sidori
2025-09-14 00:00:00
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人妻定食九月号『蛟九』

モブ視点で高銀の坂田に失恋するNTRマガジン九月号です。

しどりの『愛と敗北を味わうモブの2種盛セット~再び蘇る神話のおかわり無料サービス付き~』



老人は語り始めた。


──何からお話しましょうか。
この村の伝承から?はいはい、わかりました。はじめから。はい。
ええ、この辺りは江戸の頃まで、随分貧しい土地だったそうです。岩石質な崖に囲まれた僅かな土地は痩せていてろくな耕作も出来ず、鉄砲水なんかもよくあったとか。
何故そんな場所に村を──ですか?さあ、そこまでは。昔々の話ですからねえ。
とにかく村はそこにあったんでしょうな。小さな小さな村ですよ。数軒の家が身を寄せ合って細々と暮らしていたんですな。
そこにある時、異形の男が一人やって来ました。雪のような肌に輝く髪、血のように赤い目をしていたと言います。ええ、ええ、そりゃあ今とは違いますから。村人たちは山から鬼が人を食いに来たぞと、それはもう震え上がったそうですよ。
ところがこの鬼は、悪い人食い鬼ではありませんでした。それどころか村人たちの為に荒地を田畑に開墾し、崩れやすい崖には支えを施し、木を切っては薪を作り、柴を刈り、山に入って鹿や猪、時には熊さえ狩って来て、甲斐甲斐しく働いたそうです。
村人たちは感謝し、鬼を村の住人として受け入れる事にしました。
暫くした頃、鬼は村人たちに言いました。祠を一つ建ててくれないか──。
ええ、そうです。あの泉にある祠の事です。あの中腹にある湧水の泉。その畔に小さくていい。社殿を作って、ある神を祀ってくれないだろうか、と、鬼は言いました。
曰く、この土地にはずっと神が居なかったらしいのです。だから土地が豊かにならない。
「俺の知り合いで、落ち着く場所を探してる水神が居るんだ。ここは水も綺麗だし、アイツもきっと気に入ると思う。俺を受け入れてくれたアンタ達とならうまくやっていけると思うんだけど……
村人たちは、すっかり仲良くなっていた鬼の提案を受け入れ、この村では水神を祀るようになりました。
鬼の言った通り、やがて村は豊かになって行きました。毎年大雨の時期が来るごとに悩まされていた川の氾濫は嘘のようになくなり、山を切り開いて作った田には澄んだ水が満ちました。鬼のお陰で山から熊や狼は近づいて来ず、鹿や猪が畑を荒らす事もありませんでした。
村人たちは鬼と、鬼の連れて来てくれた水神に大層感謝して、何かお礼をしたいと言ったのです。
しかし鬼は首を振りました。望みは、ただ平穏に暮らす事──ただそれだけだ、とね。
無欲な鬼の願いに、村人たちはせめて何か報いようと思いました。そこで代わりに水神を熱心に信仰したのです。
はい?そうですなあ。今もこの地方で水神信仰が盛んなのはその頃の名残かもしれませんが。
けれどもねえ、人の世の習い……と、こう申しましては少々乱暴すぎるでしょうか。平穏というのはどうして長くは続かない。
突然豊かになった村を訝しんだお殿様が、理由を調べに家来を寄越した。
それが悲劇の始まりでした。
理由……ですか?鬼退治に理由など要らないんでしょう。昔話ですからねえ。神や鬼が本当に居る、と、誰もが疑っていなかった時代のお話ですよ。神は祀るもの。鬼は退治するもの。そういう決まりが、きっとどこかにあるんでしょうねえ。いずれにしろ、本当にその鬼が村に居たのだとしても、そのお殿様の家来が見たものが本当にその鬼だったのだとしても、そうじゃなかったのだとしても……
村には兵が押し寄せました。人心を惑わす悪鬼羅刹退治の為にお殿様が差し向けた軍です。そうです。お殿様は村人の訴える鬼の善行を信じませんでした。鬼は悪である。悪が連れて来た神もまた善である筈がなく、悪神を祀る事は許しがたい罪であると、いっそ村ごと滅ぼそうとしていたのです。
助かる道は一つしかありませんでしたが、村人たちは悩み苦しみました。鬼は間違いなく良い鬼でした。水神を祀るようになってから暮らしが豊かになった事もまた間違いがない事実だったのです。人ならざる者であったとしても、どうして恩のある相手を殺されると分かっていて差し出せましょうか?
え?ああ。はいはい。そうなんです。この部分はどこで聞いても一緒だと思いますよ。ええ、この辺りに伝わる昔話。それはもうお聞きになって来たんでしょう?この地方の豊穣祭についてお調べになられているのならそうでしょうねえ。
他所ではね、鬼の話は出て来なくて、たまたまやってきた水神によって村が豊かになった、という風に話が語られているんですな。ええ、ええ、そうでしょうな。そこへ強欲な殿様が攻めて来る。金山があると思った──なんていう話もありますねえ。いえいえ、ないですよ。むしろそんな物が本当にあったら、この村の物語に出て来る彼は落ち着く先にこの村を選ばなかったんじゃないでしょうかねえ。ああいやいや、これは私の想像ですけれどもね。
そうそう、とにかくそのお殿様が水神様を怒らせてしまったんですな。それはそうだろうと思いますよねえ。この山の泉に腰を下ろして一帯の川を治めたという事は、恩恵を受けたのは村一つである筈がないんです。暴れ川を支配し、折角静かに暮らしていたのに悪神扱いされて、祀られていた祠を壊されれば、善き神だとて怒るでしょう。祟りますよねえ、それは。正に罰当たりというやつですなあ。
荒れ狂う風雨が三日三晩も続いたそうです。突然雷が轟音を立てて落ちて来てね。崖は崩れ落ち、たちまち川は嵩を増して溢れ出し……殿様とその軍勢を吞み込んで──。
あなたのこれまで聞いて来た話だと、この辺で終わっているでしょう。だから水神様を怒らせてはいけない。毎年梅雨が来る前の祈祷祭と、秋に収穫の感謝を捧げる豊穣祭はこうして行われるようになった、と聞いて来たんじゃないですか?
ああ、お狐様ですか。はいはい。ええ、そうですねえ。私の話では狐はまだ出て来ておりませんね。
豊穣祭で水神に収穫物を奉納する役が狐なのは何故か、というお話でしたねえ。
はい。この村の言い伝えにはまだ続きがあるのです。
お殿様の軍勢が村に攻め込んで来ると、鬼は村人たちにこう言いました。
「お前たちは騙された事にしろ。俺は本当は鬼じゃない。化け狐だ。良い暮らしをしたかったから、今までお前たちを騙して貢がせていた」
そして叫びます。
「おおい!!鬼はこっちだ!!狐が化けていやがった!鬼の正体は化けた狐だ!!」
鬼よりも、化けているとはいえ狐の方が弱いと感じるでしょう?ぴょこんと人の姿から白銀の毛並みの狐に姿を変えると彼はあえて目立つように大きな尻尾を振りながら森の中に走って行き、兵士達は彼自身が叫んだ言葉を聞いて、勇んでその後を追いました。
村人たちはどうしようもなかったのです。ただ、殿様の軍勢が皆で森へ踏み込んで行って村への包囲がなくなると、彼が去り際にこっそりと残した言葉に従ってそれぞれ荷物を持って村を脱出し、殿様の軍勢とは逆の方向に山を登って行きました。
彼の残した言葉と言うのは、そうです。これから起こるであろう水神の祟りから、村人達を逃がしてくれようとしたのですよ。
「なるべく怒んないように言っとくけど……でもアイツ、キレると手ェつけらんなくなるからさ、俺が止められなかったら……ごめんな?」
豊穣祭で水神へ供物を捧げる役目が狐というのはこのあたりが曖昧に伝わった結果でしょう。
そもそも狐というのはお稲荷様のお使いですから、豊穣祭に登場しても違和感がありませんからね。
いえいえ、学者さんほどの知識はございませんよ。ただ長生きしてれば色々と見聞きする機会も増えるというだけの事で。
実際には、その後鬼──それとも狐がどうなったのかは伝わっていません。少なくとも彼が村へ戻って来る事はなく、間もなくやってきた嵐によって山はあちこち崩れて村も土砂で押し流されてしまいました。はい。この崖崩れというのは本当にあったようですよ。これももう何年前になりますか。お国の地質学だか、調査団の方々がやって来られた時に地層の下から村の跡地が一部発掘されまして。ああ、御存じでしたか。それはそうですよねえ。
はいはい。だからこの村だけ違うんです。私たちは本当に、彼によって苦しい暮らしから掬い上げてもらいながら、何のお返しも出来ないまま彼を見殺しにしてしまった──そんな後悔を抱いた村人達の、正真正銘直系の子孫なのですよ。この村の祭りは彼の為のものなのです。鎮魂……なるほど。そういう風にも見えるかもしれませんなあ。ですが違います。我々の祖先は、彼はいつか戻って来ると信じていたようです。
勿論水神様への祈りも捧げますけれどもね、水神様は我々からの感謝や謝罪などより、彼が戻って来る方が比べものにならない程嬉しいでしょう。だからもし彼が戻って来ようと思った時には迷わないよう、祭りではあの嵐の時と同じ三日三晩村中に篝火を焚いて道しるべとしているんですね。

