有栖川
2026-02-14 11:50:00
19245文字
Public 天使悪魔パロ
 

ネバーエンド/02

天使悪魔パロのkiis
色々捏造と妄想で厨二病、何でも許せる人向け。最後はハピエンです
nsとna多め。

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02/パラノイア・イヴ




 ミュンヘン郊外にあるうらぶれた教会で、男は、膝を突いて祈りを捧げていた。

 天井には穴が空き、分厚い雲に覆われた薄暗い空から僅かに差し込む光だけが、その煤けてぼろぼろになった床板を照らし出している。管理人たる司祭が病で倒れ、通うものもいなくなり、いつしか廃教会そのものになったその場所で、しかし男は熱心に、ひどく熱心に、壊れた聖母像へと祈りを捧げ続けている。

「どうか——どうかお助けください——

 男の身なりは整っており、盗めるものも雨風を凌げる屋根さえも失って盗賊すら寄りつかなくなったその場所にはどう見たって場違いだった。ただ、男の眼窩に嵌まる光彩の褪せた双眸だけが辛うじて彼をこの地に馴染ませている。彼は神に熱心に祈っているし、神を心から信仰してもいたが、しかし己に訪れる救いは信じていなかった。いや教義のうえで唱えられるような死後の救いは辛うじて握り締めていたが、ともかく、今生でその身が救われることはないとどこか諦めているような節があった。
 それこそ物心ついた頃からずっと、——今に至るまで三十余年あまりにわたって。

「私は清く生きました。祈りは欠かさず、貴族の責務を果たし、高潔であり続けました。しかしそれでも子には恵まれず、流行病は妻を奪った。私は……私はもう辛いのです、生きているのがひどく恐ろしい、けれど妻の後を追うことなど許されようもない…………

 聞き届けられるあてのない告解を続ける男の頭に、ふわりと何かが落ちる。
 男はふとそれに気がつき、言葉を切ると、頭をふるって何かを手に取った。それは恐ろしいほど白い羽根だった。白鳥の翼を毟ったってここまで穢れのない純白をしているだろうか。男はハッとして、それまで俯いて見えていなかった聖母像の上を見上げる。

————あなた、は、」

 そこには、六枚の翼を拡げた天使が浮かんでいた。

 聖母像を腰掛け椅子にするようにして尊大に足を組み、錆び付いて顔の溶け始めた聖母像の頬を興味なさそうに撫でている。不敬には思わなかった。それを赦されて然るべきと思わずにいられないほどその天使は神々しかったからだ。圧倒的な存在感を放って君臨しているにもかかわらず地上のいずれにも一切の影を落とさぬその姿は、彼が明らかに尋常の存在でないことを示している。
 男は惚けたように口を開いたまま固まった。そして頭上におわす神の御使いに諸手を掲げて合わせ、額を地べたに擦りつけるようにして頭を垂れる。

「喜べ。願いは確かに聞き届けられた」

 その姿に天使は静かに微笑みを浮かべた。

「お前は選ばれたのだ。その魂が神の御前にゆけることを今生の救いと栄誉とせよ」

 翼が広がる。六枚羽根が翻り、鈍灰色に覆われていたはずの分厚い雲が切り裂かれ、天使を彩るように天光が差した。男は平伏し涙した。あぁ、これで。これでようやく救われる。わたしは天に昇り、熾天使の手によって神の恩寵を受けることが出来る。

「天使……さま……

 もはや何も恐れるものはない。
 男は恍惚のまま天に向かって腕を伸ばし、そしてほどなくして事切れた。天使は満足げに頷くと、男の身体に腕を伸ばしてその身を眩く輝く光の球へと変え、懐に仕舞い込んだ。そしてつい先ほどまで男がいた場所に一瞥すらくれず、一瞬のうちにその場から消えてしまう。
 あとには白すぎる羽根が一枚と、男が身に付けていた衣服だけが残るのみ。


 ——〝ホワイトチャペルの天使事件〟五人目の被害者は、そうしてこの世から消え失せた。
 


◇ ◇ ◇



——おい、大丈夫か? 生きてる? 頼むから契約した瞬間いきなり死ぬとかは勘弁してくれよ〜…………あ、起きた』

 一瞬、意識が飛んでいた。
 ミヒャエルは勢いよくごしごしと顔を擦り、それからハッとして何度も瞬きを繰り返した。窓からは記憶の最後にあるのと同じ夕暮れの光が差し込んでおり、そして……ミヒャエルを覗き込むように頭上に悪魔が浮かんでいる。その時妙に視線が低いなとようやく気がついたのだが、どうもミヒャエルは気を失って床に倒れ込んでしまっていたようだった。

『は〜、良かった。精気吸いすぎて殺しちゃったかと思ってまーじで冷や冷やした。やーっと見つけられた契約者だってのに、奴隷労働させる前に死なれたらなけなしの魔力使っただけ損するとこだったわ』

 悪魔はやれやれと肩を竦め、黒手袋に覆われた手の甲で額を拭っている。よくよく見てみると悪魔は仰向けに倒れたミヒャエルの身体に跨がるような態勢で乗り上げてきていた。重さを感じないので気付くのが遅れてしまったが……なんというかこのはしたなさは流石に悪魔を名乗るだけあるという感じだ。

「は……? 契約? 奴隷? 何を言ってるんだ……お前は?」

 どこか陶然とした気持ちを未だ引き摺りつつも、ミヒャエルは悪魔が放言した聞き捨てならない単語たちを並べて慎重に訊ね返す。すると悪魔は外套コートの下から伸びている妙ちくりんな形の尻尾を飛び跳ねるようにぴんと伸ばして、薄ら寒い笑顔を浮かべると蛇のようににたりと口角を上げる。

『何って言葉通りだけど? 契約はもう成立してる。お前は一生、俺の記憶探しツアーを代行する奴隷。俺から逃げることは出来ないから、大人しく言うこと聞けよ〜♡』

 そして放たれた傍若無人にも程がある物言いにミヒャエルは表情を失い、ピシリと固まった。

「ハ? 普通に嫌だが……

 確かに、ミヒャエルは繰り返し夢で見た青色に逢いたかった。何故かお前がそうなんだろうなという気もしている。逢えたこと自体には感慨深さを感じないでもない。
 しかしそれだけで、こんな意味不明でいかにも怪しい悪魔の奴隷になる予定はさらさらないのだ。こちとら課題とバイトで忙しい貧乏苦学生である。

