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03/夢、焦燥、恋煩い
「ネス。俺はもしかしたらマズい状況に置かれているのかもしれない」
「何がです?」
「世一がめちゃくちゃ変だ
…………」
「世一は元から異常者では?」
穏やかな昼下がりのミュンヘン。クラブハウスの一角にある食堂でおにぎりを口に放り込みながらぼやくと、ネスが鋭い一石を投じてきた。確かに
……。カイザーは首を捻る。よく考えてみたら潔世一は元から異常者だった。しかしそれで納得しかけたところで、ふと「そのうえで、輪を掛けて異常」という方程式は成り立つことに気がついて、静かに首を振り直す。
「そうなんだが、アイツの、
……距離感が異様に近いんだよ」
そう言って最後の鮭おにぎりを口の中に放り込むと、ネスが何故か甲高い悲鳴を上げ、恨めしそうにカイザーのランチボックスを睨み付けた。ちなみにこの弁当はもちろん世一のお手製で、今日はネスと試合前に昼飯食いがてらミーティングする約束をしていると伝えたら持たせてくれたものだ。
……などと今ここで口に出すのは藪蛇そうなので黙っていたが。
——二週間前、あの停電の日の夜から、世一の態度が変わった。
もともと同居人としては悪くない、気の付くやつだと思っていたし、その評価に変わりはないのだけど。
……なんというか、それ以上に、カイザーに優しく手を伸ばしてくるような、そういう素振りを見せることが増えた。
もちろんヤツはカイザーの性質を分かっているから、必要以上にこちらの領分に踏み込んでくるようなまねはしない。しかしその範疇で出来ることはなんでもやってくる。毎朝起こしに来るとき、甘ったるい顔をすることが増えた。夜寝る前、他愛の無い話をしたがることも。それに弁当を作って持っていくかと訊かれるようになった。寒空を理由にぴとりと隣を確保されることだって増えた。手を繋ぎたがるようになった。家の中はもちろん、ときどきは、
……買い物中のスーパーとか、着替えが終わったロッカールームの中でさえも。
そして極めつけは、いつも向けてくる
……あの眼差し。
焦れったいような、もどかしいような、甘くて苦くて、酸っぱくて辛くて、ありとあらゆる味が一緒くたになったような。目を奪われずにはいられないあの視線を向けられると、カイザーはいつも言うべき言葉がひとつも見つからなくなってしまって、世一の指先をはね除けられず受け入れてしまうのだ。
「世一は
……俺をどうしたいんだ?」
「
………」
「世一は俺をどうしたいんだと思う?」
「あっ、すみません、聞こえてたんで言い直さなくて結構です」
「聞こえてたんなら相づちくらい打てよ」
とにかくこのままでは俺までおかしくなってしまう、と言いながら、カイザーは世一に持たされた保温ポットの中身を啜る。中身はおにぎりのあとのミソスープだ。世一が弁当を作ってくれることが〝普通〟になって以降、練習のある日は毎日飲んでいるのでだいぶ飲み慣れてきた。
なお、初日に「まあまあうまいな、毎日飲んでも構わない」とコメントしたところ、世一は何故か苦々しい顔をして「日本では毎日味噌汁飲みたいってフレーズに特別な意味があるからウッカリ使わないように注意しろよ」などと忠告してきたが
——いったいどういう意味なのかは今もってよくわかっていない。調べるのがなんか怖くて。
「そうですねぇ
……わざわざクリスマスの日に誘って、約束破ったら針千本飲ますとか抜かしてくるヤツの心境なんて、僕にはと〜〜〜〜ってもわかりそうにもないですけど
……」
独りごちると、絶叫を終えたらしいネスが、右手で頭を抱えながらちいさくぼやいた。そうか。ネスにも分からないのなら、きっとすぐに答えの出る問題ではないのだろう。カイザーはミソスープを飲み終えるとキュッとフタを締め、首を振ってアンニュイに溜息を吐く。あー、早く、サッカーがしたい。
サッカーをしているときの潔世一は出逢ったあの頃から変わらないから。
悩むことが無くて済む。罵倒を浴びせかけあい、ボールを奪い合い、そして勝利を奪い合う。もちろん自分たちは金で雇われている選手なのだから、
新英雄大戦のときのようにチームを破滅させかねないような足の引っ張り合いはしなくなったし、紳士的でなさすぎるとしてペナルティを取られるレベルの暴言をピッチで交わすことはできなくなったが
——それはそれとして全身全霊で互いを蹴落とすためにピッチを走り続けている。
「本当に
……考えるほどにサッカーだけは何も変わってねぇな、世一は。あいつもトップに上がる前からジャッジ出るような言動は流石に慎んでたし」
「まぁ、下部とはいえ試合ではお利口にしないと大変な目に遭いますからね」
「三回ぐらいはやらかしたけどな」
「アレは世一が悪いです世一がー、渡独してきたばっかであんな喧嘩の売り方するヤツありえます!? 今でも何か悪い冗談だったんじゃないかと思ってますよ! 世一もアレでよく厳罰処分喰らいませんでしたね」
「そのあと二点決めたからだろ」
「カイザーから奪ったボールでね! も〜、思い出したら腸煮えくり返ってきた」
ぎゃあぎゃあとかしましく怒りを表明し、ネスが頬を膨らませた。アレクシス・ネスは潔世一と折り合いが悪い。ひょっとすると、曲がりなりにも同居出来てしまっているカイザーより折り合いが悪いのではないかと思うときがある。