──村に伝わる話はここまでです。
はい、何でしょう?この話にはまだ続きがある筈だ、と?
ふふ、いえいえ。流石都会から来られた学者さんは中々鋭いなと思いましただけですよ。確かに、そうですねえ。何百年もこの村は変わりませんでした。時代に沿って生活は色々と便利になりましたけれどもねえ。最近は私もスマホを持ちましたよ。都会に出て行った孫がひ孫の写真を送ってくれるんです。しかし……そういう話ではないんでしょうな。
うーん。仕方がありません。
初めにお約束もしてくださいましたしね。ここで聞いた話を外に広めないと……。ええ。よろしくお願いしますよ。彼の為になると思うからこそお話するのです。例え外から見た時にどんな話に変わってしまおうとも、どこかには真実が残されている、というのは大事な事ですよ。そう信じているからこそです。
はい。
伝わっている話がここまで、というのは本当です。これからも、このお話の結末が変わる事はないでしょう。
しかし、何百年も変わらなかった祭りの形が、最近になって少し変わったのも事実です。ああ、いえいえ、最近とはもう言えませんか。もう五十……いえ、六十年にはなりますから。あなたが生まれるよりも三十年以上も前?はあ、なるほど。それは確かにずっと前……昔というべきでしょうねえ。齢を取ると時間が過ぎるのが早すぎていけませんな。
まあ、当然ではありますが、その頃は私も若者でした。私にとってもそれは昔話だったのですよ。この村の人間は皆物心がつく前から彼と水神様の話を寝物語にして育つのですが、そこはそれ。こんな辺鄙な田舎に生まれ育っても、なんだかんだ言って現代の人間ではありますから。神や仏や悪魔や鬼……死者が祟ったり狐が化けたり、もしかしたら……と想像してぞっとする事はあっても、本当の本当にそんな事があるとは心底信じている訳じゃない。そうでしょう?そういうものです。私も村の伝統としてそのお話を引き継ぐ事を大事に思ってはいましたが、実際に鬼が居て水神様を連れて来たとか、昔の村を押し流した暴れ水は水神様が起こしたものだとか、真実にあった出来事であったとは信じておりませんでした。
まあちょっと小生意気な質でした。この村で生きていくつもりも特になくて、いつかは都会に出て行こうと思っていましたからね。はい、そうですよ。我が家は代々村長の役を任せて頂いておりますが。ですが私は三男坊でした。家は長男が継ぐ事になっておりましたし、次男も既に村の娘と結婚していました。それぞれにもう子供が生まれていましてね、何かあっても次代の心配はもうないと、それで私は気楽なものでしたから。
しかし……そうですねえ。縁、というものは確かにあるのでしょう。
偶然と言えば偶然なのですけれども、私が当時そういう質でなかったら……隣町にある高等学校まで二時間もかけて通い、その後もっと遠くの町で仕事を得ようと思ってあれこれ動き回っていた時期でなかったなら……
あの出会いはきっと有り得ませんでした。
その出会いとは何か?ですか?誰と出会ったのか。まあまあ、順番にお話ししますから。
彼は山道に倒れていたんです。そうですそうです。隣町からこの村への唯一の山間道。今はねえ、この六十年の間に随分と整備が進みまして、車でこの山を抜けて向こう側まで出る事も出来るようになっていますけれど、当時はまだ土が剥き出しの山道ですよ。車でも通れない事は無かったでしょうけれど、え?ああ、流石にもう自動車はありましたよ。誰もが持っているという程ではありませんでしたが。町までは電車も来ていましたしね。でも電話はまだ、交換所で繋いでもらう形式だった頃でしたかねえ。
そうですよ。昔は連絡一つ取るにも随分と手間と時間がかかりました。本当に便利な時代になったものです。はい。さておき、この村でその道を通るのは、殆ど私だけと言っても良い状態でした。本当に辺鄙な村でしたから、ええ。基本的に普段の生活は村の中だけで自給自足しとったんですな。郵便も来ませんよ。まあそもそも外に縁のある者というのがこの村には殆どおりませんから。一応配達の人はいたんでしょうけれどもねえ、いつもは何かあれば町の局にとっておいてもらって、村の誰かが町へ行った時にまとめて受け取ってくるなんて事をしていた訳です。ええ、ええ、そうですね。当時は勿論私がその役を任されておりました。
その日も学校の帰りに郵便局へ行き……と言っても確かその日は何も無かったような気がいたします。いつものように山道を登り始め少しすると、倒れている人があったのです。私はそりゃあもうびっくりしてねえ。慌てて駆け寄って声をかけました。
男の人でした。風体は、怪しいとしか言いようがなかったですな。当時は普段着に完全な和装というものはもう珍しくなりつつありました。まして山を登るにはあんまり不向きといいますか、ただ薄い単衣を着流しにして、足元は草履をつっかけただけ。真っ白な足に鼻緒の擦れた赤い痕や跳ねた泥汚れの跡なんかがいやに痛々しくて……印象に残っておりますな。そんなとても遠出をするような恰好には見えない姿で、頭には浅葱色の手拭いで妙にしっかりとほっかむりをしていました。助け起こしてから気が付いたのです。その布から少しはみ出していた彼の髪の毛は銀色でした。
どう見ても老人ではありませんでした。体躯はすらりと逞しく、肌は──と言っても当時の私はまだ女人に触れた事などありませんでしたから、これは後になってから得た感想でしたが──若い女子よりも瑞々しくて、シミ一つない真っ新さで。透けるような白でした。
そして声を掛けるとうっすらと開いて私を見上げた目……。その瞬間の事を一体どう伝えたら良いのか、私は半世紀経ってもまだわからないのです。それは美しい赤色でした。山道の木漏れ日がゆらゆらと落ちるのです。きらきらと、祭りの日のりんご飴のように潤んだような艶やかさを纏った瞳の中に。
私は見惚れてしまって。
はいはい。結論から言いますと、彼はただ空腹で倒れていただけだったらしいのですが。偶々その日、家族に土産をやろうと思ってね。町で買って来た大福を持っていました。渡すとそりゃもう嬉しそうな顔をしてぺろりと平らげていましたね。
……もうお察しですか?ええ。けれどもその時の私はまだ分かっていませんでした。気が付いたのはその人を連れて帰った後になってからです。勿論歓迎しましたよ。そりゃあねえ。村に伝わるお話からすれば、物語の"彼"と同じ特徴を持つ彼を無碍に扱う事などありえません。
お風呂を勧めてお食事を用意しましてね。お客人というのがもう珍しいですから。村の人間も次々様子を見に来ましたねえ。今思うと、皆何か感じるところがあったのでしょう。口々に彼を歓迎する言葉をかけて行って、彼は、どこかほっとしたような顔をしていましたっけ。
写真……ですか?いいえ、残念ですがそういうものはないんですよ。いえいえ、何しろ大昔の、それもこんな田舎での話ですから。写真機なんてなかったですよ。今ならこうして手元で誰でも簡単に記録を残す事が出来ますけれどねえ。
私はもう彼の事が気になってしかたありませんでした。すっかり魅せられてしまっていたんですねえ。一目惚れというのはああいう事なのでしょう。ああ、あなたにもそういう経験がおありですか。ええ、本当に。彼に見つめられるだけでまるで天にも昇るような心地でした。彼が微笑むと私も嬉しくなって、もっと笑って欲しくて。
私が結局こうしてずっとこの村で暮らしているのはだからなんですよ。彼の側で生きていたいと思って。それが私の初恋だったのです。そしてずっと恋をし続けているんですなあ。いや、こんな齢になってこんな話を他所の方にするのはお恥ずかしいのですが、はは、すみませんねえ。きっと本当は私、誰かに聞いて欲しかったのかもしれません。

