山城まつり
2025-11-28 16:46:19
26646文字
Public クリムゾン・ジェネシス
 

シャルラッハロートの診療録─クリムゾン・ジェネシス─Ep.007

前回:Ep.006 https://privatter.me/page/69219e499d756

シリーズ:https://privatter.me/user/YamashiroMatsuri?category=91299

いよいよシャルラッハロートもクライマックス!最終章「紅蓮の創世 – Crimson Genesis –」の前編を更新します!
面白い展開になっているかあんまり自信がないんですど、誰かの心に突き刺さって、感動をもたらす作品にできてたらいいな……。ほんとうに……。

いつもたくさんのリアクションありがとうございます……!
みなさんの感想やリアクションで生きながらえているので、どうかあの その ぽちっと……押していただけたら……(ダイナミックお願い)

クリムゾン・ジェネシス、恐らく次回更新で完結です!あとひとっ走り、付き合ってくださると嬉しいです~~~!
それでは、どうぞ!!

※本シリーズは医療従事者でない人間の書いた医療の描写を含みます。症例論文、手術動画、医学書などを参考に執筆していますが、現実の医療と異なる場合があります。特に本シリーズは「魔法医療」を描いておりますので、現実の医療と大きく異なる部分があります。


2節:ゼーケンを誓って




東雲が笑んだ瞬間──ぐわん、と世界が軋むように揺れた。
ロープウェイ乗り場を切る風が、酷く不自然な揺らぎを孕む。潮の匂いが、まるで誰かの手で押し流されるようにして駅舎に吹き込んできた。遥か下の海がざわり、またざわりと鳴る。普段はただの自然音として耳の奥に沈むその響きが、今は絶望の拍子として脳幹を叩きつける。

──笑い声。
それが、風の切れ目にぽつりと混じった。

子供の声だった。
翠の本能が、直ぐに危険信号を弾き出す。
嫌な音だと、そう思ったから。否……この言い方は適切ではない。正確には、「この状況で落とされてはならない笑い声」だと、全身の細胞が告げていたから、だ。

咄嗟に動こうとした。止めようとした。
観光客の列に飛び出し、声の主を確かめ、危険を取り除こうと思った。
だが、その動きは──ひとつの声によって遮られる。

「動いちゃダメだよ、櫻田先生。一色先生も、綾瀬くんも」

東雲の声だった。それが耳に届いた瞬間、全身が鎖で巻かれたようにぴたりと冷え固まる。指一本、髪の毛一本すら動かせない。そのくせ、困惑から漏れる「なッ!?」という唇の震えと音だけは、世界に認められ迸った。
拘束魔法だ。
しかも、神経系を直接縛り付ける類の、高度なもの。刻印遺呪──東雲を蝕むその呪いが起こした現象である事は、もう疑いようもなかった。
肉体と思考が乖離する。翠は叫ぶ事しか許されていない現状を察し、唇を噛んだ。

「──すごいねぇ」

そんな最中、耳に届くやわらかい音。
視界の端で、若い母親が幼子を抱いているのが映った。
笑っていた。先程聞こえたものと同じ子供の声が、腕の中の幼子から発せられる。
確かに笑っていた。恍惚とした、幸福そのものの表情で。

「ほら、海が光ってるよ」

やさしい、やさしすぎる声だった。うつくしく、穏やかな口調で。
ふわりと髪が、空に舞う。ゆらりとスカートの裾が、風に微睡まどろむ。
そのまま彼女は、真っ直ぐに。優雅な仕草で柵の向こうを指さし──。

──迷いなく、空中へと足を踏み出した。

「は──、」

喉の奥から、困惑が突いて出る。
風に押された訳ではない。つまづいた訳でもない。
〝確かな意志〟で、彼女は一歩を踏み出したのだ。

柵を超え、空へ。山の谷間へ、一直線に。

「危ねぇッ!!」

叫びが空気を震わせたのは、女性が腕の中の子供ごと、空に身を投げたその瞬間だった。己の叫びひとつで、助けられるのか? 己の祈りひとつで、回避できるのか?
運命の女神は、それを嘲って棄て去った。翠の瞳が、真っ黒に塗り潰された。

母親の髪が、風に散る。小さな手が空を掴むように伸び、そのまま霧の白へと吸い込まれた。
時間が止まったかのような、そんな感覚。彼女達が落ちていく様子が、スローモーションに見えるような、そんな錯覚。
だが、止まったのは翠の中の時間だけで、現実は……全く別の、さらなる絶望を見せつけてきた。

