小さな小さなお城の中で

MHRウ教×ハ♀。夫婦。
ウ教視点。

蚊の季節。

夏という情熱の季節、日没が、ほんの少しだけ長い。それだけで妙に得をしたような気分になる。今日のような日は、特に。

(嬉しいなっ、嬉しいなったら嬉しいな! 真っ暗になる前に帰れるなんてっ! 家でゆっくりできるぞぉ!!)

家に着いたら何をしよう、もう妻は帰っているだろうかと、期待と至福の混じった願望が次々と脳裏に浮かんで、落ち着かない。

(しかも、明日は夫婦で休み! ふふふ、喜びが抑えられないっ! 幸せだなぁ!)

燃えるような夕陽の思色おもいろが少しずつ空の中に溶け、次第に赤紫色に、そして紫紺色しこんいろ変わりゆく中。

黄昏時ならば誰もが背負っているであろう一日の疲労を、今の俺は全く感じない。
背に羽根が生えたと勘違いできそうなほど体は軽く、足は吸い寄せられるように、自宅に向けて駆けて行く。

(ああ、一刻も早く愛弟子に──俺の、可愛い妻に会いたいなあ!)

居住区にも並んでいるカムラの里の葉桜が、空の色と時間の移り変わりを明確に告げる中、和風建築が立ち並ぶ間を軽やかに走って、帰宅する。

その合間で時折鼓膜に響いた、ぷぅーん……という甲高い不穏な音。この音の正体は、姿を見なくてもすぐに分かる。

(うへえ、蚊が出てきたのかな……?)

刺されたら痛いより、痒いというのが厄介な存在。自分なら良いが、愛する人がそれに襲われては大変だ。
遠い昔、幼い彼女の腕や脚、肌がぷっくりと赤く腫れているのを見て心苦しくなった記憶は、まるで昨日のことのように思い出せる。そして俺たちの大切なオトモたちも、刺されて痒くなってしまっては掻きむしってしまう。爪が鋭い分、人より体が傷ついてしまうので大変だ。

(帰ったら対策しなきゃな……蚊取り線香……蚊遣かやりとか、どこにしまったかなあ)

ぐるぐると家庭的な思考を巡らせるうち、ふと思い出した。

そういえば今日、俺や愛弟子のオトモたちは、オトモ広場を切り盛りするイオリくんのところで、他のオトモたちとお泊まりの日だ。
気の回るイオリくんなら、きっとそういった対策はしてくれるだろう。

