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07/悪魔、満月、エゴイズム
目覚めるとそこは見覚えのある病室だった。
薬品の匂いが充満した辛気くさいベッドから身を起こすと、輝度を落とした照明を照り返すリノリムの床と、少し間隔を空けて置かれた隣のベッドへ寝かしつけられた見慣れた黒髪双葉の童顔が目に入る。察するに、先日退院したばかりのミュンヘン中央病院、その個室にブチ込まれているのだった。カイザーは目頭を擦り、あたりを見回す。やはり窓際に置かれているパイプ椅子に腰掛けた誰かは、ふわふわした紫色の癖毛を揺らし、本を手に持ったまま寝こけているようである。
「
……ネス?」
そのこれまた見覚えがありすぎる風貌にぽかんとしてその名を口にすると、ぐうすか寝こけていたはずのソイツはぱちんと弾かれたように起き上がり、目を見開き、そしていきなり滂沱と泣いた。
「うわーん! カイザーが起きた! カイザーが起きた!!」
「いやク○ラかよ俺は」
泣きじゃくるネスが寝惚け半分のまますっ飛んでくるのに思わずしょうもないツッコミを入れてしまってから、思い直してかぶりを振る。壁際に掛けられたカレンダーは十二月のままで、記憶にある最後の日からさほど時間は経過していなさそうだった。枕元に置かれていたスマートフォンを手に取り顔認証で開ける。メッセージはネスから送られてきている滝のような履歴だけ。試合をすっぽかしてマネージャーが大激怒しているような様子もない。
「んん
……なんだよ、うるせ
……」
現状を把握し損ねてぼやぼやしていると、向こうのベッドの山がもごもごと動き始め、世一も目を醒ます。世一は世一でぽやぽやしていることを確かめるとかぶりを振り、カイザーはそこで改めて、再びネスへと向き直る。
「
……何があった?」
カイザーが静かに問いかけると、ネスはハンカチでぐしょぐしょと顔を拭いながら鼻声混じりに唇を開いた。
「その、ふたりは、
……大雪の中、道ばたで気絶していたらしいんです」
「エッ!? ど、どゆこと
……!?」
ネスの言葉にまず反応したのは、カイザーよりも事態を呑み込めていなさそうな世一だった。ネスはその反応に「どーゆーコトかなんて僕の方が聞きたいですよ」と怒るよりもむしろ狼狽した様子で口走り、それから、世一とカイザーを順繰りに眺め回してこう続けて行く。
「そのうえカイザーは肩口からにかけて大きく傷が出来ていて、出血もしていたそうで。
……ですがそこにたまたま通りすがった人が救急車を呼んでくれたらしく、ふたりは昨夜のうちにここへ緊急搬送されてきたという話です。ただ救急車が来たときには、その人はもういなかったとか」
「そう、なんだ。そんでなんでネスがここに」
「僕はクラブに連絡が入ったときたまたままだ施設内にいたので、代理人に無茶を行って帯同させてもらって、夜通しここについていました。カイザーが心配だったので。カイザーは親類がいませんし、世一も国内にいませんから、諸々の手続きはクラブがしてくれてます。特にそのへんについての心配はありません」
「
……俺たちの状態について医者はなんと?」
「傷のことなら、幸いにも命に別状はないと。世一は無傷ですし、キミの方も、傷自体はそこまで大きなものでもなかったそうです。
——鋭利な刃物で切られたような痕跡はありましたけど」
ともかくあの豪雪の中倒れていたわけですからひどく悪化してもおかしくなかったところを、どうにか、軽い処置で済む程度に持ちこたえていた、とかなんとか。
ネスの言葉は辿々しく続いていく。ネスだってまだ、何が起きたのかうまく受け止め切れているわけじゃないのあろう。敬愛するカイザーはもちろんのこと、世一だって一応はチームメイトだと思っているから、心配してくれていたのだ
——それこそ夜通し、病室についているぐらいには。
「
……う、ぅ、うぅ。ホント、良かったです、ふたりとも目を醒ましてくれて
——」
だからネスがいよいよ我慢できなくなったとばかり、ただでさえ鼻声だったそれを嗚咽混じりのものに変えたとしても、カイザーも、世一も、何も言わなかった。ただ互いに顔を見合わせ、口々に、「ありがとうな」とネスに告げる。ネスは鼻を啜って叫んだ。「当然です!」でも、それから力なく肩を降ろす。「でも、ずっと後悔してるんです。昨日キミたちを行かせなければ良かった。あの時僕の我が侭でもなんでも止めてれば、通り魔に遭うなんてコトも
——」そして続けざまに語られたフレーズに、カイザーと世一は大慌てでまた顔を見合わせる。
「待て。通り魔?」
カイザーが尋ねるとネスは頷いた。
「ええ、警察はその線を疑って捜査を進めているそうだと聞いています。
……これはクラインが言っていたコトなんで信憑性は話半分ぐらいに聞いてほしいんだけど、どうもあの一帯の監視カメラが壊れていたらしくて、特定に使えないかもしれなくて。ただその割に犯行声明も予告もないので、カイザーの肩の切り口からいっても、用心深い通り魔による無差別犯行の可能性が疑われているとかなんとか」
「
…………」
「もちろん、カイザーか世一のいずれかに恨みを持つ者の犯行というのも有り得ますが
……あの、ところでふたりは、自分たちを襲った犯人について何か覚えていたりはしないんですか?」
「
——それは、」
そうしてポンポンと出てきた不穏なワードたちに目を泳がせ、カイザーは顎に手を当て唸る。
……そういえば、昨日、意識を失う直前、自分たちには何があったのだっけ?