おや、雨が降って来ましたね。祭りは大丈夫かって?大丈夫ですよ。山の天気は変わりやすい物ですから、これくらいの雨はよくある事です。すぐに止みましょう。
ああでも、もうこんな時間ですか。もうすぐ日が暮れますね。はいはい。日が暮れてからですよ。雨が上がれば、太陽があの山の稜線を橙色に輝かせて沈んで行く絶景をご覧いただけるのですが、どうでしょうかねえ。その後はすぐに暗くなります。そうしたら、来る時にご覧になったと思いますが、広場に組んだ舞台で奉納舞が始まりますよ。
神社?ああ、この村には無いんですよ。あの泉の畔の御社が本殿ですからねえ。お参りするなら我々が出向くのが筋というものでしょうから。まあ実際には、あの水神様は人間に近付かれるのを好みませんので、麓の参道の入り口にね、鳥居がありまして。そちらはもうご挨拶に行かれましたか?まだ?でしたら早めに行かれた方が良いですよ。礼を尽くす者を無碍にはされない方ですから。
ええと、話の続きでしたね。舞を見物されるのでしたら急がないといけませんな。ああ、よろしければご案内しながらお話しましょうか。広場はすぐそこですが、私も行って関係者席にあなたのお席も用意させましょう。ええ、ええ。そうです。最近はSNSというんですか?動画で知った方が多く来られるようになりまして。ものすごい人だかりになりますよ。折角ですからねえ。是非近くでご覧になっていってください。
はい。傘をどうぞ。足元気を付けてくださいねえ。
それで……そう。そうです。彼がやって来た時にも、暫くすると雨が降り始めたんです。あれは、冬が終わった頃でした。ああ、だから余計に彼の薄着に違和感があったんですよねえ。梅の花はもう咲いていましたが、桜はまだでした。
冷たい雨がしとしとと……その時の雨は止まなかった。すぐどころじゃなくってねえ。それからずうっと、夜が明けても、次の日も。山の上にはずっと雲が覆って。はい、はい。そうなんです。あのお話でお殿様と家来たちを呑み込んだ濁流が収まった後、この地方で川が氾濫した記録はありません。危ない事は何度かあったようですけれどもね。
その時は豪雨という訳ではありませんでしたので、心配する者はあまりおりませんでした。ただ彼だけが、憂鬱そうに山の方を見上げては溜息を吐いておりました。
はい。彼は最初から、この村を目指してやってきたと言っていました。昔この辺に住んでいて、訳があって長く留守にしていたけれど、出来ればまた近くにすみたくて戻って来たのだと。
はい?はいはい。勿論大歓迎でしたよ。不思議ですか?いえいえ。この村は別に閉鎖的という訳では全くございませんですよ。ほら、この様子を見て頂ければ一目瞭然かと思うのですが。やはりお祭りは賑やかな方が良いですからねえ。
移住希望の方もいつでも受け入れておりますよ。それはもう。
実際に私が覚えている限りでも、何度かはそういうお話があったのですよ。何もありませんが、何もないのが良いところでしょう?家を新しく建てようとした方もいらっしゃいましたねえ。ところが、いつも直前になってお止めになってしまうんですよ。まあ、代わりに、と言っては何ですが、不思議と出て行く者もいませんのでね。幸いにも昨今問題になっております過疎化、などという現象とはなんとか無縁でいられておりますが。
さて、とは言えすぐには住む場所もありませんから。暫くは我が家の離れをどうぞお使いくださいと、そういう事になった訳です。
彼はありがたいと頭を下げながらも、随分と所在なさげにしておりました。皆お客人は座ってらしてと言うんですけれども、どうにも落ち着かないと言ってね。何か手伝う事はないかとあちこち声を掛けて回ろうとする彼に、村の中を案内する役は私が申し出たんです。
はい。それでね、その間もずっと雨が降っている。
しとしと、しとしと。
流石に四日もすると村の人間も訝し気に空を見上げるようになりましたかね。そして一週間目の朝でした。まだ暗い内ですよ。どどおん、と大きな音がしましてね。皆飛び起きて外に出ました。山のどこかで地滑りが起きたんですな。ああこりゃまずいなと。やっと私らも危機感をもった訳です。とにかく避難の準備をしようってねえ。女手が身の周りの物をまとめはじめました。男衆の方は土嚢運びですわ。それから誰かが水神様の祠を見にいかにゃならんと言い出しまして。当時の長老連中の一人ですよ。流石に村が出来た頃から生きてるって訳にはまいりませんが、その父、あるいはその父はあのお話の登場人物の一人であったでしょう。そう思うと、昔話というのも案外そう遠くない時代の出来事なのだと思いますねえ。いえ、人に身にはやはり少々長すぎる時間ではありますが。
ああ、ええと。いけませんね、つい話が逸れてしまって。
彼はずっと何かを考え込んでいました。その前日の事です。私は彼と少しでも長く話していたくてねえ。どうぞどうぞとお酒を勧めまして。毎晩晩酌に付き合っていたんですよ。彼はお酒が好きな質でして。遠慮しながらも遠慮なく……はは、そうですな。不思議な人でした。目を離すとふっと消えてしまいそうに儚げなのに、同時に逞しくそびえる大樹のような瑞々しい存在感を感じもする。気さくで、物言いは時にずけずけと遠慮がないようであるのに、その言葉はやわらかくこちらの手の平に落ちてくる花びらのような……。受け取りやすくてね。話をしていると楽しくて、いつまでもそうしていたいと思うのです。
そうです。容姿だけではなくて。彼は本当に魅力的な人でした。
その彼が、村の昔話を詳しく知りたいと私に言ったのです。どういう風に伝わっているのか教えてくれと。
ですので私は家に伝わっている古文書なんかも全部蔵から引っ張り出して来てね、と言っても大した量ではないですよ。え?ええ、ええ。構いませんよ。はい。明日。またいらして下さったらお見せできるように準備しておきましょう。
「やっぱり……怒ってると思う?」
私が昔話を語り終えた時、彼はそう言いました。
「誰の事?」
私が聞き返しますと、彼は困ったように笑います。
……その、水神様とかいうやつ……
私は少し考えてから答えました。まあ怒ってはいると思いますよね。でもそれ以上に、寂しがっているのじゃないかと言いましたら、彼はまた雨の降る空を見上げて、「……そっか。だよなあ……」と。
それでその朝です。彼は自分が水神の祠を見に行くと言いました。
はあ。そうですねえ。そうなんです。本当に、もうずっと昔の事ですからなあ。一目で心を奪われてしまったあの瞬間の事は忘れられませんが、全てをビデオのように鮮明に、とは中々いきません。でも、それだけは確かです。心配して止めようとする村の人間を宥め、彼は一人で山へと向かいました。恐らくその時には、我々の殆どがそれがどういうことなのか。彼が何者であるのかということに気付いていたと思います。年寄連中はひれ伏しましたよ。濡れた地面に膝をつき、額を擦りつけてねえ。私自身がどうだったかは……いえ、ただ見惚れていたんですな。空を見上げる彼の横顔に。誰かを愛おしげに思うその瞳に。
その日の夕暮れは、そりゃあうつくしいものでした。いつもに輪をかけて。世界そのものが輝きだしたんじゃないかっていうくらいに。雨は、彼が行って暫くすると止んでいました。無事に会えたのだと分かりましたよ。はい。そうなんです。あなたがお察しの通り、彼こそがあのお話の鬼……いいえ。我々が勝手にそう呼んだだけなんですな。彼の人は豊穣の神、九尾の狐。我々の為にその力でこの土地に実りをもたらし、その身を挺して我らを護って下さった大恩ある方であったのです。
そして……これはねえ、どこにも語られている事ではないのですけれど、水神様とあの方は恋仲の……、番の神様であられたのですな。いえいえ。そりゃああなた、分かりますとも。彼のあの顔を見ればねえ。初めて恋をしたばかりののぼせあがった小僧でも、何故かその相手に会いに行くのを躊躇っているらしいその人の背を自分が押してあげなければと思う程でした。
はい?羨ましくならなかったか、ですか?いえいえ、まさか。だから私はねえ、見惚れていただけなんですよ。何百年の時を経てなお愛おしい気持ちが尽きぬ相手にやっと会えるという喜びと、相手はどうだろうかと──ふふ。可愛らしい人ですよねえ。待たせすぎて相手が自分を好きじゃなくなっていたらどうしよう、だなんて不安でいらしたんですよ。それをまだ何の道理も分かっていない小僧相手に、真剣にお聞きになられるんです。邪魔をしようだなんて思いもしませんよ。
彼はそれからどうなったのか?
それはねえ、この舞を見て頂ければきっとお分かりになるんじゃないでしょうか。
ああほら。丁度雨も上がりましたよ。さあお席はこちらです。どうぞお座りになってください。




