水面に小さな波紋が音もなく広がるように、その違和感は静かに千寿郎の日常に入り込んでいた。
初めに気が付いたのは、井戸から水を汲んでいる時だった。桶の中の揺らぐ水を何の気なしに眺めていると、そこに映っている自分の顔が、いつもと若干違うような気がする。しかし、はっきりと水面にものが映り込むようになるまでじっと見つめていると、そこにあるのはやはり、見かけ倒しの猛々しい火焔色の髪と情けなく下がった眉を晒す自分の顔だった。
次に何か変だなと気にかかったのは、立派な漆塗の光沢が美しい長机の拭き掃除をしている時だった。濡らして固く絞った雑巾で机の表面を拭いていると、ふと誰かの視線を感じる。今日は父も外出しているし、現在この家にいるのは自分だけ。辺りを見渡してみるが特に人影も見当たらず、訝しく思いながら視線を机に戻すと、なんとそこに映っている自分らしき顔が微笑んでいた。鏡や水面ほどはっきりと反射せずぼやけてはいるものの、ある程度の輪郭や色、表情などは映りこむ。自分は確かに今、眉をひそめ口を結んだ顔をしていたはず。目をしばたたかせ、もう一度はっきり見ようと覗き込むが、その後机の表面に映る表情が自分の意思以外で変わることはなかった。
はっきりとその違和感の正体を捉えたのは、久しぶりの外出のため姿見で身だしなみを確認していた時だった。その日は虫柱に呼ばれて蝶屋敷に出向く予定があった。五日ほど前、常備薬が切れたので薬屋に買い付けに行くと、千寿郎は虫柱こと胡蝶しのぶとばったり出くわした。近頃怪我をして運び込まれる隊士が多くて人手がいくらあっても足りないんです。全くどいつもこいつもですよ。あ、もしよければ千寿郎くん、お手伝いに来てくれませんか。なんだかんだ世間話をしている内に、彼女は美しい笑顔でそう千寿郎に告げる。隊の医療業務の一切を受け持っている蝶屋敷で人手が足りていないのは確かだろう。しかしその誘いの裏には、あの日から家に籠りがちになった千寿郎のことを気に掛け、少しでも彼の気が紛れる事を提案しようとする、彼女の気遣いも滲んでいた。そんなしのぶの親切を無碍にはできず、僕なんかで良ければ、と千寿郎は返事をしてしまう。そして約束の日となり、重い腰を上げて外出の準備を始めたのだった。
あの日、兄である煉獄杏寿郎の死を突きつけられたあの日から、千寿郎は鏡で自分の姿を見るのが苦手になった。煉獄一族の子は皆一様に、燃え盛る火焔色の髪と猩々緋色と金糸雀色に揺らめく瞳をもって生まれる。それは彼ら兄弟とて例外ではなかった。二人を知るものは、よく似た兄弟だ、弟の方が成長した暁にはきっと瓜二つになって見分けがつかなくなるぞ、と口をそろえて言う。しかし、千寿郎はそうは思っていなかった。兄は、父と同じような意志の強い吊り眉と、活力に溢れた力強い眼差しを持っていたが、対して自分は、自信のなさが表れている困り眉と弱気な瞳をしている。人はその性格で顔つきの印象ががらりと変わるというが、自分たち兄弟は正にそうだろう。何故皆が兄と自分が似ていると言うのか、千寿郎には理解ができなかった。その兄を失くして以来、自分の記憶の中の彼の時は止まったままだ。齢20歳の、若々しく頼もしい青年の姿のまま。しかし、現実の自分はゆっくりとだが成長していく。子どもらしく丸みを帯びていた頬も少し細くなり、身長もいくらか伸びた。しかし、亡くなった兄の年齢に段々と近づいていっても、自分は昔の情けない顔つきを晒している。あれから剣士の道を諦め、一族が連綿と受け継いできた呼吸の型だけは忘れないように時折木刀を振っているだけなので、身体だって貧相なものだ。筋肉がつきにくい体質なのか、ほっそりとしたうなじや腕は頼りなげで、同じ年頃の少年と比べても華奢な部類かもしれない。そのような、かつて兄と似ていると言われた、しかし一向に兄とは似ても似つかないまま成長していく自分を見ていると、いつか自分の中の大切な兄の姿も霞んでしまうのではと恐ろしくなり千寿郎は鏡をなるべく避けるようになった。
