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薫風相逢
――初夏の風に吹かれ、再び君に逢う。
謝憐と紅衣の公子。添い遂げて間もなくの花怜。
※蝶梦(原作新修版、ラジドラ)、番外編の内容を含みます
※設定はほぼ創作と妄想でできています
1
2
(
…………
ここは?)
涼やかな初夏の風。眩しいほどの陽の光。湿った土と草の匂い。
目を眇めて辺りを見回すが、見覚えがあるような、知らないような、不思議な場所だった。
どこかの大きな街の外れのようで、高くそびえる城壁の向こうは見ることができない。ゆく人の姿もまばらで、きょろきょろと辺りを見回す明らかに不審な道士を、誰も気に留めていないようだ。
(困ったな
……
まずは状況を把握しないと
……
)
「
――
哥哥?」
次第に近づいてくる軽やかな蹄の音に、聞き覚えのある声が混じった。
(
……
ん? この声は
……
)
「哥哥! ははっ! やっぱり道長哥哥だ!」
「三郎!?」
この呼び方をするのは、“花城”ではない。“紅衣の公子”の三郎だ。
ということは、ここは須黎国? どの時期に入り込んでしまったのだろう?
……
白錦は? 霊文は?
手綱を強く引いて馬を停めた三郎は、ひらりと軽やかな動作で謝憐の前に降り立った。
「
……
」
おかしなことを言って不審がられては都合が悪い。笑顔を貼り付けて押し黙っていると、そんなことは知る由もない三郎が、先に口を開いた。
「久しぶりだ。元気そうでよかった」
「うん、おかげさまでね。君も変わりなくて安心したよ」
「まあね。でも、哥哥も水臭いな。戻ってきてたなら顔出してくれればよかったのに」
「
……
あ、ああ
……
ごめん」
「しばらく忙しいって言ってたけど、もういいの?」
(
……
そういう設定なのか。なら話を合わせておいた方がいいな)
「うん、そう。やっと落ち着いてね。
……
君に会いに来たんだ」
「本当?」
星の煌めくような双眸が、ますます輝いた。相変わらず、この少年は感情が素直に顔に出るようだ。
「もちろん。君の行きたいところに行って、好きなことをしよう」
「
……
一緒に?」
「ああ、一緒に」
ここにいる理由も、戻るための条件もわからないまま、無闇に動くのは得策ではない。なにかを改変してしまえば、現実に影響を及ぼしかねないからだ。
それに
――
この“三郎”が“花城”ではないのなら、この夢の鍵は彼に違いない。なら、一緒にいるべきだろう。
「ここのところ雨続きで、ずっと外に出られなかったんだけど、やっと晴れたからさ。こいつ、機嫌悪いと暴れるし、俺も身体が鈍ってたし。で、ちょっと遠くまで走らせてたら、偶然あなたを見つけたってわけ。ふふっ、今日はついてる」
(
……
“三郎”の強運は元からだけどな)
言葉には出さず、腰を屈めて馬の鼻先に顔を寄せる。
「そう。それはよかった。
……
久しぶりだ、いい子にしてたかい?」
艶やかな漆黒の毛並みをそっと撫でる。身体を揺らし、ぶる、と鼻を鳴らす様子は、まるで喜んでいるかのようだ。
「哥哥、あんまり触らないで。こいつは気難しいじゃじゃ馬なんだ。気性も荒いし、俺以外には懐かない」
「大丈夫だ。動物には好かれる方だし。
……
そういえば、名前は?」
彼はいつも「お前」とか「こいつ」などと呼ぶばかりで、愛称らしきものを耳にしたことはなかったのだ。だが三郎はきょとんとした顔をして、わずかに小首をかしげるばかり。
「ないよ。俺しか乗らないのに、名が必要?」
「名で呼べば愛着がわくだろう?」
「そうかな? じゃあ、哥哥が付けてやってよ」
「私が?
……
うん、そうだなあ
……
」
艶やかで輝くような毛並みは、手ずからまめに世話をしている証だ。それに、彼との相性もよく、良好な信頼関係を築いているようだ。以前もそうだったが、この“三郎”は帯刀していない。どこへ行くにもこの青毛の馬が一緒で、相棒のような存在なのだろう。それに、磨き抜かれた黒曜石のようだと思っていた両眼は、明るい陽光の下では紅玉のような深い赤に見える。
――
それならば。
「
……
『厄命』」
「厄命?