始まりは一枚の写真だった。
大昔の白黒写真。縁はボロボロに擦れ、白い縁は黄色に変色していた。
写っていたのは、とても……とてもきれいな人だった。鮮明とは絶対に言えない、スマホで撮った写真なんかとはまるで比べようもない程画質の粗い画像の中でもその美しさは褪せていなかった。
真っ白な肌。真っ白な髪。真っ白な着物に身を包み、脇息に凭れてこちらを物憂げにみやる眼差しを縁取る睫毛も真っ白で。まるでこの世のものとは思えないほど不思議な雰囲気を写真の中から漂わせる人。
僕の心は一瞬で奪われてしまった。
小学生に上がったばかりの頃だった。その夏。
僕はその写真を、父の実家にある古い蔵の中で見つけた。
父の実家は、曾祖父の代までは所謂名家と呼ばれる家系だったらしい。江戸時代には庄屋として地域の取りまとめ役を務め、明治維新後も大地主として地方の有力者で在り続けながら、他にも色々な商売を手広くやっていたとか。
残念ながら、その曾祖父が第二次世界大戦後の高度経済成長期の中で何か失敗してしまったらしく、膨大な資産はほとんどが失われ、祖父の代になる頃にはいくつも持っていた会社の権利も殆どが人手に渡って、さらにその子である僕の父には何も引き継がれなかったのだけれど。
それでも歴史のある実家の家屋だけは残っていて、それはとても立派なお屋敷だったのだ。住んでいるのは祖父の兄と、僕の父の兄であるおじさんの家族。祖父の兄は酷く病弱な人らしくて部屋から出て来ず、顔を合わせる事はなかったが、おじさん夫婦は子に恵まれなかったらしく、弟の子である僕を随分と可愛がってくれていた。
そう。その家で。
その時の僕は何も知らなかったのだ。六つの子供に分かるはずもなかった。
その写真の彼が座っていた場所というのが所謂座敷牢と呼ばれる場所の格子の中であった事、その格子には複雑な紋様が絵が描かれた札が何重にもなって貼り付けられていた事。その座敷牢はまさにその蔵の奥にある隠し扉の奥に今も存在していた事。
僕は何も考えず、ただその人の事を知りたくて、その写真を先ず父に見せた。父の実家にあったものであるのだから、父なら何か知っているだろうと考えるのは当然の事だったと思う。
しかし父は何も知らないと言って、僕から写真をとりあげた。
僕は納得がいかなかったけれど、それが大事な写真で、父の実家とは言え人の家の物を勝手にあれこれひっかきまわしてはいけないと叱られてしまえばどうしようもなかった。
多分その時の父は、子供の興味なんてすぐに薄れてしまうと思ったのだろう。
でも僕は諦められなかった。写真のあの人のまなざしが瞼の裏に焼き付いて。
僕はこっそり、その写真をもう一度手に入れたんだ。父が元の場所に写真を戻した事は分かっていた。ちょっと後ろめたさはあった。でも、どうしても欲しかった。
お屋敷から家に帰った後も、僕は毎日その写真を眺めて過ごした。見れば見る程僕はその人が好きになって、その人の事を知りたい気持ちはどんどん大きくなるばかりだった。勿論、いくら子供だってちゃんと分かってはいた。そんな古い写真に写っている人が、今も同じ姿でいる筈ないって事。もしかしたらもう生きてもいないかもしれない。でもそれでも。
それでもその人がどんな人だったのか。一体誰なのか。なんていう人なのか。知りたい気持ちは少しもなくならなかった。