つまり、今、家に居るのは俺の可愛い妻だけ。駆ける速度が落ちることはない。

まばゆい茜色に染まった自宅が見えたと思った刹那、俺がそれに近付くより速く、玄関の引戸ひきどが滑り開いた。

中からゆらりと現れたのは、身を包む桜色の浴衣を紺色の腰紐でたすき掛けにした、俺の可愛い愛弟子、里を救った英雄『猛き炎』──愛しい、かけがえのない大切な妻。

彼女は片手に持ち歩き用の金具が付いた、細い煙が立ち昇っているブンブジナをかたどった鉄製の蚊遣を持っていた。

その姿勢のままでも、さすがは我が愛弟子、里の誇る強者ツワモノ。すぐに俺に気付き、夕陽が霞むほどの笑顔を浮かべてくれた。

「おかえりなさい、ウツシ教官! 嬉しい、今日は早かったんですね!」
「ふふふ、ただいま、愛弟子!」

ますます体中から疲労が抜けて、俺は羽根より軽やかに愛弟子に、愛する妻に駆け寄って行く。

俺の帰宅を待ち望んでいたように笑ってくれる彼女が「ご無事で良かった」と小さく告げてくれて、それは俺も同じだという想いを込めながら、可愛い頭を優しく撫でた。

嬉しそうにふくふくとお鼻を震わせるキミが可愛くて可愛くて、煙の上がるブンブジナの蚊遣を持っているのに抱きしめそうになってしまう。

自分自身をぎょするように、俺は可愛い妻から彼女の持つ蚊遣に目を向けた。

「蚊取り線香と蚊遣、見つけてくれたんだね!ありがとう! 俺も帰ったら探して焚こうかなって思ってたんだ」
「何だか急に蚊が増えてきましたよね。……よいしょ、っと」

玄関引戸近くにしゃがんで蚊遣を置き、また姿勢を直して俺を見たキミが「あっ」と目を丸くする。

キミが見つめてくれるのはいつだって嬉しいけれど、先ほどのような夫の帰りを喜んで、甘く見つめてくれる視線ではなかった。

「愛弟子? えっ? 俺に何か……
「教官、動かないで! ……えいっ!」

可愛い妻の手から、ばちん! と、英雄の胆力に溢れた音と、相応の衝撃。思わず「あうっ!?」と情けない声が飛び出た。

彼女のそれは、俺の露出した上腕二頭筋の辺りに振り下ろされていた。痛みはないが、驚きが凄まじい。

「ま、ま、愛弟子ぃ!? き、急に何だいっ!?」
「ああ、残念……ごめんなさい、逃げられちゃいました……

俺の腕を打った手の平を見ながら、キミは眉を下げて言葉通り、心から残念そうに呟いた。直後、その手で今度は俺の腕をくいくいと引っ張る。

「教官、早く家の中に! 蚊取り焚き始めたばかりですから、刺されちゃイヤです!」
「えっ、あっ──そういうこと……!」

蚊の話をしていたのだから、流れで察するべきだったキミの行動だが、こんなに良いタイミングで自分に蚊が止まっているとは思わなかった。

キミに腕を引かれる形で家の土間に飛び込むと、俺はすぐに玄関引戸を閉める。

ふう、と軽く息を吐いてから、俺は改めてキミに向き直った。

 先ほどのキミの言葉が、行動が、今すぐ踊りだしそうなほど嬉しくて、口元を覆う鎖帷子の奥では口角が上がり、目尻はとろりと蕩け落ちて。

「ふふふふっ! はあ〜! ありがとう、愛弟子っ!」
「えっ……! あ……

歓喜に跳ね上がる俺の声を聞いたキミは、我に返ったように俺の腕から手を離し、照れたように頬を染める。

こんな気持ちの中で、自分たちしかいない家の中でそんな顔をされたら、この両腕は、愛するキミを抱きしめたくてたまらなくなってしまう。

その心にあらがうことなく、俺は両腕でキミを優しく正面から抱きしめた。
腕の中で「ッ……!」と恥ずかしそうに息を呑む声がして、ますます愛おしい。

「えへへ、愛弟子ぃ! 俺を心配してくれて……守ってくれて、ありがとう! あー幸せ、嬉しいなぁ!」
「も、もう! 相手は蚊ですよ!? 喜び方が大袈裟です!」
「ふふふ、俺が大袈裟な男だなんて分かりきってるだろう? いいじゃないか! 嬉しかったんだからあ!」

腕の中の可愛いキミの頭を優しく撫でながら、耳元で何度も「ありがとう」と声音を変えながら告げる。
キミは俺の腕の中から逃れんとするよう「もう!もうっ!」と可愛く声を荒げて暴れながら、赤く染まった頬を膨らませ、ちらりと俺を見て。

「わ、私、お夕飯の仕上げをしますから! あなたもお疲れでしょうから、着替えてゆっくりなさって下さい!」
「俺、今日は本気で全然疲れてないよ! 何か手伝えることはない? キミに任せっきりじゃ申し訳ないよ」
「ふふ、ありがとうございます、大丈夫ですよ。私、今日は採取クエストが多かったので、久しぶりにすごく早く帰って来れたんです。卓袱台ちゃぶだいや座布団の用意も食器の用意も終わってますから、どうかゆっくりなさって下さい」