それを殆ど気にしていなかったことに今更気がつき、慌てて首を振った。隣のベッドで世一も同じように唸っている。そう、確か昨日は、昼過ぎに練習を切り上げて、世一と共に図書館へ向かった。そこで有意義な調べ物をして、夕方過ぎ、外に出ようとして、それから
——
それから浮浪者共が天使と仰いでいた〝何か〟と遭遇して暴走した世一がそれを破壊したのだ。
「
——世一」
「
——カイザー」
何があったのかを思い出し、カイザーが弾かれたように顔を上げるのと、世一が引っ繰り返ったような声を上げてこちらを振り向くのが殆ど同時だった。カイザーは慌ててベッドから抜け出し、世一の方へ駆けた。世一もゾッとしない顔のまま自分が身に付けている病院着に手をかける。「ちょっ、え、何してんですかふたりとも?」世一が病院着を豪快にはだけさせ始めたのに気がつき、ネスが素っ頓狂な声を上げた。「そーゆーのは病室ではちょっと、ってカイザーも何して、」だがそのあたりはまるっと無視して世一を手伝い、下着までをすっかりと脱がせると
——世一の滑らかな素肌が詳らかになる。
「
……ない?」
露わになった背筋をまじまじと見て、カイザーは呆けたように呟いた。
「言われてみれば、違和感もないような
……」
夢、だったのかな。自分の背中をさすさすと撫でながら、世一もぽかんとしてそう漏らす。世一の背は綺麗なものだった。肩甲骨がなめらかに盛り上がり、コウモリに似た漆黒の翼が生えていたような痕跡など何処にも無く、無論傷痕も見つからなくって、夏の間の日焼けもすっかり抜けて、いささか生白すぎるぐらいであった。
拍子抜けしてしまい、カイザーと世一はみたび顔を見合わせる。そしてそのままきょとんとしてふたり固まっていると、そのうちネスが辛抱ならないというように肩を震わせはじめる。
「あのですね、まだクリスマスにもなってないのに人前でそーゆーの止めてください! まぁ元気そうだってのは分かったからちょっと安心しますけど!」
ネスの口ぶりは何かを盛大に誤解しているような様子だった。カイザーがぽかんとしていると世一はばつが悪そうに目を逸らし、
……しかしそれから、「ここまで心象悪くなっちゃったんならもうひとつやふたつ
……」みたいなことを唇の端でぼやいて突然こんなことを口走る。
「ところでネス、俺たちが倒れてたって現場でさ、天使を見たって人はいなかった?」
世一の問いかけにネスはじっとりとした眼差しを向けながらさぁ、と肩を竦めて首を振った。
「知りませんよそんなの
……。なんですか世一、まさかお前、急にオカルトに目覚めちゃったんですか? もしかしてマジで前世からの縁がどうこうで自分とカイザーは運命の恋人
——だなんて、ロマンス小説に頭をやられたティーンみたいなコト言い出すつもりじゃないでしょうね?」
「いや何の話? そうじゃなくて、クラインの噂話。ネスも聞いただろ? 〝エンジェル・ドラッグ事件〟
——つまり連続失踪事件の関係っていうか」
相変わらず世一に対しては情けも容赦もないアレクシス・ネスだが、世一の方はそれには慣れ切ってるとばかり適当にいなし、話を続行する。補足を入れられてネスは今度こそ「あ〜
……」と理解したように唸った。「今のとこ、ふたりが発見された場所に他の人がいたって話は出てないそうですけど
……」そして渋々といった調子でリモコンを捜し出し、病室のテレビを点けてくれる。パッと明るく光ったモニタの中には厳めしい顔をしたニュースキャスターが映っていて、ちょうどよくお昼のニュースが始まったところのようだ。
『
——続いてのニュースです。今朝未明、失踪届が出されていた男性ふたりが、シュタルンベルク湖のほとりで発見されました。男性らはそれぞれフライベルクとライプツィヒに住む日雇い労働者で、今もって意識不明の状態です。警察は連続失踪事件に関連しているとみて捜査を進めており
——』
キャスターが朗々と読み上げる内容にあわせて、ふたりの男の顔写真がパッと画面に映り込む。カイザーと世一は糸に引っ張られるが如く猛烈な勢いで四度顔を見合わせた。信じられない。だがふたりには液晶に映し出された中年男たちの顔に見覚えがある。
それは間違いなく、昨日見かけたヤク中と思しき男たちのものだった。
◇ ◇ ◇
それからふたりが退院出来たのは、目を醒ましてから数時間が経ったあとのことだった。ニュースを見て三人して微妙な空気になっていた(ネスは何が何やらという意味で固まっていたらしいが)病室に定時見回りのナースがやって来て、あれよあれよという間に医者を呼ばれたのだ。すっ飛んで来た医者に連れられて軽い検査と説明を受けたふたりは、最後に「三度目は勘弁してね」と口を酸っぱくして忠告され、やっとのことで放免された。勘弁も何も二回とも不可抗力の結果だろうがと思ったが、医者はバスタード・ミュンヘンの古参ファンらしく