だが試合ではものすごくよく連携し、カイザーがベストパフォーマンスを生むための不自由を形作る。たまに休みの日にふたりで出掛けることもある。そしてそういうことがあったあとは、決まってカイザーを呼び出して、ちいさなパーティーなり祝賀会なりが開かれる。実はこれでいてネスの方はともかく世一の方はネスに懐いているらしく、「色々相談してるんだよね、お前へのサプライズとか」などと暴露されたのが三週間ぐらい前の話。
本当に妙な関係だ。心底そう思うが、ネスに言わせればカイザーの方がもっと妙らしい。
「こんなコト言うの今更ですけど、あの流れでよく世一と一緒に暮らせてますよねカイザー」
ネスが言った。〝あの流れ〟というのは、世一が渡独してから都合三回ほどピッチ上でやらかしてしこたま監督に叱られた話から、
青い監獄での喧々諤々の遣り取りまですべてを含む言葉らしかった。そのことについてはカイザー自身もどうしてだかと思っている、と伝えるとネスの顔が余計に曇る。そしてネスはものすごく困り果てたような顔をして「その上最近の世一の行動は輪を掛けて変で?」と脱線しかけていた話題を丁寧に振り出しへ連れ戻してくる。
「
……そんなに変だと思うんなら、世一の手を振り払って、拒んでしまえばいいじゃないですか」
クソ世一がべたべたべたべたカイザーに触るの不敬すぎますし、というのがネスの言い分だった。
「別に
……世一に触られるのは嫌じゃない。世一が死んでいるよりは、きっと生きている方がいい」
カイザーは己に触れる世一の血潮のあつさを思い返しながらそう呟く。命を燃しているようにあついあの男の、ともすると子供っぽい体温は、ないよりはある方が安心する。筋肉量や代謝量などの関係で基礎体温自体はカイザーの方が高いのだが、それはそれとして末端まで血の通ったあの皮膚のぬくもりに何故かいつも安堵を覚えるのだ。
それに、
「それに手を握り締められるたびに、ふと思う。『この手を離してはいけないんじゃないか』、と」
——続けてふっと口をついて出た言葉を形にすると、ネスはすっかりきょとんとしてしまい、カイザーのコトとなると異様に饒舌で雄弁な彼らしくもなく一瞬言葉を詰まらせた。
「
——え、ええっとカイザー、それってキミもしかして、やっぱりもう世一のコトが
……」
ネスがしどろもどろになって喉をつっかえさせる。「え? 嘘ですよね? 僕まだ信じたくないんですけど」ものすごく動揺しているのが顔の全部に出ているが、カイザーにはネスがそんな反応をする理由が分からない。それに分からないのはネスのことだけじゃない。
どうしてそんなことを思うのか、カイザー自身、見当がついていないのだ。
自己分析に余念の無いミヒャエル・カイザーとしては、かなり異様なことだった。特に
新英雄大戦で世一に負けてからは、常に自分を更新し続けるために人生を捧げ、自分の存在証明をはかるためにすべてを賭してきた。あらゆる哲学書や心理書を読んできたカイザーは己の行動のすべてをロジックで説明出来ると自負してきたのだ(己に耐え難い敗北を刻んだ世一に執心していた時期のことは後になって吹っ切れてから自覚したが)。
だというのに今になっても、いや今だからこそか、世一に手を握り、頬をなぞられると
——魂が怯えているとしか思えない焦燥感に駆られる瞬間が、近頃とみによく訪れるのである。
「理解できないのに、焦燥感だけが積み上がっていく。究極、俺が立ち止まっている理由はそれだ
——」
あの雨の日から。
世一がカイザーに前よりもっと優しく触れるようになった夜から。
暗闇で抱き合った瞬間から憎悪だけではかれない何かを持て余して、
「俺は世一の手を取り、何かが変わってしまうことを恐れているのか
……?」
独白めいた言葉はそこで終わる。
「キミは
…………」
ネスが、もう一度言葉を詰まらせたのが分かった。
ただし先ほどとは違う理由で。「キミは変わることを恐れなくなったはずなのに何故?」ネスの顔にでかでかと書いてあるのはそれだ。なんでだろうな。俺も知りたい。カイザーは首を振って「忘れてくれ」とぼやく。ネスは口ごもる。「でも、世一は
——」そしてネスがそれでももたつく舌をどうにか動かして何かを口にしようとしたタイミングで、食堂の入り戸がガラリと音を立てて開き、ふたりは慌てて、音がした方へと顔を向ける。
「
——あ、いたいた。カイザー、ネスもさ、飯早く食い終わって行かない? アップの時間入っちゃうぜ」
そこにいたのは、まさに渦中の潔世一その人だった。どうやら試合が近づいても移動してこないふたりを心配して呼びに来てくれたらしい。今日の試合はホームグラウンドでの開催で、そのうえカイザーとネスと世一全員がスタメンなのだ。言われてみればもう、こんなところでお喋りに興じている時間など殆ど無い。
「あいあい、りょーかい。監督の命令か? 使いっ走りご苦労なことで」
「ううん? 俺の立候補、カイザーと一緒にいる時間増やしたかったから」
同居人に向けるにしては過剰に嫌味っぽい台詞が流れるようにカイザーの口から出ていくが、当の世一はまるで気にしたふうもなくぱたぱたと駆け寄って来て、そしてそのまま、王冠の描かれたカイザーの手のひらを両手でぎゅっと握り締める。
ネスの喉からヒュッという掠れた音が零れ、それから、本日何度目かのか細い悲鳴が上がった。
世一はこれもやっぱりまるで気にしたふうもなく、殆ど無視して、カイザーの顔を真っ直ぐ上目遣いで覗き込んでいる。
「お弁当どうだった? おにぎりの具、どれが好き?」