『あ? 今更そんな狼狽えても無駄だけど。俺は名を訊ね、お前は名を差し出した。悪魔と人間の契約ってのはそれだけで完璧に成立するもんなんだ。たとえそのへんの諸説明を済ませていなくても、相手が迂闊にもペロってさえしまえば』
「おいつまり騙し討ちじゃねーか!」
『何とでも言えよ、とにかくお前の魂はもう俺のもんだから。すくなくとも死ぬまでは返さない。えーと、ミヒャエル……なんだっけ?』
「ッ……うろ覚えなら返せっ、このクソ詐欺師!」

 バッと手を伸ばし、咄嗟に悪魔の腕を引っ掴もうとする。自慢じゃないがミヒャエルは体格がいい。お世辞にも恵まれてるとは言い難い食生活を送り(シスター達は頑張ってくれていたが、まぁ育ち盛りをカバーできるほどではなかった)、軍人たちのようにがむしゃらに鍛えてきたわけでもなかったというのに、生まれつき骨格が良かったのかそれなりに上背があり筋肉もついている。特に握力には自信があり、その気になって万力で締め上げたヤツに逃げられたことは一度もなかった。だからこのクソ悪魔もふん縛って上下関係というものを分からせたうえで、契約とやらを解除させようと思ったのだ。
 でもそうはならなかった。

『無駄だよ、ただの人間じゃ俺には触れられない。つーか、本来なら姿すら見ることも出来ない。俺はお前にしか見えてない幽霊みたいなもんだ。下剋上ならとっとと諦めろ』

 ミヒャエルの腕は、悪魔の身体をすかすかと通り抜け、虚しく空を殴った。行くあてを失った拳がだらりと地べたへ落ちていく。ミヒャエルは呆然として、今度こそ信じられないものを見るような目をして悪魔を眺め見る。

「クソ悪魔が……
『だから最初からそー言ってんじゃん。とりあえず抵抗は無駄だって理解してくれた? その気になればお前の心臓とか触らないで握り潰したり出来るんだけど、それでも疑うなら優し〜く撫でるところから実演してやろっか?』
「要らねぇ、いーからそこから退け……!」
『ん? あぁ——

 そして調子に乗りまくってる悪魔をしっしと手の動きで払いのけようとすると、悪魔はふっと視線を下へ落として何かに気付いたようににんまりと唇の端を釣り上げる。

『溜まってんねぇ〜、ミヒャエル君♡ まぁ俺触れねぇからなーんもしてやれねぇけど。気が向いたら今晩、エロい夢くらいは見させてやろーか?』
「マジでふざけんな!! もういいからとっとと記憶探しとやらの説明をしろ、考えるのはそのあとだ!」

 ミヒャエルの兆した中央を思いっきり指で差し、悪魔はけらけらと笑っていた。屈辱だ。こんな恥辱これまでの人生で一度だって味わったことがない。生きてようが死んでいようが同じ、いつ逝ったっていいと思っていたしょぼくれた思考に、急激に怒りという劇薬が叩き込まれてミヒャエルの頬は見る見る間に生き生きと紅潮し始める。
 あ゛〜クソ、覚えてろよ。絶対にいつかいつかクソ理解らせてやる——地獄へ堕ちろ、クソ悪魔が!



 苛立ちと共に起き上がり、ベッドに腰掛けると、悪魔は大人しくふよふよついてきてすぐ真横に腰を落とした。いやお前触れないし浮いてるんだから座る必要ねぇだろと思ったが、訊くと『なんか座りたかった』などと宣う。ミヒャエルは何もかも全てが面倒になって悪魔の好きにさせることにした。そうして悪魔がとうとうと語って聞かせたことによると、彼の置かれた状況はこんな感じらしかった。
 まず悪魔はどこから来たかわからず、気がついたらミュンヘンのこの部屋の中に現れていた。そして、何も覚えていなかったものの、協力者を手に入れて記憶を見つけなければという焦燥感があった。そのため一度は窓から外に出て使えそうな手駒を探していたものの、悪魔を視ることの出来る人間がひとりも見つからなかったんだそうだ。

『で、こりゃ〜無駄骨だなと思ってこの部屋に戻って来た。ここに顕現したからには何か意味があるというか、部屋主に関係があるのかもって思ったから。そしたらビンゴ。見た瞬間、コイツだって魂がざわついた。俺が視える、特別な人間だって——

 そうしてある種の運命を感じた悪魔はご存じの通り詐欺紛いの手口でミヒャエルとパスを結び、今後は記憶探しの走狗とするおつもりらしい。

「俺は犬じゃない」

 ミヒャエルがせめてもの抵抗をすると悪魔はきょとんとして小首を傾げた。

『あぁ、確かにお前どっちかっつーと犬より猫っぽいよな。プライド高そう』

 そういうことじゃねーよ。ミヒャエルは秒で反論を諦めた。

『ただ記憶探しっていっても、どうしたら見つかるかみたいなのは全然わかんないんだよね。だからしばらくはお前が行くところに色々着いてまわって情報収集に努めようと思ってる』

 そのうえ恐るべきことにこの悪魔、行き当たりばったりのノープラン野郎だった。
 いや、記憶が無いうえに手がかりのひとつもないのだから、仕方ないと言えば仕方ないのだが……

 それにしてもこの無計画ぶりでは計画達成がいつになるのかまるで想像が付かない。しばらくは普段通りに過ごせばいいというのは悪くない話だが、それはそれとしてこのペースだとマジで死ぬまで付きまとわれかねないんじゃないか。こんな意味不明な悪夢みてぇな存在に?
 というか今更だが、悪魔との契約って、普通は人間が生前に願いを叶えるために結び、死後魂を明け渡すとかそういうものだったような気がするのだが。
 こんな押し売り契約、人間の側にメリットがなさ過ぎる。そこらへんこの悪魔はどう考えているのだろうか。ミヒャエルがやってられるかバカ野郎と吐き捨ててこの場で自害した場合、契約に使ったであろうなけなしのエネルギーが無駄になる、と先ほど悪魔自身が言っていたはずだ。であるならばそれを回避するためのニンジンぐらいは本来あってしかるべきでは?

