小さな小さなお城の中で

MHRウ教×ハ♀。夫婦。
ウ教視点。

蚊の季節。



片付けをしておくから、先にゆっくりお風呂に入っておいで──。

結婚後、我が家の裏手に増設したお風呂場に、遠慮してばかりの妻の背中を押して、彼女が遠慮がちに向かって行くのを見送ってから。

(よーしっ! 愛弟子がお風呂に入ってる間、色々終わらせるぞぉ!)

再び畳の間に戻って来た俺は、心を踊らせながら足取りも軽く、まず先に食器を流し台に下げ、卓袱台を片付けた。

すぐに蚊帳を手に取って軽く広げ、大きさと、天井の鈎釘との位置関係を確認して取り付けていく。
ほぼ長方形の安全地帯となった蚊帳空間が広がり、その中にどう布団を敷くべきか考え、イメージしてから押し入れを滑り開けた。

(これは、昔みたいにお布団くっつけないといけないよなぁ……)

布団を並べて敷きながら、懐かしい思い出と共に、この後のことへの想像が巡る。

もうじきお風呂から戻って来るであろう妻は、蚊帳の中で隙間なく、それどころか敷布団の一辺が重なり合ってくっつき並ぶ布団を見たら、どんな顔をするだろう。何と言ってくれるだろう。

照れながら喜んでくれるだろうか──それとも、幼い頃と違って、こんなにくっついているのは恥ずかしいからやっぱり嫌だ、なんて言うだろうか。
後者の予感もするので、俺の布団はすぐにずらせるように敷いてある。

「よし……あとは洗い物をして待ってるか」

蚊帳の中に並んだ布団。あの頃のような、懐かしい景色。それを背に、俺は土間から流し台に降り立って、鼻歌交じりにそれを洗っていく。

水音の最中、少し離れたところでまた、ぷぅーん……と甲高い羽音が聞こえてきて、蚊帳を使うという選択は正解だったと胸を撫で下ろす。可愛い妻が刺されるなんて、絶対に駄目だ。

「よし……っ、と」

最後の皿を洗い終え、白い手拭いを敷いた作業台の上に、他の洗い物と一緒にそれを並べ終えた直後。
トタタタ、と可愛らしい足音が、増設した廊下を通って近付いてくるのを察した。

口角が緩み、期待と懐古、そして微かな不安が胸の中に怒涛のように押し寄せる。

流し場に常備してある手拭いで手を拭いた頃、水を増設した廊下から、可愛い気配が躍り出た。

「ウツシさん、お先にお風呂頂きました! ありがとうございま──」

言葉を途中で切り、風呂上がりの清々しい熱気を纏うキミは「わあ!」と目を輝かせ、框で草履を後ろ足で蹴飛ばすように脱ぎ捨てると、やんちゃに畳の間に上がり、蚊帳と布団の傍に駆け寄って行く。

「懐かしいー! 小さい頃を思い出します!」
「ふふふ、俺も設置してて懐かしかったよ。気に入ったかい?」
「はい! えへへ、ありがとうございます! あの、この中に入ってお待ちしててもいいですか?」
「ははは、もちろん! 湯上がりのキミは美味しそうだからねぇ……蚊に食べられたら大変だ」
「美味し……えっ!?」

俺の言葉に敏感に反応しながら、湯上がりでもわかるほど、たちまち顔を沸騰させたキミが愛らしい。
まだお風呂がまだなのに、体がじわっと熱くなりながら「ふふっ」と低めの笑声が溢れ、愛おしさで心が賑やかに駆け回る。

赤い顔で小さな唇を動かそうとしたので、そこから言葉を紡がれるより早く、俺はキミの方に体を向けたまま、框の方に少しずつ後退した。

「じゃあ、俺もお風呂に入って来るよ。ふふふ、ゆっくり懐かしんでて」
「はい! ウツシさん、お疲れでしょうからゆっくり温まって来て下さいね!」
「ありがとう。それじゃ、後でね」

軽く手を振り合いながら、俺も框から草履に履き替えて土間に降り、増設した廊下を通って、お風呂場に向かった。

脱衣場で浴衣を脱ぐ間も、鼻歌が溢れ出しそうなほど胸が高鳴ってしまって、楽しくてたまらない。

(えっへへへ〜! 蚊帳一つでこんなに気持ちが踊るなんて!)