それから世一が尋ねると、カイザーはああ、と小首を傾げてちいさく頷いた。
「ン
……鮭とおかか」
「お、やったー。じゃあ明日からちょっと増やすね」
「ああ。あとついでにミソスープは今日のも美味いが昨日のがとりわけ好きだったな」
「オッケー豆腐とお揚げね、仕入れとく!」
「よき、〝ゴチソウサマ〟」
「えへへ〜、おそまつさまでした!」
そこから繰り出された会話はまるっきり新婚さんのソレだったが、大変残念なことに、頼みの綱のネスが悲鳴を上げるのに一生懸命だったせいでツッコミは誰もいなかった。
世一は満足げにニッコリと頷き、カイザーの手をパッと離すと「行こうぜ」と笑いかける。それにカイザーが頷いて立ち上がり、とっとと食堂出口へ向かって歩きはじめたのを見送ると、世一はワンテンポ遅れてそのあとを追い始め
——その途中でしんがりを努めるネスの方を振り返る。
ネスはものすごく頭が痛そうな、苦渋の表情を浮かべながら、世一をじっとりと見つめていた。
「お前
……本気で狙ってるんですか? 正気で? 身の程知らずにも?」
相談を受けた時は半分ぐらい本気にしてなかったんですけど
——とネスが尋ねると、世一は歩くのがやけに早いカイザーがこちらの遣り取りに気付いていないことを確かめてから頷いた。
「そうだけど? 何度も言うけど遊びで手なんか出さねーよ、それに俺今回はけっこう自信あるし」
「はぁ?」
「なんかべつに根拠とかはないんだけど
……うまくいく気がしてるんだ。肌感で。俺本来理論派だからこんなコト思うの自分でも驚いてるんだけど」
だからこそ、二週間前のあの夜、勝負に出ることに決めたんだよね。事もなげに世一が言う。
「クリスマスにはホントにどうにかなってるかもしんねーから、そんときはめいっぱいキレていいぜ」
「ふん、ほざいてなさい」
その理解不能なぐらい自身満々な言いぐさに、ネスは子供っぽくむくれて思いっきり親指を下げるジェスチャーをする。
「お前の成功を待ってる間に、今年生まれたばかりの僕の甥っ子が基礎学校に入学して卒業しちゃいますから」
呪ってやる世一、のサインだ。ただし試合に影響しない範囲で
——それを知っているので世一はノータイムであははと軽く笑い、「お前もな」と親指を下に突き立て返す。
そんなことをしていると、遠くで、監督が「何をしてるんだ早く来い!」と叫ぶのが僅かに聞こえた。
——本当、変わり映えのしない、なんてことのないいつもの光景だ。
この先も永遠に続いていくかのような。
◇ ◇ ◇
結局、アップに入るのに世一とネスは三分ほど遅れ、ふたりして監督に蛇睨みを貰っていた。カイザーだけはギリギリ間に合った。そういうところ要領がいい自覚はある。なので最大限に世一を煽るために、そして純粋な疑問を解消するために「俺抜きでどんな与太話をしてたんだよ」と尋ねたが、世一もネスも頑として教えてくれなかった。なんでだよ。
とにかく、そんなぐだぐだした感じではじまった試合の内容も、とりたてて変わることの無い、良くも悪くも見慣れたぬるい展開になった。相手チームは老舗だが今年えらく勢いを落としており、主力選手数名が不調、故障、あと不倫で謹慎と、三拍子全部欠けてすっかり気の抜けた状況だったからだ。こんな試合でウルトラエースたるノアを出すまでもないとの判断から世界一様はベンチで腕組みしながら鉄面皮を晒しており、そのことに熱心なファンたちから悲しみのブーイングが上がったりしている。
「俺が思うにアレは、『見てるだけってマジで暇だな。ゴール決めてぇ〜』とかの顔だと思うんだけど」
ハーフタイムの終わりしな、監督の指示を仰ぎ終わって水分補給をしていると、世一がスススと寄って小さく耳打ちをしてきた。世一の指先はベンチに腰掛けたノアの方を示している。
「いや、あれは案外不機嫌な時のソレかもな。『前半何をモタモタやってんだ? 俺が出てればハットトリックもう決めてる』に一票だ」
「うわ有り得る。ネスはどう思う?」
「どう思うじゃねーですよ。カイザーに一票」
「ネスに聞いた俺がバカだった」
カイザーはふむ、と顎に手を当ててアンニュイに鼻を鳴らし、ついでにネスを味方に付けて正解も賞金もないトトカルチョに勝利した。優勢だからといって気を緩めるつもりはないが、それはそれとして必死に作戦会議をする必要もないので雑談をする余裕ぐらいはある。カイザーはちいさく唸ると、ちらり、とノアの方へ視線を見遣る。
……それにしても、確かに今日のノアは様子が妙だな。
出られなかったからといって抗議をするような人間じゃないし、次の試合が大本命なのでノアも納得してベンチを温めているはずだが、試合に出てる連中をいいなーと思ってるのは多分そうなんだろう。
しかしそれを差し引いても、あのサッカー狂いのサイボーグが無言でこちらを見ているのは据わりの悪いものがあるのだった。特に視線がカイザーと世一にばかり向けられているとなれば尚更だ。
いやポジション的に被っている
後輩ふたりの動きをつぶさに観察していること自体は、常に自分にとって食い甲斐のある
餌候補を求めているノエル・ノアとしては何もおかしなことではないのだが
……。
——でもやっぱり今日の視線はやけにくどいというか、
「てかなんか今日の試合、やけにノアに見られてるような気がしてさぁ」
と、そんなカイザーの名状し難い違和感に賛同するようにして、世一の声が覆い被さってくる。
「は? ノアが世一を?」
「うん。あとカイザーも
……かな? 俺たちそんなにノアに睨まれるようなプレーしたっけ?」