——贔屓チームの若きエースがふたりも揃って入退院を繰り返していることに内心ハラハラしてるなんて言われると、なんとなくそれ以上の反論も憚られた。
それから自宅に帰るまで、まんじりともしない空気が続いた。帰りの道は、カイザーのマネージャーがクラブへの報告がてら乗せてくれて、彼はふたりをカイザーの自宅に降ろすとそのままクラブにとんぼ返りしていった。ついでに、カイザーが図書館付近にある駐車場に停めていた車はネスがあとで回収してくれることになった。今の状態のカイザーに車を運転させたくない、というのは、ネス、そしてひいてはクラブの総意でもあった。
「
……はぁ、疲れた。一日ぶりなのに一週間ぐらい家あけてたみたいな気がする」
帰宅して最低限のルーチンをこなすと、世一はすぐさまリビングのソファに沈み込んでぐったりと天井を仰いでいた。無理もない
——カイザーも肉体にだいぶ疲労が溜まっている感じがする。サッカーで発生する心地よい疲労ではなく、ずっしりとのし掛かってくるようないやな倦怠感。その原因が昨日の夕方からにかけての出来事であることに、疑う余地はない。
「
……昨日の夜のことさ、どこまで
……ホントなのかな」
それを示すように、世一がちいさく呟く。
カイザーはキッチンでコーヒーをふたりぶんマグに注ぎながらのろのろと首を横に振った。世一の言葉は力なく、らしくもなく焦燥している様子だ。スリッパの音を立てながらぺたぺたとマグを運んで隣に腰を降ろすと、躊躇いがちに手が伸びて、かじかんだ頬が視界に映る。
「一八九八年に、俺と同姓同名の男が夢で見たものと同じタイトルの論文を書いていたことか? それとも奇妙な形状をした〝何か〟が現れてそれに頭を垂れているヤク中男がふたりいたこと? 或いはお前の背から御伽話に出てくるような悪魔の翼が生えて目が赤く光っていたこと?」
「
——うん。それにもっと言えば、そもそも、俺たちが同じ夢を見ているっていうとこから、かな」
茶化すように問うてみると、世一が、まるでそんな気分ではないとばかりに肩を竦めてからコーヒーマグを受け取る。世一の丸い瞳の中には、戸惑いと、そして恐怖の色が映り込んでいるように思えた。まるで世一には似合わない顔付きだ。
(
……あ)
そう思いながらヤツの目をじっと覗き込み、それから、ふと気付く。ソファの上、ふたりの間にあけられた距離は拳ひとつぶんもなかった。いつの間にこんなに互いの距離が近くなったのだろう。現実逃避のように過った自問自答への答えはすぐに見つかる。決まってる
——あの雷雨の日、大停電の夜から。
(あの時は、世一の真意が読めず、なんだか妙だなと思うばかりだったが
……)
でも、今ならば、受け止められる気がする。
その距離が決して嫌いじゃないことを。
世一があの日何を思ってか間を詰めて隣に座って、色々と教えてくれるようになったから
——その影響を、きっとカイザーも受けたから。
「なんとなくだけど、分かってるんだ。俺があれをやったんだ、って」
そんなカイザーの思いを知ってか知らずか、世一が、拳ひとつない微かな距離を埋めるようにして、マグをローテーブルに置いては手を伸ばしてくる。カイザーは優しく慰めるようにその指先を握り取った。世一の指先は奇妙なほど汗ばんでいる。
恐らく高揚というよりは緊張と恐怖によるものだろうな、と、すぐに分かった。べったりとした脂汗のような滲みは、試合の後、はしゃいだ世一に抱きつかれて移るそれとはあまりに違いすぎる。
「目を醒ました直後は、なんかぼんやりしててあんまりピンとしてなかったんだけど
……」
だからだろうか、指先をめぐる血管が伝えてくる鼓動も心なしかすこし速くて。
「検査受けたりして冷静になってるうちに、だんだん、思い出してきて」
「ああ」
それに応えるカイザーの声も、すこしだけ
——上ずって舌の上で跳ね回る。
「
——自分の背中から真っ黒な翼がせり出して、怒り任せにあの妙ちくりんなヤツを切断した。その感触がまだ手に残ってる感じがするんだよ、
……手なんか使ってないはずなのにな」
「
……ああ」
「でもどこかで、アレは本当に俺なのかなってぽかんとして固まってる自分もいて。まるで自分が自分じゃなくなってくみたいで、
——何にもわかんなくなってく」
今、自分の指先はどんな温度をしているだろうか。
