VRF2026 差し入れ怪文書


 足立は夜道を歩いていた。
 正確には、歩かされていた。かといって、誰かに命じられているわけでもない。ただ、気がついた時にはもう足が勝手に前へ進んでいて、止まることができなかった。
 何故こんな夜道を歩いているのか。ここはどこで、自分は何をしていたのか。考えれば考えるほど、脳裏に靄がかかる。
 両脇に並ぶ建物の形も、舗装されたアスファルトの質感も、どこか現実離れしていた。見覚えがあるような、ないような。懐かしさと違和感が混ざる風景。──まるで、テレビの中にでも入り込んだような。
 だが、そんなことはありえない。今はあの事件から十数年が経過して、足立は罪を償い、出所した身なのだから。
 ようやく足が止まる。ふと顔を上げたその先に〝それ〟はいた。
 猫や狸の類だったら、どれほどよかっただろう。そこにいたのは、明らかに〝異形〟だった。
 三つの頭を持つ、巨大な銀色の獣。それぞれの頭が別々の意志を持つように、不規則な動きで足立を見つめていた。
 鋭い目。大きな牙。常識外れな構造。それでも足立は、この生き物を表す言葉を知っている。──冥府の番犬、ケルベロス。
 絵に描いたような、どこかの寓話の中から出てきたような、けれど本物としか思えない迫力があった。
 思わず息を詰める。距離を隔てているはずなのに、肌がひりつくような圧が迫ってくる。目を逸らしたいのに、逸らせない。手のひらが汗ばみ、喉が渇く。膝に力が入らない。
……な、なんなんだよ……っ、オマエ……っ!」
 本能が警告している。逃げてはいけない。背を向けるな。無理に動けば、襲われる。そう、直感が告げている。
 けれど、妙なことにケルベロスは動かなかった。
 ただ、足立をじっと見つめている。中央の頭が、ゆっくりと首を傾ける。まるでこちらの出方を窺うように。
 のそのそと、重たげな体が足立へ歩み寄る。銀色の毛並みが、月明かりを受けて微かに光を反射して揺れた。
 真正面から覗き込んでくるその瞳は、あまりにも真っ直ぐだった。その色、その光、この距離感。足立は、この目をよく知っていた。
……悠、くん……?」
 ぽつりと名を呼んだ。ほとんど反射的に。
 その瞬間、中央の頭は耳をぴくりと動かした。尻尾が一度だけゆるく揺れた。動かない。襲わない。ただ、見ている。
 その瞳があまりにも鳴上悠に似ていて──足立はついに自覚する。
(ああ……これ、夢か)
 夢だと気づいても、安堵には至らない。目の前のケルベロスは、それぞれ異なる気配をまとい、まるで別人のように足立を見つめていた。
 中央の首が、ゆっくりと瞬きをする。その眼差しは静かで、穏やかで、ひどく馴染みのある色をしていた。これは鳴上だ。足立はそう確信する。問題は、左右だった。
 左の首は、こちらをじとりと見つめていた。警戒というより、戸惑いを孕んだ視線。鼻先をひくつかせ、こちらの様子を探るようだった。
……き、君も悠くんなの……?」
 問いかけると、左の頭はぴくりと反応した。けれどすぐに耳をしょんぼりとしたように伏せる。どうやら違うらしい。ただ──足元を見つめるように黙り込むその様子は、どこかいじらしい。
 足立はそっと手を伸ばす。拒絶されるかと思ったが、小さく身を引いただけで、完全には避けなかった。指先がそっと鼻先に触れると、肩がわずかに跳ねたあと、おずおずと頭を預けてきた。
「甘えたいなら素直になればいいのに……ふふ、可愛いとこあるじゃない。悠くん……じゃないのかもだけど」
 ぽつりと呟いたその言葉に反応するように、小さく尾を揺らした。

 次の瞬間、右の頭が唐突にぐいと顔を寄せてきた。ざらりと舌が頬を撫でる。唐突すぎる接触に、足立は情けない悲鳴をあげてのけぞる。
「ひ、ぃっ!? な、なんなの、突然っ!?」
 拭う暇もなく、二度、三度、濡れた舌が肌を這う。身を捩っても右の頭はしつこく迫り、その反応を楽しむように、牙を見せて喉を鳴らした。舌先が耳元をかすめた時、足立はぞくりと背筋を震わせる。
 右の頭からは明確な意図を感じる。まるで足立を玩具扱いするように、揶揄うように、弄ぶように。舌がじっとりと熱を残していく。
「や、やめっ……くすぐったい、から……っ」
 いやらしさなどないはずなのに、舐められた肌が妙に熱い。夢のはずなのに、温度が、感触が、生々しかった。
 見かねた中央の頭が「そこまでにしてやれ」と嗜めるように小さく鼻を鳴らす。右の頭はしぶしぶ舌を引っ込めると、興味を失ったかのように、ふい、とそっぽを向いた。
 やはり、中央以外は悠くんじゃない。そう思えた頃には、いつの間にか肩の力が抜けていた。右の頭は甘噛みの真似をしては足立を揶揄い、左の頭はそっと足立の手の甲に鼻先を押しつけてくる。
……なんで獣に好かれんの、僕」
 そのぼやきに応じるように、中央の頭が顔を寄せ、額をそっとすり寄せてきた。そのまま、三つの頭がぬくもりをまとって寄り添ってくる。まるで当然のように、守るように、獣たちは足立を囲んだ。
 そして、ゆっくりと意識が滲んでいく。

 目を開けると、隣には見慣れた人間の姿の鳴上がいた。まどろみの中でそれを確かめた足立は、心から安堵して、静かに息を吐いた。
「でも……あの両サイド……悠くん、じゃなかったよな……

#2 ケルベロス主人公