雨野縁
2026-01-29 08:27:52
4670文字
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掛香

2021年8月出版の書籍『掛香』の再録、誤字修正版。


迎へ梅雨 -むかえつゆ-

梅雨入りする前の五月下旬に、梅雨のごとく降る雨のこと。そのまま梅雨入りすることもあるが、回復して晴れの日が続くこともある。



 しとしとと雨が降っている。梅の実はまだ実らない、梅雨の前だが連日のように雨が続いていた。今年は雨が多い。このまま数日後には梅雨入りするだろう。耳に心地良い雨の音、いつもより少しひんやりとした室内。まさに絶好の二度寝日和なのだが、この家の居候の一人である愛宕寿々華の耳には不快な音が聞こえていた。それはリビングのほうから聞こえており、二度寝の邪魔をする。寿々華は顔にかかった緩く波打つ黒髪を払い除けてベッドから起き上がった。空気が僅かに重苦しい。
「環はん、またなんか寄せ付けはったんやろなぁ。」
 寿々華の呟きは雨に溶けていった。リビングのほうからは不快な音と生活音が聞こえ、ベッドには寿々華しかいない。二人はすでに起きているようだった。

 キィィ  キィ キィ

 纏わりつく黒いヘドロ、そう形容する他ないものがこの部屋の持ち主である化野環の体に纏わりついている。不快な音はそこから聞こえていた。木が軋んだ音のような低音と高音がごちゃごちゃに混ぜられた音。この黒いヘドロの姿をとらえているのは寿々華の藤色の瞳だけだ。彼には視えておらず、気持ちの悪い黒いヘドロに纏わりつかれているのも知らずに携帯端末を見ている。朽葉色の髪を揺らしてうんうんと唸っているのも纏わりついているヘドロのせいではなく、新しい物件を探しているだけだろう。そもそもこの部屋は一人暮らし用のものだ。一人暮らし用といっても、部屋がリビングの他に二つあるので広いのだが、流石に居候が二人もいる状態では狭い。環はこの部屋の他に隣の部屋も所有しているため、苦渋の決断で隣の部屋を寿々華にあてがったものの、寿々華はその部屋を使うことなくこの部屋にある環の寝室で寝ている状況だ。もう一人の居候も寿々華同様、自分にあてがわれた部屋で寝ることはない。よって、環は引っ越しを検討しているようなのだ。
「おはよう、すず。ん、どうしたの? なんか変?」
……なんやてへんよ。ぞらちゃんは?」
 寿々華はもう一人の居候であるゾラの居場所を環に尋ねる。彼女は視えなくとも感じることが出来る。ここまで酷くなっているのは珍しいのだ。
「ゾラならこんな雨の日なのに出かけたよ。」
 環が携帯端末を寿々華に見せた。そこには緑色のアイコンが印象的な連絡ツールでのやりとりが表示されている。
『でかけてくる。』
『ひるまえにはかえってくる。』
 すべてひらがなで書かれた簡素な文章は間違いなく彼女の文章だ。送信時刻から、早起きな環ですら寝ているような早朝から出掛けていったようであることが分かる。現在の時刻は午前の十一時。用事が早く済んでいれば、そろそろ帰ってくるかもしれない。そうでなくても、昼前には帰ってくるならなんとかなるだろう。寿々華はゾラに連絡を取らず、待つことを選択した。
「すず、朝ごはん食べる?」
「ようすぐお昼やし、紅茶やけにしよけかいな。」
「そう……スコーン作ってたけど明日にするね。」
 環はいそいそと紅茶を入れる準備を始めるべくキッチンへと向かった。寿々華は環には申し訳なく思いながら、環がなるべく視界に入らないようにする。あんなヘドロを見ながら食事出来るはずもないし、あのヘドロと目も合わせたくもない。しかしヘドロの声だけは嫌でも耳に入ってくる。

 キィィ  キィ キィ
 こちらに こい こい

 今まで木が軋んだような音に聞こえていたものが、意味のある言葉になった。寿々華はびっくりして思わず環のほうへと顔を向ける。ヘドロが先程よりも大きくなっている。それどころか、ぶくり、ぶくりと膨れあがっている。環の姿はすっかりヘドロに覆われていて、顔も見えない。
「あっ。」
 ぐるりとヘドロが寿々華のほうを向く。眼球はない、それなのに目が合ったということだけは分かった。寿々華の体は硬直する。目を逸らしたくても逸らすことが出来ない。まるで体が石になったかのように。
「すず? 顔色悪いけど大丈夫?」
 環が急に顔色を悪くした寿々華を心配して、作業を中断してキッチンから出てくる。しかし寿々華には、ヘドロが近づいてきているようにしか見えない。
「かなん! 近寄れへんで!」
 差し出された手を振り払い、なるべく離れるよう逃げ出す。突然の拒絶に環は唖然としている。ヘドロはその間も膨張を続け、不気味な声を発していた。