世一の独白を聴く傍らで、カイザーは密やかにそんなことを考えた。手汗がヌルヌルして、気持ち悪くはないだろうか。体臭はいやなものじゃないだろうか? そんなことを考えている場合じゃないと思いつつも、けれど今それを思い描かずにはいられない己の矛盾、それを冷徹に眺め降ろしながら、ミヒャエル・カイザーは潔世一の声をただ聴き続ける。
「俺たちって何なんだ?」
震える世一にいまいちばん必要な言葉が何かを、探り当てるために。
できるだけコイツにいい格好を見せたいと思っている自分をうっすらと自覚しながら。
「いや、違うな
……俺は
——俺はなんなんだ
……?」
普段はサッカーと人を蹴落とすことにしか使わないはずの脳味噌をフル回転させて、ここでだけは失敗したくないと強く願いながら
……カイザーは世一の手を静かに握り返す。
「
——ボードゲームをした日のことを覚えているか?」
そうして必死に探り当てた言葉を、けれど何でもない顔を懸命に取り繕って告げると、触れ合った指先からとくんと弾むように脈打つ感触がした。「
……え?」世一が恐る恐る顔を上げる。「う、うん。
……そりゃ覚えてるけど
……」そうしておっかなびっくり続けられたセリフに、カイザーは目一杯息を吸い込んで、ゆるやかに唇を開く。
「お前にここで伝えないと後悔しそうなことがあるから」
自分でも、どうしてその言葉が口から出てきたのか、完璧に理解していたわけではなかった。
けれど今はただその直感を信じて、カイザーは言葉を紡ぐ。世一が息を呑んだ。だがそれでも口の動きは止めない。「あの日の世一は、急に距離詰めてくるし、停電を口実に引っ付いて寝たがるし、なんというか、妙な感じだった」口走りながら、頭の中に、あの夜の頬を赤らめる世一の顔と、そして昨夜の憎悪を露わにする世一の顔が交互に浮かび上がっては消えていく。どす黒い悪意も、焦がれる少女のような吐息も、どちらも等しく潔世一らしくない。
——そう思う一方で、そのどちらも潔世一なのだと何かが訴えかけてきている。
「おまけに俺のことが昔より嫌いじゃないかもなんて抜かすクセして、突然そこで言いよどんで、それ以上はまだ言いたくないなんぞと抜かしやがる」
「
……そーだな」
「そうだ。普通に考えてだな、単なるルームシェア相手の野郎にんなコト言われても困る。気持ち悪いまであるだろう、だが俺はそのことをイヤだとは思わなかった」
世一が、ちいさく息を呑んだ。
「
——カイザー、」
「いいか世一、イヤじゃなかったんだ。
……今思えばだがな。むしろあつくてドクドク言うお前の心臓の音が、悪くない、ずっと聴いていたいなと、そんなふうに思った。
——お前が潔世一だから」
その声音を閉じ込めるように、カイザーは指先に強く力を込める。この手を離したくない。そばにいてほしい。うまく理由を言葉に出来ないまま抱かされていたいくつもの感情を心臓の内側に抱え込みながら、ミヒャエル・カイザーはもたつく舌を必死に動かす。
そう、コイツは、潔世一なのだ。
それだけで、すべてが、すとんと腑に落ちていくような気がした。アレクシス・ネスでも、ノエル・ノアでも、糸師凛でも、他の誰でもない。口が最強に悪くて、カイザーの人生へ傲岸に立ちはだかり、そして一度ならず二度三度とブッ潰してボロカスに罵り、挙げ句の果てに何度だって一緒にサッカーをしようなんぞと宣ってくる、終わってるエゴイスト。
たとえお前の背から羽根が生えようが頭から角が突き出ようが、ついでに尻から尻尾が生えてこようが
——そんなもので変わってしまうほど世一は生ぬるくない。だったらそれでもういいじゃないか、と。
「世一は世一だろ。それ以上でも以下でもない。俺は潔世一だからこそ今一緒に暮らせているのだろうとそう理解している。他に理由なんざ必要かよ」
だからどうにかこうにかそれを言葉にして伝えようといっぱいいっぱいになって告げると、そのうち、見つめる先にある世一の両の目が、
……大きく見開かれ、見間違えでなければ微かに潤む。
「ふ
……は、おっまえ、慰めるのヘタクソ
……」
「はァ?」
そして転がり出てきた言葉がコレだったので、カイザーは虚を突かれたようになって思わずヤカラ丸出しの声を出してしまった。
「世一てめぇ、人が慰めてやってんのに言うに事欠いて、」
「いや、だって。説明してくれてんのに、何にも説明になってないってゆーか。
……お前自身まだちゃんと分かって無さそうっていうか、まぁそこがやっぱ、結局さ、
イイなって俺がお前に思うトコでもあるんだけど」
「何が言いたい
……?」
「ん
……そう、だな。お前がそこまで言ってくれるんなら、俺もこんなトコで怖がってる場合じゃないか」
クリスマスにはまだ、ちょっと早いんだけどな。世一が呟く。そしてなにがしかの覚悟を決めるように深呼吸を繰り返すと、三度ほど息を深く吸い込んだところで