先にお風呂に入ったキミが、俺が愛用している大判の手拭いと、体を洗う時に使っている小ぶりの手拭いを、手に取りやすい脱衣カゴの隣に出しておいてくれたことにも、喜びで心踊らせつつ。

からりと浴場への引戸を滑らせて、軽やかに、湯気に満ちた浴場の中へと入る。

木製の手桶に湯船の湯を満たし、軽く体を流してから、壁沿いに置いてある檜製ひのきせいの石鹸箱から小さな手ぬぐいを泡立てた。すっかり慣れたものだ。

さっさと髪を、顔を、そして全身を洗って、再び手桶で一日の汚れを流していく。体に刻まれた古傷がふと視界に入って、今日は妙に強く、時の流れを実感した。

手桶で何度も湯船から湯を掬い、それを滝行のように頭から浴びて、髪も顔も体も洗い終わり、カムラのもう一つの名物である温泉に満ちた、奮発して増設した総檜の浴槽の中へと体を沈めていく。

「ふああぁ〜〜…… 今日も生きてたぁ……!」

湯船の心地良さに、思わず心の声が溢れる。

全身に纏わりついていた、どろりとした疲労感が湯気に乗り、昇華されるような。
回復薬を飲むよりも、体力回復に効果絶大であろうと断言したくなる温泉の力。

ちゃぷん、と気まぐれに手で湯船を揺らしつつ、気分がますます良くなって、俺の脳裏には可愛い妻の姿が、彼女への愛おしさが巡る。

「ん、ふ、ふふー……! 愛弟子……あんなに喜んでくれて……んふふふっ……

先ほどの妻の様子を思い出す度、次々と蘇ってくるのは、幼い彼女がお泊まりに来てくれた時の頃こと。

まさに今日のように蚊帳を出して「一緒に寝ようね」と、お布団をくっつけて敷いた日のことだ。

──わああ! すごい、おもしろい!

──えへへ、おへやのなかのおへや!

あの日のキミも、大喜びだった。蚊帳の中の布団の上でくるくると駆け回り、飛び跳ね、中から蚊帳に触れては「おもしろーい!」と、にこにこしていた。

基本的にはあの頃と『同じ』だが、あの頃と違うのは、キミが俺の妻になってくれたこと。
俺だけの、愛しい人になってくれたことだろう。

無垢で愛らしいあの笑顔は、昔から今もずっと、変わらず俺の心を温泉よりも温かく、言語化し難い人生の喜びで満たしてくれる。

今夜もまた、あの日のように──いや、もしかしたら、あの日とは異なる形で、あの頃よりも安寧に満ちた時間を過ごせるかもしれない。

「──愛、してる……! ずっと……大好きだよ……!」

愛しい人を想えば想うほど、心が締めつけられるような感覚と共に、口からぽつりと溢れた言の葉は微かに木霊して、湯気の中へと溶けていく。
湯の影響だろうか、体の芯が炎のような熱に包まれる。心臓がとくとくと鼓動の速度を増し、ぶるりと下半身が震えた。

熱に紛れた雄の衝動に思わず苦笑しつつ、それを振り払うように大きく何度も首を横に振る。

……はあっ……! 全く、俺は……本当に……!」

どんなに時が流れても、キミが愛おしくて愛おしくてたまらない、全てを投げ出してでも守りたい。傍にいたい、一緒に時を重ねたい。

そんな想いが燃え上がるほど、熱の狭間に密かに忍び寄って来るあでやかな衝動。

呆れを含んだ自嘲の意で、今度は湯船の中に向かって深く、深く息を吐き出した。
白いもやの浴室の景色が少しだけ揺れて、その中に、キミの美しい姿が見えた気がして、頭が──くらりとして。

「──もう、出よう……!」

思い出にひたりながらゆっくり愛する人と過ごせるかもしれない時間を、のぼせて台無しにしたくない。

ざばあ、と音を立てて身を起こし、湯船の中に立ちつくしてから、俺は目を閉じ、今度は自分の心身を整えたい一心で、また、深く息を吐く。
ちらりと視界に映った自分の下半身に、つい口元が引き攣った。必死に見なかったことにする。

十分過ぎるほど体は温まったし、疲れも流れた。早く愛しい人の顔が見たい、戻ろう。

脱衣場で、大判の手ぬぐいで両手で頭も、顔も、体も、わしゃわしゃと荒っぽく拭いていく。その間も脳裏に過ぎる、可愛い思い出と愛しい人の姿。

──ウツシにいに!

──ウツシさん

不思議と、声が聞こえる気がする。今頃、蚊帳の中で俺を待ってくれている。
遠い昔に体験したはずのことだが、どうして今日は、今は、胸がこんなにも賑やかに高鳴るのだろう。

着替えながら黙って立っていると、どくどくどくどく、と自分の中に音が木霊して。

浴衣を羽織り、帯と共に理性も締めて「ふーっ」と、もはや何度目か忘れたほどの息を吐いてから、草履を履き直して脱衣場も後にした。

疲労を洗い流し、心地良い汗が額に滲む。首にかけた白練色の手拭いでそれを拭きながら、今頃キミがどうしているのか早く知りたくて、そわそわと畳の間に戻った。

@acadine