──悲鳴が、上がった。
周囲の観光客が、悲鳴を上げる。
そう、思った。思っていた。
だが、それは悲鳴ではなかった。

「よかった……
「ようやく、救われるんだ」
「行かなきゃ、私も、行かなきゃ……

歓声だった。
心底うっとりとした、陶酔とうすいした声だった。

笑ったまま、観光客達が足元の黄色いラインを越え、歩き始めた。
ひとり、また、ひとり。そこには迷いも恐怖もない。彼等は同じ方向──海へと続く、谷底がうねる空へ。導かれたように歩みを進め……そして、飛び立って。

「やめろッ!!」

翠は喉が壊れるように叫ぶ。隣で伊織が、サナが、メディが──潰れかけた声で続いていた。
だが、一人も振り返らない。
声が届かないのではない。
届いているのに、意味を成していなかった。

彼等の瞳は皆一様に、遠くの一点に焦点を結んでいた。
海の向こう。霧の向こう。
彼等が信じる、〝救済〟のある場所へ。
一人が翠の隣を通り過ぎる時、ぼそりと声を落としたのが鼓膜に焼き付いた。

「──先生が、待ってるから」

そのまま、笑みを崩さず身を投げる。
胸が裂けるような、破滅の実感。
集団自死……いや、大量殺人が今、目前で起こっている。

(止め、ねぇといけない、のに!)

止めたい。
止めないといけない。
だが、身体はびくりとも動かない。
絶望。その言葉をこれほどまでに鮮烈に実感した事はあっただろうか。その二文字がただ、今は脳裏を占めていく。

起こってしまった。
止めようとしたのに、止めるためにこの駅へと走ったのに。
人が落ちるたびに霧がひとつ濃くなり、空気が震える。

「やめろ……やめてくれ、やめてくれ……ッ」

誰も耳を傾けてくれないと分かっていながら、翠はそう叫んだ。

「止まれ! 止まってくれよ! なぁ!!」

けれど誰も振り向かない。翠の耳には、同意とは違う声が聞こえていた。

──先生、ありがとう。
──救ってくれて、嬉しい。
──やっと、楽になれた。

……ッ!!)

幻聴だ。幻聴なんだ。
だが、耳には確かにそれらが届いていて。脳は、確かにそれらで揺さぶられていて。

死んだ者達の声が、淡々と耳に乗ってくる。翠は奥歯を噛み締めた。
──守れなかった。起こってはいけない禁忌が、扉を開いた。
医者として最も許してはならない事態が、目の前で今、広がっている。

胸の奥で、ぱきん、と音がした。
今までずっと、〝誰も死なせたくない〟と保ち続けた柱が、〝医者であろう〟と祈り続けてきた柱がひび割れる音だった。
言葉が失われ、開いた唇が渇いていく。息が止まり、瞳は見開かれ──。

「サナッ!!」

背後から響く、伊織の声。直ぐに傍に控えたサナが返答を送る。

「はいっ!! 簡易的な魔法なら、まだ──! 風神よ、降りゆく命に奉祝を──〈慈風じふう〉!!」

白い光が、落下し続ける人々の身体を僅かに浮かび上がらせる。──先天性の脳異常で魔法が使えない伊織は、自分が解き明かした概念を用いた魔術〝医科魔術〟しか使えない。医療の事に限定した魔術しか使えない。だからこれは、彼が信頼する堕天使による祝福の呪文だった。
落下速度を落とす白魔法──ふわりと浮力の風が生まれ、人々の落ちる速度が低下する。だが、天使の下っ端であったサナの力だけでは、根本解決には至らない……

「~~~~っ、もう、魔法因子がありません……っ!!」

ソプラノの声が振り絞られる。翠はそれに応える余裕を失ったまま、乾いた唇をはく、はく、と動かした。
どうする。どうすれば救える。どうすれば。
だが本能で分かっていた。聡明な頭脳が叫んでいた。──この状況を打開する手段を、自分達は持ち合わせていないのだと。
今まで、誰も死なせない理想を掲げていた。誰も見殺しにしないと、誓っていた。それが、足元からぼろぼろと崩れる感覚。天城も、築山も、幸田も見殺しにして──そして、今度はこれだけの人を。目頭が熱くなる。それでも、涙のひとつ落とす事さえ許されなくて。
東雲が、軽やかな足取りで歩み寄ってきた。その艶めかしい指先が、翠の頬を優しくなぞる。

「可哀想だね。結局僕の思い通りになるのに、みんなを生かそうとするなんて」

言葉が、ゆっくりと喉に毒を入れていく。

「生きる事は苦しみの連鎖。だから余暇の幸せのまま死んだ方が、みんな、絶対に幸福なんだよ」
「そんなの……ある、わけ……ッ」

否定は震えていた。東雲が優しく、冷酷に微笑む。

「まだ僕を否定するの? なら──止めてみせなよ、櫻田先生。もっとも、君に僕を止められる力があればの話だけどね……あははっ」
……ッ!」

彼はばっと両手を開いた。己が隙だらけであると見せつけ、歪んだ笑みを口角に刻む。それは、翠や伊織達が逆らえやしないと分かっているからこその余裕だった。

「ほら、僕を止めて? こんなに懐、がら空きなんだよ。止めてみて? 殴ってごらん? さぁ、さぁ」
「あんた……ッ」
「ね? 出来ないよね? あはは、知ってるよ。この世界の主導権は今、僕一人に委ねられているんだから。僕はね、今この世界の──神なんだよ」

