山城まつり
2025-12-06 20:53:26
16065文字
Public クリムゾン・ジェネシス
 

シャルラッハロートの診療録─クリムゾン・ジェネシス─Ep.008

前回:Ep.007 https://privatter.me/page/6929534bcd5cc

シリーズ:https://privatter.me/user/YamashiroMatsuri?category=91299

シャルラッハロート、更新~~~~~!!
これにて第四章「紅蓮の創世 – Crimson Genesis –」は終了となります! ですがあの まだ幕間とエピローグがあって……普通に2つで1万文字を越すので、今回はクライマックスだけを載せます 今週で完結!とか言ってすみません、来週もまだ続きます……。

今回、ずっと「面白いか……? これ……」と頭を抱えてばかりで自信があんまり……ありません……。面白かったよ!という方が万が一にもいらっしゃいましたら、リアクションや感想で教えてください(最悪な他力本願)いやあの 強制じゃないですからね!? 気が向いたらでいいので……。

山城の小説は「うおお!胸アツ!」というより「感動」をお届けできたらええな~~~と思って書いております。自信はないけど、前作『ヒイロノカイ』とはまた違った感動があるとええなあと思っています。

長々と喋ってすみません~~……。それでは、どうぞ。よき時間を提供できますように!

※本シリーズは医療従事者でない人間の書いた医療の描写を含みます。症例論文、手術動画、医学書などを参考に執筆していますが、現実の医療と異なる場合があります。特に本シリーズは「魔法医療」を描いておりますので、現実の医療と大きく異なる部分があります。


3節:クリムゾン・ジェネシス




霜月の宮島は、夕刻を過ぎるとまるで世界そのものが息をひそめる。
十八時半。空気は一段と冷え、透明な刃のような風が海から吹き付けるたび、鳥居の向こうで波がひゅう、と細長い息を落とす。その泣くような音が人里に灯る光と混ぜ合わさり、夜の訪れを告げていた。

街中を満たす昼間の賑やかさも、嵐の喧騒も、嘘のように消えていた。
ロープウェイ乗り場だけが黒々とした山並みにぽつんと浮かぶ。それは孤島じみた暗がりで、自己主張をするように。そしてその駅舎、現世と非日常を繋ぐ場所で──ひとつの命が、灯火のように揺れながら消えかけていた。

翠は唇を結ぶ。東雲の胸は僅かに上下していたが、その動きは危うく、荒涼こうりょうとした海辺に立つ一本の弱い道灯りのようだった。彼の胸部には深紅の椿が花開いており、翠の足元をもじわり、じわりとくれないに穢していく。

……サナちゃん、力は──」

その絶望を堪え、いつもの調子を装って声を掛ける。伊織の傍に控える堕天使の少女──サナクシエル。漆黒の翼はしおれ、唇は震え、青ざめた頬は血の気を失っている。
……こんな少女の力を酷使する訳にもいかない。いかないのだが……この場で手術に耐えうる器具を安全に、迅速に作り出せるのは事実として、医科魔術〈構術〉を使う伊織とサナだけだった。

「サナ……

伊織が呼ぶ声には、不安が滲んでいる。

「すみま、せん……翠さま……。魔法因子が、もう、ありません……

か細い声音は、切れ入りそうに途切れた。
翠はひとつ、息を整える。努めて静かに、穏やかに。落とした声音は、呑み込まんとする絶望の中でも、落ち着いた響きを残していた。

「そっか」

その言葉は、状況を受け止めるための僅かな呼吸。一拍置き、顔だけを斜めに向けて呼びかける。

「メディ」

呼ばれた悪魔の少女、メディヴァ。彼女はきょとんと目を瞬かせたが──次の瞬間、全てを悟ったように顔を上げ、楽しげな笑みを浮かべた。

「分かってるよぉ。〝とっておき〟だねぇ?」
「ああ……頼む」

メディがサナの前に歩み寄る。白い手が細い指を優しく包み込む。ぎゅっとそれが強く握られた瞬間──サナは不思議そうに見上げた。
彼女が囁く。四文字の言葉に、祈りと奇跡を込めて。