『えっ』

 そう思って訊ねると悪魔は固まった。さっきまでの調子こいてるアホ面が見事に凍り付いている。

『お、俺の友達になれる……とか?』

 挙げ句の果ておずおずと提案してきた内容がコレだったので、どうやらコイツは後先考えないポンコツ悪魔の類で間違いないようだった。

「結構だ。誰がてめぇなんぞに友愛なぞ感じるものか」
『そっ、それなら——エロい夢見せてやるのは!?』
「マジで要らねぇ、お前の夢はクッソセンス無さそうだし」
『なんだよその決めつけ、確かに俺今記憶喪失でテクにはやや不安が残るけど! 多分俺すっげー悪魔だからな、多分……何の証拠もないけど……
「驚くほど信用できねぇな」

 溜息を吐き、大仰に首を振る。ここでホントに死んでやったら面白いかもなと思う気持ちがミリぐらいはあったが、それよりも、ミヒャエルはやりかけの課題や研究の方が気懸かりになってしまうような、比較的真面目な大学生だった。ノエルのツラは嫌いだが勉学は面白い。ペンひとつでどこまで道を切り開けるのか、やってみたいという気持ちは確かにここにある。

「はぁ、ったく。とにかくてめぇがクソお間抜けちゃんだということはよく分かったよ……

 まぁ、とにかく、これ以上有益な情報をここで望むことは出来ないだろう。
 ミヒャエルは腰掛けていたベッドから腰を浮かすと、そのまま、ランプも付けずにベッドに入り込み、横になった。ギシギシと軋む安普請な音に悪魔がきょとんとした顔をする。

『えっ、もう寝んの? 別にいーけど、飯は?』

 黄昏から紺碧へと染まり変わる曖昧な空を窓の向こうに眺めながら、ミヒャエルは緩慢に首を横へ振った。

「ただでさえ徹夜でレポート提出したあとだったんだ。てめぇのせいで余計に疲れた、別にいい。元々そんなに丁寧な生活はしてねぇし、今日はバイト行ってねぇからまかないも貰ってねぇし」
『えぇ〜、苦労してんだ、そのツラで……
「どーゆー意味だよ」
『綺麗なのに。その気になってフル活用すれば好きなだけ貢がせられそうじゃん』
「興味ねぇな。俺は人間が嫌いなんだ。自分のツラにも飽き飽きしてる。つまんねぇ女共が寄ってくるのも、キモいジジイ共に色目を向けられるのにもウンザリだ。俺に唯一神の思し召しがあったとしたらクソ共を退けられるこの腕力と体格ぐらいのものだろう。それもクソ悪魔様には通用しなかったわけだが」

 嘲るように神の名を舌の根に乗せて、そして自嘲気味に笑んで薄っぺらい掛け布団を引っ被った。それでもミヒャエルは恵まれている。この年まで死なずに生き延びた。拾い育ててくれたシスターは善人で、更に善人のジジイに奨学金制度へ繋いでもらえたおかげで高等学校から大学にまで通えている。それなりに悪くない人生なのだ。ただ生きているという感慨がないだけで……どこか守られている・・・・・・かのように、ミヒャエルの人生はギリギリのところでいつも最悪を免れる。
 でもそんな薄ら寒い奇跡もきっとここで終わる。

「だから……あと出来ることと言えば、目が醒めて全部夢になっていることを祈るぐらいだ……

 まぶたを閉じると、思い出したように身体に疲れが襲ってきて、呂律が回らなくなってくる。夢であってほしい。口でそう言いながら、けれどミヒャエルは、本当にそうであろうかと頭の中で自問自答をしていた。生まれてきた意味のない人生に、この悪魔はそれをくれるのではないだろうか。どこかそんな気もして、答えのない迷宮の中……ミヒャエルは抗う術もなく意識を微睡みの奥底へ沈めていく。

……夢じゃないよ』

 遠くなっていく現実と理性の河岸で、ぽつりと悪魔が言った。

『俺たちは、出逢うべくして出逢ったんだ。なんとなくだけど、そんな気がしてる……だからきっと俺は、お前に逢いに来たとそう思ったんだ』

 そのぼやけて不明瞭なはずなのにハッキリと耳に届いたごくちいさな独白を子守唄にして、その日ミヒャエルはいつもよりずっと穏やかな眠りに就いた。



◇ ◇ ◇



『おはよ』

 目が醒め、瞬きをすると、朝の光と共に甘ったるい声音が鼓膜を叩く。どうやら一晩経っても悪魔は消えておらず、契約だの奴隷だのといったふざけた話は夢に消えてくれなかったらしい。「今何時だ……」ミヒャエルはグズグズと唇をもたつかせ、まぶたを擦った。『八時だけど。寝てて大丈夫?』そして悪魔の告げた時刻に遊んでいる暇はないと判断し、低血圧の頭を自ら叩き起こす。

「ギリギリってところだ。別に講義に出席義務はないからな、一限はどーでもいいんだが。昼過ぎから担当教授とディスカッションの予定があってその準備をまるでしていない」
『やばいじゃん』
「今が八時なら間に合う。そろそろネスが差し入れ持って誘ってくる頃……来たな」

 悪魔への説明を遮るように折良くノックの音が響いて、ミヒャエルがのたのた寄っていって内鍵を回すとすこし置いてドアが開く。「——おはようございます、カイザー」廊下からぱたぱたと入ってきたアレクシスはベッドサイドにふよふよ浮かんでいる不審人物なんかには目もくれずミヒャエルの前に立った。そして尊敬と友愛の眼差しを端正な顔立ちに向け、次の瞬間、色男の相貌を台無しにしているボッサボッサの髪の毛に気がつき絶叫する。