そう告げる東雲の声はどこまでも優しい。どこまでも穏やかで、どこまでも冷ややかだった。

「みんな、幸せそうでしょ? 『ありがとう』って、言ってくれてるでしょ?」
「違う、そんな訳が、あるか……!」
「みんな、喜んでる」
「違う……
「みんな、笑ってる」
「違うッ……!」
「みんな──僕に、救われてる」
「──違う!!」

叫びは、否定は、痛みを孕んでいた。喉の奥が、焼けるように痛い。胸の奥が、貫かれるように痛い。けれど、いくら違うと叫んでも、東雲は変わらない。笑顔を、崩す事すらしない。ただ彼は、待っていた。翠達の心が折れるのを、優雅に待っていた。
だから、彼はこう言うのだ──翠の信念を、へし折るために。

「思い出すなぁ、二十年前の事。君のお母さん──和葉さんが、僕を頼ってくれた事」

喉が潰れる。ちがう。いやだ。そんなことはない。そう言おうとしたが、掠れた響きだけが口を突いて出る。

「僕は彼女に言ったよ。『あなたは、神になるんだ』って。『静かにこの世界を見下ろせる、神になるんだ』って。彼女は笑ってくれた。その運命を、受け入れた。その時、安堵したと思うんだよね。〝死ぬから、大切な人達に何も残せない〟と恐怖する事から、解放されて。〝大切な人達を、見守っていく〟と心に決められて。子供達に、神になるという祝福を遺せた。夫である玄真くろまさ教授に、子供を救うという生きがいを与えらえた」

違う。ちがう、ちがう、ちがう。
そんなの嘘だ。そんなの、まやかしだ。
母は、俺に呪いを遺したくて遺した訳じゃない。
神なんかじゃない。人間だ。俺も、母さんも、人間だ。

見てきたのだ。翠は直ぐ傍で、見てきたのだ。
母が死期を悟り、思い出作りと称して各地を旅行した時。薬を服用しながら、それでも笑顔を浮かべていた時。その手が、微かに震えていたのを。
知っている。知っているのだ。母が日記に、「怖い」と書き記していた事を。「死ぬのは、やっぱり怖い」と、揺れた筆跡で遺していた事を。

だから、だから──。

「和葉さんも、本物の神様として羽化できてよかったって思ってた筈なんだ。人としての鎖から解き放たれてよかったって、思ってた筈なんだ」

東雲の声が、翠の中の禁則地を踏み抜いた。心臓が、強く、強く収縮した。

──違う。
──違う、違う、違う。

だがその言葉は、声にならずに喉の奥で震えるだけだった。東雲はさらに続ける。

「僕は患者の〝痛み〟が見える。嘆きも絶望も、不安も恐怖も。だから救うんだ。苦しみを感じずに穏やかに過ごせるよう、死という救済で」

その優しさに似た残酷に、ついに翠の中で世界が音を立てて崩れ落ちた。
彼の論は、残酷すぎる誤った善意の積み重ねだ。誤った倫理の集合体だ。だが──。

──その〝間違った善意〟ほど、人を傷つけるものはない。
人の尊厳を、ずたずたに引き千切るものはない。

東雲の声が〝音〟ではなく、〝刃物〟として突き刺さる。
胸の奥、焼け付くみぞおちがきゅうと縮み、痛みを発して。
指先が震える。握った拳が、うっすらと汗ばんでいる。

……やめろ。
これ以上、その言葉を俺に向けるな。

母が涙していた過去が脳裏を掠める。
父の震える背中が一瞬過ぎる。
それが、「よかった」出来事だと?
東雲の一言は、翠の全部を容赦なく踏みにじる。

翠の中枢で、炎が煮えたぎる。
中核から抹消へ、怒りの温度が伝播する。
嗚呼──これは、赦せない。

……ふざけるな……

小さい吐息が、空気を確かに切り裂いた。
それは、呻きにも似ていた。身体の中枢に鎮座する怪物が目覚めた、ひとつの唸りにも似ていた。

その一言を、鍵として。
ぷつん、と胸の奥で音がした。
その次の瞬間、翠の中の何かが完全に千切れ、砕け散った。

「ふざけるなッ……!!」

憤怒。激怒。怨恨。否、怒りよりも先に、悲鳴のような痛みが体中を駆け抜けた。
視界の端が砂嵐のように歪む。拍動が一拍ごとに強くなり、血流が熱に変わって全身を駆け巡る。耳鳴りが、遠雷のように遠く響く。