「──〈呑噬どんぜい〉」

その瞬間、世界が緋色に染まった。
光が触れた空間が沈み込み、まるで何かの存在を吸い込むように揺らいでいく。白光がサナの内側へと沈み、沈み、溶け合って──ひとつの〝事実〟を喰らい、消し去った。

「へ……?」

サナがほうけた声を漏らした。それを聞き、東雲のシャツに手を掛けながら問いかける。

「サナちゃん、魔法因子、どう?」
「そんなの……あ、」

瞳が大きく見開かれ──その様子を受け取った翠は、不敵な笑みを口角に刻む。

「魔法因子が、回復してます……!?」
「えっ!?」

伊織の驚愕が空気を震わせた。

「なんで……!?」
「成る程、メディヴァの〈呑噬〉で『魔法因子が無くなった事実』を喰ったか。看護師資格の概念を喰った時と同じ理屈で」
「そゆこと」

怜の説明に短くそう答え、息を吸う。

「メディが喰えるのは、起こり得る可能性と起こった事実だけ。つまりさっきの、効果が少なかった『落下速度を落とす魔法を使った事』を喰ったワケだけど……事実を喰えば、世界が書き換わる」

メディがくるりと振り向き、得意げに胸を張った。

「ふふん、さっきの魔法で使った因子分だけだけどねぇ。小さな器具生成くらいは出来る筈だよぉ?」

サナは拳を握り、魔法因子の残量を確認して──凛々しく声を上げた。その立ち姿はただの少女ではない。確かに、医療の現場で舞える戦士だった。

「残り二割程度、残っています……! 補佐は可能です!」

伊織がほっと息を吐き、強く頷く。

「サナ、一緒に頑張ろう」
「はい、ご主人さま!」

翠は仲間達の決意を耳に、指示をひとつ、短く送る。

「サナちゃん、今回の器具は〝使い捨て〟でいい。構造を維持させなくていいから──魔法因子、極力温存してくれ」
「は……はい!」

緊張の気配が空気を満たす。伊織が指を立て、宙に魔術式を描くように滑らせていく。

「行くよ、サナ──医科魔術・幽玄回路構築」

サナの足元に、淡い桜色の魔術陣が展開される。花が開くように、さなぎが羽化するように。

「コード〈構術〉、プラグイン追加:[Construct(“Retractor”)]──出力を求む!」
「事象変換回路構築、コード〈構術〉プラスを認証」

紋様が編まれ、光が強まる。足下に、白き天使の祝福が満ち──。

「──医科魔術を出力いたします!」

光が立ち上がる。輪郭を宿し、形を結び、透き通った器具の群れへと変じていく。
風が揺れる。空気が震える。
……これで準備は整った。翠は強く頷き、魔術陣の術台へと足を踏み入れた。

東雲の胸に視線を落とす。息はもう、殆ど感じられない。
シャツを切り裂き、胸部を露わにする。冷気の中に、濃い血の匂いが立ち昇った。

左胸前方──第四肋間。
抉られた銃創から絶え間なく血が溢れ、胸郭全体がどす黒く染まっている。けれどそれに怯まない。傷の奥底を見据えると、柔らかな唇を持ち上げる。

「多分、心臓を銃弾が掠めてる。直撃したら止まってる筈だからな。つまり、心筋裂傷と心膜破裂で留まってる可能性が高い。けど、出血性ショックが進んでる」

状況を見た瞬間、脳裏に必要なステップが鮮烈に浮かんだ。まずは開胸。そして心臓の様子を見て、裂傷があれば縫合する──それがオペの全貌だ。
そう思案している横で、怜が静かに応える。

