山城まつり
2025-11-28 16:46:19
26646文字
Public クリムゾン・ジェネシス
 

シャルラッハロートの診療録─クリムゾン・ジェネシス─Ep.007

前回:Ep.006 https://privatter.me/page/69219e499d756

シリーズ:https://privatter.me/user/YamashiroMatsuri?category=91299

いよいよシャルラッハロートもクライマックス!最終章「紅蓮の創世 – Crimson Genesis –」の前編を更新します!
面白い展開になっているかあんまり自信がないんですど、誰かの心に突き刺さって、感動をもたらす作品にできてたらいいな……。ほんとうに……。

いつもたくさんのリアクションありがとうございます……!
みなさんの感想やリアクションで生きながらえているので、どうかあの その ぽちっと……押していただけたら……(ダイナミックお願い)

クリムゾン・ジェネシス、恐らく次回更新で完結です!あとひとっ走り、付き合ってくださると嬉しいです~~~!
それでは、どうぞ!!

※本シリーズは医療従事者でない人間の書いた医療の描写を含みます。症例論文、手術動画、医学書などを参考に執筆していますが、現実の医療と異なる場合があります。特に本シリーズは「魔法医療」を描いておりますので、現実の医療と大きく異なる部分があります。


1節:たそかれの終焉




宮島、十一月九日、午後六時。
逢魔時おうまがときは既に過ぎ、山を包む空は曇天の裂け目から紅の光を微かに落としていた。しかしその僅かな赤も、黒雲が渦を巻くたびに呑み込まれてゆく。山に灯る明かりは僅か二点──潮ノ宮ロッジと、ロープウェイ乗り場だけ。深い闇を切り裂くようにぼう、ぼう、とだいだいの光が揺れ、避難の道標となっている。

雨脚はもう弱くなり、風だけがまだ湿った匂いを運ぶ。この山に閉じ込められておよそ一日半。観光客達はようやく下山できるのだと、安堵と疲労の入り混じった表情で列を作っていた。
先頭の数人がスタッフに促され、揺れるロープウェイへと足を踏み入れる。ぎい、と軋む音を立て、発車の準備が着々と進み──。

「──乗るなッ!!」

裂帛れっぱくの声が、確かに空気を強く震わせた。
視線が一斉に向けられる。だが、驚いたのはほんの一瞬で、多くの客は直ぐに手元のスマートフォンやパンフレットへ注意を落とした。
──帰りの船の時間は何時になるか。
──この後、夕食はどうしようか。
そんな、日常の残香がそこには宿っている。

だが、叫んだ青年──翠は荒い息のまま人混みを押し分け、今まさに出発しようとしているロープウェイの前へと飛び出した。

「開けろ! 降りろ、全員、今すぐッ!!」

扉を拳で強く叩く。
それを見たスタッフが慌てて駆け寄り、細い躯体を咎めた。

「や、やめてください! 危険です!!」
「離せッ!! ロープウェイが──ロープウェイが出たら……!」
「落ち着いてください! 何がそんなに……!」

静止の声。肩を掴む腕。
それらを振り払おうと翠は身体をよじるが、焦りと恐怖が喉元で張り付くように息苦しい。
駄目だ。ここで問答をしている時間はない。ならばどう振り払う? どう乗り越える? その間にも、車体はゆっくりと滑っていくのに!

(──ッ、間に、合わない!!)

思考が走った瞬間、がこん、と重い音を立ててロープウェイが軌道に乗った。緩やかに、ゆっくりと、しかし確実に動き出す。直方体の機体が、滑らかに空中へと飛び立った。

「ッ──!」

翠は身を乗り出し、飛び降りるように追いすがろうとした。スタッフが必死に腕を掴み、叫ぶ声が場を満たす。

「危ないでしょう! やめてくださいッ!!」
「離せって言ってるだろ!! ロープウェイが……ロープウェイがッ!!」
「だから、何が──、う、」

その時──ふと、身体を押さえていた力が抜けた。

「な……ッ!?」

抑えつけられていた肩が急に自由になり、前へとつんのめる。慌てて踏みとどまり、混乱を隠し切れずに振り返る。

「急に、──!?」

息を呑む。
さっきまで己を静止していたスタッフの男性が、膝から崩れ落ちていた。
白目を剥き、口角から泡を吹きながら。
ぞくり、と背筋を氷柱が走った。

「お、おい……! おい、聞こえるか……!?」

即座にその言葉が出るのは、翠が医師だからであろうか。
スタッフの肩を抱え起こし、呼びかけながら口元へと耳を寄せる。同時に手首に指を添え、動かしながら脈を探って。

……ない、)