──分かる。理解は出来ないが、本能で分かっている。
己を中心に、彼岸と此岸の境界が揺らいでいるのを。

ぱき、ぱき、と音がする。紅い光が足元を照らし、生まれた熱波と暴風が髪を弄んでは巻き上げる。
皮膚がひび割れ、熱が血管の中で暴れた。視界の輪郭が崩れ、音が捻じれ──世界そのものが壊れていく。理性そのものが、崩れていく。

「ヒスイ先生……ッ!?」
「翠さま……!」

落雷がつんざく。緋色の空が覗き始めた外界に、青白い稲妻が綺麗なコントラストを描いて海へと落ちていった。
そんな喧噪の中でも、翠の耳が拾う世界はいやに静かだった。伊織とサナの困惑がはっきりと聞こえる。睨みつけた先で、東雲が息を呑んだのが音で分かった。

「君、それ──」

だがもう、その声は届いていない。
翠の感情は、たった一つの願いだけを抱えて膨張していた。

──誰も、死なせないでくれ。
──誰も、殺さないでくれ。

その想いが、限界を超えて溢れ出した。
オオ、と風が啼く。足元が音を立てて割れていき、ひびが黒い陣を織りなした。そこから深紅の光が立ち上がり、魔法陣を紅く赤く染めていく。翠は吹き付ける風と轟く雷鳴を従えながら、噛み締めた唇を震わせた。

「『  あんた、いい加減にしろよ…… 』」

こえは、二重の響きを帯びていた。なつかしき、やさしき人の囁きと、彼女の呪いを引き継いだ息子の聲。

「『 ざけんな……ふざけんな、ふざけんなふざけんな……! 』」

ばきばき、と鋭い金属音が木霊した。身体を縛り付けていた魔法的拘束が砕け、世界の残響が反転する。抑えつける力を全て失って、中枢で眠り続けていた呪いが目を醒ます。

視界が赤に染まり、空間が震え──翠の〝限界リミッター〟が静かに、しかし決定的に壊れ落ちた。

刻印遺呪──人を死という概念の集合に変える代わりに、神の座へ導くその呪い。それが覚醒した瞬間、世界は暴風と落雷が唸り、地獄絵図に変わっていった。
だが対照的に、翠の周りだけがいやに静かだった。世界が深い水の底に沈んだように、静まり返る。耳鳴りと共に、空気の密度が変わる。全ての音が、静かな世界で反響する。ロープウェイのワイヤが悲鳴を上げる音すら、耳に残るように。

「『  誰も、殺させない  』」

その聲と共に、時間が凍り付く。風がぴたりとその勢いを失い、落雷は音だけを残して静止する。──比喩ではなく現実として、時が止まっていた。山々の紅葉した葉が風に流されて宙に浮かんでいるのも、稲妻が光っているのも全て、その瞬間を切り取られて。
東雲が叫んだ。

「有り得ない……ッ!! 時間の操作は、発動者の命を確実に奪う禁忌なのにッ!!」

宙に投げ出された人々が、まるでガラスの中に閉じ込められたように静止した。東雲が言うように、時間の操作は禁忌の魔法だ。けれど、「己の命を喰らう魔法だから使うべきでない」など、考える余裕はなかった。この現象は全て、意図せざるもの。呪いが織りなす超常なのだから。
翠は痛みを超えて、ひとつの祈りを吐く。静かに、厳かに、こいねがう。

「『  誰も死なせない  』」

重なった響き。翠と、内側に宿る母の──悲痛な願い。



「『  ──もう誰も、苦しめないでくれッ!!  』」



その瞬間、光が爆ぜる。
霧が弾け、時間が動き出し、足元の陣が強く閃く。
世界が書き換わる。今この時、世界の制御権は全て、この青年一人に委ねられていた。

風が、血潮が、光に変わる。叫びが、世界の構造を震わせた。空が裂け、光の粒が降り注ぐ。
風が生まれた。そよ風から渦へ、渦から大きく柔らかな息へと変わり、身を投げたまま宙に静止する人々を抱きかかえながら、ゆっくりと地面へと運んでいく。祈りの通り、願いの通り、誰一人、落下する事がないように。
歓声の代わりに、呼吸だけが戻ってくる。翠の髪が、風にうねる。色素の薄い頭髪は光を帯び、身体から熱が溢れ出る。

人々が風に抱かれ、そっと地面へと降ろされていく。その一人一人の姿が視界に映るたび、翠の胸に安堵が戻っていく。自分がやっている事だとは、思えなかった。大きな〝救済〟という概念が、形になっているのだと。ただそれだけを感じていた。