「まずはエアクリーンと術室生成からだ、櫻田。綾瀬は今、大規模な魔術を使えない。……本来は、俺がすべき事だがな」

その声に、悔しさと自責が滲んでいる。
この山には〝異界遮断結界〟が張られている──人間である怜は、高度な魔法を使えない。

「分かってる──」

彼の心境を察しているからこそ、軽く笑うように言う。それは翠なりの、怜への優しさだった。

「怜、非魔法で補佐な。いっつも非魔法オンリーで救ってる俺の凄さを実感しろよ」
……五月蠅い。お前こそ魔法で行って、いかに俺達が患者の負担やコストを下げているか実感しろ」
「はは、どーだか。……んじゃ行くよ──〈創魔そうま〉〈浄地じょうち〉」

歌うように軽やかに、二つの呪文を紡ぎ出す。
それを唱えた瞬間、世界は迷いなく翠の祈りに応えた。
空から地面へ、白銀の帳が降りる。身に着けている衣服が光を帯び、術衣とガウンへと変わっていく。人工の太陽が無影灯の代わりに浮かび上がり、宙に数字とライン──バイタルサインが瞬いて。
怜が一目、その光景を見て呟いた。

「この術室……仙田教授の作るものと同じか」
「そ。教授のおかげだな。〝前回〟のアレを見なかったら、ここまで精緻に術室なんて作れねぇよ」
「〝前回〟……?」

隣で、眉がひそめられる。
──前回。五月の末に事件を暴いた時、術室を作ったのは天璇の研究医・仙田芳子せんだよしこだった。母の運命を変えようとした医師である、彼女だった。
……けれど、怜達はその事件を覚えていない。覚えていなくていいのだ──それが、この世界から事件の鍵、人々を死に導く要素が消えた事の証明なのだから。

……んーん、なんでもねぇ。仙田教授が作る術室を見たから、上手く作れたって話ですぅ」

蘇ってきた記憶を一度見なかった事にして、そう言っておく。〈創魔〉は想像力が全てだから、とそれだけを答えて。
翠は胸の内でひとつ息を置き、世界を整える。

「で、怜。バイタルは?」
……もう既に危険域だ」
「りょーかい。伊織」
「全身麻酔、今入れたよ。いつでも」
「りょーかい」

深く息を吸い、瞼を持ち上げる。エメラルドの瞳に宿るのは──命を諦めない光。希望にかれた、光だった。

「んじゃ、始めるぜ──メス」

右手に、冷たい刃が触れた。その金属の冷たさが手の内に馴染むのに、ほんの数秒。しかし、その数秒すら東雲の命には重すぎる。

「櫻田、早く」
「分かってるっつーの」

翠は迷わず胸部に切開線を引く。皮膚が割れ、脂肪が裂け、光に照らされて筋肉が露わになる。焦げた匂いが持ち替えた電気メスから上がり、空気を掠めてふわりと溶ける。

「リトラクター」
「はぁい」

開胸器を当てがえばゆっくりと胸郭が開く。
臓器の湿った匂いが、濃密な血の匂いが、鼻腔の奥深くへと侵入してくる。

「心膜、切開」

それに臆さず、メスを当てる。一閃、肉の膜に線を引いた、その瞬間──。

「!」

鮮血が噴き上がった。それは例えるなら、跳ねる獣のような勢いで。サナが悲鳴のように震え、伊織が強く叫ぶ。

「心拍、落ちてる! 血圧も──!」
「怜、心マ! 人工心肺なんて作ってる余裕はねぇ! 俺の〈斎隔さいかく〉魔法で血液だけ別空間に飛ばす! 伊織は3-0、俺に!」
「分かったッ」
「はい!」

場の空気が一層緊張した。
鋭く呪文が唱えられ、青白い光がはしる。次の瞬間、心臓が〝血液〟という概念を忘れて剥き出しになった。
怜が反対方向から、心臓に両手を添えた。翠は糸を取り、押され続ける心臓のリズムに合わせて針を鎮める。一針を進めるごとに、やわい肉と格闘して。

悪い手応え。
柔らかすぎる心筋。
滲みすぎる血。
間に合わないという直感──。
それら全てを力で押さえつけ、ひたむきに信じた。救えるのだと。絶対に、救ってみせると、そう。

