ユーフォリア
朝からずっと、激しい雨が降っている。
ザアザアと暴力的な音を立てて降る雨が窓を叩き、ヘッドフォン越しにも聴こえる耳障りな音に集中力が切れてしまった和歌は、いつの間にか空になっていたマグカップを片手に部屋を出た。
「友喜?」
伸びをしながら向かったダイニングは暗かった。いつもなら、キッチンでゆったりと夕食を作っている同居人がいるはずの時間帯であるのに。
今日はオフで良かったと、朝食を食べながら笑っていた年上の男の顔を思い出す。こんな雨じゃ移動が大変だと、義足の脚を軽く叩いて笑った同居人の
――友喜の顔。
「
……」
マグカップをシンクに置いて、和歌はいささか速足で友喜の部屋の前へ立つ。そっと扉を叩くと、少しの間をおいて「わか?」とか細い声。
「入るぞ」
返答を待たずに開いた扉の先も薄暗く、どこかじっとりとした湿気を含んでいるような重い空気に、和歌は眉を寄せた。
電気をつけ、ベッド下に乱雑に転がされている義足を丁寧に立てかけた和歌は、シーツを強く握りしめて眩しそうに目を細める友喜の太腿をそっと撫でた。
「痛むか」
「
……少し、ね」
少しのはずがないだろうに。
どれだけの時間痛みに耐えていたのだろう。脂汗を浮かべながら苦笑する友喜の、濡れた前髪を払ってやりながら、膨らみのないボトムスに視線を向ける。
痛むのは爪先なのだと、初めて聞いた時の無力感は、今でもありありと思い出せた。
五体満足である和歌には到底想像のできない幻肢痛は、ところかまわず無差別に友喜を苛む。
存在しない脚に鎮痛剤は効かず、幻肢痛に有効とされるミラーセラピーも意味はない。そもそも鏡に映す脚がないのだから。
和歌にできることはなにもない。せいぜい傍にいることしか。
傍にいるなんて、ナイトテーブルに寝床を用意されているンアウフにだってできるのに。
「
……ふぅ」
そうこうしているうちに落ち着いたのか、こわばっていた友喜の身体から力が抜けた。緊張を解すように長い息を吐いた友喜が、先程よりも柔らかい笑みを浮かべる。
「ごめんね、和歌」
「なにが」
起き上がる気力はないのだろう。ぐったりと体を横たえたまま、友喜は気まずそうに視線を泳がせた。
「俺、君よりずっと年上なのに、情けないでしょ」
「
……」
「頼れるおとなでいたいのに、君に頼ってばかりだ。かっこ悪い」
嘘つきめ、と出かけた言葉を、和歌はとっさに喉へと押し込んだ。
友喜に頼られたことなど一度もないからだ。けれども、きっと彼も色々と考えていて出た言葉なのだろう。
和歌は頼られたつもりはないが、友喜は頼っているつもりなのかもしれない。
……実際そうなのだろう。この男は、とんでもなく見栄っ張りで、そして不器用な甘え下手だ。
「かっこつけたいのか?」
「
……当たり前でしょ。俺は、君の
――君たちの前では恰好つけたかったんだ。頼れるお兄さんでいたかったんだよ」
もう無理だけれど、と友喜は自嘲的な、歪な笑みを浮かべた。
それは、あの眩しい程に白い病室で浮かべた、何もかもを諦めてしまったような笑みと酷く似ていて、和歌は首筋にちりちりとした不快感を覚え、とっさに首筋に手を添えた。
「
……お兄さん?」
「ちょっと、そこなの?」
搾りだすように口にした言葉に、友喜が不服そうに眉を寄せた。細められた紅茶色の眼が和歌を映す。目元にできた細かな小皺が、重ねた年月を物語っていたが、その瞳の中に、病室で見た濁った色は見えなかった。
それだけで、和歌は詰めていた息を吐いて、首筋に当てていた手を、友喜の手に重ねた。熱があるのだろう。普段よりも熱い手は、しかし和歌を拒むことはない。
「友喜」
「
……なに」
大きさはあまり変わらないが、血管の浮いた皮膚の薄い甲や、節ばった長い指は、和歌には計り知れない程の日々を、必死にもがいて生きてきた
男 の手だ。
その手を緩く握り、和歌は友喜に視線を合わせた。
「お前は確かに情けないしかっこ悪いが、それだけじゃない」
「
……」
角砂糖を落とした紅茶が揺れるように、動揺を見せた瞳を見つめたまま、和歌は口を開いた。
「あの合宿で、お前は一等かっこよくて頼れる存在だった」
「
……そうだったとしても、それはカメラが回っていたからだよ」
カメラを通して視聴者へ向けた、作られた緒力友喜を否定する言葉。
かっこよくて頼れる芸能界の先輩という、視聴者へのアピールだと言外に言う友喜の表情は、煮出しすぎた茶を飲んでしまったかのような渋いものだ。
(カメラの前のお前だって、お前の一部だろうに)
「
……カメラがなくても、レッスンで相談に乗っていただろ」
圭に「友喜びいき」と言われるほど、世話になったと乃万が感謝していたように。
元々ファンの円果が、選曲を委ねるまでに傾倒したほどに。
緒力友喜は明るくて気さくな、『かっこよくて頼れるお兄さん』だった。
「それは、そうしたほうがいいと思ったし、相談されたから
……」
「相談するってことは、頼れるってことだろう」
既にデビューしていて年齢が近い圭もいたのに、乃万も円果も、友喜を頼った。それが答えでないなら、なんだというのだろう。
「それに、カメラがなくても、俺に料理を教えてくれた」
「簡単なものだよ。炒飯
……はともかく、目玉焼きなんて誰だって焼ける」