呼吸音が、聞こえない。
脈も……どちらも。

「心停止……!」

呟くように落とした声は、列を包むざわめきに掻き消されてしまいそうだった。
何故。つい先ほどまで普通に動いていた筈なのに、何故。
……この宮島で、何が起きている?
何が、起きようとしている──?

「──櫻田!」

名を呼ぶ声。自分が信頼する、信用できる戦友の声。
振り返れば、怜と伊織、メディとサナが息を切らして駆け寄ってきていた。翠は唾で喉を無理やり潤し、「怜、伊織」と名前を呼ぶ。

「ロープウェイは……」怜の低い声。
「動いた。もう一便、出てる……! どうにか、どうにか止めねぇと──〝あの人〟はきっと、箱を落として、全員を殺すためにわざと天候を回復させたんだからッ!!」

そう。そうだ。
この一連の事件を起こした犯人は、わざわざ天候を回復させた。
豪雨でロッジに閉じ込めた人々を解放し、ロープウェイに敢えて乗せた。
それが意味する答えとは?
本当に、「怖かったね」「私達は山を下りられてよかったね」と終わらせるためなのか? 否──それが楽観視のしすぎである事は、もう疑えない。
だって、だって〝彼〟は──。

──もう、正常な判断力を〝奪われている〟のだから!

「怜、」
「任せろ。ロープウェイの中に居る人を助けたらいいのだろう。〝落ちる〟前に止める……空遊くうゆう〉!」

怜の足元に陣が展開され、身体がすっと浮き上がる。次の瞬間には彼は宙へと駆け出し、ロープウェイに向かって疾走していた。風の名残が翠を包む。仄かな、雨上がりのアスファルトの匂い。

彼の背を見送り、翠は再び倒れたスタッフへと視線を戻す。瞳孔は散大し、筋肉の一部は固まり始めている。──死を定義する進行が、早すぎる。

(もう……手遅れ、なのか)

それでも、それでも翠は胸骨の上に手を組んだ。
圧迫すれば助かる可能性があると──そう、信じたくて。
けれど、本能が叫ぶ。訴える。
〝これは、もう救命できるラインを越えている〟と。

……余計な事を考えるな! やれるだけやる、まだ救える、救える、筈だッ!!)

唇を噛み締める。じわり、と口腔に広がる鉄の味。
息を大きく吸う。ゆっくりと吐き出す。そして、腕に力を込め、圧迫を開始しようとして──。



「──駄目だよ先生達、危ないでしょ?」



刹那、背後から優しい声がした。

翠は、ぴくりと反応する。酷くゆっくりと、声の在処へと顔を向けた。
伊織も、サナも、メディも。全員が同時に、その声の方向へと振り返る。

そこに、立っていたのは──。

柔らかく波打つパーマの髪。
そばかすの散った白い頬。
穏やかで、優しくて……自分達の中で最も、人を殺す可能性が低いと思われていた人物。

名を呼ぶまでもなく、分かってしまう。

……此処に来るって、信じたくなかったよ。やっぱりあんたがやったんだな──東雲さん

静かに言うと、彼──東雲綾人しののめあやとは首を傾げた。
まるで、本当に意味が分からない、と言わんばかりに。

「何のこと?」

だがそれに、翠は怯まない。

「しらばっくれんなよ。あんたは……天城さんも、幸田さんも、神楽岡さんも……そして俺達全員を殺そうとした。違うか?」

東雲の顔が、僅かにこわばる。

「どういう事? まさか、僕が事件の犯人だって言うんですか、櫻田先生」
「そうだよ。あんたしかいねぇ。こんな事できるのはな」
「い、言いがかりはよしてよ……!」
「じゃあ東雲さん、あんたどうして此処に来たんだよ。どうして俺達が、〝此処に居る〟って分かった? ロープウェイを止めようとしてるって、分かった? それが、あんたにとって不都合だったから止めに来たんだろ」
「違うよ……! 本当に何のことか分からない! 僕はただ、君達が事件関係者──天城さんや幸田さんと同じ、トロポミオシンのアレルギーで倒れた神楽岡先生を置いて出ていったのが不思議で、ついてきただけで……!」