……ごくりと生唾を飲み込み、カイザーの指を、強く握り返してくる。
「あのさ、今日の夜、一緒に月が見たい」
世一が言った。
厳かに、まるで世界のすべてを敵にでも回すように凪いだ目をして、空恐ろしくなるぐらいまっすぐにこちらを見て。
「寝る前、全部、準備できたら。
……テラスで月を見よう、そこでお前ともう一度話がしたいんだ」
その眼差しに、憎悪を露わにして
暴走していた紅い目の世一がダブる。カイザーは静かに頷いた。ここで退くという選択肢はない。たとえ今この瞬間この手を取ってしまったことが、この先二度と後戻りできなくなるような不可逆の分岐点になったのだとしても
——
「ああ」
この手を永遠に離しはしない。
魂から湧き上がってくるこの渇望のために、ミヒャエル・カイザーは潔世一から逃げたくはない。
◇ ◇ ◇
自宅の一階に設けられたテラスは、昨日今日と留守にしたぶんの雪に覆われ、寒々としていた。遅れて風呂に入っている世一の代わりに早めにテラスに入り、スコップを手にして雪かきをしていると、なんだか色々なことが思い出されて、カイザーはフン、と小さく鼻を鳴らす。
世一がこの家に来たときは、まさかこんなコトになるとは思ってもみなかった。
オカルトじみた話にふたりして一生懸命頭を悩ませるのはもちろん、世一が停電したからといってベッドに入り込んでくるのも、ぴったり間を詰めてソファの隣に座るようになるのも、買い物中コッソリ隠れて手を握りたがるのも、毎日弁当を作って持たせてくれるようになるのも、なにひとつ、想像したこともなかった。だが同時に、それを拒もうと思わなかったのもまた事実なのだ。
潔世一との暮らしは心地よく、ふたりでの生活が〝普通〟になっていくことには快さがあった。
世一がクリスマスを自分以外と過ごす姿なんてやっぱり受け入れたくない。クリスマスはきっと世一と一緒にいることになる。そんな予感が強く浮かび上がってくるが、そのことを考えると、同時に、どこか胸をチクリと刺すような痛みも想起される。
まるで警句のようなちいさな痛み。
——俺たちにふたりきりの幸せなクリスマスなんて果たして訪れるものだろうかという、ある種の確信に近い畏怖が。
「
——あっ、雪かきさせてる!? ごめん、遅くなっちゃった」
どうしてそんないやな気持ちになるのだろう。疑問に答えが出ることはなく、代わりに、ガラリと戸が開く音がして、湯上がりの身体をもこもこのルームウェアに包んだ世一がバタバタと駆けてくる。世一はぴったりとカイザーのそばに陣取って足を止め、そのままミュンヘンの冬空を見上げた。夜空は珍しく綺麗に晴れ渡っており、まん丸の月がこうこうとあたりを照らしているのが目に入る。
「月が綺麗だな」
何の他意もなく呟くと、世一がギョッとしたようにこちらを見上げてきて、それからわざとらしく咳払いをした。
「
……あのさ、〝月が綺麗ですね〟って、日本語だと文字通り以外の意味があるんだよ。だからあんま濫用しない方がいいと思う」
世一が言った。
「どーゆー意味だよ?」
「んん
……場合によっては俺が傷付くことになるし、そうでなければハチャメチャに浮かれることになっちゃうから、後で言わして。それより先に伝えておきたいコトがあるから」
何故か複雑そうな顔でむくれた世一が、もう一度咳払いをして、有無を言わせずカイザーの手を握り取る。世一の指先には、先ほどソファに並んで約束した時よりもずっと多く汗が滲んでいて、カイザーはその汗を拭ってやるために自分から指を広げて手を繋いだ。
世一が繋いでいない方の手を胸に当てる。深呼吸を繰り返し、カイザーの目を見る。射抜くように真っ直ぐに、ミヒャエル・カイザーが好ましく思うあの瞳をして、こちらを誠実に見定めてきている。
「あのさカイザー、俺さっき言ったよな? 暴走してるときの感覚に、なんとなく覚えがあるって」
「ああ」
カイザーが頷くと世一は指先をまごつかせ、それから生唾を呑み込み、辿々しくも確かにこう告げる。
「それと同じで、薄々勘付いてることがある。たぶん妙な夢を見るようになったことそのものが、俺がお前に抱いてる気持ちが変わったせいなんだろうな、って」
「どういう、」
「
——つまり俺がお前に恋したことが、そもそもの始まりなんじゃないかって、そう思うんだ」
その言葉にカイザーは息を呑んだ。
世一の目は真剣そのもので、どこにも嘘を吐いているような様子はない。論理的な根拠こそなくとも(だってオカルトだし)、口にする以上、何か並々ならぬ直感的な確信があるのだろう。ただ、それまでヤツもこの事実から目を逸らしていたというだけで