「って早く着替えて! あと朝食はバスケットでそのまま持って行って、僕が持ち出したことにしておくから。髪梳かすの手伝いましょーか?」
「ああ、頼む」
「はいっ!」

 アレクシスはミヒャエルの言葉に尻尾を振る犬よろしく跳ねて喜び、甲斐甲斐しくお世話を始める。この下宿の末孫が何故こんなに自分に懐いているのかはミヒャエル自身分かっていないが、とにかく彼はミヒャエルの世話を焼くのをこの世の喜びのひとつにカウントしているようなのだ。
 まぁ今に始まったことじゃないし楽だからどーでもいいのだが。そう思って、シャツを着替えながら不意に後ろを振り向くと、むっすりと唇を引き結んだ悪魔の顔が目に入る。

『むぅ』

 悪魔は、ひどく面白くなさそうな顔をして、もごもごと唇をもごつかせていた。

『いるんじゃん……友達…………はぁ……?』

 そして何故かキレていた。そういえば昨日契約のメリットとして『俺と友達になれる』とか意味不明な提言をされた気がする。初対面の悪魔にすら友達がいないと思われていたらしい。ミヒャエル自身がアレクシスを友人に含めていないので実際にはその通りなのだが。

『はぁあ…………?』

 しかしそれにしたってそこまでキレられる謂れはねぇだろ、昨日会ったばっかりの他人に。
 ミヒャエルは首を傾げたが、悪魔ときたら頬まで膨らませてぷんすかし始める始末だ。マジで何? お前は俺の何なんだよ? しかし訊ねる暇はなかった。鼻歌交じりにミヒャエルの髪を整え終えたアレクシスが、「はいっ、準備万端です! 行きましょう!」とものすごい笑顔でミヒャエルの腕を引いたからだ。

『俺と契約しておきながら?』

 最終的に悪魔は何故かアレクシスにガンまで飛ばしてきていたが、アレクシスの方は何も感じた雰囲気がない。やはり視えていないのだろう。気付かずにいられるのはいいことだ。黙っていれば夢の中の青色かれそのもので可愛らしい姿形をした悪魔が、自分をガキくせぇツラして睨み続けているなんて。知らないでいられるならそれにこしたことなどない。じっとりした視線を頭に受けながら下宿を出るハメになっているミヒャエルは強くそう思う。
 ……つーかそもそも、お前の契約はただの押し売り詐欺だろうが!

 何一丁前に親友面でむくれてなんかやがる、情緒不安定か?



 結局、大学に向かって、講義を受けて、昼食を食べ終わる頃になっても、悪魔は不機嫌なままだった。
 不満を隠そうともせず頬を膨らませてぷんすかそっぽを向き、そして時に、真面目に講義を受けているミヒャエルへと嫌がらせを仕掛けてきた。主にやたらと頭をわしわしするとか、ふーっと耳元に息を吹きかけてくるとか、頬をツンツンしたあとやたらと撫でてくるとか。悪魔のやることがこんなにせせこましいなどと知りたくはなかった。そのうえ実体が無く触れあえないのでそれらのみみっちい嫌がらせにも実質的な意味がないだなんて、あまりにも虚しすぎて憐れに思えてくる。

『ふん、こいつなんかこうだ、こう、なんかミヒャエルに馴れ馴れしいし……

 そして今はというと、ミヒャエルにくどくどと講釈を垂れてくるノエルに纏わり付いてその頬をツンツンしている真っ最中だった。率直に言ってダサい。出逢った瞬間は青色かれと混同して美しく愛おしく、ある種の神々しさをさえたたえているようにも見えていた悪魔の姿が、なんというか三周りぐらい縮んで小動物ぐらいの存在感に思えてくるのだから不思議なものである。
 これはなんというか、子猫……子犬……いやもういっそウサギか。肉食は愚か雑食にもとても見えない。コイツは精々草食動物が関の山の雑魚悪魔だ。
 そう思いながらぼんやりとノエルの鉄面皮を眺めていると、そのうち思考が散逸しているのがバレたらしく、ノエルはわざとらしいぐらい深々とした溜息を吐いた後にミヒャエルの頭へ手刀を落とした。

——ってぇな! それでも大学教授かアンタは!?」
「上の空の生徒側にも問題があるだろう。大教室の講義ならまぁ見逃すが今は一対一だぞ。舐められたままでは放免できん」
「ギャングなんだよ言ってるコトが」

 普通に痛かったので抗議すると、ド正論で一刀両断される。言い返す余地がない。ミヒャエルは頭を振り、視線だけで悪魔に「クソ大人しくしてろ」と言い含めた。すると悪魔はミヒャエルの言葉無きお願いを何と勘違いしたのか、ふわりと翼を拡げるとノエルからミヒャエルの肩に飛び移ってくる。別に重くもないし視界から消えてスッキリしたのでそれ以上は望まないことにして、ミヒャエルは肩を竦めた。

「ハァ、だがまぁ、必要なことはおおよそ協議し終えただろう。有意義なディスカッションが出来たと思う——準備もギリギリ間に合ったし。十日後が期限の後期課題は、予定通りアルブレヒトの自由主義神学をテーマに論じさせてもらうつもりだ。最近著書初版が手に入ってな、バイト代は随分持っていかれたが」
「まぁ奨学金ではそこまで補助できないからな……勉強熱心で結構。精々浪費に見合うレポートを仕上げてくることだ」
「そこはもう少し親切な励まし方ってもんができないのか、ノア?」
「教授を呼び捨てにするような優等生・・・に掛ける発破なんぞこれで十分だろーが」

 軽口を叩き合ってハッと苦笑いすると、荷物をたたみ始める。口こそさがないがノエルは入学当初からミヒャエルを気に掛けてくれている教授であり、ミヒャエルにとってもいけ好かないが気の置けない相手であることは確かだった。あまり認めたくはないが貴族主義のムカつく他教授とかからもやんわり守ってもらっているのを知っている。ノエル自身孤児院出身の成り上がり者だという噂は聞いているので、似たような境遇のミヒャエルには思うところがあるのだろう。