翠は息を呑んだ。喉の奥が、かり、と凍る感覚。

……言ったな)

ゆっくりと、唇を開く。自分でも信じられないような低い声が、喉奥からほとばしった。

「〝トロポミオシンのアレルギーで倒れた〟……なんで知ってんだよ。検査結果、あんたには言ってねぇ筈だけど?」
「!!」

そこまで言ったところで、言葉を切った。東雲の瞳が、微かに揺れたからだ。繕われた笑顔が、若干引きつっている様子を翠は捉えていた。

……。」
「言えよ。なんで知ってる?」

沈黙。
翠は倒れた男性の胸骨を圧迫しながら、彼に目線だけを投げた。

「なら、暴いてやるよ。あんたの企てを、全部」

そう言って、静かにひとつ、息を吸う。東雲は、居心地が悪そうに視線を泳がせた。

「あんた、山に登る前のジュースにトロポミオシンとシナプス・リモデラーを入れただろ。それで、飲んでねぇあんたと怜以外の全員の神経を狂わせた。あんなところでジュース売ってたら、大抵の観光客は買うだろうからな。……幻覚を見やすくして、アナフィラキシーショックを起こしやすい下地を作った」
……。」
「んで、ウォーターサーバーにもそれらを入れた。オピオイド系鎮痛剤と一緒にな」

『口喝が酷くて。ドリンクが無料だったみたいだから……お水、飲んでました』
──目の前の彼が先日落としたその言葉が、脳内に回帰する。

「ロッジに来た最初、あんたウォーターサーバーの水を飲みに行ったよな。そこで混ぜたんだろ。天城さんが死んだのも──絶対にただの事故じゃない。あの日、天城さんの〝癖〟を理解して、行動を読んで、誘導した人間がいるとしたら。甘いものを好む事も、景色を選ぶ事も、喉が渇きやすい体質も……知ってた人間がいるとしたら。それが、あんただ……東雲さん」
「そんな事……!」
「築山さんが言ってたんだよ、天城さんの癖。俺にぽろっと口走るくらいだから、別の人に言っててもおかしくねぇ。特に、心理治療の局面だったらな。……彼女、『先生』って言ってた。最初は早乙女先生の事だと思ってたけど、よく考えたらあの言葉……『楽しんできなさい』って、外科医にデートの相談なんてする筈がねぇもんな。考えられるとするなら──心理士か、精神科医。そう、あんたみたいな。……誘導したんじゃねぇのか、東雲さん。二人がこの絶好の殺人現場に向かうように、カウンセリングを利用して」

翠が一度言葉を区切ると、背後に控えていた伊織が代わった。

「ジュースとNSAIDsで十分下地が出来ていた天城さんは、ロッジに来て、ウォーターサーバーのお水を飲んで、発症した。潮ノ宮ロッジの無料ウォーターサーバーは、玄関扉の壁に大きく貼ってあるから。……犠牲者の死因はトロポミオシンの食物依存症運動誘発アナフィラキシー。そして、それとは直接関係のないシナプス・リモデラーを使ったのは……
「魔法感受体を壊すため。殺人が目的なら、トロポミオシンとオピオイド系鎮痛剤を混ぜるだけで事足りた。なのにシナプス・リモデラーを使ったって事は……魔法感受体を壊す方が、真の目的だったって事だろ」

言い淀んだ伊織から言葉を継ぐ。東雲が、唇を引き結んだ。

「あんた、神を作ろうとでもしてたのかよ。魔法感受体を壊せば魔法因子が体内に溜まる。そしたら、そのうち身体が魔法の塊に書き換えられていく。結果──意思が全て魔法として出力される、神になる。それを……あんた、人為的に作ろうとしてたんじゃねぇのか」

次に続くのは、誰の声でもない。翠はふと胸骨圧迫を中止し、瞳孔を覗き込む──命はもう、失われている。それに胸を軋ませながら、立ち上がった。沈黙……それがのしかかった東雲の肩が、小さく震える。

