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きなこ湯
2025-10-07 00:13:26
10885文字
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Ruhige Nacht.
カネブラ、トキシンと死体を埋める話です。
死人がいます。倫理道徳に欠けた題材かつ、嘔吐表現を含みます。時系列は3rd後を想定した内容です。
1
2
繋いだ手の温度が低く、そればかりが心配だった。
月の光が眩しい夜だ。せっかくなら新月だったらよかったのにと思う。俺は足元に転がる石まで鮮明に見えたけれど、人間の目にはそうでもないらしい。それなら、お前が足元の悪い山道で転ぶ心配の少ない満月でよかったのだろうか。
夜の森は薄暗い。しかし、俺たちがヴァンパイアを殺して埋めていたドイツの森はもっと濃い暗闇に包まれていた。秋を知らせる鈴虫の声や、木陰で気配を潜める生き物の気配がする。だから、俺の心は然程重くならなかった。
空き教室の扉を開ける前から、その中でどんな光景が広がっているかは、なんとなく想像がついていた。お前の匂いを探して足を踏み入れた東棟の階段にはまだ拭いきれていない血の匂いが漂っていたし、その嫌な気配を辿った先からは間違うはずのないお前の気配がしていた。
「
――
ねえ、そこにいる? 入るよ」
扉の外からそう声をかけると、ガタン、と大きな物音がした。返事はない。嫌な予感がして、許可を待つことなく引き戸を開ける。
半ば物置と化している空き教室は机と椅子が教室の後方に積み上げられている。碌に換気されていない屋内は埃っぽい匂いが濃く、人の血の匂いと混じって率直に酷い有様だった。一瞬だけ顔を顰めてから、横倒しになった教壇の隣に座り込むお前の姿を見つけて、急いで駆け寄る。
「大丈夫?
……
って、そんなわけないか。お前、どこか怪我してない?」
俺が声をかけたことに驚いて、近くにあった教壇を倒してしまったのだろう。ざっと見た限り怪我をしている様子はないが、半ば放心状態で俺を見上げるお前の顔から正確な事情を読み取ることは難しく、どうにももどかしい。
前髪が汗で額に張り付いている。青褪めた表情は体調不良のときのそれと比べてもさらに青白く、焦点の合わない瞳に言いようのない不安が募った。
肩を掴んで声をかければ一応俺の方は向いてくれるけれど、虚ろな眼差しは俺を通り抜けて、どこか遠くを見ている。
「俺の声、ちゃんと聞こえてる?」
不安になってそう訊ねると、震えるくちびるが小さく「トキシン」とつぶやいた。ようやく俺を見てくれた言葉にほっと胸を撫でおろしてから、なるべく優しい声で「そうだよ」と応える。
それから、俺は酷い匂いの発生源に目を向けた。
乱れた髪の隙間から、ぱっくりと割れた傷口が見える。階段の踊り場で見た光景を思い出しながら、頭から落ちたのだろうと想像した。脳漿の混じる血は粘ついて、引き摺られた痕跡が残っている。致命傷は頭部のようだったが、投げ出された腕が折れ、青黒く変色した皮膚がグロテスクだった。
三階の踊り場からここまで一人で引き摺ってきたのだろう。これは大変だったろうにと思い、改めてそばに座る顔を見下ろした途端、お前は俺をもの凄い力で突き飛ばして教室から逃げ出した。
「いったた
……
ってお前、どこに行くんだ⁉」
突然のことに受け身を取れず尻もちをつく。俺の声を無視して走り出した背中を追いかけてたどり着いたのは、女子トイレだった。まさかそこから外に逃げることはないだろうと思い、入口に立ってお前が出てくるのを待つ。
……
ただ、あの光景を目にして気分が悪いのだと思う。こんな状況で正気を保てと言う方が酷だ。せめて落ち着くのを待つべきだと思いながら、時間が経つにつれて不安が募る。頭の中でチラチラと浮かぶのは、つい先ほど見た、あまりに虚ろな眼差しだった。
――
今は、お前をひとりにしないほうがいい気がする。
周囲に人の気配がないことを確認して、俺は恐るおそるトイレに足を踏み入れた。東棟は空き教室が多く、そもそも人の出入りが少ない。個室の数も限られており、一番手前の扉が開きっぱなしなのを確認してその中を覗き込んだ。
少しだけ迷い、洋式便器の前に蹲る華奢な背中を撫でる。一瞬ビクリと跳ねた肩越しに、怪訝そうな眼差しがこちらをちらりと一瞥した。
「
……
うっ、俺だってこんなことしたくないし、悪いと思ってるよ。でも今は他に誰もいないし、お前から目を離すの、なんだかよくないような気がして
……
」
どうしてこんなところまで入ってきたんだと咎める眼差しを受け、咄嗟に言い訳を口にする。間違ったことは言っていないはずだ。今のお前を放っておくなんて、とてもじゃないが俺にはできない。
強張る背中をさすりながら「気持ち悪いなら吐いていいよ」と促す。震える手が俺を拒絶するように押し退けようとしたけれど、そんな弱々しい力では敵うはずもない。大丈夫だからと繰り返して背中を撫で続けると、吐き気を堪えることにも限界がきたのか、ようやく吐いた。
汚れないように髪を片手でまとめてあげながら、お前が落ち着くのを待つ。吐瀉物の酸っぱい匂いが狭い個室に充満していた。もちろんいくらか生理的な不快感はあったけれど、不思議と嫌な気持ちにはならない。好きな人が酷く苦しんでいる姿を目の当たりにして、どうやっても不安の方が勝った。