「ところでカイザー、悪魔にはちゃんと気をつけているか・・・・・・・・・・・・・・・・?」

 ……とはいえ、この気の遣い方は、ちょっといかがなものなのかとやはり思うのだが。

「気をつけるも何も、そんなものいると思うか?」

 唐突に繰り出された確認に、ミヒャエルは胡乱に、かつ、さらりと嘘を重ねて返事をする。というか既に昨日、無理矢理契約させられてしまったばかりであり……死後己の魂がどこへ連れて行かれるかは正直定かではなくなっているのだが。
 ともかく、そんなふざけた話をノエルにするつもりにはなれなかった。ミヒャエルは教授としてのノエル・ノアはそこそこ信頼しているが、牧師としてのノエル・ノアのことはよく知らないし信じていないのである。

「悪魔は草食動物の顔をしている」

 するとノエルはミヒャエルの胡散臭げな言いぐさなどまるで気にしたふうもなく、好き勝手に言いたいことを言い始めた。

「ゆめゆめ侮らないことだ。神学部のお前に今更こんな講釈を垂れる必要はないとも思うが」
……バフォメット。テンプル騎士団に端を成す悪魔崇拝のシンボルは牡山羊だ」
「そうだ。羊の群れを惑わせるにはたった一匹の山羊を放り込めばそれでいい。神は救われぬ人を山羊にたとえ、堕天使アザゼルは供物として山羊を捧げられた。カイザー、重要なのはレビ記に何が記されていたかではなく、悪魔は決して恐ろしい仮面を被っているわけではないという点にある」
「甘い顔をした連中には気をつけろって? アンタは俺の親戚か何かかよ」
「似たようなものかもな。まぁ息子ほどに思い入れてるわけじゃない、そこは心配しなくていい」

 せいぜいが親戚のクソガキ程度だ。

 およそ教授にあるまじき放言をぶちかまし、ノエルがぱたんと手に持っていた聖書を閉じる。本当にクッソ聖書の似合わない牧師だ。コイツが日曜礼拝の場で黒い礼服を身に纏い十字架を切っていると思うと笑えてくるのは何故なのだろう。
 失礼にもほどのある空想を脳内で弄び、ミヒャエルは「あいあい」と気のない返事を投げつける。そしてぱっと踵を返して教授室を後にしようとすると、その背中に——今更になって思い出したように、「そういえば」とノエルの追撃が飛んでくる。

「今日はバイトか?」

 ミヒャエルはいかにも嫌そうに目を細めると振り返って、じっとりとした眼差しをノエルへプレゼントした。

「言ったそばから親かよアンタ……。今日はシフトが入ってない。フリーだ」
「ならばあまり出歩くな。命が惜しければな」

 ノエルはちっとも動じた素振りもなく、淡々と親戚のおじさん式クソアドバイスを繰り出してくる。

「今朝未明、ガルヒングの廃教会で失踪事件の被害が確認された。犯人が近くに潜んでいる可能性もある」
——失踪事件?」

 そしてそのまま続いた意外な話題に、ミヒャエルは顎に手を当て、小さく首を捻った。
 失踪事件。最近聞いた覚えのある話題だ。確か昨日、アレクシスが何か言ってたような。最近物騒な話が多くて、特に失踪事件が大きな話題になっている。呼び名は——〝ホワイトチャペルの天使事件〟だったか。
 廃教会という場所は、ふとした嫌な予感と共に、〝天使〟を想起させた。これは単なる偶然の一致だろうか? ……それとも何らかの符号の合致か?

『ミヒャエル』

 そんなミヒャエルの脳内を見透かしたかのようなタイミングで、悪魔が耳元で名を囁きかけてくる。『気になる。連れて行ってほしいんだ』隠し切れない好奇心と関心を声音に色濃く滲ませ、少しばかり急いた調子で。『契約が結ばれた以上、俺はお前の半径二メートル以内から離れられない。なんか引っかかるしこの目で見ておきたいけど、お前が現地に行ってくれないとにっちもさっちもいかないんだよ〜』なんか今サラッと新情報が出てきたような気がするのだが気のせいだろうか。押し売り契約の割にお前のデメリット重くないか——などと聞くのも億劫で、ミヒャエルはノエルの手前口に出しては返事をせず、ひらひらと手を振るのみでそれに応える。

「毎度毎度有り難いご忠告どうも」

 そうした最後にそれっきりを言うと、今度こそ教授室の部屋の戸を開け、大股で外に出ると、バンと締め切ってその場をあとにした。



◇ ◇ ◇

 

「おい、悪魔」

 ミュンヘン大学からなけなしの給金を使って乗合馬車を乗り継ぎ、揺られること二時間半ほど。ガルヒング辺境をうろつき始めてしばらくが経った頃、ミヒャエルはぶっきらぼうに悪魔を呼び立てた。人目が無くなり、ようやく、おおっぴらに悪魔へ話し掛けられるようになったのだ。

『何ソレ、俺のコト? 名前で呼んでくれよ味気ねぇ、最初に教えたじゃん』
「知るか、お前なんぞ悪魔で十分だ。他の悪魔と知り合う予定もないし……
『なんだよ、歯切れ悪。教授さんに言われたの気にしてんの』
「うるせぇよ」

 軽口を叩き合いながらあぜ道を歩く。廃教会の在処はすぐに見つかった。工科大学があるエリアから更に外れた丘上で、失踪事件の被害が確認されてから、みんな余計に不気味がって露骨に避けているという。警察も、昼ぐらいにやって来て簡単な現場検証を終えたあとさっさと帰って行ったという話だ。
 そしてその際に回収された、まるで中の人だけが溶けて消えたかのように残されていた衣服に——近隣に慎ましやかな屋敷を構える田舎領主の家紋が入っていたため持ち主確認がすぐに終わったらしかった。目下目されているところによると被害者は領主の甥御で、これは今朝がたから姿が見当たらないという使用人の証言とも一致する。……以上、これが頼んだわけでもないのに大声で井戸端会議をしていた住民達の口から勝手にミヒャエルが整理整頓した情報まとめであった。

「ただ、コイツはなんで自由行動出来なくなるデメリットを被ってまで俺に詐欺紛いの契約を押しつけてきたのか——というのは、馬車に乗ってる間ずっと考えてた。お前ってもしかしてクソバカなのか?」