炒飯と口にした瞬間、一瞬だけ目を泳がせたが、何でもないことのように友喜は言った。炒飯はなかなかの力作だったが、殻を入れず、卵黄を潰さずに卵を割ることが酷く困難だった和歌からすると、彼の言葉は憤慨ものだ。
「その簡単なものが、俺にはできなかった。お前が教えてくれたから、人並みに卵は焼けるようになったんだ」
「
……」
「俺が今でも卵しか焼けないのは知っているだろ。お前が教えてくれないからだぞ」
「それは、俺のせいなの?」
「これからも頼むと言ったはずだ」
「本気だったんだ」
一度も連絡くれなかったくせに。
不貞腐れたように唇を尖らせて抗議する友喜に、痛いところを突かれた和歌は、誤魔化すようにベッドへと乗り上げて、横たわる体を覆うように手をついた。自然と見上げるように移動した紅茶色の視線を、じっと受け止める。
「お前が教えてくれないから、俺はお前に頼りっきりなんだ」
「頼りっきり? 和歌が、俺に?」
そんなまさかと丸くなった紅茶色は、まるでうさぎの眼のようだった。
「俺が部屋でのたれ死なないのは、友喜が気にかけてくれるからだろ」
和歌には、曲制作に集中すると寝食を忘れてしまう悪癖があった。マネージャーでさえ匙を投げた、何年経っても治らないその癖を、友喜は「和歌らしいね」と穏やかに笑って受け入れてくれた。
家にいる間の食事と睡眠は、友喜が声をかけてくれるタイミングか、力尽きて寝落ちかのどちらかだ。友喜と暮らす前は体調が悪くても気づかずに倒れたこともしばしばあったため、友喜は和歌の事務所から救世主扱いをされている。
今日みたいに集中力が途切れることは滅多にないから、和歌は友喜に生活基盤を任せきっている。だからこうして、幻肢痛に苛まれる友喜の傍にいることだってほとんどない。ナイトテーブルに鎮座しているンアウフのほうが、ずっと優秀だ。
つきりとした罪悪感に一瞬意識を取られた和歌の耳に、くすくすと小さく笑う友喜の声が飛び込んできた。
「そう言われると、俺はまるでお母さんみたいだね」
「
……違うだろ」
口元に手を当てて笑っている友喜の手を掴んで、和歌は驚いたように再び丸くなった目を覗き込んだ。
「母親じゃないだろ」
「わ、和歌
……?」
掴んだ手が熱い。頬も赤くなっているし、熱が上がっているかもしれない。早く冷やして、薬を飲ませてやらねばと、頭の隅で警笛が鳴るが、和歌は構わずに口を開いた。
「お前は母親じゃないし、情けなくてかっこ悪いだけじゃない。お前は今だってかっこよくて、頼れる『お兄さん』だろ」
ふと、友喜が表情を緩めた。きょとりとした幼い子どものような、無防備な表情。
「
……何で
お兄さん を強調するの」
「そう思われたいんだろ?」
揶揄うように言ってやると、赤い顔をむっと歪ませた友喜は、おもむろに和歌の首に腕をまわした。顔が近づき、額が触れ合う。
触れた皮膚が熱い。けれども、当の友喜はどうにも機嫌がよさそうで、にこにことしている。
「わか」
うっとりとささやくような声で、友喜が名前を呼んだ。
甘く、艶のある婀娜な声は、若い和歌を煽るには十分すぎる。その声だけで、ぞくぞくと背筋に走る衝撃に、和歌は眉を寄せた。
普段の穏やかさに忘れがちになるが、この男は数多の女性と浮名を流したプレイボーイだった。
してやられたような青年の苦い表情に、年嵩の男は悪戯が成功した子どものような顔で笑い、今度は無邪気ささえ感じるほど透明な声で「和歌」と名を呼んだ。
「君には、恋人扱いしてほしいんだけどな」
してくれないの? そう言って首を傾げるのだから、タチが悪い。
相手は体調を崩している。泣いて懇願するまでぐちゃぐちゃに甘やかして、気を失うまで抱きつぶしてやりたくなる衝動を受け流し、和歌はおとなにも子どもにもなるやっかいな男の額を弾いた。
「イ゛ッ!? わ、わか、なにするの。ひどい
……」
赤い顔で額を抑えて、この世の悲しみを全て背負ったかのような声を出す友喜に、大袈裟だと思わず笑ってしまった。
顔が赤すぎてどこを弾いたかもわからない額に唇を寄せる。子どものようなおとながぽかんとしているうちに、ベッドから起き上がり、乱れている髪をかき混ぜてやった。
「うわっ、ちょ、わかっ」
「何か食べるものと薬持ってくるから、おとなしく寝てろ」
友喜自身も熱があることを自覚していたのか、布団をかけてやるともぞもぞと素直に潜り込んだ。
やはり辛いのだろう。ほうと小さく息を吐き、落ち着く様子を確認してから部屋を出ようと足を動かすと、友喜が服の裾を掴んで引いた。
「ねぇ、わか。わかさま」
「どうした」
屈みこんで乱れた前髪をかきあげ、視線を合わせると、潤んだ紅茶色が嬉しそうに細められ、和歌の手を取り頬に当てた。
弱っているからだろうか。珍しく上手に甘えてくる友喜の頬をくすぐってやると、くふくふと機嫌よく笑う。お気に入りのぬいぐるみを抱くこどものようだ。
「どうした、友喜」
丁寧にケアされた滑らかな頬を撫でながら、努めて優しく問う。
友喜は指を絡めて、今日一番の甘やかな笑顔を浮かべた。
「君の焼いた目玉焼きが食べたいよ。和歌」
2021.08.07
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