「じゃ、じゃあ……犠牲者の手術痕は? あれができるのは、早乙女先生だけだよ。ぼ、僕は……外科なんて、」
「今さら弁明しても遅いんだよ。……あんたの得意魔法、特殊メイクなんだろ。それで偽装した。幸田さんの胸部の傷、触れたら硬さが均等で、皮膚のヨレがない。あんたは外科医じゃないから知らねぇかもしれないけど、手術痕なら治る過程でコラーゲンが縮むから、少し引きつるんだよ。だけど今回の傷は引きつれが全くない。形成外科医が見たら一瞬で分かっただろうな。……天城さんだってそうなんだろ。そしてそれを、あんたを医師の座から降ろそうとした早乙女さんに押し付けた」

かあ、かあ、とカラスが鳴いている。ざわざわと、群衆の声がひしめいている。翠の足元には、一人のむくろ。彼に殺された、犠牲者の姿。

「この人……このスタッフを殺したのも、あんただろ。なぁ、答えろよ……

喉元から紡ぎ出されたその声は、地を鳴らすように低く、そして重かった。東雲の震えが、さらに大きくなる。

「──答えろよッ!!」

怒号が響いた。人々のざわめきさえ、遠くに感じる錯覚に陥る。ばさばさばさ、と山の稜線からカラスの群れが飛び立った。耳元で、黒い風が唸っていた。
が──その直後。

「あは……ッ」

東雲が、顔を上げた。
乾いた笑い。それに翠が眉をひそめた、その瞬間。

「あっははははははははははッ!!」

狂気が、裂けた。
笑う。嗤う。哂う。
喉が裂けるほどの声で、腹を抱えて笑い始める。

「あははははッ!! 正解だよ、櫻田先生ッ!!」

銀色の瞳が、爛々らんらんと輝いていた。まるで、底なしの奈落を閉じ込めたような色で、鋭く、歪んで。
曇天に木霊こだまするその嗤いは、傷んだ金属を擦り合わせるような、耳を塞ぎたくなるような不協和音で、聴く者の背筋を冷たく撫でた。翠の額から一筋、季節外れの汗が伝う。

「あはは……あはははッ……! いやぁ、よく気付いたね。君がここまで辿り着くとは思ってなかったよ。すごいよ、櫻田先生!」

翠はそれを睨みつけ、奥歯を噛み締める。

「ふざけんな……!」
「ふざけてなんてないよ。あぁ、可笑しい」

東雲は涙を指先で拭いながら、まだ愉しげに笑っていた。肩が依然として、ふるふると震えている。腹の奥から溢れる笑いという狂気を、抑えきれないかのように。

「本当に、全部君の言う通りだよ。ジュースにも、ウォーターサーバーにも混ぜたんだ。トロポミオシンとシナプス・リモデラー、それにちょっとしたオピオイドの三点セット。人間って、本当に脆いよね。毒物をひとつも使わなくても、こんなにあっさり死んでしまうんだもの。そこに、君達親子が教えてくれた〝呪い〟を使えば──確実に人を死へいざなえる。だって全て、僕の意思通りに事が進むんだから」

翠はそれを聞いて、息を詰まらせた。

……やっぱりあんた、俺と同じ呪いを──」
「そうだよ?」

その答えがあまりにあっさりしていて、恐ろしい。
何故って、己と同じ呪いを被るためには──自分の臓器、魔法感受体を破壊しなければいけないのだから。正常な人間の判断とは思えない。

「便利だよねぇ、あれ。感情ひとつで世界をコントロールできるなんて、まさに〝神の力〟じゃないか」

伊織が震えた声で叫ぶ。──信じたい。まだ、ここまで来ても疑いたくない。そんな心が透けるような、悲痛な叫びだった。

「先生、先生は、僕達の痛みを理解してくれる人だった筈でしょう……!? どうして……どうして、殺人なんてッ!!」

それを聞いた東雲は、ふっと微笑む。穏やかに。静かに。まるで、カウンセリングをするかのように──いつも通りの、疑えない笑顔で。それが、かえって残酷だった。

「理解できたのはね、シナプス・リモデラーのおかげなんだよ」
「どういう……ことですか、っ」
「そうだねぇ──綾瀬くん、君は僕の患者だったから……特別だよ」

特別、と言いながら、彼は自分の唇に人差し指を押し当てた。にこり、瞳が柔らかく細められる。

「シナプス・リモデラーは、トラウマを上書きする薬。神経細胞の結びつきをほどいて、別の記憶に繋ぎ直す。そこまでは一昨日、学会で言ったよね?」

伊織は小さく頷いた。

「でもこの薬はね……神経だけじゃなく、魔法感受体にも干渉できる構造なんだ。記憶と感受体は近い領域にある。だから副作用として、繋ぎ変えるシナプスがない人間は──感受体が〝溶ける〟ように崩壊する」