「──パッチ」

サナの手から透明なパッチが渡される。翠はそれを掴むと、裂け目に貼って縫い付けて。細い糸が肉を寄せ、形を取り戻していく。指先に白魔法──バイタル安定魔法の〈蘇脈〉を集め、生命の整流を流し込む。
それは教科書通りの手術技法。あとは模範例と同じように回復してくれる事を、ただひたすらに祈るだけ。

静寂が場を覆う。空気が冷たく、凍り付く。
数十秒──世界が止まった。時間が止まった。
そして、その久遠に感じられる休符の末──。

バイタルの波が、微かに持ち直した。

……震えてる……! 心拍、戻った!」

伊織の歓声が場に弾け、怜も小さく息を吐く。
だがその喜びと裏腹に、翠は心臓とバイタルサインを見比べて。
顔をしかめる。胸の中で、とある違和感が手を挙げていた。

……や、おかしい」

それに気付いた怜が翠の視線を追い、動きが止まる──夜空色を宿した彼の双眸が、ひとつの不穏を見抜いていた。

「血圧が上がっていない……。脈も触れているとはいえ弱いままだ。CO2も低い」
「心臓は回ってるのに、全身が動いてくれねぇ……怜、これ──」

仲間達が纏うひりつく空気を感じ取った伊織が再びバイタルを見上げ……さぁ、と青ざめる。

「ま、待って……!? 血糖、また下がってる……!!」

サナが東雲の頬に触れ、震える声で呟いた。

「冷たい……綾人さまの体、すごく……冷たいです……っ」

彼等の声に、眉をひそめながら空中に視線を飛ばし、バイタルの表示を追いかける。視線が捉えたのは、伊織が言った血糖値測定の画面で──それを見た瞬間、息を呑んだ。

……15mg/dL……ッ!?」

怜が顔色を失った。

「十五だと……!? ほぼ、心停止レベルだッ!」

翠はもう、彼の声を聞いてはいなかった。異常値を見つけた瞬間、東雲の体に目を走らせる。
何かがある筈。何かがある筈なんだ。この事態を説明できる、東雲が抱える何かが……ッ!

──腕。
──脇。
──腹……
そこで身体の動きが硬直する。シャツの下、下腹部……そこに、複数の注射痕と、硬いしこりがあるのが目に入った。
瞬間、翠の呼吸がぴたりと止まる。

……は?」

シナプス・リモデラーの注射痕か?
いや、違う。この注射痕、まさか。

「しこり……いや、これは……皮下注射の痕……?」

まさか。これは、まさか。
東雲さん、あんた──。
ひりつく咽頭のどから、揺れる言葉が漏れていく。

「それも同じ場所にかなり集中的にやる、自己注射。これは……

怜が厳しい視線で手元を穿つ。

「成人男性の腹部で、ここまで自己注射を繰り返す疾患は……ひとつだ」

ああ、そうだ。
そうだったのだ。

東雲の行動が蘇る。会話の内容が、蘇る。
学会の二次会で、酒を飲まなかった事。飲酒への注意。
あなごめしの料理店で──いや、食後に毎回トイレに行っていた事。食後の注射。
彼の母が、同じ病気を抱えていた事。遺伝性の病気。
多すぎるほどの飲み物を買ってくる事。口喝と多尿。
糖質ゼロの飲み物を好んで飲んでいた事……

目を見開く。ひとつの真実が、名乗りを上げている。
そうだ。彼を蝕む疾患は──。

「──インスリンの欠乏。つまり……糖尿病

それを口にした途端、冷たい汗が流れた。伊織が震えた声を絞り出す。

「血糖、低すぎるよ……! 乳酸も、」
「そういえば東雲さんは今日の昼食、レストランに来ていないッ! 恐らく朝の即効型インスリンが残っている! それで低血糖が起きている──」

