めやぬら
2025-09-28 17:02:48
12052文字
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温泉旅行(1日目〜2日目早朝)

不定期週刊燐一
温泉旅行の話、前半。これまで公開していたもの+@をまとめました。
ちゃんと帰るとこまでが旅行なので、そこまではなんとか書きたいです。
でも旅行で何をするのか分からないので、ご存知の方教えていただきたい。温泉街って何するんですか……


一日目 夜


 ビール缶を傾け、テレビを眺めていた。馴染みない地方ではニュースでさえも物珍しい。どこかの商店が大手ショッピングモールの煽りを受け、苦境に喘ぐ店主が取材されている。そんなご当地の小規模な出来事を流し見て、ぼんやりしている夜十時。夕飯も終わって、風呂にも入って、あとはもうぐだぐだするだけだ。
 ブラインドが下された窓の向こうでは、湯気と人影。浴槽の湯に反射する照明が、薄いベージュのブラインドの布に、ゆらめく水面を映している。
 
 かれこれ二十分はあのままだが、大丈夫だろうか。時折動く影に意識を失っていないことは確認しているが、湯船のふちに頭を預けるような姿勢になってから殆ど身じろぎがなくなり、さすがに心配になった。

「一彩ー?」

 部屋の中、布団の上から呼びかけるが、反応はない。聞こえていないだけとは思うが、念のため様子を見ようと、腰を上げた。
 飾り棚の下にある小さな部屋の冷蔵庫。中に入れていた水を取って、からら、と戸を開ける。湿度の高い外気に混ざった水の匂いがたゆたい、湯けむりが照明をくゆらせる。
 温泉旅館ならではのゆるい浴衣の裾を蹴って裸足のまま框を降りれば、板張りの床はすでに所々濡れていて、温くなった湯が足元を濡らす。
 湯葢が立てかけられている壁を横目に浴槽を覗き込めば、縁に頭を預けて目を閉じていた一彩は気配に気づき、ぼんやりとこっちを向いた。
 
「生きてっかァ、弟くん」
「ん……寝そうになってた」
「あっぶね。お前もうさっさと出ろよ」
「大丈夫だよ、ぬるめにしているから。兄さんも入る?」
「入んねェよ」
 
 ほら、とペットボトルを手渡せば、笑って受け取った。ごくごく喉を鳴らして飲み干す首元に、つい、と汗だかなんだか、水滴が伝う。
 温度自体は水でも足したのか、思っていたよりも熱気はない。そのため逆上せているんじゃないだろうが、熱っぽいため息が聞こえた。

「無理すんなよ、明日もあんだから」
「ウム。まだ大丈夫だから、もう少し浸かってから出るよ」

 情緒を演出するためか、手元や段差を照らす以上の光量は抑えられている。肌の火照りもあまり見えない。なんとなく額に手を当てたら、ほこほこと温まっていて気持ち良かった。
 一彩はというと、少し驚いたようにこちらを見た。

「にいさん、手冷たいね」
「ん?あぁ、水持ってたからなァ。お前は熱いね」
「長い間入ってるからかな。それとも温泉の効果?」
「さァな」
「ふふ、気持ちいい……
 
 額に当てた手を掴んで、頬から首筋に当てがう一彩。兄の手を保冷剤にして、うっとりと目を閉じる。
 湿ってへたっと張り付いた髪が目にかかっている。反対の手で払ってやると、まばたきをしてこちらを見つめる。熱さで潤んだ瞳がとろんと細められ、しっとり微笑む口元が柔らかい。
 戯れに、そのまま少し指で耳あたりをくすぐると、困ったように笑いながらも、もっとねだるように、ぱしゃ、とささやかなお湯の音がして、一彩が近寄ってくる。どくどくと、首元の脈を感じて、なんだか落ち着かないような、逆に安心するような。

 夜の闇がすぐそばにあるが、橙の電灯が湯煙にぼやけて辺りを明かす。陰影さえも曖昧になり、俺の手と一彩の温度の境も曖昧に混ざっていく。
 首筋の水滴が、鎖骨に流れて胸元へ。上気した肌は濡れていて、思わず手を伸ばす。ほんの少しだけ緊張しただけで、一彩はくすくす笑って受け入れ、言葉なく許された甘さが香り立つようだ。
 笑う口元を指でなぞると、控えめな笑い声は止む。戸惑うようにじっと見つめる瞳はどこか期待を含み、待ってるような光を宿して絡まる視線。
 薄く開いた唇と、一彩の忘我に飲まれる。互いから意識を外せないまま、焦れるほどに口寄せる。

 もう僅か数ミリ。ゆっくりと目を伏せて、二人とも流されそうになっていたとき、ばしゃん!と、大きな音がして、一気に我に返った。

 お互い魔法が解けたかのように目を見開いて、馬鹿みたいに見つめ合う。音がした方では、渡したペットボトルが湯船にぷかぷか浮いていた。一彩の手から滑って落ちたのか落としたのか定かでないものの、表面だけが溶けかけた二人の空気に文字通り水を差した。

……ぁ、と、落としてしまった」
「お、おう……、先に部屋戻っとくから……

 先に状況把握をして動き出した一彩は、湯船の中に落ちたペットボトルを急いで回収する。まだ半分ほど中身の残るそれを蓋開けて一彩が飲み干す隙に、逃げるように脱衣所へ戻る。
 床が濡れるのも構わずに短い距離を走って、自分の掛け布団に飛び込んだ。驚いて大きくなった拍動が、そのまま落ち着かず身体中に響いている。
 軽い羽毛布団のシーツのさらりとした触感が、さっきまでの肌の感覚を呼び起こす。しっとりと濡れていた鎖骨、潤んだ瞳、触れかけた唇。こちらを見上げる眼差しには熱が籠り、前髪から雫が滴って。