翠の背筋を、冷たい汗がつっと流れた。

「あんた……自分に、投与してたのか。それで、感受体を……
「そう。壊したんだよ、僕の魔法感受体を。異界に自分の意思で接続できなくなったのは残念だけどね……僕の魔法回路は、神のものとして生まれ変わった」

東雲は唇に当てた人差し指をそっとほどくと胸に手を当て、うっとりと目を細めた。

「でもその結果ね、見えるようになったんだ。患者の妄想も、幻覚も、声も、苦しみも……全部、まるで現実みたいに。嬉しい誤算だったよ。魔法回路が崩壊して、人の〝概念〟が流れ込んでくるようになったみたい。感受体って、不思議だよねぇ」

ぞわり、と血が逆流する感覚。
この人は、死が怖くないのか。魔法感受体をおのずから壊して、その結果起こった〝組織の崩壊〟も、〝神経のバグ〟も──喜んで受け入れたというのか。
そんなの、狂っている。そして彼は、そんな狂った、限界に近い状態で──今まで自分達の隣で笑っていたというのか。気付かせるような素振りもなく、努めて普通に。

……ッ)

彼はもう、いつ壊れてもおかしくない状態だ。翠は医師だから分かる。脳組織の破壊なんて、人体にどんな障害が出てもおかしくない禁忌。それを、彼は敢えてやったのだ。自分が神になるために。それが安い代償だと、本気で思って。

「だから、僕のカウンセリングで……僕の抱える痛みを、分かってくれたんですか。そのときから、東雲先生は……魔法感受体を、壊していたから」

伊織の言葉は、その裏に「そのときから、脳組織が限界を叫んでいたから」という意味が込められているように思えた。東雲はその震えた声に、酷く穏やかに「そうだよ」と答える。やさしく、やさしく、残酷に。

「僕は確信した。これは祝福なんだって。僕は人の痛みを〝理解したふり〟じゃなくて、本当の意味で共有できるようになった。……つまり、救うべき人間を見分ける、神の視座を授かったんだ」
「あんた……!」
「そしてね、僕は次のステップに進もうと思った。それは──〝新しい神を創造する〟ってこと」

彼は両手を合わせ、頬に当てがった。ぎらつく瞳は恍惚とした光を帯びており、その表情は痛みも苦しみもなく、本当に幸せそうで。

「呪いを人為的に起こす手段はシンプル。僕が、僕自身で試したからね。魔法感受体が壊れ、魔法因子の石化が始まったら、身体が蓄積した因子に制御を乗っ取られ、書き換えられていく。その結果、肉体は概念の存在になり……感情が魔法として出力される。意思がそのまま、世界を書き換える現象になる。……その祝福をね、僕は君達医師に与えようとした。だから、アレルゲンだけじゃなくてシナプス・リモデラーを混ぜた」

翠の視界が、ゆらりと揺れた。吐き気に似た感覚が喉を押し上げる。

……ッ、本気、かよ。俺達まで、あんたと同じにしようとしてたのか」
「うん、そうだよ? 身体が〝死〟という概念に近い方が、魔法因子の放出量が増える。交感神経が優位になって体が活発に働くからね。つまり、アナフィラキシーショックを起こそうとしたのも、君達を神に変えるためなんだよ。勿論、完全体の神になれるのは僕が選んだ人だけにするつもりだった。だから僕が選べるまで──君達に綺麗な水、ペットボトルの飲料を渡してたよね。食事の時のお水も綺麗なものを僕が運んだし、レストランには細工しなかった。ウォーターサーバーに近付かないように。でも、神楽岡先生は自分から神への一歩を選び取った。一階廊下のウォーターサーバーを、選んだんだ」
「お前……神楽岡さんを……ッ!!」
「彼を救わなくてもよかったんだよ。心臓が止まっていても、回復しても……あの人は、あと少しで神として羽化するところだったんだから。それを決めるのは君達人間じゃなかった筈だ。医師じゃ、なかった筈だ。本物の、神様が決める事だったのに」
「な訳、ねぇだろ!」