怜が指先を震わせた。

「──Ⅰ型だ。ここまで崩れるのは、Ⅰ型糖尿病患者の、典型的な落ち方だ!」

翠は唇が噛み切れるほど強く噛む。

「じゃあ最初の心拍低下も……心筋裂傷に加えて低血糖で〝一気に落ちた〟って事か。Ⅰ型で飯抜くなんて、自殺行為だろ……! そりゃ血糖、真っ逆さまに落ちるに決まってるッ!!」

伊織の声が震える。

「きっと先生、その大事な事を考える力さえ、幻覚に奪われてたんだよ……! これじゃ燃料が無くて、生命維持が──!」

翠は拳を握りしめた。ぎり、と白い掌が鈍い音を立てる。

「なんでだよ……! あんた、なんでそんな大事な事……ッ!」

言わなかったのは、自分達を信じていなかったからか?
それともただ、心配を掛けたくないという優しさからか?
言ってくれていたら、教えられたかもしれないのに。無理やりにでも昼食の場に、引きずり出す事だって出来たかもしれないのに。
東雲の顔は、苦しみに歪んだままだった。〝生きたいのに、もう生きる事を選ぶ力さえ失われていた〟という事実が、翠達の眼前に広がっている。彼の〝死の気配〟を持って、広がっている。

どうして。
どうしてあんたは、全部ひとりで──。

翠が息を詰めた。胸の内で怒りと悲しみが混じる。声にならない叫びが喉で焼ける。
そこへ──東雲の身体が痙攣した。怜が即座に叫ぶ。

「VF! 心室細動!!」

それを聞いて、吼える。手が、赤を通り過ぎて白くなるほど握り潰す。

「止まんなよ……! あんた、全部置いてく気かよ……ッ!」

翠は心臓を掴むように手を当てた。
押し、押し、押し──白魔法を必死に流し続ける。生命の奔流を呼び戻す奇跡を、紡ぎ続ける。
だが、祈りはむなしく動かない。額から、季節外れの汗がぽたりと軌道を描く。

五秒。十秒。二十秒。地獄のように長い時間。止まったように、長い時間。
だが──この状況を作り出す理由は分かった。ならば、やるべき事はひとつ!

「伊織ッ! 至急インスリン作って微量投与ッ! ブドウ糖だけじゃ細胞に入らねぇ! 静注は続けろ、燃料を心臓に回せ!!」
「了解!!」

伊織が再びコードを紡ぎ出す。サナが両手を組み、因子を振り絞る。
魔法陣が光り、透明な瓶に詰められたインスリンが輪郭を帯びる。それが怜の手に渡り、針が静脈を捉えた。
祈る。願う。縋る。翠は沈黙した心臓に手を添えながら、喉が裂けるほど叫んだ。

……あんたの体、まだ戦えるだろ……ッ。戻って来いよ……戻って来いよッ!!」

沈黙。重い、重すぎる休止符。
東雲の胸郭も、怜も、伊織も、サナも、メディも、誰一人として息をしていないように感じられた。
翠は黙々と手を添える。紅き臓腑を、押し続ける。
救うため。救うため。絶対に、救う。絶対に、絶対に。

世界が息を止める。誰もが呼吸の仕方を忘れたその瞬間──。
翠の胸に、熱い痛みが走った。



***

世界が凍るような静寂の中、翠の意識だけが、深い水底へ沈んでいく。
落ちていくのではない。誰かにそっと手を取られ、眠る体を抱かれるような、柔らかな、やわらかな引力だった。

胸の奥で、どくん、と自分の心臓が跳ねる。
その拍動が、記憶の底に波紋を作る。

「たすけて」

そう、声がした。
聞き間違えなどではない。確かに、東雲の声がした。

「──助けて」

それは、溶け合った思考の中で響くSOS。
視界が白に染まる。白昼夢の世界が、翠に思い出してと囁いていた。




『──かあさん、どうしてないてるの?』

幼い己が、母親──和葉の膝に顔を寄せる。
冬の陽だまりのような匂い。一歳下のひいろを眠らせながら、母はそよ風のように笑った。

『翠と緋が大きくなるのを見守れない気がして、不安になっちゃって』
『どうして? かあさん、どこかいっちゃうの?』
……うん。お母さんね──かみさまになっちゃうんだって』
『かみさま? どうして?』
『選ばれたんだって。かみさまが、こっちに来なさいって。だから、いつか行かないといけないの』