……
うん、いいね。お前は今から“厄命”だ。わかったな?」
厄命は撫でる三郎の手に自ら顔を寄せ、再び鼻を鳴らして喜んだ。
「そういえば、今日は君ひとりなのかい? 護衛は?」
「いないよ。最近は
奴ら
・・
もほとんど出なくなったから、そんなに危険じゃないし。狩りのとき以外はひとりで
……
ああ、厄命と一緒にぶらぶらしてる」
片手で器用に手綱を引きながら、風になびく鬣を撫でる。厄命は力強く駆けながら、機嫌がよさそうに
嘶
いなな
いた。
帰ってきた
家
極楽坊
は、あのときとまったく変わっていなかった。家僕が門を開け、三郎に馬から降ろされて手を引かれる。
「行こう」
鹿革の分厚い手袋越しでも、繋いだ手の温かさが感じられる。この“夢の中”で、彼は確かに“生きて”いるのだ。
「まずは食事だ。腹は減ってる?」
「うん」
食堂に入ると、既に支度ができていた。大きな卓の上には、ふたりでは到底食べきれないほどの大皿が所狭しと並び、温かそうな湯気を上げている。以前、謝憐が酒は嗜まないと言ったことを覚えていたのか、卓の上に酒器はなく、ふたりの前にあるのは、小さな茶杯だけだ。
「どうぞ」
「うん。じゃ、いただきます」
卓の向かいで彼が茶杯を持ち上げるのを視界に入れながら、
蒸籠
せいろ
から饅頭を取り、ちぎって口に運ぶ。自分が思っていた以上に空腹だったようだ。どれも謝憐の好む料理や味付けのものばかりで、つい箸が進んでしまった。
せっせと手と口を動かしていると、頬杖をついてじっとこちらを見る三郎と目が合った。
「おいしい?」
「
…………
うん」
「そう。ならよかった。好きなだけ食べてよ」
「
……
私なんか見てないで、君も食べたらどうだ?」
まっさらな取り皿に、いくつかの料理を少しずつ取り分けて三郎の前に置くと、彼は「ありがとう」と言ってようやく箸を手に取った。夢中で食べているところを見られていた恥ずかしさが、今になってじわじわとこみ上げてくる。それを振り払うように咳払いをして、話題を変えた。
「そういえば、三郎。
奴ら
・・
はほとんど出なくなったって言ってたけど
……
まったくいなくなったわけじゃないんだな?」
そう言うと、三郎は料理をつつきながら顔を
顰
しか
めた。
「そうだよ。
……
忌々しい、一匹二匹ならなんとかなるけど、数が多いとね
……
。ああ、そういえば哥哥の呪符はすごかったよね。ねえ、あれは俺も使える?」
三郎は目を輝かせながら、ずいと卓に乗り出す。行儀が悪いよ、と
窘
たしな
めてから、少し迷って口を開いた。
「使える
……
けど、あれは私が自分で書いて作ったものだから、威力が増すんだ」
「自分で書く
……
」
それを聞いて、三郎はまたしても顔を顰めた。さっきは目を輝かせたのに、今はこの顔だ。くるくると移り変わる表情は見ていて楽しく、思わず笑みがこぼれる。
「よし、次にやることは決まったな。これでも字を書くのはわりと得意なんだ、教えてあげよう。
……
まずは正しい筆の持ち方から」
「
………………
好」
◇
「ほら。背筋はしゃんと伸ばして。筆の持ち方はこう。
……
力を入れないで。うまく動かせないだろう?」
「
……
ん」
こわばっている背をそっと撫で、肩をとんと叩いて正しい姿勢を教え、いくつかの文字を自分で書かせてみる。筆の運びはぎこちなく、荒れ狂ったような線で書かれた『道長哥哥』や『三郎』は、それはそれは酷いものだった。やや乱暴に筆を置き、むくれる三郎を宥めながら、ため息をひとつ。
「
……
三郎」
「
…………
なに? 字なんて、とりあえず読めればいいだろ」
「君は他人がこれを“とりあえず”でも読めると思うか?」
「
……………………
」
ますます顔を顰める少年に苦笑して、再びため息をつく。こういうところがいかにも子どもっぽく、“花城”とは違うところだ。だが、自分の字が拙い、という自覚があるだけましだろう。上達の見込みがある、ということなのだから。