頬に赤みを残したまま、俺の腕の中で落ち着きを取り戻したキミは俺を見上げたまま、「ね?」と軽く首を傾げる。その表情は願望と、どこか嬉しそうな輝きを帯びていて。

そんな風に可愛く言われてしまったら、断れるはずもない。

俺は素直に「分かった、ありがとう」とキミを両腕から開放する。

たちまちキミは「もう少しですから!」と、急ぎ気味に土間の炊事場へ駆けて行った。

可愛く、柔らかな感触に包まれていて幸せだったこの両腕ががらんとした寂しさを覚え、ほんの少しだけ、心が切なく疼く。

(確かにお腹も空いてるけど、俺……一番は……)

心の中で響いた声に、俺の体が熱くなりかける。この熱は、今日から明日まで、夫婦水入らずで過ごせる影響もとても大きいのだろう。

軽く首を横に振って、体に、心に纏わりつくそれを払う。

炊事場で菜箸やお玉に持ち替え、くるくると動き回って忙しそうに料理をしてくれている、可愛い妻の背中。

またすぐにでも、それをこの腕で、この身で包み込みたくなってしまった。

玄関先で蚊取り線香は焚いたけれど、窓から蚊が入ってこないかな、などと余計な心配をしながら、『それ』からキミを守るという名目で抱きしめたくなる。

愛する背中に癒されながら、俺は彼女に気付かれないよう、「ふふっ……」と吐息をこぼした。

いつまでも見つめていたくなるけれど、俺は大人しくかまちに腰掛け、脚装備から順番に外し、着替えを開始することにした。

(ふふ、良かった、蚊取り線香の匂いは屋内にまで入って来てないね。夕飯の良い匂いだ……煮物かな? いい匂い……)

脚装備に始まって、腰も胴も外し、口元を覆っていた鎖帷子くさりかたびらを外し、框から畳の間に上がる。
卓袱台に座布団、卓上には既に箸や揃いの湯呑みも並び、夕食の場所の用意は整っていた。

装備を外しながら卓袱台を素通りして、いつも着ている碧色無地へきしょくむじの浴衣が入っている簞笥たんすを開けながら、俺は無意識に口角をほころばせる。

だが、日常的に繰り返される当たり前という幸せの狭間で、また、あの音がした。

虚空の奥から、ぷぅーん……と、微かなのに甲高い音。

(やれやれ……格子窓こうしまどからかな?)

目を凝らし、その存在を確認すると、羽音の主は上下にふらふらと飛びながら、蚊取り線香が焚かれている玄関側の窓から外に出て行った。

(季節柄仕方ないけど、さすがに多いなあ。これじゃあ、寝る時も……)

瑠璃紺色るりこんいろをした浴衣の帯を締めながら、どうしたものかと思考を巡らせつつ、ふと天井を見上げる。

直後、少し錆びついて古びた鉤釘かぎくぎが打ち付けられているのを見つけて、俺の中に記憶の稲妻が走り、靄が晴れるように小さく目を見開いてしまった。

愛しいキミが幼い頃、ちょうどこの季節、この家にお泊まりに来てくれた時のことを思い出した途端「そういえば」と、気持ちがはやる。

帯を締めてから箪笥の前に正座し、一番下の段を開けて、宝探しのような気持ちで両手を突っ込み、中身を漁った。

(どこにやったかなぁ……! あの子が大喜びしてくれたから、来てくれたら絶対使おうと思って……キレイに取っておかなきゃって……! えーと、確か、このへんに……)

お客さん用の浴衣や予備の敷布などが出てくる中、幼いキミがお泊まりの時に「これじゃなきゃいや!」と言って使っていたものもたくさん出てきた。桜柄の、少しくたびれた、けれど洗濯だけはしっかりしていた手拭いに、それとお揃いの柄をした子どもサイズの浴衣。

思い出の宝物が次々と出てきて、つい、また口角が綻ぶ。

(懐かしいなあ……今やキミは、俺のお嫁さん……俺の奥さん、なんだよな)