翠が吼えると、東雲は肩をすくめた。

「怒らないでよ、ねぇ? 〝人を救いたい〟って志は、僕も同じだったんだよ? 神になれば、多くの人を救えるんだから」
「それがふざけんな、って言ってんだよ。神になれば人を救える? 馬鹿が。あんた、救う救うって言いながら──人を、罪のない一般人を殺してるんだぞ。それのどこが救済なんだよ。なぁ」
「僕は救ってるよ。間違いなく──救済を施してる。全ての患者に、全ての人に」

その言葉のあと、ふっと声のトーンが落ちた。

「──全ての始まりは櫻田先生……君のお母さん、和葉さんが神になって、この世を去った次の年だった」
……母さん、だと?」

眉をひそめる。目の前の男は母と何らかの関係を持っていたという事だろうか。東雲は、表情を崩さず続ける。そこに、僅かな翳りが差しているのを翠は見た。

「そう。和葉さんは、僕の患者だったからね。仙田先生が執刀した魔法感受体の切除後──僕は彼女から、和葉さんの精神状態に異常が無いか確認する務めを仰せつかった。だから僕は知ってたんだ。魔法感受体を失った人間がどうなるのかを。そして僕は……神に近付く彼女に、ひとりの人間として憧れた」

風が強く吹き付けた。それは東雲の心のさざめきか、翠の心のさざめきか。彼は、口元に弧を描いたまま、震える声でつづっていく。その手が、ポケットからハンカチを取り出した。白い、レースのハンカチ。東雲はそれを握りしめる。

……結局、和葉さんはこの世を去ってしまった。苦しくて苦しくて、彼女の事が忘れられなくて、それでも次の命を救うために仕事に励んだ。でも……悲劇って連鎖するよね。次の年、僕の患者がひとり、自殺したんだ。幸せになりたいって、遺書を遺して。……十一月八日。僕がついていながら、止められなかった。彼にとっては死ぬ事が救済だったんだ。その子の死が……僕を変えた」

それは、雨雲の底のように沈んだ声だった。

「ねえ、櫻田先生。綾瀬くん。〝全員を救える神になりたい〟って思うのは、そんなに悪い事なのかな? 〝全員を苦しみの海から引きあげたい〟って思うのは……そんなに罪な事かな」

翠はそれに、答えられなかった。その声が、悲しみすら帯びていたからだ。
だが東雲は、直ぐに笑みを戻した。それはぞっとするほど滑らかに。

「僕は神になろうって決めた。意思が全て魔法になるなら、どんな苦しみを抱えている患者でも、救えると思ったから。実際、僕はちゃんと苦しみから救えたよ」

明るく、麗らかな声のトーン。それは己の行動への疑いも、不安も、何もない真っ白な音だった。

「天城さんの彼女、築山さんは君の推理通り、僕の患者だった。『本命は私じゃないっていうのが苦しくて、最初から付き合わなかった方が良かった。それでも好きでどうしようもないから、苦しい』って言っていたから、彼を永遠に築山さんのものにしてあげた。幸田さんも僕の患者だった。『人に理解されなくて苦しい』って嘆いていたから、僕がちゃんと導いてあげた。僕は味方だよって、教えてあげた」

──狂ってる。
翠はそう、彼を恐れた。ぞぞ、と体の線を何かが走る。
ああ、早乙女も言っていた。狂っていると、言っていた。

──『「手の届く範囲の患者は全員救う」なんて無茶な事を言う人でした。心臓に何かが詰まっていると患者が言えば開胸し、脳を宇宙人に弄られたと言えばCTを撮らせる。狂気だと思って止めました』──

その台詞が、脳内に蘇る。けれど翠は分かっていた。知っていた。
東雲もまた、誰も苦しめたくなかったのだと。
優しい彼は壊れてしまって、狂気を呼び込んでしまっただけなのだと。