 みたな みたな こちらへ こい
 おまえも なかまに なれ

 いつのまにか強くなった雨にもかき消されることなく、不気味で不快なな声は大きくなっていく。ヘドロは仲間を欲しがっているようだ。そこで寿々華はヘドロの膨れあがった部分が人の顔の形になっていることに気が付いてしまった。声はその顔の口から発せられており、複数人の声が重なっているらしい。
「ヒッ……
 寿々華の口から悲鳴が漏れた。取り込まれたら自分もあの気持ち悪いものの仲間になってしまうのだろうか。明確な恐怖に寿々華の体は震えていた。寿々華はホラー映画が好きだ。でもそれは〝作り物〟であることが分かっているから楽しめるのであって、〝本物〟の前では無力であり恐怖を感じるのだ。
「すず? どうしちゃったの。」
 環は寿々華の異様な行動にただ驚いているが、彼自身もまた顔色が悪くなっている。ヘドロの影響が出始めているようだった。こんなことならさっさと連絡を取っておけばよかったと寿々華は後悔した。
「あ、れ……なんか急に目眩が。」
 環の顔はどんどん青褪めていく。よろよろとその場にしゃがみ込み、そのまま倒れ込んでしまった。ヘドロはさらに膨張し、環の顔を覆い隠しているため寿々華には彼の顔色は見えていないものの、彼の異変には気がついた。このままでは、自分より先に彼があのヘドロに取り込まれてしまう。しかし、自分にはどうすることも出来ない。ヘドロから目を逸らすことも出来ない。

 あたらしい なかま なかま だ

 ヘドロは膨張しながら嬉しげに声を発する。しかしその声は惨めな悲鳴とともに途切れた。
「くうきがわるいな。」
 細くて小さな体と整った顔にふさわしい澄んだソプラノボイスに似合わない乱暴な言葉遣い。くすんだ金髪は雨で濡れていて、冠のように彩る異様な角から水滴が滴り落ちている。いつのまにか帰宅していたらしいゾラがヘドロを踏み潰していた。環の顔の横スレスレ、主人格と思われる大きな顔の口にピンヒールがめり込んでいる。彼女のペリドットのような瞳には視えていないはずなのに、いつもこうやってピンポイントで弱点らしき場所を攻撃しているのだ。
「すず、ここになんかいるのか?」
「おるよ。ドロドロしたのが……早う何とかせんと環はんが。」
 ゾラは何度も何度もピンヒールでヘドロを踏み潰す。その度にヘドロは悲鳴をあげた。さらに彼女は何故か持っていた塩をありったけぶち撒ける。床一面に塩が広がり、ヘドロはあっという間に溶けていった。
「こんどからはえんりょせずすぐれんらくしろよ。」
「おん、分かった。」
 ゾラは会話をする間もヘドロを踏み潰し続けている。一方的な蹂躙だった。彼女がヘドロを踏み潰すたびにライトグレーのミニスカートと桃色に染められた毛先が揺れて翻る。そうしているうちにヘドロは声を発することもなくなり、跡形もなく消えていた。

  * *

 環はソファの上で目が覚めた。何故か口の中がしょっぱい。キッチンにはすでに帰宅していたらしいゾラが何か作業をしている。
「あれ、俺いつのまに寝ちゃっていた?」
 寝る前の記憶がない。たしか寿々華が起きてきて朝の挨拶をして、彼女の顔色が悪かったから心配をしたら手を振り払われたところまでは覚えている。
……俺、うざかったかな?」
 明らかに凹んでいる環の隣に寿々華が座って抱きついてきた。ふわりと香る香水は環が愛用しているものと同じ香りだが、彼女がつけるとクリアな透明感が増すように思える。
「環はん、今日のお昼はうーめんやって。ぞらちゃんがわざわざ美味しいもの買いに行っとったみたおす。」
 うーめんとは東北南部に位置する宮城県のとある地域の特産品である乾麺だ。油を使わずに作られた乾麺であり、一般的なそうめんの半分ほどの長さしかない。以前気まぐれで購入したうーめんを寿々華が気に入っていたようで、度々うーめんが食べたいと強請られていた。ゾラはそれを見てわざわざ宮城県まで行ってうーめんを買いに行っていたらしい。しかし環によってそんなことは今はどうでもよかった。
「すず。俺のこと嫌いになったらいつでも出て行っていいからね。」
「え、急にどないん? そんなこと言うて。」
 環の言葉に寿々華は首を傾げた。緩やかに波打つ癖毛も一緒に揺れる。髪を結っていないらしく、内側だけ染めた薄紫は隠れている。
「え。いやだってさっき俺の手を振り払ったような……
「えぇ? うちはそんなことせぇへんよ。環はんの見た夢なんではおまへん?」
 戸惑う環を無視して寿々華は戯れるように手を握ったりしている。そうしているうちに醤油と出汁の香りがリビングに広がった。
「ふたりとも。きょうはおくずかけだぞ。」
 とろみがついた醤油ベースのスープに里芋や油揚げ、人参、牛蒡、椎茸などの具がたくさん乗っている。宮城県の郷土料理だそうだ。器から湯気がたちのぼり、食欲をそそる。少し冷え込んだ雨の日にぴったりのものだ。
「きょうもあめだな。」
 ふとゾラは窓の外に視線を向ける。景色全体が灰色がかって見えるのも、雨のせいだろうか。



 サムイ ハイリタイ ホシイ タベタイ

 外は雨、良くないものたちが穏やかな光景を恨めしそうに見ていた。良くないものたちを迎え入れる雨はまだまだ続く。