……。
そもそも世一はこんなコトで嘘を吐いて人を弄ぶような性格ではない。
こういうことに関しては愚直な男なのだ。それをカイザーはいやというほど知っていた。だってそれだけの時間コイツと一緒に過ごしてきて、ふたりでいることが〝普通〟になっていたのだから。
親がそうであったように、恋や愛というものには誠実でいたい。そういうふうに世一自身がこぼしているのを聞いたことすらあった。
——然るにこれはカイザーにとり逃げ道を塞がれたも同然の状況であった。
「あの停電の夜、俺はハッキリ、カイザーのことが好きだと思った。だからすこしずつアプローチをはじめて、最初の夢は、その途中で起こった。そんで共有夢をダシにしてますますカイザーと親密に過ごすようになって、余計に夢を見る機会が増えて
……極めつけは、図書館でお前に言った、あの言葉だ」
「
……世一くんは俺に逢うために生まれ変わって、おまけに何度生まれ変わっても俺のことを好きになるはずだって?」
「うん。
……言葉に出したら、自分でもびっくりするぐらいストンってきてさ。あれホントの気持ちなの、今も変わんないよ、でも
……それを口にした途端、あのワケわかんねぇ〝何か〟が現れて、おまけに俺の背中から悪魔の翼が生えた
……」
状況証拠が揃ってくんだ、パズルのピースが嵌めたくないのに嵌まってくみたいに。世一が首を振って苦しげに呻く。「だから俺、考えちゃったんだよ、病院で検査とか受けてるあいだいずーっと、頭ん中でぐるぐるしてさ」指先が怯えるようにカイザーの手から浮かび上がった。離れていこうとしているのだ。それにハッとして顔を覗き込むと、世一の美しい青い瞳と視線がかち合う。
「もし、おかしなことが起こるのが、俺がこの気持ちを抱いちゃったせいなんだとすれば。
——この気持ちを棄ててなかったことにすれば、俺たちはまた、元の日常に帰れるんじゃ?」
海のように底知れない瞳の中には満月が照り返し、底知れない魅力と、躊躇い、そのどちらもを揺らぎにして映し込んでいる。
「
——世一」
カイザーは強い力で指を握りとめた。逃がすまいとしての行動だった。世一はそれにちいさく息を呑み、いよいよ覚悟が定まったように生唾を飲み下す。
「でもやっぱ、俺はお前のことが好きだよ
……」
隠し切れない朱に頬を染め、誰にも話したことがない秘密を吐露するように、それでいて砂糖細工の毒薬のように甘美な高揚を伴って、潔世一がそう告げた。
「どれだけ棄てようとしても、戻ってきちゃうんだ。出逢ったときの最悪の気持ちを思い出そうとしてもダメ、マジで有り得ねぇ罵倒されて最強にイラついた時の日記を読み返してもダメ、とっておきの、超気持ち良くシュート決めようとしてボールかっさらわれて大荒れした試合の映像見返しても、全然ダメでさ。ミヒャエル・カイザーの憎らしいところをどんだけ思い返そうとしても、その数倍、数十倍、
……数百倍のいいところが溢れてきて、全然嫌いになれない。ただの友達にすら、戻れる気がしない」
お前の隣にいるのは俺じゃないとイヤなんだ、と、紡ぐ世一の声は上ずってまるで子供のようだった。「お前と一番サッカーで通じ合えるのが俺じゃないのもイヤだ」とか、「お前が一番執着する相手も、お前が一番乱される相手も、お前が一番好きな相手も、俺じゃなきゃ許せない」とか言う声も。
まるで我が侭な
お姫様だ。普段のカイザーならキモい死ねで一蹴したくなるような物言いで、社交の場とかで取り繕わなくちゃならないときだって申し訳ありませんがの一言で袖にする、ハッキリ言ってカイザーが一番嫌いなタイプの言動ではないか。
……だというのに。
だというのに世一が言っているならかわいいと、そんな気持ちを抱いてしまうのは、
……やはり、出逢ってから数年間分の積み重ねが、互いの間にあるからなのだと思う。
決して、似た顔の男たちがイチャついている夢を見たからとかではなく。
この誰にも支配されないはずの自由そのものを煮詰めたみたいな最悪のクソエゴイストが、唯一ミヒャエル・カイザーにだけはこうまで乱されてめちゃくちゃにされてくれるのだと
——身をもって教えてくれたから、ただそれだけで。
「
——別にいいだろ、棄てなくて」
だからその自由を守ってやりたいと、そう思った。
「俺だって、お前が一番見ているのは俺じゃなきゃムカつくし、俺以外に笑いかけてんのを見ると未だにクッソイラつく。俺以外とのサッカーで満足されたらコーラの缶を何ダース無駄にしなくちゃなんねぇのか見当も付かない。
……俺以外を好きになるなんて言われた日には、きっと、コーラじゃ気が済まなくて相手の首曲げちまうな」
「
……は? え?