「
……
落ち着いたかな」
えずく声が収まってからそう訊ねると、お前は弱々しく頷いた。大丈夫ではないだろうけれど、俺の声に反応してくれる程度にはなったらしい。
汚れた口元をハンカチで拭いてあげると、消え入りそうな声がきたないよとつぶやく。
「別に汚くないよ。ハンカチなんて洗えばいいだけなんだし。ああ、お前が嫌だって言うなら捨てるけど」
そう言ってもお前は相変わらず嫌そうに目をぎゅっと細めたけれど、見なかった振りをした。
レバーを引いて水洗トイレを流す。下水に流れゆく濁った渦を見下ろして、さてこれからどうするべきかと考える。
「立てそう? 大丈夫だったら、そろそろ移動しよう」
そう訊ねると、お前は力なく頷いた。しかし、それ以上動き出す様子はない。もしやと思って「大丈夫?」「お腹すいた?」「どこか痛い?」といくつか問いかけを繰り返すと、また同じように頷く。何度かそんなやり取りを繰り返し、今のお前は聞こえてくる声にただ反射で頷いているだけなのだと気づいた。
「ねえ
……
俺の声、ちゃんとお前に届いてる?」
やはり、ただ頷く。
その姿を見下ろして、思わず口を滑らせていた。
「
……
お前は、俺のこと、好き?」
あっと思った時にはもう遅く、お前はまた簡単に頷く。
そのまるいつむじを見つめるうち、俺は深い暗闇へ吸い込まれるような虚しさに襲われた。こんな形でお前に「好き」と言ってほしいわけではない。お前からの愛の言葉を想像して、これまで何度も胸を高鳴らせてきたけれど、今の俺の心を満たすのはどうしようもない後悔ばかりだった。
言葉にならない衝動に突き動かされて、深く項垂れたお前の顔を上げさせる。少しの抵抗もないことがもはや痛々しく、いっそさっきみたいに突き飛ばしてくれたらいいのにとさえ思った。無理やり視線を合わせた目はたしかに俺を見上げているけれど、俺を見ていない。強いショックと深い後悔にお前の心が塗りつぶされて、俺のことなんて全然見てくれない。
「全部、俺に任せて」
気が付けば、そう口にしていた。
「お前は何も心配しなくていいよ。大丈夫、お前のことは絶対に俺が守るから」
ほとんど勢いでそう言い切ってから、ああなんだ、簡単なことじゃないかと思う。殺してしまったものは土に埋める、それはこれまで俺たちが何度も繰り返してきたことだ。もちろん俺が殺していたのはヴァンパイアで、人間を埋めたことはないけれど、どちらもカタチは同じ生き物なのだから、やるべきことは変わらない。
俺の声から静かな興奮が伝わったのか、こちらを見上げるうつろな瞳にちらりと光が差し込んだように見えた。その光にまた嬉しくなって、思いつくまま言葉を重ねる。
「ああ
……
うん、そうだよ。それがいい。あの死体、埋めてなかったことにしよう。そうすればお前が何を心配することもないし、これからも変わらず俺たちと一緒に生きていける。大丈夫、安心して。日本でもヴァンパイアと戦うことになった場合を考えて、そのための場所にはちゃんと目星をつけてるんだ。だから
……
」
だからどうか、俺のことを見て。
俺を選んで。正しい罪の意識より、俺と生きる明日を望んでくれ。
「
――
だから、俺にお前の手をとらせて。もう二度と、絶対に後悔させないから」
繋いだ手を握り直す。しばらくして、お前は自分の意思で手を握り返してくれた。少しずつあたたかくなるその温度に、混じり合った俺たちの体温がひとつになる感触に、底のない不安が慰められてゆく。
埋めるのに使った道具はどこかで処分しなくちゃならないなと、冷静な声が頭の中でささやく。その一方で、お前が俺の手を素直に握り返してくれることが、これ以上なく嬉しかった。それは綺麗な手に触れていられるからという理由ではなく、お前が俺から離れていかないことが
――
これからもずっと一緒にいられるだろうという予感なのだと思う。
俺たちの歌をはじめて聴いてくれた人。俺をゆるしてくれた人。俺の天使で、女神で、唯一無二の運命。あの日、俺はお前と共に生きる明日を選び、守ると誓った。こんなくだらない横槍で台無しにされる筋合いはない。
お前の優しいところが好きだと思う。ちょっと気が強いところはあるけれど、自分の意志を貫けるところが好きだと思う。綺麗な手が素敵で、完璧な美しさが羨ましくて、ずっとそばに置いていたいと思う。土に汚れたお前の手も、変わらず綺麗なままだった。だから
――
もしかすると、お前が俺と同じ罪を背負ってくれて、嬉しいのかもしれない。
「すっかり遅くなっちゃったな。俺、お腹空いたよ」
俺がそう言うと、少し置いて、わたしもと小さな声が返事をした。それから、今日の晩ご飯は何だろうね、と。
「うーん、何だろう
……
ヨルのご飯はなんでもおいしいからなぁ。ああでも、今は卵焼きが食べたい気分かも。ほら、今朝はヨルが寝坊してただろ? 俺たちも購買でサンドイッチを買ったわけだし」
そうだねと笑う声は少し明るくて、まっすぐ俺を見上げてくれる眼差しに、ますます嬉しい気持ちが膨らむ。暗い森の出口は、もうすぐそこに見えていた。
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