普段はほろ苦いことも多いはずの現実が、何もかも甘い幸せに満ちているのは、奇跡だろう。

炊事場と畳の間を往復し、卓袱台に出来たての夕飯を並べて頑張ってくれている可愛いキミの妻の背中を一瞥いちべつし、ありがたくそれを噛みしめながら、記憶を頼りに箪笥の隅の方に手を突っ込む。

やがて片手の指先が、布とも異なる、さらりと柔らかな感触に触れた。

懐かしさと共に探しものを見つけたことを確信し、両手でそっと、破れないようにそれを引っ張り出していく。

「ウツシ教官、何かお探しですか? お夕飯できましたし、お手伝いしますよ?」
「あ、ごめんね! 大丈夫だよ、もう見つけたから」
「何を探していらしたんです?」
「えへへ、いいもの。とっても懐かしいものだけど、覚えてるかなあ?」

俺の隣にしゃがんでくれた可愛いキミに「じゃーん!」と両手で見せたのは、まだキレイに畳まれた状態の、白練色しろねりいろ蚊帳かや

それを見た途端、キミの可愛いお顔に「あっ!」と懐古の笑顔が弾ける。

「懐かしい! 蚊帳ですね!? わあ、小さい頃に教官のところにお泊まりした時に使ってもらってましたよね!」
「ふふ、覚えてくれてたんだね。今日は蚊が多いし、久しぶりにこれを使って寝ない?」
「いいですね! えへへ、何だかワクワクします! 楽しみです!」

言葉通り、幼い頃のような楽しげな笑みを浮かべたキミが、片手で俺の持つ蚊帳に触れる。

大きくなったキミの手は、しなやかでありながら、里の強者として武器を握り続け、英雄にまで成長したことを示す、強く逞しい手になっていた。
つい先ほどまで、この手で料理も作ってくれていたのだと思うと、心が至福でくすぐられる。

無意識のうちに俺の片手は伸びていて、可愛いキミの頭を撫でていた。

「さあて、蚊帳のセットは寝る時にやろう。キミの作ってくれた美味しい晩御飯が冷めてしまうからね!」
「ふふふっ……ありがとうございます。今日はあなたの好きなお肉料理ですよ」
「いやっほおぉ! ますます楽しみだぁ!」

見つけた蚊帳を一旦畳の片隅に置き、俺はキミと一緒に、幸せの匂いに包まれた卓袱台に向かった。

いつもの座布団に座って、キミと向かい合い「いただきます!」と手を合わせる瞬間、俺は自分の生を、生きる理由を実感する。

今日の晩御飯は、お茶碗いっぱいのほかほかご飯に、お豆腐のお味噌汁。そして、お肉と野菜の煮込み料理だ。

「うっひゃあ、今日もうまそう!」

わくわくしながらお肉にお箸を入れてみると、それで切れるほど、ほろほろで柔らかい。

一口サイズにして、ぱくんと一口頬張れば、口の中にじゅわぁとお肉とお出汁の味が広がる。お肉は先に一度焼いたのだろうか、香ばしさもあって、とても美味しい。

「んんんんっ、美味しいいぃっ! 今日も美味しいよぉ、愛弟子!」 
「ふふ、お口に合って良かったです。いっぱい食べて下さいね?」
「ありがとうっ! キミと食べるご飯は、本当に美味しくて……俺、幸せだぁ」

キミの作ってくれた料理のように、蕩けた声が出た。愛しいキミはとても素直に、そして可愛らしく頬を赤く染め「私もですよ」と照れながら、笑ってくれた。

キミの笑顔を見ながら、キミの手料理を食べられる夢のような時間。心が、満たされていく。嬉しくて、幸せに包まれる。

愛しい美味しい手料理に舌鼓したつづみを打ちながら、俺はちらりと畳の間の片隅を一瞥した。
折り畳まれた蚊帳があって、それを見るだけで不思議と更に心が踊る。まるで大きなお祭りの前のような。

(本当に、懐かしい……使うの楽しみだな……)

思わず「んふふっ」と笑みが溢れる。

そのまま、食卓を囲んだ愛しいキミとの時間は疾風はやてのように過ぎていった。

@acadine