結論から言えば、僕は最終的にその人が誰なのか知った。僕の家の秘密を知った。
父の実家に行く度にこっそりと屋敷中を探検して回り、それとなく家族の来歴を聞いてみたりしながら……。なんと六年もかけて自分なりに導き出した推論をまとめ、今度は父ではなく今もあの家に住む父の兄へそれを突き付けたのである。父の兄は顔を真っ青にしたが、それでももう誤魔化しの通用する段階ではないと分かってくれたんだろう。
全てを話してくれた。その内容は衝撃的だった。
彼は……彼の名前は坂田銀時。人間の姿をしているけれど、人間じゃない。その正体は妖怪。九尾の白狐。僕の家は、彼の力で栄えていたというのだ。
それは江戸時代の初めの頃まで遡る話だという。その頃僕の祖先はある地方で、その地方の殿様に仕えるまだ一介の下級兵士だったらしい。
その地方にはよく氾濫する川があって、毎年沢山の人が犠牲になっていた。その原因は、山を根城とする大大蛇の所為だと言われていて、ある年に、殿様はその原因である大大蛇の退治を決意する。そして大勢の兵を率いて山へと乗り込んだのだけれど、大蛇の力は強く苦戦を強いられた。その戦いの最中、僕の先祖は山中で傷ついていた一匹の狐と出会ったんだ。それが彼ということになる。
狐が言うには、大蛇は暴君で、苦しんでいたのは人間達だけじゃなく、山に棲む獣や他の妖怪たちもそうだったらしい。
人間に傷の手当てをされた狐は人間は手を組むことになった。
そして殿様の軍勢は見事に大蛇を打倒した訳だけれども、大蛇の暴虐から救われた狐は僕の先祖に恩義を感じて、僕の家に加護をくれる事になった。それは豊穣の力で、その加護を受けた我が家はどんどん大きくなっていった。
これが僕の家が没落する前……つまり曾祖父の代まで、代々語り継がれて来た我が家の来歴だ。
ところが、これはあくまで表向きの歴史に過ぎないという。
実際には、僕の祖先は狐を無理矢理支配したそうだ。つまり彼を。妖怪封じの結界を張った牢に彼を閉じ込め、枷で繋いで。彼の実在は代々の当主となる男子にだけ明かされる事になっていた。それで何百年も僕の家は繁栄していた。
ところが、祖父の代になって事件が起こった。曾祖父の跡を継ぐはずだった長男……祖父の兄が、狐を逃がしてしまったのである。何が起こったのか、本当のところは分からないらしい。当時の人間で生きているのは一番の当事者である祖父の兄だけであるが、祖父の兄は実は病弱なんかではなく、完全に狂ってしまって話も出来ない状態なのだという。
狂った兄に替わって急に跡を継ぐ事になった祖父は真実を知って怯えたそうだ。狐の祟りだと思ったんだろう。明らかに加護を失った結果だった。どう頑張っても傾いて行く身代。取引先には次々と手をきられ、所有している土地では不幸が相次ぐ。
祖父は何人もの祈祷師を招いて、狐の祟りを鎮めようとしたそうだが……。結局、財産の殆どを失い、心労からか早くに病没した。その子である僕の父とその兄は祖父から真実を聞かされていて、狐への謝罪の祈祷を引き継ぐように、と言い遺されていたそうだ。
だから──、と、父の兄は僕に言い聞かせた。
彼に興味を持ってはいけない。いずれ必要な時が来たら話そうとは思っていたが、僕のような興味の持ち方をしてはいけないのだと。
それは祖父の兄と同じ道を辿る事になる──。そう言われた。
祖父が生前、回顧していた事があるらしい。その兄が完全に狂ってしまう前、何かに取りつかれたようだった時期がある、と。だから忘れなさい。狐の事を、彼の事を考えるのは止めなさい。