何が起きているのかという疑問が胸から湧いて出る。理解が及ばず脳が空回りする。けれど救えたという事実に小さく息を吐いた──ところで。

『──ひすい』

視界の奥に、揺らぎが生まれた。
光の粒が河の流れへと姿を変え、足元にはいつしか、深紅の彼岸花が揺れている。

その向こうに──母が居た。妹のひいろと共に立ち、此方に微笑みかけていた。

……っ、あ……

翠の胸が、ひときわ強く痛んだ。
懐かしい。
優しい。
帰りたい。
──足が、勝手に前へ出そうとする。ほんの一歩。それだけで、自分は確かに取り戻せる。いとしい、あの人達の事を。

「母さん、ひいろ……どうして……

声に出したつもりだったが、喉は震えるばかりで音にならない。和葉は静かに笑み、唇を動かした。

──聞こえない。
聞こえないよ、母さん。
ただ口の動きは、〝来なさい〟と言っているように見えた。そう言ってるように、思いたかった。

胸が、ひび割れる音を立てた。
あの手を取れば、もう苦しまなくていい。悪夢にうなされ、飛び起きなくてもいい。自分が悪いと、呪わなくていい。死に触れる痛みからも解放される。

「──……。」

足がまた半歩、前へ。彼岸花の咲き乱れる方へ。河を超えて、その先へ──。

……

その、瞬間だった。

「!」

足首を何かに引かれる。
視線を落とす。くるぶしに、黒い枷が填まっている事に気付いた。冷たく、重く、けれどそれは確かに自分を、現実へと繋ぎ止めている。

──おにーさん。

知っている声が響いた。

──おにーさん、帰ってきて。

この声の主を、自分は知っている。
この声の主を、自分は大切に想っている。
彼女だけじゃない。怜。伊織。サナちゃん。
神楽岡さん。早乙女さん。唐澤さん。
……東雲さん。

あたたかくて、いとしい自分の日常が脳裏に回帰する。
ああ、そうだ。
俺は、戻らないと。
俺の居場所は、此処じゃない。

『おにーちゃん』
『ひすい』

聲が咎めてくる。此処に居てくれとそう、咎めている。
それに見ぬふりをしながら、翠は背を向けた。
風の匂いが変わった。霧が道を避け、翠の進むべき場所を示している。

俺はまだ、やる事がある。まだ、やり残した事がある。
母さん、いつかきっと、そっちに行くから。
緋、いつかきっと、治してやるから。
ゆるして。許してくれ、母さん、緋。まだ今は──……

……おにーちゃん、信じてるよ』
『翠、行きなさい』

最後の最後、そんなやわらかな響きが背後から降った。
振り返る。確かめようと、振り返る。
そこにはもう、白い霧が立ち込めていた。妹と母の姿は、もうなかった。

翠は涙を堪え、駆け出した。
緋。母さん。俺、前に進むから。
前に、進み続けるから──。

「──おにーさん」

その馴染みのある声に、現実へと引き戻される。翠の視界に、ゆっくりと現在が戻ってくる。彼岸はふわりと揺らぎ、色を失い、光の粒となって風に溶けた。
残されたのは、震える自分の手と──その手を軽く握っている呑噬どんぜいの悪魔。

「『メディ……』」

掠れた響きが、彼女へと落ちた。メディの瞳が、ふにゃりと細まる。
眼前にも眼下にも、もう観光客達の姿はない。その安寧が信じられないものであると喚くように、駅舎の外は荒れていた。黒い雲が渦を巻き、雷が山肌を叩いている。
全身から魔法因子が無尽蔵に湧き出てくる感覚を、翠はそこで初めて自覚した。肌は光を帯び、余剰に生み出されたエネルギーがはたはたとTシャツを揺らす。

「『俺……』」
「おにーさん、心配しなくても大丈夫だよぉ。ボク、言ったよねぇ」

──おにーさんを守るために、此処に居るって。
その言葉と共に、メディの瞳に刻まれた紋様が輝いた。

「おにーさんはボクに、救う事を教えてくれたから」

彼女の手が、翠の掌を包み直した。ぎゅ、と強く握られる。そこが熱を孕み、翠の中の呪いと共鳴していく。

「だから、おにーさんはボクが救うよ。何度でも、いつまでも──」

鋭い金属音が、耳鳴りのように鼓膜を震わせる。風が唸り、稲妻が光り、緋色の水平線がさらにその色を強める。
それでも、彼女は億さない。それでも、彼女は怯まない。
メディの瞳に、煌々とした光が宿る。空中に魔法陣が浮かび上がり、その中央に彼女の紋様が編まれた。
それはあの時、彼女と契約を交わした時と同じように。
翠を守る、翠を繋ぎ留める、たったひとつの螺旋だった。