「なあ三郎。好きな言葉とか、文章とか、詩はあるか?」
すると彼は、広い卓の端に積まれている本の中から一冊を取り、折り癖のついた紙面を開いてすっと差し出した。
「
……
これが好き」
(『離思』
……
)
どくん、と。大きく跳ねた鼓動を彼に聞かれたのではないかと、一瞬焦ってしまった。
彼らはこんなにも違うのに、根底はやはり同じなのだ。
謝憐は紙面の“花”の文字をいとおしげに指でなぞり、彼の隣に座って筆をとった。
「わかった。じゃあ、まず私が手本を書くから、よく見てて。その後、手本を見ながら一緒に書こう」
「好」
花城とふたりで手を取り、何度も何度も書いてきた特別な詩だ。今ではもう、目を閉じながらでも完璧に書けるほどである。ことさら意識して姿勢を正し、ゆっくりとした筆運びで、丁寧に文字を綴ってゆく。それを、三郎は瞬きすら惜しむようにじっと見つめている。焼けるような熱心な視線がこそばゆいけれど、最後の一文字を書ききって、静かに筆を置く。
「
……
すごい。哥哥はもしかして書の
大家
たいか
なの? こんなに綺麗な文字
……
初めて見た」
「そんなんじゃないけど。練習を続ければ、これくらい書けるようになる。さあ、今度は君の番だよ」
書いたばかりの手本を横に置き、彼の前にまっさらな紙を置いて、筆を持つ手にそっと自分の手を重ねた。
「ほら、教えたとおりに筆を持って。身体の力を抜いて、私に委ねて、筆の運びを身体で覚えるんだ」
「
…………
うん」
筆を持つ彼の手ごと、ゆっくりと動かしてゆく。こんなふうに教わるのは初めてなのだろう、動きはぎこちなく、思うような線を引くことができない。
「自分で書こうとしないで。力を抜いて、私が導くとおりに動かすだけでいい。
……
あ、こら。もっとゆっくり
……
」
「
……
哥
……
っ、哥哥
……
」
……
“じゃじゃ馬”なのは厄命ではなく、むしろ彼の方ではないだろうか。
すぐに暴れ出しそうになる手を強く握って、引き戻す。
体温を持たない鬼とは違い、人肌のぬくもりを宿した手だ。触れ合う箇所から熱が生まれ、じわり、じわりと温度が上がってゆく。
「息は止めないで。ゆっくり
……
ね?」
「
……
」
必死に力を抜こうとして、かえって肩が上がってしまっている。それがなんだか可笑しくて、健気で、愛らしくて、つい揶揄いたくなってしまった。くす、と笑って、耳元に唇を寄せて、囁く。
「
……
こーら。この右手は、哥哥の言うことが聞けないのかい? ん?」
「
…………
哥哥、」
髪を高く結い上げているから、彼の耳やうなじ、首筋まであらわになっていて、白い肌がほんのり赤く染まっているのがよく見える。
“花城”には決してあり得ない、生きている彼の、血を透かした淡い色。
もっと近くで見たくて、感じたくて、吐息が触れるほどの距離に背後から顔を寄せる。
「んー? さんらーん?」
「
…………
哥哥」
いよいよ手を動かせなくなった三郎が、勢いよく顔を上げて、振り向いた。
「
……
ッ哥哥、揶揄わないで! 俺は真剣に、
……
っ」
「あ
……
」
ばちり、と間近で視線が合わさった。
ひゅっと息を飲んで、呼吸が止まる。
「
……
」
まるで、ふたりのいる空間だけが切り離されたかのようだ。
目を逸らすことも、身じろぐこともできず、ただ見つめ合う。
「
……
三郎」
「
…………
哥哥」
心臓がうるさいほどに早鐘を打ち、頭の芯にまで響く。
……
美しい顔が間近にあるのはどうしてだろう?
自分が近づいたのか、あるいは彼が寄せたのか。
頭の中が鼓動に埋め尽くされて、なにも考えられない。
明るい星の煌めく、夜空のような瞳に吸い込まれてしまう。
うすく開いた唇から温かい息がこぼれ、謝憐の乾いた唇をわずかに濡らす。
「あ
……
」
――
ちりん、
形のよい耳を飾る、小さな楓の銀細工が揺れて、可憐な音を立てた。
「
――
っ?!」
ぱっと顔を背け、身体を離した。
(私
……
今、三郎となにをしようとした
……
?)