……だけどそんな事を言われても、僕は諦められなかった。
というよりも、彼が人間ではないと知って、むしろ希望すら湧いた。だってそうだろう。人であったなら、彼は老人か既に鬼籍の人だった。だけど不老のあやかしなのだ。この世界のどこかにまだ、あの美しい人が……!!
それはいっそ歓喜だったかもしれない。
父も、父の兄も、祖父の兄が狂ったのは狐の祟りだと思って恐れていたようだけれど、僕は怖くなかった。こっそり会いに行ったんだ。祖父の兄に。そうしたら分かってしまった。祖父の兄は、僕と同じだ。僕と同じ、彼に魅了された男。
でも、僕と違うのは、彼を追いかけなかった事だ。
祖父の兄に何があってどうして彼を失う事になったのかは知らないけれど、望んで彼を解放した訳じゃない事だけは確かだった。布団に横たわり虚空を見つめる男は、ただうわごとのように繰り返していた。どうして。どうして。何故行ってしまったの。
追いかければ良いのに、とただ僕は思った。それともどうしてもそう出来ない理由があったのだろうか。壊れた大伯父からは答えを聞く事が出来なかったけれど。
僕は彼の行方を探す事にした。
とは言え、簡単にいかない事も分かってはいた。ただの人間を探すのとは訳が違う。どこに居るのか、どんな風に暮らしているのかも知らない。そもそも妖怪だとか神だとか、今の時代その存在を信じている人間が一体どれほどいるだろう?僕だってその時までそんなもの信じてなかった。ファンタジーだと思ってた。でも、"居る"、と──彼が"そう"なのだと言われれば、それはあっさり成程と思えた。そうだ。あんなに美しい人が、ただの人間の筈はない。なんて素敵なんだろうと思った。僕の初恋の人は物凄く特別な存在だった。そうすると、僕の初恋そのものが、ものすごく特別なものに思えた。その為ならどんな苦労だって出来る。そういう風に思えたんだ。
それからの僕は、それこそとりつかれたように彼の行方を知る事に夢中になった。でも僕は大伯父さんとは違って、本当に頭がおかしくなった訳じゃない。父ははじめ心配そうにはしていたけれど、少なくとも僕が普通に会話が通じ、普通に学校に通って、普通に成長していく姿を見てやがて何も言わなくなった。僕は中学を卒業し、高校生になり、そしてこの国で一番良い大学の、史跡や民俗学について学べる学部へ進学した。