東雲は微笑みを絶やさぬまま、優しく言葉を継ぐ。

「だから毎年試してきたんだよ、この島で。助けてきたんだよ、救いを求めていた人を、そっとここへ迎えて。アレルギーなら事件にならないし、死体の魔法感受体を壊して実験していけば、僕自身に行う実験も安全へと近付いていく。やがて僕の感受体は完全に壊れ……ほら、こうして〝神の視界〟が開けた。ねぇ、見せてあげるね。僕が〝救った〟患者達が、笑っている姿を」

ぱちん。指が鳴らされ、発されたやわらかい音が空気を振動させた。視界が揺れる。脳が手で掴まれるような感覚。だが、次の瞬間──。

──翠も伊織も、サナもメディも息を呑んだ。

東雲の背後に、ゆらりと人影が何十人も立ち現れたのだ。陽炎のように揺れ、光を帯びて淡く透けているシルエット。

『先生、ありがとう』
『救ってくれてありがとう』
『あなたのおかげで救われました』
『先生は間違ってないよ』

ぱち、ぱち、と拍手の音。
だがそれは現実の音ではなく、己が見る〝幻覚〟の筈だった。
そうでないと、説明がつかない。東雲の行いを、殺人を、〝殺された側〟が擁護するなんて!

「ほらね? みんな、僕を肯定してくれる。僕は間違ってないって、肯定してくれる。それに、こうしてちゃんと現れてくれるんだ。命が無くなっても、魂は無くならない。みんながそう、教えてくれたんだ。死は終わりじゃない。自由を手に入れた、しがらみから解放された門出かどでなんだって」
……ッ!!」

おかしい。こんなのは、どう考えてもおかしい。
それは狂気だ。純粋に心から善行だと信じている、真っ直ぐで正せない歪んだ狂気だ。
翠は膝が震えるのを感じた。だがそれを見遣った東雲は、まるで「そっか。流石ですね」と言われたかのようににこやかに笑うと、人差し指をそっと立てた。

「さぁ」

彼の綺麗な微笑みが、美しすぎて怖い。
そして感情の読めない美しい笑顔に、温度などとうにない。

「まずはね──コバエを叩き落とさなきゃ。僕の、僕達の邪魔をするコバエを」

その指がくい、と下へ向けられる。空中に、彼の妖艶な指先が滑る。
刹那──。

がたんッ!!
大きな衝撃音が、山の闇を震わせた。その音の在処は間違えようもなく──発車したロープウェイの方。つまり、怜の居る場所。

「怜ッ!!」

翠は慌てて断崖絶壁に立ち、山の稜線に向かって叫んだ。怜は緩やかに滑り続けるロープウェイの金属フレームを片手で握り、文字通りの宙吊りになっている。

「──怜……ッ!!」

叫びが、もう一度喉奥から漏れた。やまびこが、翠の声を反響させる。それが届いた空の向こうで、怜の叫びが返った。

「大丈夫だ──!!」

ロープウェイへ向かっていた彼の足元の魔法陣が消えている。怜は宙吊りになったまま、どうにか体勢を立て直せないか身をよじっている。

「怜ッ!! 離すな、そのまま掴んでろッ!!」
「俺の事はいいッ!! ロープウェイを、止めろ!! 追加で二便──」
「そうだよ、彼の事は心配いらないよ」

背中越しに、東雲の甘い声が降る。翠ははっとして振り向き──そしてその動きが静止する。
ロープウェイの列に並ぶ人々、スタッフ達……その全員が恍惚とした表情で東雲を見上げ、祈るように手を組んで微笑んでいた。ロープウェイが一便、また一便、空へと駆けていく。それに、誰も目を向けない。誰も乗らない。彼等が見つめるのはただ一点──歪んだ救済を翳す、狂気に満ちた男。

……!」

体温が、数度下がった気さえした。東雲は両手を広げ、宗教画の聖者のように静かに告げる。
厳かに、敬虔けいけんに──祝詞のりとのように。

「僕は手に入れたよ。破滅と創造の力を」

風が止んだ。
雨の匂いさえ、不意に消えた。

「──さぁ、余暇を楽しむ人々よ」

東雲の声が、世界を包んだ。

「僕が全員、救ってあげる。その幸福のまま……終わりの時を迎えようか」

風が啼く。雲が叫ぶ。死の気配が、一層強まる。
眼下では、海が不気味に紅く光っていた。