カイザーはふっと世一の方に顔をやり、そして、遠目に一瞬だけノアへ視線を遣った。ノアはコートを
——いや、向こう岸にある相手チームのベンチを、今度はじっと見つめているようだった。カイザーはつられるようにして相手チームのベンチに目を遣った。負けが込んでいる方なのだから当然ではあるのだが、なんだか重たくて陰鬱な空気が垂れ込めていて、悪魔にでも憑かれているみたいに険悪で
……。
「ハァ、おバカ世一
……お前、前半十五分に情けないミスして相手にボール盗られてたでしょうが」
「うっせ、アレはお前のパスが性悪すぎたんだっつーの。何あれ? 人間に取れるボール?」
「カイザーなら取ってます」
「あの時お前のカイザー正反対の側にいたよな!?」
けれど一瞬脳裏を過った非現実的な空想は、側でぎゃあぎゃあと言い争っている世一とネスの与太話によって掻き消される。
……俺は今何を考えていた?
カイザーは頭を抱え、それから左右に振った。ミヒャエル・カイザーは神に祈らないし、悪魔も天使も信じない。そうやって生きてきたはずなのに、一体どこでそんなオカルティックな単語が入り込んできたっていうんだろう?
——〝天使を見た〟、って。みんな、決まって、これだけ言うと気絶しちゃうらしい。
——だから捜査チームの中でついたあだ名が〝エンジェル・ドラッグ事件〟なんだって。
(
……まさかな)
ふと、二週間前に世一から聞いたオカルトそのものの話題を思い出し、カイザーはもう一度首を横へ振った。それからすぐにハーフタイムが終了し、選手たちはぞろぞろとピッチ上へ戻って行く。コンディションに問題は無い。油断しなければ勝てる相手だ。カイザーはちらりとベンチに残っているノアを一瞥する。
ノアの目線は今度は天へ向けられていた。
そして見間違えでなければ、まるで神に祈りでも捧げるみたいならしくもねぇツラして、
(
——嫌な予感がする)
そのせいだったのだろうか。
果たして不安はすぐに現実のものとなった。
「
——ボール守れッ!
衝突来るぞ!」
後半はじまってすぐ、三分も経たずに、SBのクラインが金槌でぶん殴られたみたいな叫びを上げた。カイザーと世一がクロスする丁度その地点めがけて、相手チームの選手がやけっぱちにでもなったみたいな顔でこちらに突っ込んできていたのだ。
攻撃的なプレーを好む選手ならば、
衝突蹴撃の選択肢自体は不思議でもないが
——問題は、向こうのFWふたりが互いの軌道をまるで考えていないとしか思えない速度で一緒くたに突っ込んできていることだった。
(
——クソッタレ、やぶれかぶれにでもなったかよ、)
ボールの現
所持者は世一。カイザーはその経路を計算して世一のシュートが潰された場合に最も効率のいい空白を埋めつつ、自分のボールにするのを狙う。そういう位置取りだから、最悪、ボール争いから身を引けばカイザーの安全は保証出来るだろう。相手FW共の狙いはボールなのだから。だが
——そうすれば世一はどうなる?
カイザーは一秒にも満たない僅かな間を縫って逡巡した。敵FWの体格は両者とも二メートル近く、なおかつ避ける隙は無い。衝突のインパクトを考えれば世一はタダでは済まされない。そうすれば世一は
——世一は、
(
——あ、)
そこまで考えたとき、瞬間、カイザーの頭の中に紅い幻が過った。
世一の身体から血があふれ出す。赤く染まる。世界が。世界が真っ赤になってそれ以外何もわからなくなる。だめだ。だめだ、それだけはだめだ、
——だから、
「
——世一ッ!!」
それだけはなんとしても避けなければ。
「カイザー!?」
地を蹴り、ルートを変える。クロスして走り去るつもりだったポイントで強引に世一からボールを奪い取り、敵FWたちの意識を逸らす。そのまま軸をズラしてシュートモーションへ移ろうとする。この位置からでシュートを決めるのは至難の業だが、ゴールネット付近にはネスがいる、どうにかボールを取って繋いでくれるだろう、そう思っていたのに、
……それすらも許さず世界がたわむ。
「あっ
——」
遠くで、ネスの、引き攣れるような悲鳴が聞こえた。
それから周囲が一斉にどよめき出して、観客席から一斉に不快なビープ音が鳴った。無数のスマートフォンが奏でる地震警報の音だ。ほどなくして地面がガタリと揺れ始め、動揺はピッチの上にまで波及していく。
直前まで迫っていたらしい相手選手が体勢を取り崩した。それに押されるような形で
——カイザーのすぐそばにいた世一が体幹を崩し、カイザーにもつれ落ちてくる。
「
——世一!」
崩れていく身体を、咄嗟に、手を伸ばして優しく抱き留めていた。
触れた肉体は、汗ばんで重たいユニフォーム越しでもはっきりと分かるほどドクドクと脈打って温かい。世一だ。これは潔世一の肉体。その温度に安堵して、カイザーは相手選手との衝突から守るようにして世一を抱き寄せた。ふたりは一緒くたになって人工芝生へと沈み込んでいく。大地はまだ揺れている、ような、気がした。気のせいかもしれない。もう何も分からない。何も
……。
(クソッタレ、厄日だ
……)
スローモーションになった世界の真ん中で、カイザーは遠く白んでいく空を僅かに見遣る。天から、何か、軽くて小さな白いモノが舞い落ちた。羽根だ。こんなに白い羽根がこの世にあるのだろうか。カイザーはまぶたを閉じる。まさか
……まさかな。
(
……疲れて見間違えたんだ)
世界がホワイトアウトする。
(だが
……意味があるとしたら?)