「──〈呑噬〉」

その言葉と同時に、翠の中で何かが弾ける。膨張した光の渦が、二人を中心に爆発した。
それは、シャルラッハロートの光だった。己の呪いを喰らい赦す、彼女の存在理由だった。
風が爆ぜ、暴風が駅舎の中を吹き荒れる。光の渦が駆け回り、熱波と共に天蓋を貫く。

「──……ッ、ぅぐ……ッあ、ッ!?」

あまりの暴風に、東雲が吹き飛ばされて柱に叩きつけられた。伊織とサナは必死に耐え、けれど足がずず、と引きずられて。
空に一点、穴が空いた。黒雲が身を離したそこ、駅舎の真上に茜色が広がる。
ゆらり、と翠の足元の陣が色を忘れていく。ひび割れた皮膚も、淡く輝く髪も、シャツを揺らす風も──全てがメディに喰われ、力を失っていく。場を包む緋色が落ち着いた頃……そこには〝何も起こらなかった〟と錯覚させるような静寂が戻っていた。足元が割れ、陣の痕が浮かんでいる事と、観光客が一人も残っていない事だけを除けば。

……俺、今……

翠の呟きは、恐怖と混乱の間で揺れていた。
──全部、夢の話だと思おうとした。けれど壁に打ち付けられてよろける東雲の姿が、床に散乱したパンフレットの群れが、全て現実の出来事なのだと訴えてくる。

「いま……
「感情がたかぶって、、呪いが濃くなっただけだよぉ」

手を握り直したメディがくすりと笑う。悪戯に、愉しげに、いつものように。
けれど、その指先は震えていた。そして、その瞳は微かに滲んでいた。

「ちゃあんと、治してあげたでしょぉ?」

翠は己の足元を見る。
巨大な魔法陣の痕。その残光が薄れ、虚空へと消えていく。

どれほど大きな力をメディが受け止め、呑み込み、溶かしていったか。
考えるまでもない。考えるまでもなく、分かっていた。
──怖いとそう、そう思った。また、あの日のように、彼女が……死へ近付いてしまうかもしれないという事が。

「メディ……

その名を呼んだ声は、掠れていた。
だが彼女は、穏やかに微笑んだ。

「大丈夫。大丈夫だよぉ」

その響きはやさしくて、あたたかくて──まるで、母のようだった。
妹の姿を借りた悪魔。彼女の姿は、どこまでも優しくて。

「おにーさんは──おにーさんだよ。これからも、ずっと。最期まで」

その一言が、息も出来なくなるほどに胸に沁みる。
その一言で、瞳から銀の雫がぽたりと零れた。

──怖かったのだ。ずっと、怖かったのだ。
自分はいずれ、神になる。この身を蝕む呪いがいずれ、自分を神へと変える。
母と同じように死という概念に成り果て、神として羽化する。それが、己に与えられた唯一絶対の未来。唯一絶対の、運命。
嫌だった。考えたくなんて、なかった。
だからそれを避けて生きてきた。飄々とした態度を貼り付け、役者アクターであろうとし続けてきた。

けれど、その弱さも、醜さも、全部──メディは抱きしめるように受け止めた。キミは人間だ、と。神になんて、ならないのだと。

誰もが「お前は神になる」と憐れむ中で、彼女だけが「ならない」と言ってくれた。それが、どれほど心強いか。
彼女だけが、人間に戻る道を用意してくれた。それが、どれほど救われるか。
翠の膝が震え、ようやく息を吐いた。涙を見せてたまるかと飲み干し、震えた口唇で弧を描く。

……っ、ああ」

短く、それでも確かに。
己はこの時、〝櫻田翠〟へと引き戻された。
おちゃらけてばかりで、嘘つきで、けれど天才な──一人の人間に。

ようやく、現実を理解する余裕が生まれる。
大きく息を吸い、体勢を崩したままふらつく東雲に目を向けた。
場の空気はまだ緊張に満ちている。彼は硬直し、目を見開き、唇を震わせていた。

世界は確かに動き出した。次に対峙すべき相手が、目の前に居る。
翠はかつかつとスニーカーで音を反響させながら伊織のもとへ向かう。彼の肩に触れると、拘束魔法がぱきんと音を立てて砕け散った。魔法から解放された伊織がゆっくりと息を吐き、まだぎこちない声で翠に応える。

……ありがとう、ヒスイ先生」

それは、先程の翠を恐れているような色を微弱に匂わせていた。けれど彼は、それに何も触れない。目の前に居る男の信念が、何も変わっていないと知っているから。
だから、翠も何も言わない。その態度こそが、彼への信頼だった。

「どーも。……それで」

双眸が鋭く東雲を射抜いた。長い脚が、彼のもとへと歩み寄る。
東雲の瞳は、まだどこか遠くを見ていた。呪いの余韻が消えた今でさえ、彼は現実に戻りきれていない。イドラが蠢く彼の世界に、閉じ込められたままだった。
翠は静かに告げる。