しかし、人のいるところに出向くのなら、礼儀としても最低限の身だしなみは整えなくてはいけないし、その為には鏡で自分の姿を確認しなくてはならない。千寿郎は気乗りしないまま姿見の前に立ち、思い切って鏡に映る自分の顔をきっ、と睨みつける。が、そこにいたのは自分ではなかった。姿見に映っていたのは、なんと亡くなったはずの兄、杏寿郎の姿だったのだ。あまりのことに呆気にとられ絶句していると、鏡の中の杏寿郎が、弟のことを全肯定するあの眩くも優しい笑顔を向けてくる。記憶の中の彼と寸分も違わない、その懐かしさに胸がぐっと詰まり、自然と千寿郎の両目から涙が溢れ出す。兄に触れようと鏡に手を伸ばすが、彼の指先が冷たい表面に触れる直前、蝋燭の火が風で消し飛ばされるように一瞬でその姿は消え去ってしまった。後は代り映えのない自分の姿が映っているだけ。
「兄上
…今そこにいたのは本当に兄上なのですか
…?」
手をそっと姿見に添え、そうぽつんと問いかけるが返事はなく、耳が痛いほどの沈黙だけが返ってきた。
あれから千寿郎は、姿見を含めた家中の鏡をかき集め、もう一度兄に会えないものかと、毎日鏡を覗き込んでいる。あの時見た彼が、兄恋しさに己の脳が見せた幻覚という可能性も大いにあるが、例えそうだったとしても、それでもいいからまた会いたいと千寿郎は強く願う。はっきりと兄の姿を鏡の中に見る以前から違和感はあったので、もしかしたら物を反射して映す表面ならどれでも良いのではないか、ということに気づいてからはそれらのものも事あるごとに確認するようになった。
鏡面や水面を期待しながら覗き込み、自分しか映らないと分かると落胆する、ということを繰り返していたそんなある日、千寿郎は買い物をするために街へ出ていた。あの後、心ここに在らずの状態で蝶屋敷へ行ったがそれが逆に良かったらしい。普段通りだったら、兄と同じ運命を辿ることになるかもしれない重症の隊士の手当てなどは、多分千寿郎には精神的に無理だっただろう。また、隊士でもないのに炎柱の親族と一目でわかるこの容姿を見られ、不躾な視線にさらされるのにも耐えられなかったと思う。しかしその日の千寿郎はそれどころではなかったので、しのぶの妹分のアオイやきよ、なほ、すみ四人の指示に従うがまま無心で看護にあたった。その働き具合を見たしのぶに大層喜ばれ、是非定期的に手伝いに来てほしいと頼まれてしまったのだ。そして今度は消費の激しい物資を補充するため、街の行きつけの薬問屋などにアオイと共に買い出しに行くこととなった。
頼まれていた品全てを買い終えそろそろ蝶屋敷へ戻ろうかという時、千寿郎はある雑貨屋に目を奪われ立ち止まる。それは主に女性向けの小物を販売している店だったが、店先に並ぶ商品の一つに、枠の紅と黄の濃淡が可愛らしい手鏡があった。足を止めた彼の視線の先に気が付いたアオイもまた、表情には辛うじて出さないものの乙女心をくすぐる品揃えにときめき、素敵な雑貨屋ですね、見ていきますか?と千寿郎に提案する。二人は店に入り、アオイが店内を物色する傍ら、千寿郎は先ほど見つけた手鏡を手に取りじっくりと眺める。それは年頃のおなごが出先で使用するのを想定した、懐に入れて持ち運ぶのに丁度良い大きさの手鏡だった。これを持っていればいつでも鏡の中を確認できるなぁ、と千寿郎は考える。
「可愛らしい手鏡ですね。誰かへの贈り物ですか?」
さっさと自分の買い物を終えたアオイがいつの間にか千寿郎の側に来て、肩越しに彼の手元を覗き込んでいた。
「えっ!?あ、これは、その
…」
愛らしい女子でもない自分がこんな物を欲しがっていると知られたら引かれてしまうだろうか、と心配になり千寿郎は口ごもる。困り眉をさらに弱弱しく下げ、頬を染めて俯く彼の様子をじっと見つめていたアオイは、
「最近はどこでも身だしなみを整えられるよう気が回せる殿方の方が素敵なんですよ、千寿郎さん。」
と彼に伝えた。
言外に、男児でも手鏡くらいは持っていても可笑しくないと背中を押された気がして、千寿郎は安堵の表情を浮かべる。
「ありがとうございます、アオイさん。これ、買ってきますので少し待ってていただけますか?」
そう言って彼は勘定をしにぱたぱたと店の奥へと向かった。
その後ろ姿からは嬉しさが溢れており、アオイは年下の同僚の可愛らしさに頬を緩める。
その晩家に帰ると、さっそく千寿郎は購入した手鏡の柄を握りしめ、祈りながら鏡の中を覗き込んだ。しばらくの間辛抱強く待ってみたが、いつものように何も変化が現れなかったので、がっくしと落ち込む。また駄目だった