 人どころか建物すらほとんど見られない勾配をスタスタと登りながら、ふよふよと真横を浮かんで併走している悪魔に問いかける。問われた悪魔はというと、あまりにもまっすぐにミヒャエルがそう訊ねてくるため、はじめ悪口を言われているということに気付けなかったらしく、『えぇ、なんでって、そりゃぁ……』と真面目に考え込む素振りを見せた。しかしすぐにいやコレ悪意じゃねーかと気付いたらしく、むっと唇を尖らせて人相悪く目を細める。

『ってちげーっての! そこはちゃんと天秤に掛けた結果!』

 悪魔は凄んだが、安っぽいゴロツキみたいな表情をして見せてもどうにも童顔めいた印象が抜けないせいで、トータルで大分おまぬけな感じになっていた。

『なんか俺今さ、弱ってんの、多分。記憶がないのも原因だと思うんだけど……だから精気を定期供給してくれる相手が欲しかったんだよね』
「精気?」
『人間界の魔術では、マナとかオドとか、そーゆー呼ばれ方してるかな、確か。まぁとにかく、平たく言うと生命エネルギーみたいなもんで、ミヒャエルはそのへんもバチバチに強そうだったんでその点も都合良かったんだ。俺が視える、エネルギーも潤沢、言うことなし。実を言うと今朝もこっそりいただき済み』
「おま、いつの間に……
『お前爆睡して起きねーんだもん。デコチューでちゅるちゅるっと吸わせていただきました、ごちそーさま♡』

 そしてさっきまで凄んで見せていたことを一瞬で忘れたのか、突然あざとく手を合わせたうえで色目使ってるとしか思えない表情でこちらを上目遣いに覗き込んで来やがったので——ミヒャエルは内心、「いや……これで悪魔に気をつけろとか、何を? コイツは山羊ですらないだろ」とクソ失礼な感想を抱いていた。

「で? 俺の精気とやらで、多少は回復したのか?」
『ほんのちょっとだけね。簡単な魔法が使えるぐらいかな——それも一発でほぼ使い果たしちゃうだろう感じだけど。しばらくは大人しく蓄える時間が必要そう、この先何あるかわかんないし』
「まぁ、確かにな……

 〝ホワイトチャペルの天使事件〟なんて仰々しい噂話を信じているわけではないが、人が失踪しているのは確かなのだ。何が起きてもおかしくはない。警察が検めたあとになって野次馬狙いの賊が戻ってくる可能性だって十分にある。腕力に自信のあるミヒャエルとて流石に囲まれると辛い。
 悪魔が戦力になるならそれに越したことは無いのだ。
 とはいえ正直に言うと期待はしていない。ミヒャエルはたった一日の間に完全に悪魔のことを舐め腐りはじめていた。主にアレクシスやノエルのことをツンツンしまくっている姿などが、彼に対する神秘や恐怖のようなものをまったく失わせてしまっていたためである。

——着いたぞ、ここだ」

 そんなこんなで辿り着いた廃教会は、うらぶれたを通り越してボロボロと言って差し支えなく、天井には穴が空き、梁は腐り落ち、聖母像は雨に打たれて可哀想なぐらいに変色していた。

……悪魔の俺が言うのもなんだけど寂れすぎてない? ホントにこんなトコでお祈りしてたワケ……その失踪した領主の甥ってヤツは?』

 ミヒャエルが一歩踏み出すだけでギシギシと軋む床板の音に、悪魔がうわぁと辟易した調子で唇を押さえる。だが、悪魔崇拝やカルトであればむしろひとりでこんな場所には来ないだろう。異端者たちで寄り集まって、もっとバレそうにない地下室なんかを用意するはずだ。であれば次のような被害者像が想像出来る。

「被害者はきっと敬虔に過ぎたんだろう。神を心から信仰しているからこそ救われない己の境遇に心を病み、司祭たちも信用出来なくなり、静かに懺悔出来る場所を求めてここに辿り着いた——そんなふうに俺には思える」

 空想した他人の心境を舌の根に乗せながら、理解出来ねぇ感情だな、と自嘲する。その美しい信仰心が理解出来ない自分はこの土地においてどちらかというと異端寄りだからだ。だがそんな考えはおくびにも出さずポーカー・フェイスを貫いて土と雨と腐った木の匂いがひしめく場所をひた進み、ミヒャエルの足は聖母像の元へ辿り着く。
 聖母像は、鳥の糞尿にまみれて汚れているのみならず雨水によって部分部分が溶けており、まるで血の涙を流しでもしているかのような顔付きになっていた。

『ふうん……かわいそーに。何もこんなになってまで神サマなんかに仕えなくたってなぁ』

 聖母像を見て悪魔がしみじみと呟く。その、神に好感情を持っておらず、適当に蹴り飛ばすような態度の口ぶりに、ミヒャエルははじめて彼の中に悪魔らしさを感じた気がした。つまり見え隠れするクソゴッドへの憎悪を。

「おい悪魔。お前の失われた記憶についてひとつ分かったことがある。お前は多分神との間で何かやらかしたな」

 だから思った通りのことをそのまま口から出して伝えてやると、悪魔は、きょとんとしたように目を見開きぱちくりと瞬きをした後、『あぁ〜……』とバツが悪そうに小首を傾げて耳を掻く。

『んー……そうかも。そうかもなー、この場に満ちる天使の気配には思ったより抵抗ないなって思ってたけど、神の存在にはちょっと抵抗あるわ……

 そしてまたもやサラッと重大情報を滑らせたので、ミヒャエルは今度は聞き流さず、この場で問いただすことにして——

「待て。この場に満ちる天使の気配? どーゆーコトだよ」
『何って言葉通りだよ、この廃教会には天使の気配が充満してる。天使が来たんだ。そして恐らくは被害者に何かをした。濃さからして、未だ一日も経ってないと思う』
「はぁ……?」

 そして今度こそ完璧に言葉を失った。
 じゃあ、なんだ。〝ホワイトチャペルの天使事件〟は、本当に天使の仕業だったとでも言うのか?
 呆然としてそこに立ち尽くしていると、まるで心でも読んだかのようなタイミングで『多分そうだよ、何らかの理由で神が手引きしてるのかも』と悪魔の追撃が飛んでくる。ミヒャエルは頭を抱えて首を振った。こうして悪魔が隣に浮かんでいる時点で、天使の関与を頭ごなしに否定するのはナンセンスだという理屈は分かるが。分かるがしかし……これは突拍子もなさ過ぎる。早速人間の手に負える事態じゃなくなってきた。

