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いを
2026-01-17 20:27:40
2684文字
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くらくら
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夜の深いところ/朝の青いところ
鵼、マルタ
・後半に慶さん【ppy_op】
お借りしています。
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夜の深いところ
何年前だろうか。
飛白マルタという外科医が病院を去ったのは。その直前に、彼とはなしをしたことがある。ほんの一時間ほどだけれど。近くに水槽があり、中にたゆたう熱帯魚が華美な尾ひれを翻していた。聞こえたのは清浄器や空調の音。飛白マルタという外科医は、ひどく思い詰めた表情をしながらもなにかを決断し、ゆるがない一本の芯を体内に埋めているようだった。少々の危惧とともに彼の目を見上げ、ようやく口を開いた。
「人間とは精神である。1849年、死に至る病という書を公表したキルケゴールの言葉です。キルケゴールは信仰が人間を絶望と不安から救出すると説きました」
彼のうすい褐色の肌から浮き出た目玉の白が、ふいに閉じる。膝のうえでみずからの指を絡めている。思考しているようだった。
「それは本当に〝そう〟なのか」
彼は掠れた声でつぶやいた。彼の両親はプロテスタントであったようだが、マルタ本人は信仰してはいないようだ。神がいれば死という概念はないはずだ
――
と、彼は以前いっていた。我々は楽園から追われて以来、神を不要なものとして生きてきたのかもしれない、と。人によってはそれこそが神の死、ともいうのだろう。
「人間とは精神です。精神とは自己です。自己とは自分自身に関係する関係。どう関係しているかを考え、思考することこそが自己です。考えることが、自己を保つすべです。考えることをやめた人間は、人間と呼べるのか
……
。最近ニュースで話題の薬に手を出すひとびとがいるようですね。みんながするから自分もする、そんなものは思考放棄です。責任を誰かになすりつけるために自分を捨てているのですから」
テレビのリモコンのスイッチを押すと、ニュースが流れてきた。苦々犯罪者たちの暴動のようすが流れ出す。これもいずれ、日常になってしまうのだろうか。
「飛白先生がなにを思い詰めているのか、俺に聞かせてくれませんか?」
青い髪がゆがんでいる。中途半端に伸び、顎あたりでまとわりついていた。
かさついたくちびるが細く、長い息をつくためにそっと開く。
「俺がなにを思い詰めてるかって? 半年前、爆発事故が起きたことを覚えているか」
「右浜区の住宅街でしたか」
「実家があった。帰ったらすべて、燃えていた。家も、家財も、すべてが燃えていた。父は骨のかけらだけが残った。母は
……
あのとおりだ」
「
……
」
たしかに、彼の母親はここに搬送されていた。名前はヴィオレッタ。今は特殊な病室にいる。
――
あの状態を生きているのかと問われれば、口を噤むしかないけれど。
「これで思い詰めるなというほうが無理なはなしだろう。白楽天先生」
「
――
そうですね。飛白先生がそう仰るのなら、そうなのでしょう。だれも、自分のことは結局自分にしか分かりません。ただ、」
彼は、眼鏡をかけていただろうか。その疑問をのみこみ、一瞬目をとじる。
「ただ、この世界が地獄だろうがなんだろうが、飛白先生は生きています。そして、生きるための知識と知恵、技術を持っているひとだと俺は思っています。それを自ら手放すことがないように願っています」
これが医師、飛白マルタと交わした最後の会話だった。
彼がアンチドートの研究員になったことを知ったのは、その3年後。自らも研究員になった春のことだった。
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