チームメイトの叫びも観客の騒ぎもどこにも聞こえなくなって、意識が昏く沈み込み、
……かわりに、ホワイトアウトしたどこか遠くの世界で、古ぼけたフィルムが回り始める。
『
——お前の名は?』
古ぼけて煤けた屋根裏部屋の窓に、全身真っ黒の、いかにも怪しい
外套に身を包んだ青年が腰掛けている。ソレは悪魔だった。フードに隠れた頭部に生えた巨大な一対の角に、目尻に差された派手な朱。紫に染め上げられたくちびるに添えられた爪は黒い革手袋に覆われ、
外套の下からは奇妙なかたちをした尻尾を伸ばし、愉しげに揺らしている。
『お、れ
……は、』
その悪魔に誘惑され、誰かが、恍惚として呟く。自ら破滅に向かって足を踏み入れる愚者そのものの姿をして、ぱさついてなお輝きを失わないプラチナブロンドの髪を揺らし、蠱惑的に微笑む悪魔へと指先を伸ばしている。
『俺は
……×××××。俺も、きっと、ずっとお前に逢いたかった
……』
誰かが言った。
その言葉にあっと思う間もなく、場面はすぐに次へと切り替わる。
『
——で? 本当にこんなトコにあるのか、連続失踪事件の手がかりが?』
次の
場面では、誰かはハッキリと嫌そうに顔を顰め、悪魔に悪態を吐いていた。放棄されて久しそうなうらぶれた廃屋敷の中で、天井から暖炉に至るまであらゆる場所に蜘蛛の巣が張り、不衛生で陰気な雰囲気を十分以上に演出している。あたりはどんよりと湿ってかび臭く、踏みしめたカーペットは黒茶色のしみでまだらになっていた。そんな陰鬱極まりない空間のさなかで、悪魔は〝誰か〟のそばにふよふよと浮かんで、気安く尻尾を揺らしている。
『そのはずなんだけどなぁ』
悪魔の言葉はひどく呑気だった。
『どっこで間違えちゃったかなぁ
……』
そして悪びれるふうもなく手を合わせ、誰かに向かってばちこんとウインクをしてみせる。
『
——めんご! や〜っぱ情報ミスったっぽい! 怪奇現象っていう触れ込みだったから、〝ホワイトチャペルの天使事件〟にワンチャン関係あるかと思ったのは事実なんだけど
……普通に悪魔崇拝ですらない邪神教徒関係の仕業だったみたい!』
ソロモン72柱すら掠ってないから
邪神と悪魔を一緒くたにされたくないんだよね、起源違うし。悪魔が適当こいて口笛を吹くのとタイミングを同じくして、何かを取り囲むように座り込んでいた
襤褸をまとった人々が、ぐねぐねと起き上がり、揺らめいて、奇妙な呻き声を上げ始める。
『
…………おい、俺から吸い取って溜め込んだ精気あるだろ。全部吐き出せ、ここで俺に死なれたくないならな』
誰かが
——プラチナブロンドを振り乱して空色の瞳を歪めた青年が不機嫌さを隠しもせずに言った。声のげんなりしたトーンがカイザーに馴染みのあるものすぎて、まるで鏡に映った自分を見せられているみたいで気色が悪い。
『え〜? 全部はちょっと
……いや嘘嘘、わかった、わーかったってば。
……出来る限り善処するからあとでちゅーさせて、補充しないと』
そして青年をおちょくるように応えながら、ばさりとコウモリのような形状の翼を広げた悪魔は
——あの停電の夜以来ときどき見ることのある、カイザーに物欲しげな目を向けるときの世一によく似た顔をして
——しかし世一よりいくらも淫靡な微笑みを湛えると、艶めかしい吐息を漏らしてぱちんと指を弾き、
——そしてうらぶれた廃屋敷は次の瞬間爆発炎上した。
(なんだこれ
……)
そしてすべてを俯瞰し終わり、頭を抱えたところで
——カイザーの意識もいよいよもって完全に途切れた。
◇ ◇ ◇
「
————あ、」
目が醒めるとそこは薬品の匂いが充満した辛気くさいベッドの上だった。見覚えのないよそよそしい天井に嫌気が差して寝返りを打つと、輝度を落とした照明を照り返すリノリウムの床と、少し間隔を空けて置かれた隣のベッドに寝かしつけられた見慣れた黒髪双葉の童顔が目に入る。
横たわる世一はいかにもな病院着を身に付けさせられていた。それを見てあ〜、と思って己の身体を見おろすと、カイザーも、やはり病院着を身に付けている。
「起きたか」
もぞもぞしていると背中向こうから声がして、のそのそと起き上がると声のした方を振り返る。つられるようにして、隣のベッドから、間の抜けたあくびと関節を鳴らすポキポキした音が聞こえてきた。世一は伸びをするとき、よく手首を回してはこうして骨を鳴らす習慣がある。
「ハァ
……」
カイザーはまず世一が呑気な声を出していることに安堵して、窓際のパイプ椅子に腰掛けて暇つぶし用と思しき新聞を広げている男にわざとらしく肩を竦めて見せた。
「おかげさまでぐっすり、快眠ってところだな。
——状況を確認させてくれ。まず今は何月何日だ」
尋ねると、ノアは