…と諦めて手鏡を机に置こうとしたその時、鏡の中の姿が一瞬揺らめいたような気がした。慌ててもう一度鏡と向き合うと、そこにはなんと兄の顔が映っていた。
「兄上!」
千寿郎は嬉しくなって呼び掛ける。鏡の中の杏寿郎も、弟にまた会えたことを喜ぶようににこにこと微笑んでいる。
「もう二度とお会いできないのかと思っていました
…」
涙声で告げる千寿郎に、杏寿郎は申し訳なさそうな表情で何かを言ってきた。しかし、彼の口が動いて何か喋っているのは分かるものの、肝心の声が聞こえない。
「兄上
…声、声が聞こえません
…」
あの耳に心地よい優しい低音がもう一度聞けると期待していた分、千寿郎は落胆する。鏡の向こう側には千寿郎の声は届いているようで、その言葉を聞いて杏寿郎はあたふたとする。どうやらこちら側に声が届かないことは想定外だったようだ。弟と同じように眉を八の字にさせかなり困った顔をする珍しい兄の表情が千寿郎は少し可笑しくなり、ふはっと思わず笑ってしまう。
「声が聞こえなくても、こうしてお顔を見せてくれるだけで千にとっては十分です。」
そこには今まで溜め込んでいた、兄に会いたいという悲しくも虚しい切なる願いが叶った、それだけで本当に十分なのだという想いが溢れていた。その言葉を聞いた杏寿郎は目尻を細め、陽光のように温かい笑顔を弟に向ける。その笑顔を見ると千寿郎はいつも自然と安心した気持ちになれ、不安で渦巻く心も落ち着くのであった。
「これからは、いつでもこうして兄上にお会いすることができるのですか?」
千寿郎は少しどきどきしながら訊ねる。もう一度だけ会えるならそれで十分と思ってはいたが、いざ会えると何度でも会いたいと思ってしまう。固唾を呑んで兄の反応を待っていた千寿郎だったが、鏡の中の杏寿郎が力強く頷いたことで、己の心配は杞憂だったと知り安堵する。
しかしその時、兄の姿が揺らぎ始める。前回は一瞬で消え去ってしまったし、時間の制限があるのかもしれない。千寿郎は慌てて、絶対、絶対また会いに来てくださいね!待っています!と兄に伝える。杏寿郎も弟の声をしっかり受け取ったようで、明るく頷きながら最後に軽く手を振り、そして完全に姿を消した。
千寿郎はたった今起こった奇跡のような出来事に茫然とし、しばらくその場から動けなかった。しかし、今彼の胸を占めているのは紛れもなく、悲しみでも寂しさでもない、これからまた兄がいる生活が戻ってくるのだというはち切れんばかりの喜びだった。
それから千寿郎の生活は一変する。手鏡を覗き込み、兄のことを呼ぶと必ず彼は出てきてくれるようになった。鏡の中に現れることのできる時間も、時を経るごとに長くなってきている。杏寿郎の声は依然として聞こえないままだが、弟が言ったことに対し表情や身振り手振りで反応を返してくれるので兄が何と言いたいのか察せられる。千寿郎の方も、問いかけをするときはなるべく兄が反応を返しやすいような言葉選びにするなど気を付けたので、殆ど齟齬なく意思疎通が図れていた。千寿郎は兄との生活がまた戻ってきたようで、嬉しさで胸が一杯になる。彼は手鏡を肌身離さず持ち歩くようになり、それは外出の際も同じだった。流石に人目があるところで鏡に向かって話しかけはできないが、しようと思えばいつでも兄を鏡の中に見つけることができるし、水たまりや店の陳列窓の硝子にふとした瞬間に兄が映り込みこちらを見つめてくるので、まるで一緒に出かけているようで、こそばゆいような喜びがこみ上げとても晴れやかな気分になれた。
また、その頃になると兄は鏡面や水面に映りこむだけでなく、こちらの世界に干渉もできるようになっていた。
ある時、千寿郎は普段から気に入ってよく使っている櫛をどこかに無くしてしまった。家中探し回るが中々見つからず、諦めて別のものを使おうかと思いながらふと目の前の机に視線を向けると、なんとそこに件の櫛があるではないか。机の上も下も散々探したばかりなのにどういうことだろうかと驚いていると、視界の端の姿見の中が揺らいでいる。急いで鏡の前に行くと、杏寿郎が櫛を指さしながら、見つけといてやったぞと得意げな顔で笑っていた。