幼い翠の顔が曇る。膝の上で、母のブランケットをきゅうと握りしめた。

『かあさんのまほう、すごいのに。まほうでそのいじわるなかみさま、やっつけられないの?』
『パンチしたけど、全然効かなかったのよ』

和葉はそう言って笑い、翠の頬に手を添える。翠は唇を尖らせ、ぽつりと零した。

『やだぁ』

母が、髪をそっと撫でてくる。彼女譲りの、色素の薄い柔らかな髪を。
そしてそっと抱き寄せた。いとしい人は、石鹸のいい香りがした。

『──大丈夫。翠はきっと、やっていけるわ。お母さんが、いなくても』
『やだぁ……
『大丈夫。……お母さん、ずっと見守ってるからね』
『ほんと……? いなくならない?』

問いに答えは、返ってこなかった。代わりに、あたたかな手だけが返ってくる。
翠は不安そうに揺れる瞳を彼女に向ける。それに気付いた彼女はふと表情を和らげ、穏やかな声で問いかけた。

『翠』
『なぁに?』

まだ、不服そうな顔。和葉はその頬をぷに、と潰し、優しく撫でる。

『翠は、大きくなったら何になりたい?』
『おれ?』

こてん、と首を傾げる。思案しているうちに、今しがた覚えていた母への不安はすっかり消えてしまっている。
そんな幼すぎる自分を、母は愛しげに眺めていた。緋色の瞳に、微弱な哀愁《あいしゅう》を秘めて。
翠は答える。舌ったらずな声で、けれど確かに。

『おれはぁ、おいしゃさんになりたい。とうさんみたいな』
『素敵ね』

母は柔らかく微笑み、言葉を残す。

『翠は誰かを救えるお医者さんに、きっとなれるわ。真の意味で、誰かを救えるお医者さんに』
『しんのいみで、すくう?』
『ええ。翠、覚えておいて──』

──救うというのは、生かすということ。
生かすというのは、ゆるすということ。

患者さんが悩んでいることを、赦してあげなさい。
患者さんの治せぬきずを、癒してあげなさい。
そして患者さんを──生かしてあげなさい。
それが、〝救う〟ということよ。

いつもお母さんが歌うのを聞いてると思うけど、
そんな強き存在を目指す翠に。
とっておきの、おまじないを教えてあげる──。

***



思考が円環を廻り、現実へと意識を連れ戻す。
掌の下には、熱を当て続ける沈黙の果実。
動かない。震えるだけで、動いてはいない。
けれど翠の胸には、確かにひとつの祈りが灯っていた。

静かに、けれど力強く。翠は彼に、語りかける。

「──東雲さん。あんたは、救う事は殺す事だって言った。死ねば、幸せのままでいられるって、そう言った。でも俺は、そうは思わない」

胸骨の奥深くに呼びかけるように、揺れない声で伝える。伝え続ける。灯火を蘇らせられるまで、何度でも。

「あんたは母さんが、神になる姿に憧れたんだろ。でも俺の知ってる母さんは、神になんてなりたくなかった。彼女はただ、〝生きたい〟だけだった」

声が強くなる。
染み込ませるように、響かせるように。

「だから俺は、あんたとは違う道を選ぶ。ただ、生かす医師になる。生かすだけの、医師になる。そこから這い上がってくるのは患者の自由だ。患者の責務だ。俺は、ただそれを──赦していく。それが、医者の存在理由だ」

