなと、
——それだけを想う。
「っ
……ぅ、ふ、ぅ
……」
そうしていると、やがて、リップキスで触れ合うだけの場所から、ずるり、と、白く煌めく何かが浮かび上がってきて、世一の口の中へと吸い込まれていった。粉雪のように淡く輝く、美しくも熱い燃えるような何か。
天使の力。
人の身に余る、或いは悪魔の身を焼け焦がす神聖の象徴。
「うぅう
……!」
背から伸びっぱなしになっている小さな黒い翼が、びりびりと突き抜けるような痛みに疼いた。でも無視する。ひかりが滑り落ちていく喉がしゅうしゅうと爛れて焼け付く。それも無視。どんなに嘔吐きそうになっても精神力だけで耐えて、世一はカイザーの内で荒れ狂う強すぎる異能を、口移しで、自分の胎内という檻へ閉じ込めていく。
「ッ
………ぅ、ぅうんっ
…………!」
あつい。
あつい、あついあついあつい、ただひたすらにあつくておなかが壊れてしまいそうだ。でもまだ死んでない。だから世一はカイザーの吐息を吸い続け、彼への愛だけでキスを交わし続ける。そうするとそのうち意識がぼんやりとしてきて、薄れて、茫洋と広がっていく。世界はまだたわんでいる。真っ白で、この世の終わりみたいに吹雪いていて、ゴロゴロびかびか鳴っていて、最低で最悪だ。でも
——カイザーの肩の喘ぎがゆるやかになるほどに、とりあえず地鳴りは止まって、猛吹雪も、雷も
……穏やかになっていっている、そんな気がしている。
あとは、これで、雪さえ止めば。
「ふ、ぅ、う、ぁ
……」
少なくとも今すぐにコイツを奪われることはきっとなくなるだろう。
そう想ったあたりで、光景がもう一段ぐにゃりと歪んだ。限界が近かった。世界が白む。遠のいて、手を伸ばしても触れられない。世一はそれでも必死になってカイザーの身体を掻き抱いた。かじかんで感覚の消えた指先で一生懸命に金髪を梳き、熱に浮かされたように頬を撫でる。
汗ばんだ皮膚と皮膚がじっとりと重なり合う。
ぺたぺたと、くっ付いては溶けていく。
世一はめいっぱいカイザーの呼気を吸い取ると小さな黒い翼を懸命に広げて、はためかせ、身体を覆えるぐらいにまで大きく回帰させた。そうしてありったけの力を振り絞ると、世界から隠そうとするみたいに純白の翼ごとカイザーの身体を包み込んで
————、
それから、流れ込んでくる天使の力の中に漂うちいさな記憶のカケラの存在を感じ取りながら、最後の意識を手放した。
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