「つーか、そーゆー、気配? みてぇなの、感じ取れるんだな、お前」
『うん、よっぽど強い神気を宿してるか、近くまでくれば。たとえばミヒャエルは、信仰心薄そうな割に天使の気配が強い。ついでに言うと、さっきの教授はもっと強い』

 訊ねると、悪魔がうんうんと頷き、あっけらかんとそう述べてくる。思いがけない判定だが、しかし言われてみればわからない話でもない。ミヒャエルが育った教会孤児院は特に大天使への信仰が篤い教会で、シスターたちは神と神の子、そして天使への祈りを欠かさなかった。そしてノエルは曲がりなりにも牧師なのだ。そのことを告げると天使はおぉ〜と嬉しそうに頬を綻ばせてニコニコ笑う。

『あぁ、なるほど。そりゃそーなるわ、だから悪魔にとってもおいしい御馳走なんだろうなぁ、お前。てことはあの教授も美味しいのかな?』
「ハ……お前ノアのことも品定めしてたのか? 見境とかねぇのかよ」

 そしてミヒャエルはその脳天気な笑い顔がどうにも腹立たしくて思いっきり顔を顰めると強かに舌打ちをした。

『だってミヒャエルがダメになったとき次の餌見つからねーと困るもん…………あれ? おーい、ミヒャエル?』

 胃の真ん中から、何かムカムカしたモノがせり上がってくる。それが何かは分からないが、表情を取り繕うような余裕も気分もなくなって、ミヒャエルは苛立たしげに地面を蹴る。腐った床板が抜け落ちそうなほどに軋む。『おい、ミヒャエルってば!』悪魔が何が何やらわからないと言いたげな声で慌ててミヒャエルの後を追ってくるが、顔を合わせるのすら腹立たしい。

 なんだよ、ソレ。つーか俺もなんなんだよ、このみっともねぇガキみてぇな癇癪は。

 マグマのように噴き上がる怒りと、それを冷静に俯瞰する自分。両者が心の中で対立して猿のように睨み合っている。こんな雑魚悪魔に心乱されるのは愚かだと自嘲する一方で、自分の中の何かが、制御不能なほどに業を煮やしている。

 ソイツはきっと夢にまで見た青色かれへ焦がれた心だった。
 すくなくともその時ミヒャエルはそう思った。もしこのピヨピヨした悪魔が、本当にあの青色かれなのだとしたら——ノエルなんかに横取りされるのはミヒャエルのプライドと魂が許せない。そんな気がしているのだ。
 まぁそもそもあれは全部夢でしかないわけで、そんなことを言われても自由奔放で放埒な悪魔にとっては、だから何? という話でしかないのだろうが……
 それにしたって悪魔お前は今は俺の契約者なんだろーがと思うと、やはりムカムカが抑えきれなくなって、正論なんてとても聞きたい気分ではない。

『なぁミヒャエルってば、ミヒャ、ミヒャ〜、……おいどこ行くんだよ、ミヒ!』

 ミヒャエルが突然怒り心頭でズカズカ歩きはじめたせいか、悪魔も血相を変えて追いかけてくるがもう遅い。というかどうにも出来ない。突然馴れ馴れしく愛称で呼びかけてくる仕草に余計に腹が立つ。どうしてこんなにイラつくのだろう。ミヒャエルは今までの人生であまり激しい怒りを感じないタイプとして過ごしてきた。嫌なことはあったが、大抵自分より愚かなヤツのやることだったから、怒るだけエネルギーの無駄だと判じている節があった。なのに悪魔相手だとコレだ。まるで自分が理解出来ない。こんな雑魚悪魔に何を心乱されているのだ。

「うるせぇ、押し売り詐欺師の分際で、どこに行こうと俺の勝手だろうが」

 とにかく頭を冷やしたい。そんな思いからふらふらと、天井の穴がひときわ大きく開いた場所へと勝手に足が動く。風のひとつでも感じれば多少はスッとするかと、そう漠然と思って、ただそれだけのことだったのだ。
 けれど。

『いやだからそっち危ねぇって、なんか天使の気配がひときわ強く残って…………


 ——その時、ミヒャエルの視界を、一枚の白い羽根が横切った。


……は?」

 吹き抜けと化した天から入り込んで来た風が、床板に沈み込んでいたそれを偶然にも舞い上がらせたのだ。それは恐ろしいほど白い羽根だった。白鳥の翼を毟ったってここまで穢れのない純白をしているだろうか。こんなもの人智の中にあるものとは思えない。これは、これは、こんなのまるで——

「天、使の、羽根…………

 神の遣わした奇跡の体現それそのものではないか。

『ミヒャエル!!』

 呆然と足を止めて羽根を見つめていたミヒャエルの背後から、切り裂くような叫びが飛んでくる。悪魔の声に頬を叩かれ、ミヒャエルはハッとしてあたりを見回した。大気が震えている。足元が揺らぐ。空間がたわんで、腐りかけの梁たちが——ギシギシと歪みはじめる。
 地震だ。ミヒャエルは咄嗟にそう思ったが、動けなかった。聖母像が揺らいで、その重みを支えきれなくなり、ミヒャエルのほう目がけてまっしぐらに倒れてきている。そこでようやく足に感覚が戻ってきて、懸命に避けようとするが……遅い。もう、間に合わない——

『ふざっけんな——させるかよ!』

 だが、聖母像がミヒャエルに直撃することはなかった。寸でのところ、ミヒャエルの鼻に聖母の手が落ちる僅か手前で、像が空中に浮かんだまま動きを止めたからだ。

『ッはぁ、はぁっ、はぁっ……! クソ、干渉キッツ、あぁもぉいいから早くそこから退け!』

 怒号に耳を叩かれ、ギョッとしてそこから飛び退く。よくよく見ると空中で浮かんだまま止まっているのは聖母像だけではなく、腐り落ちた梁や屋根なども不自然な場所でぴたりと静止しているのだった。『もっとこっち! ミヒャエル!!』叫び声にふたたび背を叩かれて駆け出し、手招きする悪魔と共に廃教会の敷地外へと逃げ出す。そしてミヒャエルが芝の土を踏み、十分に入り口からも距離を置いたことを確かめると、悪魔は『はぁああ〜……』とバカでかすぎる溜息を吐いてパチンと指を弾く。
 次の瞬間、超常の力による支えを失った廃教会は、丘下まで響きそうな派手な音を立てて——倒壊した。