気付けば心臓を押し続ける指先から、東雲の胸部に淡い光が広がっていた。
それは、医療による刻印。救うという概念の──奇跡が織りなす魔法陣。
その奇跡は、母が遺した祈りの続きだった。母が遺した未来の、証明だった。
母が力を貸してくれているような錯覚を覚える。……否、きっとそれは思い違いじゃない。本当に、貸してくれている筈だ──道を違えるほど真摯に患者に向き合う、己の恩師のために。

「あんたはまだ、やり直せる。救いたいって思う、あんたなら」

雲間から、一筋の光が零れ落ちる。
風が一度だけ止まり、空気が澄む。

──あの日、母の膝で聞いていた言葉は、うたは、子供の自分には重すぎてただ優しい音として胸に残っただけだった。
けれど、今なら分かる。この手で命を呼び戻しながら、やっと分かる。母が言った〝生かすという事〟は、ただ助けるという意味ではなく、迷っている誰かを赦し、もう一度歩ける場所へと導くという祈りだったのだと。

唇が、静かに形を刻む。
世界が息を呑む。
母が遺した奉祝が、呪いという愛を継ぐ青年によって、紡がれていく。



「  ──ゆらり、ゆらり、いのちの舟よ
   胸のほのおはまだ消えぬ
   かえれ、かえれ、いのちよかえれ
   かむながら往け、いま戻れ──  」



母の声が重なるようだった。母の祈りを、なぞるようだった。
幼きあの日、母が紡いだ子守歌。母の背で眠った、いとしき記憶。
それは魔法か、それとも奇跡か。
それは呪いか、それともほうりか。

先刻翠を彼岸に手招きした呪いが、今や東雲を此岸に繋ぎ止める祝福となった。
先刻翠を神に変えようとしたまじないが、今や東雲を人として生かす祝になった。

魔法陣から東雲の心臓へと、ゆっくりと光の雪が降る。花びらのように、星屑のように、淡く瞬きながら落ちていく。
その光はどこまでもやさしく、どこまでもあたたかい。
心臓が、涙するように震える。ぴ、と小さく電子音が跳ねる。

光が世界に温度を取り戻す。
心拍を刻む電子音が世界に音を取り戻す。
世界に安堵が、希望が──見える形で蘇っていく。

……っ、拍動……! 戻った……!」

伊織の声が歓喜に震える。
怜も拳を握り込んだ。

「血圧、上昇。CO2も正常化……耐えた。生きる方を、選び直したか!」

翠は聖母にも似た表情で、ふと口角を持ち上げる。
東雲の心臓にそっと手を当て、拍動を確かめる。

……信じてたよ、東雲さん。あんたは、本当に──優しいだけの人だった」

どくん、どくん、と力強い鼓動が返ってくる。
身体が、命を選んだ音だった。

これは、翠一人が織りなした奇跡ではない。
仲間達の力が、仲間達の信じる強い思いが掴み取った未来。
これは、翠の呪いだけが選んだ結末ではない。
医師達の尽力の結晶が導き出した──医術の答え。

翠の胸に、静かに笑みが灯った。
世界が今一度、ゆっくり、ゆっくりと動き出した。

ぱちん、と空気の中で何かが弾ける感覚が、緊張感を取り払っていく。不穏な何かを雲散させていく。
それは、病院の術室を抜けた時と同じ感覚。この山を縛る異界遮断結界が、解かれた感覚。
東雲の陰謀がまたひとつ、空へと消えていく。彼とは別の正義で、別の信念で。

……遮断が解けた。縫合は、俺がやる」
「怜。……任せた」
「ああ──〈繕結ぜんけつ〉」

光の糸が、怜の指先から紡がれた。
白光が走り、傷が閉じていく。
心膜が寄り合い、胸骨が塞がり、筋膜が、脂肪層が、真皮が──たおやかに、溶けるように重なっていく。

傷跡は消える。手術をしたという記録が、シャボン玉のように消えていく。
けれど、事実は残っている。翠達が奮闘した、この逢魔時の事実は、確かに。

世界はまだ、憶えている。
世界は今、赦している。
ひとつの命が、確かに此処に留まったというその事実を──。