——なんでこんなところにいるのか分からない甚だ場違いな男は、何を考えているのかよくわからない相変わらずの鉄面皮のまま、こくりと静かに頷く。
「十二月三日。試合の翌日だ。今はまだ午前」
「つまり俺たちはあの試合で気絶してそのまま
ミュンヘン総合病院に運ばれたってことか?」
「ああ。ちなみに検査の結果さしたる怪我もなく、命にも別状ないらしい」
「へえ。
……それでお優しい我らがエースストライカー様はわざわざ若造ふたりの搬送先で目を醒ますまで付き添ってくださっていたと」
「まぁ、そーなるな。流石に面会時間外はホテルに戻っていたが」
「何故そこまで?」
続けて問いただすと、神経質な確認内容に段々面倒くさくなってきたのか、今度はノアの方がやれやれと肩を竦めて見せた。
昔からたまにある、「カリカリすんなクソガキ」のジェスチャーだ。だがそんなことで退くカイザーでは無い、そもそもノアにはそこまでする義理がないのだから
——それを訝しんで最後にもう一度声を重ねると、ノアは新聞を畳んでかったるそうに溜息を吐く。
「俺がついていると説得しなければ錯乱したネスが退いてくれそうになかった。カイザー、お前、手が空いたらすぐにヤツへ無事を連絡しておけよ」
そうして引っ張り出した答えは、しかし予想外にも拍子抜けしたもので、カイザーは白けた顔をして「はあ」と頷くハメになった。
「そう
……か。そうか
……」
「そうだ。殺気立ちすぎて、黒魔術で敵FWを呪い出しそうな勢いでな、まるで手に負えん」
「すげー、見てきたように想像出来る、荒れまくりのネス
……」
今まで黙って遣り取りを見ていた世一が、ノアの口ぶりにうんうんと頷く。まぁ想像できるか出来ないかで言えば圧倒的に前者の光景ではあったし、ノアが行くなら納得するというのも分からないでも無い。
ティーンの頃に
引率の先生役をやられた影響で、ネスはまだ、ノアのことをそういうふうに認識している節があるのだ。
それはノエル・ノアという超級ストライカーに多少なりとも憧れたサッカー少年の大体が持つ、憧れによる錯誤の名残だった。なんと踏み台にされた世一ですら「それはそれとして憧れてた時間は嘘じゃないし
……」などと今でも時折抜かしている。理解出来ない。
「えと
……じゃあその、ものはついでなんですけど。あのあと試合
……どーなりました? 俺たちふたりとも抜けちゃったけど
……」
などと脇道に逸れた空論を弄んでいるうちに、世一がおずおずと次の質問を投げ掛ける。ノアはそれに、まるですっかり忘れていたと言わんばかりの軽さで「ああ」と瞬きをして、それからあっけらかんとこう言い放つ。
「勝った。俺が出たからな。負けろって方が難しいだろ、向こうのエースふたりも結局レッドで退場したし」
「エッ!」
その返答に世一は鯉みたいに間抜けに口を開けて固まり、それから、困ったようにカイザーへ視線を投げ掛けた。
いやそんな目で見られてもどうしろと。言葉も出なくなってしまったのか? カイザーは頭を振り、仕方ないので口をぱくぱくしているばっかりの世一に代わって問いを引き継ぐ。
「あのタックルで一発レッド?」
するとノアは今度は首を横へ振った。
「お前らへのタックルが悪質とみなされて、まずイエロー。そのあともファウル喰らって退場。普段はそんなプレーをする選手じゃないハズだが
……どうも様子がおかしくてな。向こうは向こうでどっかに連れてかれたらしい、
——災難だったな、ただでさえ天変地異も重なったのに」
「天変地異って
——あ、地震警報!」
そうして出てきた更なる追加情報に、世一がポンと手を叩いた。
カイザーは納得顔の世一と対照に遠い目で天を仰ぎかけていた。情報が多い。これは観客席の連中も気が気じゃなかっただろう。なにしろどっちのチームもエースふたりが様々な理由で退場し、地震警報がばんばか鳴り、とどめに世界のノエル・ノア様による一方的蹂躙だ。とくに相手サポーターには気の毒としか言い様がない。
「大した揺れじゃなかったがな。日本人なら、揺れてんなとか思いながら普通に走り続けてるだろうってくらいの小規模だ」
「警報鳴ったのに? じゃあ震度2ぐらいかな
……てゆーか、アレ俺の気のせいじゃなかったんだ」
コッチ来てから地震なんて一回もなかったのにあなぁ、と、世一がぼやいた。地震大国日本で生まれ育った世一にとっては信じがたいことであろうが、ドイツで地震はめったに起きない。あるにはあるが警報が鳴るようなものではない。それより森林火災、
暴風、そして洪水の方が深刻だ。それでいえば、二週間前に起きた雷雨なんかも、季節外れというか、妙な気候だったなと思うが
……。