そう。そして僕はついに……
ついに辿り着いた筈だった。


僕は呆然と、祭りの熱気で賑やかしい空気の中をふらふらと歩いていた。
沢山の研究をした。僕の家系の歴史を辿り、仕えていたという殿様の領地だった地の史跡を巡り、伝承を調べて回った。どんな小さなヒントも見逃すまいと、沢山の本を読んで、資料を探して。やっとここだと思ったんだ。水神信仰の盛んな、有名な暴れ川が走る土地。その中でぽつんと、周辺と明らかに形式を異なる祭りを受け継いでいる村。
聞きつけた話は、僕の家の話とは少し違っていたけれど、昔話と言うのは得てしてそうした物なのだ。必ずしも事実をそのまま伝えている訳じゃなく、語りたい事を語る為に作られている部分も大きい。それでもその中に真実がゼロという事はない。伝えられてきたという事は、何かしらきっかけになる出来事はあった筈なのだ。
例えば、この辺りに伝わる伝承を集めて突き合わせてみると、あの山から流れる川が酷い暴れ川で、過去に何度も氾濫した事は事実なのだろうと分かる。またそれは地質データなどからも保証する事が出来、更に言えば現存している資料をあたれば、どの時代でもこの辺りでは河川工事にかなりの資金と人的資源が投資されている事がわかる。この暴れ川に領主が手を焼いていたのも事実だろう。
と言う事は、人ならざるものの存在が本当に”在る”と確信してその情報を読み解いた時、この地を脅かす荒ぶる水神と領主の間で戦いがあった事もまた確実に起こった出来事であり、逆にそこから、周辺で行われている水神に関する祭りの全てで何かしら狐のモチーフが使われている事を考えると、その戦いに狐が少なからず関わっていた事が確かな事実として浮かび上がって来るのである。
僕の家の来歴が指し示す土地。水神との戦い。そして狐。そんな関連が結びつくのはこの村だけだった。
彼が居たのはここに違いない。
そして、彼はここへ戻って来た筈だと僕を確信させたのは、半世紀前──丁度僕の家から彼がいなくなってしまった少し後の頃を境に、この村で行われている祭りの様子がガラリと変わったという事だ。
それまでこの村で夏の終わりに行われていた祭りというのは、三日三晩篝火を焚き続けながら、村人たちだけで静かな祈りを捧げるというような、どちらかといえば厳かな儀式然としていたものだったらしい。ところが今この村で毎年開かれている祭りは、奉納舞から始まって一晩中次々と舞台の上で賑やかな催し物が続き、広場に設えられた舞台の周りには沢山の屋台が出て、近隣からも沢山の見物客がやってくる。
何かがある、と、思うのは当然だろう。
だから僕はやってきた。
更なる彼への手がかりを得る為。あわよくばこの場で彼と会えはしまいかと──。

それなのに、村長という老人の話は僕の期待していたものとは全くかけ離れていた。
彼は確かにここへ戻って来た──……そこまでは、良かった。

ふらふらと歩いていると、どん、と誰かとぶつかった。浴衣姿のその人が持っていたものがぽろりと地面に落ちる。僕は慌ててその狐面を拾い上げて持ち主に返した。近隣の村から来たのだろうか。鮮やかな色をした浴衣の女性客は訝し気な顔をしながら去っていく。多分、僕は酷い顔をしているんだろう。
幾つも並んで吊り下げられた提灯の光の下で、沢山の狐の面が行き交っている。
そして同じくらいに、水神──僕の家では大大蛇と伝えられていたその水妖を模した面も。
なんだか睨まれているような気がして、僕はまた足元に視線を落とす。

思っても、みなかった。
大蛇と彼……九尾の白狐が恋人同士であったなんて。
祭りのはじまりに捧げられた舞は、その二人の物語をあらわすものだった。愛し合っていたのに引き裂かれ、遠い地にそれぞれ縛り付けられた長い時を互いを想って耐え忍び、やがて再び結ばれて穏やかな暮らしを始めるまでの。
舞そのものの話をするなら、とても素晴らしいものだった。専門家じゃない僕には技術的な良し悪しはわからないけれど、劇のように言葉もない、歌もない静かな舞なのに、彼らの悲痛が伝わって来るようで、胸が苦しくなって、思わず涙が出る程に。
考えてみれば、水神と豊穣の神なのだ。寄り添っていて何も不思議な事はない。村長の話を聞いてしまえば、真実を疑う事なんてもう出来やしなかった。
いや、本当は、頭のどこかではとっくに分かっていたと思う。彼を追い、この村や伝承を調べれば調べる程。
僕の先祖はとんでもない事をやらかしたんじゃないかって事。僕の望みは叶わないんじゃないかって事。不安がどんどん募ってた。
でも。
それなら、でも。
僕のこの想いは一体どうなるのだろう。どこへ行けばいいのだろう。
僕は彼の事が好きだ。好きなんだ。はじまりはたった一枚の写真。結局今になるまで、彼の姿はそれしか知らない。それなのに、でも、ずっと忘れられない。あの眼差しに見つめられたい。あの白に、触れたい。
何をしてでも手に入れたいと思う。
この想いの強さは負けないと思う。思いたいんだ。
老人の話がもどかしかった。老人もまた、僕と同じように彼に恋をしていた。でも、どうして諦められるんだろう。僕には分からない。
諦めるなんて嫌だ。僕は彼らとは違う。自分の力でここまで来た。ここまできたのに。やっと来たのに。
彼の為に、僕は……