「おい……嘘だろ……

 その光景に遅れに遅れて自分が死の危機に瀕していたことを自覚し、ミヒャエルは喉が引っ繰り返って掠れたような声を漏らすことしか出来ず、今度こそ完璧に茫然自失してその場に立ち尽くした。

『クソ、あの羽根だ、あれ多分トラップだったんだな。どーも昨日ここに来たのは、随分とクソ用心深い天使様だったらしい』

 その隣で悪魔は疲れ切った様子で首を振り、忌々しげに唇を歪めている。『せっかく精気吸って貯めたのにすっからかんだ……』そしてしょんぼりしてまなじりを下げる姿に、ミヒャエルはハッとして瞬きをし、それから信じられないものを見るように目を見開く。

「助けてくれたのか。自分の力がなくなるのも構わずに——そんなに俺が特別なのか、お前は?」

 そうして悪魔の、どこか遠い場所を見ているような海色の瞳をじいっと覗き込むと、訊かれている意味を理解したらしく悪魔のアンニュイな顔が一瞬でガキくせぇ動揺と照れに染まり変わった。

『は、はぁ!? ちがっ……何言ってんだよ!? 自意識過剰じゃねーの!?』
「いや、だがそういうことじゃないか? 俺から吸ってエネルギー補給したあとで、ノアという後釜候補も見つかっている。こと今に限っては契約相手だからといって自分を不利的状況に追い込んでまで俺を助ける理由はないはずだ。であれば俺がお前にとって何らか特別だって考えた方が筋が通る」
『いやっ、別にそんなんじゃ……クソ、嫌なところで頭回るヤツだなお前!? ホント違うからっ、悪魔らしく人間を誘惑して手玉に取ろうとしてただけだし!』

 助けたら、売れるだろ、恩とか。悪魔が必死になって言い訳を述べ立てるが、それは計画に基づく行動だった場合の話だろう。しかしわたわたと手をばたつかせて頬を真っ赤に染め、『エロい夢見せてあげようとしたりほっぺた撫でたりしてたのもそう、誘惑のためだし……』なんぞと呟いているヤツが計画的にことを運んでいただなんてお世辞でも言う気にならない。絶対、思いつきの衝動だ。

『なんですっからかんになってまで助けたかなんて、自分でもよくわかんねーし……

 おまけにそれを証明するかのように、悪魔は自分でこんなコトまで口走ってしまうし。

「ふうん」

 ミヒャエルはその様子に一気に機嫌を取り戻し、フンと鼻を鳴らして悪魔に手を伸ばした。触れられないと分かっていても、それでも、今この瞬間は悪魔の頬を撫でさすってやりたいような……そんな気分だったのだ。

「クッソ滑稽。本当にヨイチくんは俺のコトが好きねぇ」
『はぁ〜〜〜〜〜〜!?』

 指先を頬からつうと降ろして顎をつまむような手つきをしてみせると、今度こそ悪魔は沸いたケトルのようにカッカとして、ぎゃふんと憤慨して見せた。しかしそのツラすら迫力がなくてなんともお可愛らしい。マジでこいつは悪魔に向いていない。

「仕方ねぇから、そーゆーコトにしておいてやるよ。俺は今気分がいいんだ」

 ミヒャエルは鼻で笑うと、パッと悪魔から手を離し、それから踵を返してひらひらと手を振る。そしてもうこんな場所に用はないとばかりスタスタ歩きはじめると、半径二メートル以上離れられないことを思い出したのか、悪魔が慌てて翼をはためかせ、ミヒャエルの真横にすっ飛んでくる。

『なぁ、ってかお前今、俺の名前呼んだ?』

 そうしてしばらく歩き続けていると、その間に怒りの頂点を通り過ぎてすこし冷静になったのか……今更ながらに悪魔がそう訊ねてきた。

「見直したってヤツだ。何にせよ命を救われたし、思っていたよりお前は俺を必要としているらしい。多少はカワイイと思ったんだよ、ヨイチぃ♡」
『うわその言い方すげームカつく……
「言っておくが、契約を強制してきたときのお前の口ぶりもこんな調子だったからな」

 面白くない言い分だったらしく悪魔は変わらずぶうたれているが、あばたもえくぼというか、なんたらは盲目というか、必死になって自分を助ける姿を見た後になると、もうぶーぶー文句を言っている姿すら愛らしく見えてくるのだから、自分も中々に愚かなものだ。

「ふん——

 ミヒャエルは楽しげに鼻を鳴らし、今一度、悪魔の姿をまじまじと眺め見た。悪魔の両の瞳は人間を誑かす魔性の怪物に似合わず透き通っており、海と同じ深い群青の色をたたえている。まるっきり、夢で見ていたものと同じだ。改めて見れば見るほどに、三歳の頃から恋い焦がれていた、出逢えることなどないと諦めていた幻に似ていて、どうにも愛らしい——と、そんな感情が溢れてくるのを止められない。

 やはりこの悪魔はあの青色かれなのかもしれない。

 であるのならばコイツが欲しい。そのために自分には何が出来るだろうか。記憶を取り戻してやれば——夢の中でいつも見たように、自分を優しく抱きしめて、愛を囁き、ミヒャエルの存在を全霊で肯定あいしてくれるのだろうか?
 分からないけれど。
 そうなればいいなと思い描いて、ミヒャエルは鼻歌交じりに丘を下り、最後に触れられない悪魔の手をもう一度だけ引いてふっと微笑む。

「ちゃんと俺の人生に意味を与えてくれよ、クソ悪魔ヨイチ

 この悪魔をいつか本当にこの腕に抱き締め、手に入れることが出来るのなら——きっと自分は何を差し出しても惜しくはないのだろう。
 根拠はないが、そんな予感がしていた。強く、ひしひしと、神に祈りを捧げるよりずっと確かに。


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