「なんか最近変な気候多くて滅入るなー。この前停電した日もさ、冬って暴風はあるけど雷雨は珍しいじゃん」
などというカイザーの考えにぴたりと重なるように、世一がぼやく。ノアはその声にフウと嘆息し、「日本人にそう言われると立つ瀬がないな」とジョークなのかなんなのかわかりづらい返しを漏らした。案の定世一にはうまく伝わっておらず、「え? 何?」とアホ面で首を傾げている。ノエル・ノアという男はジョークのセンスだけは一貫して持ち合わせていないのだ。サッカーへの渇望と引き換えに人間性を失ったのだろうというのがカイザーの持論であった。
「まーとにかく、安静にしてとっとと戻って来い。暇つぶしにコレはやるから、ドクターが来るまで大人しくしてろよ」
ノアはなおもきょとんとしている世一にまったく取り合わず
——自分が困惑させたと思ってないのだろう
——それで言うべきコトは言い終わったとばかり、がたりとパイプ椅子から立ち上がった。そしてひらひらと左手を振り、器用に右手で新聞を投げて寄越す。テイのいいゴミ処理じゃねえかと思いつつ、テレビを付けるより活字でニュースを見たいタイプのカイザーは、まぁ無いよりマシかと放り投げられた新聞を手に取る。
「はいはい、ご高説どーも」
そうしてすっかり用がなくなったノアの顔面から新聞へと視線を移し投げやりに言い棄てると、ノアは満足したらしく、カツカツと靴音を立てて病室の外へ出ていってしまった。
あとにはしんとした病室と、カイザー、そしてベッドの中でもぞもぞする世一ばかりが残される。カイザーは手持ちぶさたそうな世一に一瞥をすると、一面へ視線を投げ掛けた。まぁ世一なんぞいくらでもヒマさせておけばいいかと思ったのだ。
——まさかそれから十秒と経たず世一の名を呼ぶことになるとは思わずに。
「
——ッ、な、おい世一!」
一面見出しを見た瞬間、カイザーは言葉を失い、表情を引きつらせた。「カイザー? どーしたんだよ、急に
……」あまりの反応に世一が驚いたような声を出し、視線を向けてくる。カイザーは首を振り、片手で頭を抱え、それから読みかけの新聞を世一のベッドへ放って寄越した。「いいから一面を見ろ」放物線を描いて飛んでいった新聞の束を世一が綺麗にキャッチして開く。「俺まだ専門用語とかだとたまにわかんない単語あるんだけど
……」そして唇を尖らせて緊張感のない文句を付けながら、世一が一面に目を滑らせる。
「は
——失踪したぁ!? え、昨日俺たちにぶつかってきたふたりともが!?」
次の瞬間、世一はまるっきりカイザーと同じ反応をして、素っ頓狂な声を上げこちらへ勢いよく顔を向けた。普段ならクソうるせぇ金切り声を上げるなとイラつくところだが、今日はまったくそんな気にならない。
「どうやらそうらしいな。
……ネットニュースにもなってやがる
……」
世一に渡した新聞の代わりに、ベッドサイドに置かれていたスマホに指を滑らせて画面をスクロールする。報道内容は概ね以下のような内容だ。
——昨日らしくもない不可解なプレーを見せて退場になったヴェスパー・ブレーメンのアレッサンドロとクンツ。ピッチを降りて以降もしきりに「天使を見た」と繰り返し、異常としか言いようのない言動を見せていたため、試合終了後に監督の判断で医療機関に搬送された。そして検査の結果両名共に違法薬物の反応が認められ、拘置所に移送されたが
——その翌朝にはふたり揃って姿を消してしまったのだ。
警察はすぐに彼らの行方を追い始めたが今のところめぼしい情報は上がっておらず、ちまたでは彼らの失踪を話題の連続失踪事件に結びつける声も多い
——。
「て、天使
……に、失踪事件
——まさか、〝エンジェル・ドラッグ事件〟
……!?」
一面を読み終えた世一が怖々と口にした名前に、カイザーは否定も肯定もせず静かに溜息を吐いた。
「これまでの連続失踪事件は失踪者が意識不明の状態で発見されるケースが続いていたから、厳密には状況が異なるがな。だがもしコイツらが意識不明になって別所で発見されたとしたらまったくないとは言い切れない」
「嘘だろ、俺クラインが適当に言ってる作り話だと思ってたのに」
「まだそのセンが断たれたわけじゃない。そんなオカルトが二十一世紀になっても跋扈しているだなんて主張はナンセンスすぎる
——」
そう、ナンセンスだ。その通りのはずなのに、何故か、強く言い切ることが出来ない。カイザーは自分が気絶する直前に見た奇妙な夢のことを思い出す。悪魔の夢。エンジェル・ドラッグ事件。白い羽根。偶然のはずの出来事たちがいやな一致を伴って頭の中で結びつき、ある種の符号を描こうとしている。いやそんな馬鹿な、あるはずがない、そう思うのに、否定しきれない。
あの夢はいったいなんだったんだ?