……か、カイザー?」
くちびるが、勝手に、言葉を紡いでいく。全部本音だ。嘘なんかじゃない。つまんねぇクソ台本すらない、アドリブの連続で、あぁ、そうだよな、お前と出逢ってからの日々は、いつだって予測不可能な事態の連続で。
否応なく魂が剥き出しにされていく感覚があって、気がつけばそれに病みつきにされていた。
……まったく潔世一とかいうヤツは悪魔みてぇないきものだ。
「今更なかったことになんかすんな。クソ祟るぞ、日本式にな。あぁだから、そうだ、こっちを向け世一」
コーラなんかよりずっと甘ったるくて中毒性があってイラついて愛おしい。
お前のすべてを俺のものにしてやりたいよ、毎日お前の味噌汁も飲みたいし、しわくちゃのジジイになるまでお前とサッカーしたいし、死ぬ時はお前の腕の中がいいし、遺していくのも不安だから一緒に終わりにしてしまいたい。
「好きだ」
こういうままならない独占欲を、どろどろに凝って固まった執着心を、それでも麗しい名を付けて呼んでいいのだとしたら。
他ならぬ世一が自分も似たような感情を持て余してると告白してくれるのなら
——カイザーだって、これが恋だと認めてやろうじゃないか。
「どうやら俺も、お前にクソ惚れさせられてしまったらしい。繋いだ手を離したくない、離れたくない、お前が好きだ、たとえ世界のすべてを敵に回したとしても」
そんなことをする予定もないはずなのだが、気付けば、自然と口をついて大げさなフレーズが出ていた。「おま、恥ず、厨二病かよ」流石の世一もたじたじになってわたわたとこちらを見上げてきている。〝チュウニビョウ〟とかいう日本語の意味は知らないが小動物のようにまごつく世一が可愛らしくて、握っていた手を離すとそのまま勢いよく抱きしめた。世一は拒まず、僅かなためらいの後おずおずと自分も腕を伸ばして、カイザーを抱きしめ返す。
「うれしい
……」
冬の大気の中で密着して抱き合うと、より互いの熱が伝わり、溶け合い、ひとつになっていくような心地がした。
触れ合った場所から互いの輪郭がわかる。けれどそれすら呑み込んでふたつからひとつになる。頬に掛かるかじかむ吐息がくすぐったくて心地よい。生まれてきた意味を知ったような気がした。こうして心臓の音を重ね合っていると、不意に、そんな想いが脳裏を過る。
——そうだ、自分たちは、こうして抱き合うために生まれてきたのではないか、と。
「
……そういや、〝月が綺麗ですね〟、ってのはさ」
「あぁ」
「〝アイラブユー〟って意味なの、おおむね、日本では」
「
……へぇ」
カイザーの胸元に頬をすり寄せ、埋めて、世一がつぶやく。鼓動の音を確かめながら、愛を囁き、秘めたすべてを曝け出す。カイザーはそれに生返事をして、それから
……上手く尽くせる気がしない言葉の代わりに指先の力だけで応えようとする。
「なら、やはり、今日の月はひときわ綺麗だ」
囁くと世一は少女のように頬を赤らめ、愛らしく笑った。
「カイザーと見る月だからね」
RPGとかだと、満月は、魔物の力を高めるとかなんとか、いろいろ言われてるなあとかも思い出したけど。世一が言う。それがちょっと不安だったけど、それよりもお前が最初に月を綺麗だと言ってくれたから、どこか救われたような気持ちになった、と。
その言葉にカイザーは頷き、今までで一番強く世一の身体を抱きしめる。
世一がもぞもぞと動き、海色と空色のふたりぶんの青い瞳を真っ直ぐにかち合わせて、まるで祈るように
……くちびるをすぼめる。
「もし、俺が、悪魔でも
……好きでいてくれますか」
世一が言った。
——これと同じ言葉を、いつかどこかで、聞いたことがあるような気がする。
その時不意に、カイザーはそんなことを考えた。
もしここに氷織羊がいたら、「あ〜それは日本のレトロゲーのキャッチコピーの覚え間違いやね」と言ったのかもしれないが、仮にそう言われていたとしても、そうじゃない、もっと別の場所でだ、と、確信を持ってそう答えていたと思う。
「世一」
だってこの身体の芯から色めきだつような感覚を、魂が識っている。
覚えている。いつかどこかでも同じ言葉を交わし合ったこと。一八九八年のミュンヘンでも、二〇一八年の日本でもなく、もっと、もっと旧い永遠の中で、交わした約束のことを。
何も識らなくてもその度何度でも恋に堕ちてきた、愚かな恋人たちの祈りを。この魂だけは憶えている
——さながらそれは呪いのように。
「目を瞑るな。逸らさず俺を見ていろ、終わりまで」
カイザーは双眸を細め、世一の耳元で甘ったるく低く囁いた。世一がぽうっと酩酊したように頬を染め、上目遣いにこくりと頷いてくる。唇をすぼめたまま、世一が自ら差し出すようにして顔を近づけてきた。カイザーは無言で顔を寄せ返し、その唇へ食らい付こうとする。
≪
————、≫
けれどエンドロールには、まだ早く。
その口づけは
——叶うまえに、破綻する。
「なっ、ぁ、こいつらっ
……!」
突如として鳴り響いた金切り音に、それまでの甘い空気は一瞬で霧散し、カイザーも世一も弾かれたようにあたりを振り返った。自宅のテラス、その上空を取り囲むようにして、
紡錘形に近い正八面体のフォルムをした金属質の〝何か〟たちが、はためく一対の白い翼とびかびか光る円環を掲げて浮かび尽くしている。