……あんたの目論見は阻止した。もう、誰も殺させない。残念だったな」

東雲はびくりと肩を跳ねさせた。視線が、ゆらゆらと虚空を彷徨さまよっている。その中で、叱られた小さな子供のように怯えた瞳が此方に向けられた。

「そんな……。僕の呪いが、君に、上書きされるなんて……。魔法感受体を完全に壊した僕が、呪いの進行途中の人間に、負けるなんて……

その震えた声に、翠は何も返さない。一歩近付き、視線を逸らさせないように正面から向き合った。

「あんた、本気で〝死こそが救済〟って考えてんのかよ。何が目的だった? 自分の感受体を壊してまで──何がしたかった?」

問いは鋭く、しかし静かだった。東雲は唇を震わせる。

「僕、は……僕は……治療がしたかったんだ。本当だよ、本当に、それだけなんだ……。人々の抱える苦しみを、救おうと、解き放とうと……
「治療? 救う? 馬鹿か」

翠は容赦なく言い放つ。

「あんたのやった事は治療でもなんでもない。ただの──殺人だ。それ以上でも以下でもねぇ」

その一言で、彼の胸を抉る。瞳が揺れ、喉がひゅっと閉ざされた。

「違う……。違うんだ、櫻田先生! 誤解です! 僕の目的は、人々の救済。本当に、本当にそれひとつなんです! 人は、生きる事で苦しんでる。終わりのない迷宮を彷徨って、苦しんでる! 余暇があれば、現実が苦しくなる! だから僕は、宮島での幸せな一日のまま、彼等を救おうと……君達医者を、患者により寄り添える神に変えようと……!」

翠の目が冷えた。空気がさらに、重くなる。

「嘘だな。あんたがやってる事は救済じゃない──捻じれた正義の押し付けだ。あんたもそれが分かってんだろ、だから罪を早乙女さんに押し付けた!」

その言葉は、刃のように静かに落ちた。東雲の表情に一瞬、ひびが入る。彼は言葉を詰まらせた。目の奥に、ほんの一瞬だけ動揺の色が浮かぶ。だが直ぐにそれを押さえ、語り始めた。

「違う……僕は、和葉さんに教わったんだ。神に成れば、救えるって。死ぬ事は、終わりじゃなくて……始まりなんだって。あの日、十一月八日……患者が自殺してから、ずっと思ってきた。ずっと、信じ続けてきた。これは、救済なんだ。これは──」

翠は、その言葉を遮った。

「あんたが決めていい命なんてない。あんたが捨てていい命なんてない。本当はそれを知ってるから、善くない事だって知ってるから、隠すために誰かの手元に押し付けた。自分を辞めさせようとした危険因子の早乙女さんに押し付けた! あんたは正義の仮面を被って、手を穢してる。気付いてるだろ。あんた自身が一番恐れてるのは、患者を救えない事じゃない──〝努力しても〟患者が死んでしまった時に抱える、再び誰かが勝手に死んだ時に抱える、堪えきれないような痛みなんだよ!」

それを見て、東雲が目を見開く。震える唇。つう、と彼の頬に、一筋の雫が伝った。

「だって……だって僕は、僕は……っ。祖母に約束したんだ。両親に約束したんだ。みんなを救える医者になるって、誰も見殺しにしない医者になるって、そう、」

声が泣き声に変わる。東雲の〝罪〟ではなく、その奥にある〝傷〟が、ようやく露わになった。静かに応える。厳かに、けれど逃がさない。

「それが、あんたを縛ってた。でもそれが、あんたに狂気をもたらした。あんたは『救済』を言い訳にして、誰かに罪を穿った。今は否定してもいい。だけど、ジュースのコップ、溜めてた容器……。魔法執行官に引き渡した時に調べられる『真実』──それらが罪を謳う筈だ。全部、繋がる」

東雲が俯いた。その華奢な肩に、どれほどの狂気が乗せられていたのか。その細い腕で、どれほどの狂気を抱えてきたのか。
……もう彼は、限界なのだ。精神が崩壊する、寸前まで来ているのだ。
そんな彼の姿を見据えて、こう続ける。

「幻影に絆されて、背を押されたあんたはもう限界に達してた。幻聴にうなされて、まともに考える力さえ失っていた。だから、俺達が暴けるほど──こんなにも詰めが甘かった。あんた、感受体を壊すような真似して、分かってるだろ。もう壊れる直前なんだよ。精神も、身体も、全部」
……ッ」