僕はふと思いついて足を止めた。
そうだ。
いっそ、攫ってしまうというのはどうだろうか。
一度は出来たのだから、もう一度出来ないという事はないだろう。それがどんなに困難な事であろうと、彼の為なら僕はどんな苦労でもする覚悟がある。
そうだ。そうすればいい。きっと大伯父が失敗したのは、その覚悟が足りなかった所為だ。彼を捕まえて置かなかった。追いかけなかった。愛が足りなかったからだ。水神よりもずっと僕が彼を愛してあげれば、彼だってきっと応えてくれる。
先ずはこの村に住むのがいいかもしれない。
足掛かりを作ろう。彼と繋がりを持ち、邪魔なのは水神だ。どうにかして弱らせられたら──


……そこの、人間」


その時だった。
この村へ移住する相談をしようと、僕が村長の下へ引き返そうとくるりと振り返った時。瞬間。
聞こえた男の声と共に、ぞ……っ、と、辺り一面の空気が凍てついた。ような錯覚をした。否、実際に半袖の腕にぷつぷつと鳥肌が浮く。耳の奥がキンとした。息を吐く。真っ白だった。
僕は慌てて顔を上げる。真っ暗だった。さっきまで、そこかしこに吊り下げられていた提灯も、篝火の焚かれていた舞台も消え失せて。誰も居ない。賑やかに行き交っていた祭りの客たちも、村人も。
ただ男が立っていた。
誰。
聞こうとしたけれど、僕の唇は僅かに震えただけだった。喉が引き攣って声が出ない。ああ、僕は今、恐怖しているのだと後から理解が追い付いて来る。
恐ろしい程美しい男だった。暗闇なのに何故か、よく見える。漆黒に紫の光沢のある艶やかな髪が包む整った輪郭線。それぞれが一流の職人が仕上げた彫刻のような顔のパーツ、その配置。すっと通った鼻梁と凛々しい眉。薄目の唇。そして薄らと紅のひかれた切れ長の眼。その緑色の瞳から放たれる冷たすぎる眼光。それだけで人を殺せそうな鋭さで。
気付くと僕の奥歯はカチカチと小さな音を立てていた。
男の着物の裾からぞろりと伸びた長い尾に、艶めかしい程のち密さで生えそろった鱗を見るまでもなく分かった。
人間じゃない。
敵わない。
逆らっちゃいけない。
何かを考える前にそう思っていた。
男はそんな僕を見て、薄い唇を微かに歪めて嗤う。
「なあ……二度目は無いぜ……。絶対にな。俺は二度と、今度こそ何があろうとも、アイツを決して離さない。その為の力は手に入れたんだ……本当なら、お前たちにも報復を加えても良かった……あァ。喜ばせちまうかもしれねえと思って言わないつもりだったが、感謝もしらねェ人間には教えてやったほうが良いのかもしれねェな。てめェらが今生きてられンのは、アイツの温情だって事を理解しな。てめェらの為じゃねェ。俺に無駄な殺しをさせない為だぜ?俺ァ別に、今更一人二人、人間の家の一つや二つ、消えたところでいたくもかゆくもねェんだが。なァ?折角見逃してやってたのに、そっちからのこのこやって来やがったんだ。文句は言わせねェさ。だが俺も、なにも死神って訳じゃねェ。てめェがこのまま、この地を立ち去り、二度と踏み入らぬと誓うなら──そしてアイツの事を二度と思い出さないと約束するなら、お前ひとりくらい、無事に家に帰してやってもいい……。どうする?」
僕は。

僕はがくりと膝を着いた。
男の声が、まるで耳元で囁かれているかのように聞こえる。
「誓うか」
僕は必死になって頷いていた。
「ち、ちかい、ます」
すると次の瞬間には、僕はざわざわとした賑わいの中へ戻って来ていた。男の姿は影も形もなく、じっとりと冷え切った肌を夏の夜風が温めて行く。地面に崩れ落ちた僕を、皆が訝し気な目で見下ろして避けて行った。
僕はよろよろと立ち上がり、村の出口へ歩き出した。
分かった。
あの神には僕なんかじゃ勝てない。
そういう事か。
大伯父はきっと、あの神の怒りの一端に触れてしまったのだろう。彼が逃げ出して、それまであった制約がなくなったから。本当は殺しても良かったと、なんでもない事のようにあの神は言った。大伯父だけじゃない。その家族全部。その弟である僕の祖父も、その子である父も。それは僕が生まれてこなかった世界。そしてそれは、今からでもあの神さえその気になれば、たった一瞬で終わる事なのだ。
勝てない。
勝てる訳がなかった。
彼を縛り付ける力さえ、あの神の方が必ず強いのだ。

ふいに胸元に熱さを感じ、慌てて僕はシャツの胸ポケットからそれをひっぱりだした。
あの日からずっと、大事に大事に持ち歩いていた彼の写真が──燃えて行く。
赤い火がメラメラと紙片を端から焼き尽くし、彼の姿を消して行く。
あの眼差しが見えなくなる。
僕は永遠に、彼の幻さえも失ってしまった。
さらりと風に流れてゆく灰に、僕が一目で良いから見たいと願った彼の瞳の色さえ知る術はない。