ある時、千寿郎はぼんやりと砂利道を歩いていたため大きめな石に躓いたことがあった。つんのめって、これは転んでしまうなと衝撃を覚悟したとき彼は何かに身体を抱きとめられるような感覚を覚え、結局転ばずに済んだ。まさかと思い手鏡を確認すると、杏寿郎が足元に気をつけろと言いたげな表情でこちらを見つめてきている。千寿郎が慌てて礼を述べると、次からは気を付けるんだぞと言っている風な口の動きで千寿郎を少し叱った後、でも怪我がなくてよかったと言わんばかりに、にぱっと破顔した。
最初こそ千寿郎はこの摩訶不思議な兄との交信に、これは一体どういうことだろうか、自分は遂に頭がおかしくなったのだろうかと悩んだ。けれど直ぐに、考えたってしょうがないかと深く考えないことに決める。誰かにこのことを相談したとしてもきっと信じてはもらえないだろうし、最悪の場合狂人扱いされてしまうかもしれない。それにもっと嫌だなと思うのは、兄を失くした悲しみに耐えられなくなってそのような幻覚を見るようになったのだと、哀れまれ心配されることだった。大切な友人や知人たちにそのような気苦労はかけたくない。そして自分は今とても幸せを感じているので、下手に事を動かして兄とのこの生活が終わってしまうのだけは避けたかった。そんなこんなで、千寿郎はこのことを誰にも言わず自分の中だけの秘め事にしようと心に決める。
「千寿郎くん!久しぶりだね!」
「炭治郎さん?!本当にお久しぶりですね!」
その日も蝶屋敷に看護の手伝いに来ていた千寿郎は、最近顔を見ていなかった友人に声をかけられ振り向く。竈門炭治郎は千寿郎よりいくつか年上の鬼殺隊士である。杏寿郎が亡くなった際の任務に同行していた彼は、自身も大怪我をしているにもかかわらず兄の遺言を届けにわざわざ煉獄家を訪ねてきてくれた。それから千寿郎と炭治郎は時折手紙のやり取りをし合うようになり、いまでは良き友人となっている。兄を失くした喪失感で打ちひしがれている時、炭治郎からの手紙が届くと千寿郎は少しだけ気分が晴れた。手紙にはいつも、ともすれば拍子抜けしてしまうような何気ない日常が炭治郎らしい柔らかな文体で綴られている。彼だって任務で辛い思いを沢山しているだろうに、そのことは一切書かれていない。人の痛みや悲しみをしっかりと受け止めながらも、不用意には踏み込まずつかず離れずの距離で接してくれる彼の優しさが、千寿郎は有難いと思っていた。そんな炭治郎は最近長期の任務に出かけていたらしく、ここ暫く直接会えないでいたところだったのだ。
「任務が無事終わったんですね。良かったです。あ、でも蝶屋敷にいるということはどこかお怪我をされたのですか?」
心配げに訊ねる千寿郎に、まあそんな大した怪我じゃないから
…と苦笑いで炭治郎は答える。
「炭治郎さんご自身が大したことないと思っていても、怪我は怪我です。しっかり休んでください。」
でないととっても苦いお薬を飲んでいただくことになりますよ、そう嗜める千寿郎は、本人は怒っているつもりなのだろうが余り迫力がなく、どちらかというとムスっと口を尖らせた顔は可愛らしささえある。
そんな友人を眩しそうに見つめながら、
「あはは、ここで出される苦い薬は本当に苦いからそれは何とか避けたいな。」
と炭治郎は笑った。
そして少し真面目な表情をして、
「今日は千寿郎くんが居るって聞いたから、顔だけでも見たいなと思って来ただけなんだ。最近の手紙、なんだか心ここに在らずな感じだったから大丈夫かなぁってちょっと心配していたんだけど、」
うん、元気そうで良かった。そう優しく目尻を細めて言う彼に千寿郎は少し動揺する。
炭治郎は細やかな人の感情の動きをとてもよく察することができるし、なにしろ鼻が利く。前回彼への返事を書いたのは、確か丁度鏡の中の兄といつでも会えるようになったばかりの頃だった。毎日が浮足立ってふわふわとしていて、でもそのこと自体は手紙に書けないので、当たり障りのない味気ない内容になってしまっていたかもしれない。いや、正直よく覚えていない。今の自分の動揺も匂いでバレたらどうしようと少し身構えたが、予想に反して炭治郎は、
「元気そうな千寿郎くんが見れたし、苦い薬を処方されない為にももう戻るね!」
とあっさり引き下がった。
少々拍子抜けした千寿郎は、懐にしまっている手鏡を服の上から無意識にきゅっと握りしめる。その直後、千寿郎さーんちょっとこっちを手伝って下さーい、というなほの声に呼ばれたので、