沈黙を許さないように、言葉を継ぐ。視線を逸らさず、ただ淡々と。

……けど、あんたの正義は人を傷つけるために使われた。それは救済じゃない、立派な罪だ。目を逸らすな」
……っ、あぁ、あぁあぁあぁぁああ──ッ!」

東雲は、涙を溢れさせてそう叫ぶ。まるで、駄々をこねる子供のように。泣き喚く、獣のように。狂気に冒された彼は、狂気を捨てられずに声を荒げる。

……っ信じない!!」
次いで、自分を肯定するように。
「信じないッ! 信じない、信じない信じないッ! ぼくは──」

翠は肩をすくめた。

「救済のために人の命を天秤にかけるのが信念なら、あんたの信念は毒だ。医者ってのは、患者に救いをもたらす存在じゃない──寄り添うしか、できない存在だ」
「うるさいッッ!! うるさいうるさいうるさいッッ!! 僕は、僕、はぁッ!!」

彼の指が、手刀を作る。親指が押し上げられ、銃を象った。それを、震える手で翠に向ける。銃口が、此方を噛むように睨みつけている。

「──!」

翠は体勢を落とし、臨戦態勢を取った。──まだ、殺る気か。
魔法には、魔法でしか対応できない。呪文をいつでも言祝げるよう、因子の循環を強く意識する。

その時、東雲の目が急に静かになった。
狂気の炎ではない。泣き叫ぶ弱さでもない。
ただ、全てを諦めた者が持つ静寂──凪。

……はぁっ、はぁ……はぁっ……ふふ、」

彼は息を吐き、口角を持ち上げる。優しげで、悲しげで、歪な笑み。
ゆっくりとその唇が開かれる。宣戦布告が、ゆったりと静かに告げられる。

「僕はね、櫻田先生……間違ってない」

翠は息を呑んだ。固唾を飲み込み、姿勢を落とす。

「僕は償わない。贖わない。僕は──間違って、ない。最期まで」

その言葉と表情に、背を何かがなぞっていくのは、何?
嫌な予感が膨れ上がっていくのは、何?

「まさか!」

伊織が叫んだ。その叫びでようやく、気付く。ようやく、思い知る。彼が、何を成そうとしているのかを。

「やめ──!」

叫びながら、地面を蹴った。だが、その僅か一瞬の差が、大きすぎた。
彼の呼吸が一度、軽くなる。ふっと、彼は歪んだ笑みを落とした。

東雲の手がゆっくりと、自分の心臓の位置へと向いた。
声にならない悲鳴。時間がスローモーションになる。
そして、翠が手を伸ばすよりコンマ数秒先に──。



「ばん」



銃を模した指先が、自らの胸を撃ち抜いた。紅い飛沫が弧を描き、空に散る。だん、どしゃり。世界が紡いだ音は、たったそれだけ。たったふたつの絶望だけ。
東雲はゆっくり、ゆっくりと地面に崩れ落ちた。アスファルトの地面に、血の華が咲き誇る。鮮血の薔薇が、辺りを緋色に塗り替えていく。

「東雲さんッ!!」

翠は滑り込むように駆け寄った。頸動脈に指を押し当て、肺に視線を固定する──まだ、息がある! まだ彼は、生きている!

「櫻田ッ!」

怜が浮遊魔法でロープウェイ乗り場まで戻ってくる。東雲の隙を突いて魔法を張り直せたらしく、傷は目視では見つからない。小さな安堵を覚えたのも束の間、心を喰らう、血の穢れ。

「な……

彼が小さく息を呑む。それも当然だ──今自分達の眼前には、ひとつの死の気配が色濃く立ち昇っているのだから。
だが、翠はもう臆さない。何故なら、まだ目の前にある命は──救えるところにあるのだから。

「東雲さんが、事件の肝だ。ここで、死なせるわけにはいかねぇ」

怜と伊織の瞳を覗く。そこにあるのは恐怖? 絶望? 否──。
彼等の双眸にも、救済への希望が宿っていた。怒りでも憎しみでも、恐怖でも嫌悪でもない。それは医療者の目だった。救世主の、光だった。
翠は腹の底から息を吸い、声を放つ。

「罪、償ってもらわねぇと。……此処でやる、手術」

怜が頷く。薄く形のよい唇が、静かに開かれる。

「異界遮断結界がある。俺は魔法が使えん。櫻田──」
「分かってる。俺がやる。怜は非魔法で助手、伊織は可能な限り魔術と非魔法で補佐して」

メディが歩み寄り、へらりと笑った。いつも通りの調子で、不敵に。

「おにーさん、切除魔法の〈剔抉てっけつ〉へたっぴだからぁ、ボクが〈呑噬〉で壊死組織食べちゃうねぇ」
「頼んだ、メディ」

──雨が止む。
地面に落ちた血の匂いと、濃密な静寂。
翠は東雲を見下ろし──その胸に開いた華を前に、声を落とした。

「──始めよーじゃん。あんたを救う、救済劇を」


────────Ep.008に続く