〝何か〟は既に十数体ほどが集結しており、そのうえまだ、ぞろぞろと集まってきている最中のようだった。一体どこまで増える? そもそもコイツらは何だ? 疑問が脂汗に変わってぶわりと滲み、浮かれていた空気を一息に極寒の厳冬へと引きずり戻す。
「〝天使〟
——」
呆然として呟くと、構造物たちは一斉に翼を大きく翻し、無数の羽根をコークスクリューの様に鋭く尖らせて
——一息に墜とした。
≪
————!≫
それは流星群のように美しく、旧約聖書に語られる神の裁きの如く無慈悲で、およそ人間が耐えられるような攻勢ではなかった。サッカーでこの密度の攻撃をぶつけられることはまず有り得ない。こんなもの、安置なしで弾幕シューティングの発狂面をやらされているようなものだ。避けられるはずが無い、逃げる場所もない、ここで死ぬしかないのか、そんな動揺が胸を過るが、それより早く
——世一の目から光が失われ、焦点がぶれる。紺碧の澄み渡った水面のような瞳が、血の色に揺らぐ。
「やめ、ろ、
——やめろやめろやめろっ
……!」
めきめきと音を立てて、世一の身体を突き破り、コウモリの形をした漆黒の翼がその背に顕現した。ばかりかそれでは飽き足らず、世一の頭から真っ黒い異様な形状の角が二本生え出てくる。そのまま世一が青褪めたくちびるで叫ぶと、大気が震え、羽根で造られた無数の
鏃たちが消し飛んだ。〝何か〟たちがどよめくように頭上で揺れて、傍目にも衝撃が走るのが分かる。
≪悪魔
————≫
〝何か〟のうち、真ん中に陣取っていた一体が、耳に障るキンキンした金属音を奏で、鳴いた。
≪悪魔が、目覚めてしまう
————≫
≪滅ぼさなくちゃ
————≫
≪熾天使さまはどこに
————≫
≪集めた霊魂を消費してでも
————≫
ざわめきは一秒ごとに大きくなり、気付けば、自宅の上空は悍ましい造型をした〝何か〟で星も月も見えないほどに埋め尽くされていた。「ぐ、あぁぁあっ
……!」世一が呻くと、翼が大きく広がっていく。世一の図体を飛び越え、二倍、三倍、四倍と膨れあがって、それに呼応するようにまた〝何か〟たちが震え、やがてそれに連動するようにしてドッ、と空が割れそうなほど強く大気が揺らいで、突然有り得ないほど強く豪雪が降りつけ始める。
「あ、あ゛、あぁあああっ
……!」
その状況に至ってもなお、世一は、怒りを剥き出しにして絶叫し続けていた。頭を強く抑えて口の端から涎を垂らし叫ぶその姿は、頭が割れそうな痛みに耐えて暴走している獣の姿を思わせる。「ッ、よ
——世一!」カイザーは叫び、世一の腕を握って引き留めようとする。だが聞こえていない。明らかに正気ではない。翼はますます大きく膨れていく。これでは昨晩と何も変わらないではないか。
このまま放っておけば世一はまた全ての力を使い果たし、倒れるだろう。
それだけじゃない、最悪の場合世一の魂諸共肉体が焦げて爆ぜ飛ぶ、そんな予感が痛いぐらいにカイザーの中で膨れあがって、舌打ちが漏れた。ダメだ、そんなことになったら今度こそ自分は狂ってしまう。認めたばかりの恋心が肥大して破裂し、柘榴が無惨に種を散らすようにあたりを血に染めて、それから、それから、それから
……。
「
——だめ、だ、よいち、」
それからきっと自分は、やはり、世界を滅ぼしてしまうだろう。
お前とただ愛し合うことを許さない世界なんて、必要がないから。
「だめだ
……! 正気に返れ
……!」
必死になって世一の身体を引き寄せ、唇を噛みちぎらんばかりの勢いで叫ぶ。ほんの一瞬脳裏を過った最悪の結末を、受け入れるわけにはいかない。力が必要だ。何か大きな力が。この男を守るための力が、この腕の中に抱き留めて愛し続けるための力が、どこかに
——どこかにあるはずなのだ、だって
だからこそ自分たちは今でもまだこのクソッタレの
下級天使共に追われている、そうだろうが!
「俺を見ろ世一! クソ、クソ、クソッタレが!!」
こんな時に役に立たないで何の為の
神の寵愛だ。
「クソ
神が、俺は
——俺はミヒャエル・カイザーだ! 不可能を啓示する存在、だから
————あぁあああああっ!!」
背中を、何かが、突き破る音がした。
引っ繰り返ったような狂乱の叫びに引き摺り出されるように、めりめりと音を立て、滑らかな背を破って、何かが突き出てくる。それは肩甲骨を食い千切ってばさりと大きく広がり、三対の翼へと姿を変える。
≪
————熾天使さま?≫
その姿を見て〝何か〟たちがわなないた。
異形の構造物たちの前に、至高の六枚羽根が翻る。それこそは力ある天使の証。この世に三体しかいない神の寵愛を受けた御使い、その一角、Michaelの名を持つもの。
「ひれ伏せクソ下々
——」
豪雪の銀世界においてなお白すぎるほどに白い純潔の翼を大きく広げ、世一を庇うように立ち塞がりながら、彼は怯える〝何か〟たちへ宣告をする。
古の昔から其の権能を継承する魂の持ち主として。ミヒャエル・カイザーはその瞳を淡い金色の輝きに染め、頭上に神々しく輝くプラチナブロンドの円環を浮かべながら
——彼自身わけもわからぬまま、二十一世紀ミュンヘンの自宅テラスに君臨していた。
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