「あっ、炭治郎さん!お大事になさってくださいね!」
と慌ててその場から離れた。その為、彼がたった今握りしめた服の箇所を炭治郎がじっと見つめていたことに千寿郎は終ぞ気がつかなかった。
♦♦♦
「千寿郎がしっかり働いてくれるのでとても助かっています。特に、厄介な隊士の世話では千寿郎くんの右に出る者はいませんね。」
しのぶは機嫌が良さそうに千寿郎に告げる。お役に立てているようで嬉しいです、と千寿郎も答えるが、別に特別なことはしていないんだけどなぁ、と不思議に思う。とても良く効くがその代償として凄まじく苦い薬を飲むのを渋ったり、包帯を交換するときの痛みが嫌で駄々をこねたりするような患者のことをしのぶは「厄介な」としばしば形容するが、そもそも千寿郎はそのような患者に遭遇したことがなかった。彼が笑顔で、お薬の時間ですよ、包帯を交換しますね、と促すと皆さん素直に応じてくれるのだ。中には、にこにことまるで喜んでいるような人までいる。そのことをしのぶに告げると、
「千寿郎くんはそのままでいいんですよ、そのままで。それこそが千寿郎くんの美徳ですからね。あ、でも万が一変なことを言ってきたりしてきたりする輩がいたら直ぐに私かアオイを呼ぶんですよ。然るべき対応をしますので。」
そう言う彼女の笑顔は美しかったが、何だか少し怖くもあった。
「 ...ありがとうございます?」
しのぶの言わんとすることがいまいち掴めず疑問が残るものの、千寿郎は一応お礼を言う。
「冗談はさておき、ここの手伝いに来るようになってから千寿郎くんも随分明るくなりましたね。本当に良かったです。」
そう言って慈しみの眼差しを向けてくる彼女に、千寿郎はなんだか申し訳なくなる。確かに千寿郎はここ最近晴れやかな表情を見せることが増え、外出も頻繁にするようになった。けれど、「違うんです!蝶屋敷に手伝いに来るようになったからではなく、塞ぎ込んでいた要因である死んだ兄と鏡越しに会えるようになったからなんです!」なんて言えるはずもなく、千寿郎は曖昧に笑って誤魔化すしかない。本当のことを言っていないだけで嘘をついているわけではないが、彼女の気遣いを無碍にしているようで胸が痛んだ。
「はぁ、しのぶさんに何だか申し訳ないです
…」
千寿郎はしのぶと別れた後、次の患者の看護に向かうため、一人廊下を歩いていた。
「やっぱり兄上のこと、しのぶさんくらいにはお伝えした方がいいのでしょうか?」
柱として杏寿郎の同僚だったしのぶとは兄の生前から千寿郎も交流があり、その頃から彼女にはいろいろと世話になっていた。そして杏寿郎が亡くなった今、彼女は残された千寿郎のことをとても良く気にかけてくれている。それは偏に、しのぶ自身も姉を上弦の鬼に殺されるという辛い経験を持っているためだろう。そして彼女はとても理性的な人なので、この突拍子もない話を打ち明けたとしても、もしかしたら真面目に話を聞いてくれるかもしれない
…
「あにうぇ~、俺はどうしたら良いのでしょうか
…」
千寿郎は懐から手鏡を取り出し、鏡の中に向かって話しかける。最初は自分の顔が映っていたが直ぐに杏寿郎の姿にとってかわり、千寿郎の悩みを一緒に解決すべく彼も腕を組んで思案顔になっていた。
「あっ!そうです!しのぶさんが鏡を使われる際、その中に兄上が現れて見せたらよいのではないですか?他の方のところにも同様に。そうしたら皆さんも兄上とまたお会いできますし、俺の言うことも信じてもらえますね。」
千寿郎は我ながら名案なのではと目を輝かせる。何故このことを早くに思いつかなかったのだろうか。多分、兄との生活が楽しすぎて考える余裕がなかったのだ。そして、鏡の中の兄は自分だけのものにしておきたいな、という僅かな独占欲もあったのかもしれない。
兄上はどう思いますか?と手鏡に問いかけようとしたその時、
「千寿郎くん、今いったい誰と話していたの?」
と、炭治郎が声をかけてきた。
「た、炭治郎さん?!」
しまった、今の会話の内容は一体どこまで聞かれてしまっただろうか
…と千寿郎の背筋を冷汗が流れる。
次頁
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.