「わーーー!」

 思い出しかけた弟の姿を叫んで掻き消す。
 とにかく忘れようとして、傍に置いていたビールを一気に飲み干した。
 
--

「寝てる……

 浴槽での気まずい一幕からしばらく、なんとか居た堪れなさを振り払ってから上がれば、兄は自分の掛布団の上にうつ伏せになって寝ていた。ちょっと斜めになっているから、並べて敷かれたこっちの布団にも侵食している。安定感の欠片もないところでも、すよすよと微動だにしない。転寝じゃなく、本格的に寝入ってしまっているようだ。
 まだ濡れている髪をもう一度タオルで拭いて、よいしょ、と体を転がしたら、何事か呻いて仰向けになった。顔を顰めているが、布団に顔を押し付けているよりかは呼吸は楽なはずである。ぐっちゃぐちゃになった髪と不機嫌そうな表情がなんだか幼く見えて、思わず笑ってしまう。

「ふふ、風邪ひくよ」

 聞く耳もない兄にそう言っても、すやすやと眠っているだけだ。傍に置いていた空き缶を見るに、もう今夜は起きないだろう。そっと缶を遠のけて、体の下敷きになっている掛け布団を引っ張り出す。その拍子にまた半身転がっていったが、ここまでめちゃくちゃやっても薄目すら開けないのは、警戒心がなさすぎじゃないだろうか。

「よいしょ……もう、なんで寝てるんだ……

 寝るまでが早すぎやしないかと思うが、仕方ないかな、とも思う。なんせ、ここまで来るのに結構な距離を旅したのだ。疲れたなァ、なんてことも言っていた。良い風呂に良い食事。程よく酒も入って、旅程の疲れや日々の緊張も解けたのだろう。薄く口を開いて、ご機嫌に眠る寝顔は随分とあどけない。
 なんとか兄の体を布団に戻してやり、ちゃんと掛布もかけてやれば、もうすっかり夢の世界の住人だ。

 部屋の照明を落とすと、夜のニュースを報じている付けっぱなしのテレビの青白い光が、ぼんやりと部屋全体を照らした。音量も下げて自分のテリトリーである布団に戻り、先のペットボトルを開ける。もうあと四分の一もないくらいだ。寝る前に飲み切ってしまおう。
 あまり興味のないスポーツ関連のニュースを流し見ていると、天気予報のコーナーに変わった。落ち着いた男性の天気予報士が明日は曇り時々雨。強い俄雨が、と注意を促している。降水確率は高く、必ず長い傘を持つようにと言う彼に、持ってきていないけれど如何したらいいかな、と心の中だけで問いかけてみる。もちろん、地元の人向けの予報であるから答えは返ってこなくて、そのままコーナーは終わってしまい、隣の兄は起きる気配もない。開けたまま手に持っていた水に口をつけた。

 せっかく二人きりの旅行なのだし、本当はもっとたくさん話をしたかったけれど、疲れていたのが本当だったのなら、わざわざ起こすほどでもない。無理を通して着いてきてもらっているような状況なのだから、これ以上わがままを言うのも何だか憚られよう。
 それに。

 手に持ったペットボトルの残りをごくごくと飲み切って、蓋を閉めた。
 それに、あんなことされて、どう顔を合わせたものかと少し困惑してもいる。だからこそ、覗き込んだ部屋で寝こけていた兄を見た時は拍子抜けしたのだが、むしろ起きて待ってられた方が気まずかったかもしれない。
 触れられた手のひらが冷たかったとか、湯当たりしてとか、言い訳ならいくらだって思いつける。けれど、もし、あのまま口付けをしてしまっていたら。どきどきと心臓がうるさくて、治っていたはずの火照りが振り返す。あの瞬間、口付けは添い遂げる相手と、なんてそんな貞操は頭になかったし、どういうつもりも意図も無かった。なにか、お互いの引力に誘われて、心や思考なんて挟まる余地なく自然に顔を寄せていた。少なくとも自分はそうだ。
 
……
 
 番組が終わってCMを流すだけになったテレビを消し、自分も布団に寝っ転がる。寮ではベッドなので、低い地面から天井を見上げるのがなんだか懐かしい。
 隣の寝床へと寝返りを打つと、相も変わらず、一人無関係な風に寝息を立てる兄。仕掛けたのはどちらになるのか、相手のせいに仕立て上げられない事実に、なんだか少し釈然としない気になる。兄の頬を突っついた。僕がこんなに悩んでいるのだから、兄さんも悩めばいいのに。口元をむいむい突っつき続ければ口を閉じた。起きるかな、と軽くつまんでみたら、鬱陶しそうに眉が顰められるだけで、されるがまま。
 どこまで起きないんだろう、と頭に触れてみても無反応。なんだか面白くなってきて撫でてみると、思いのほか指通りのいい髪が、僕の手に従って揺れた。

…………んー……
「あっ」

 さすがに鬱陶しかったようで、ごろんと寝返りを打って外方を向かれる。寝ている時は可愛らしくなるなんて初めて知ったし、兄の頭を撫でるなんて初めてだ。

「ふふ、嫌だった?ごめんね」

 珍しい体験をしてちょっと楽しいが、これ以上手を出したら起きてしまいそうだ。自分ももう床に就くことにして、片付けと寝る支度を整えるため、空き缶やペットボトルを手に取った。