世一と自分によく似た見知らぬ男たちの、夢にしては
——或いは夢だからこそ異様な程リアルだったあれは
……?
「そ、その
……関係あるのかわかんないんだけどさ。俺変な夢見て」
そんなカイザーの不安を決定づけるかのように、新聞を握り締めたままの世一が、震える声で、そう呟く。カイザーはハッと顔を上げて世一の姿を見つめた。手のひらに僅かに脂汗が滲んでいる。緊張の汗だ、と、そう思った。潔世一という男は滅多に緊張なんてするタマじゃないというのに。
「まさかと思うが
……悪魔の夢じゃないだろうな?」
その仕草に頼むから外れてくれと思いながら尋ねかけると、最悪なことに、世一はこくりと頷いてカイザーの瞳を真っ直ぐに見つめ返してくる。
「それがそのまさか。悪魔が出てきて、そいつは俺の顔をしてて、誰かと一緒にいて。見間違えでなければ、一緒にいる男はカイザーの顔をしてた、ような
……」
言葉尻が少しずつ行き場を無くして下がり落ちていく。カイザーは舌打ちをする気分にもなれず、ただ呆然として、その言葉を舌の根の上で反芻した。
有り得ない。有り得ないのだ。だが事実として世一はカイザーが見た夢とまったく同じ特徴を述べ立てていて、だからつまり、これは
……。
「共有夢
……」
——こんなのまるっきりオカルトだ。
けれど否定することもできない。その思いは世一も同じだったようで、う〜、とか、あ〜、とか、困ったように唸りながらおずおずとカイザーの様子を伺い、そしてこの奇妙な一致がもたらす新たな疑問を提示してくる。
「なぁ、夢の中のふたりもさ、連続失踪事件の調査をしてなかったか? それもなんだか、同じ〝天使〟に関係ある感じの」
カイザーはふるりと首を振った。確かに、夢の中の悪魔がそんなことを口にしていた気がする。
「「〝ホワイトチャペルの天使事件〟
……」」
声音はぴったりと重なり、一言一句違わず同じだった。
「偶然にしてはちょっと、出来過ぎてねぇ?」
いよいよもって信じられないという顔をして、世一が呟く。カイザーは頷く。そもそも違う人間が同じ夢を見るなんて有り得るのかという疑問は未だあるが、事実としてふたりは同じ夢を見ていたとしか言い様がないのだ。
「そうかもな。まぁ夢の内容は実際の記憶を元に生成されるものだというから、大方俺たちの脳が創り出したありもしないホラ話ではあるのだろうが
……」
「
……でも、もしそうじゃなかったら? もしかしたら俺たちの間には、ホントに何かあるのかも。それこそ運命みたいな」
海色の瞳を熱っぽく細め、世一がぽつりと漏れ出てしまったようにそんなことを言った。カイザーはぱちぱちと瞬きをして、らしくもねぇクソロマンチストな台詞を吐いた童顔双葉を覗き込む。
目と目がかちりと合って、世一が、それからようやく何か気付いたように「あっ」と唇を手で押さえた。頬が赤く染まる。嵐の夜、電気のつかない部屋の真ん中で、見つめてきた時と同じように。
「
——あのさ、クリスマスが、来るまでさ」
世一が、なんでだかこちらに手を伸ばしながら、上目遣いでそんなことを言った。
「暇な時間に一緒に調べてみねぇ? お前と同じ夢を見た意味、知りたいんだ」
華奢でもか細くも無い、普通の指先だった。カイザーはちいさく喉を鳴らすと、その指先に自分の手を伸ばす。ベッドの間隔は広く、指先同士が触れることは無いのだが、それでもそうしないといけない気がして。
理由は分からないけど、やっぱり、その手を離してはいけないんじゃないかとそう思ったから。
「まあ
……暇な時になら。俺も
……興味がない、わけじゃない。夢の中のコスプレ世一くんはなかなかお可愛らしかったしなぁ?」
それからハッとしたように手を引っ込めて、ふるりと首を振る。触っていないはずの指先があつい。何かが変わっていこうとしている。そんな予感がしていた。カイザーが変わることを恐れる一方で、きっと世一は、それを求めている。
そしてこの信じがたいほどの最低最悪のエゴイストがその気になってしまえば
——ミヒャエル・カイザーはそれに抗うことが出来ないのではないかと、そんな予感も。
「そう? 俺あれはなんかちょっと
……尖りすぎじゃねって思うけど。唇とか紫じゃん。どゆこと?」
「知らん、悪魔だからだろ」
「え〜
……?」
軽口を叩き合いながら、ふっと苦笑する。世一のバカみたいな笑い顔を見ていると、試合の最中からずっと胸につっかえていた違和感や不安が全部どうでもいいものになって、押し流されて、代わりに微睡みのような心地よさだけが残る。
その中にまだほんの一匙だけ、胸を刺すチクリとした痛みが隠れていたような気もしたけれど。
「クリスマスの余興にアレがあるなら、出掛けてやってもいいかもな」
「趣味悪ッ」
「俺もなんか着てやるよ、神父服とか」
「マジで似合わねぇ〜」
気付かないふりをして、カイザーは目を細め、世一に微笑みかけていた。
——願わくばこの選択が間違いにならないよう祈りながら。
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