ばくばくとうるさい鼓動に加え、頭のてっぺんにまで熱が回ったかのようだ。背をつうと汗が流れ落ちてゆく。きっと顔も真っ赤になっているだろう。
「
……
悪ふざけが過ぎたな。
…………
ごめん」
ちらりと三郎を見る。彼も忙しなく瞳を揺らし、白い頬から目元、耳の先までもを、ほんのりと赤くしていた。
「ううん
……
」
「続けようか」
「
…………
ん」
熱い手を、再び重ねる。今度は三郎の手が暴れることはなく、むしろ先ほどとは打って変わって、か細く弱々しい字を生み出す始末だった。
◇
「哥哥、上がったよ」
洗い髪を夜風に遊ばせ、寝衣姿の三郎が寝室に入ってきた。湯上りの肌をほんのり火照らせ、長い髪を今は解いて下ろしているのもあって、妙に艶やかだ。紅い乗馬服を着て馬を駆り、くるくると表情を変えてよく笑う、昼間の快活な様相とは違う。
三郎が頑なに譲らないので、この家の主人は彼だというのに、謝憐は先に湯を使わせてもらっている。今はもうすっかり寝支度を整え、借りた書物を読んでいるところだった。
「ああ、また
……
。ちゃんと髪を拭かないと風邪をひくって言っただろう?」
「哥哥にやってもらいたくて。ね、お願い」
「しょうがないな。おいで」
「うん!」
嬉々として椅子に座る三郎の背後に回り、柔らかな布で優しく拭ってゆく。本人の気性を表すかのように、癖のない真っ直ぐで長い髪が、今は濡れてますます艶を増している。とくに手入れをしている様子もなく、いつも無造作に高い位置で結っているだけだというのに、傷みもなく、美しい。引っ張らないように、優しく手櫛で梳きながら乾かしていると、三郎が長い脚をぱたぱたと動かしているのが見えた。
「こら、大人しくして」
「はぁい」
ぽん、と寝衣越しの両肩を叩くと、子どもじみた答えが返ってきて、思わず苦笑する。
(
……
あ、)
この“三郎”も謝憐より背が高いので、見下ろす機会はあまりない。思わず見入ってしまった。
柔らかさをほんの少しだけの残した、成熟しきっていないみずみずしい少年の身体だ。だが、馬を乗りこなし、狩りをするせいか、しっかりと筋肉がついていて、厚みもある。あと二、三年もすれば、きっと立派な美丈夫に育つだろう。
「
……
哥哥? そこは濡れてないと思うけど?」
ぼんやりと考えながら、無意識のうちに肩や腕に触れていたらしい。三郎が顔だけを後ろに向け、にやりと悪戯っぽい笑みで謝憐を見ていた。
「あっ。
……
ごめん」
「ふうん、哥哥は俺の身体に興味があるの? もっと触ってもいいよ」
「いや、大丈夫だよ
……
すまない、べたべたと
……
」
気安い仲だからといって、無遠慮に触りすぎていた。気になったものをつい触ってしまう長年の悪癖は、そう簡単に直せるものではないらしい。それとも、こんなにも警戒心なく触れてしまったのは
――
あるいは彼が“三郎”だからなのだろうか。
「いいよ、好きにして。それに、撫でてもらうのって気持ちいいんだね。知らなかった」
「
……
」
人の手に触れられ、その温かさや心地よさを感じたことがなかったのだ、と。
なんだか無性にいとおしくなり、髪を拭くそぶりでそっと頭を撫でた。
さりげなく触れ合いを深めたことに、三郎は当然気づくだろう。くふんと機嫌よさそうに笑う。
気まぐれで、悪戯好きで、自分の感情に素直で、警戒心が強く好戦的なくせに、懐いた相手にはとことん甘えたがるけれど、気位は高い。まるで猫だ。懐かれるのは素直に嬉しい。手は焼くけれど、世話をして、可愛がらずにはいられない。
丁寧に髪を拭き終え、ついでに大きく開いた胸元を直してやると、彼はすぐさま広い寝台に上がった。しどけなく寝そべり、肘をついて謝憐を手招く。
「哥哥。早く」
「ちょっと待って」
夜はこうして、だだっ広い寝台でふたり一緒に眠っている。
あのとき
・・・・
もそうしていた。だが、ただ並んで寝るだけであって、必要以上に触れ合うことは決してない。
「ねえ哥哥。『花夜奇縁記』の続き、話してよ」
寝転がる三郎の隣に座ると、彼はくいと袖を引いて、寝物語をせがんだ。
「はいはい。ええと
……
どこまで話したっけ?」
「主人公たちが砂嵐から逃げ込んだ洞窟で隊商と一緒になって、蠍尾蛇に襲われたところまでだよ。そのあとは? どうなったの?」
「そのあとはね
――
」
「
――
今夜はここまで。続きはまた明日。
……
それにしても、君は本当に物語が好きなんだな。暇さえあれば本を読んでるんだろう?」
ここに来てから、“極楽坊”の中は何度か見て回った。敷地は広大で部屋の数も多いが、造りは本当の極楽坊とほぼ同じだった。彼は法力を持たない普通の人間なので、賽子を使った仕掛けはなく、離れにあった武器庫の代わりが書庫だったくらいだ。だが、その書庫の蔵書数は、膨大なものだった。古今東西、あらゆる種類の本がぎっしりと詰まっているのだ。それは、幼い子どもが読むような絵本であったり、詩集や戯曲の台本であったり、図鑑や辞書、果ては医学書や歴史書に至るまで、種類も驚くほど幅広い。そのすべてを、彼は読んだというのだ。謝憐が湯浴みをしている間、熱心に書を読み耽っていることも少なくはない。
「まあね、他にすることもないし」
「遊びに行ったりしないのか?」
「ん? 厄命と遠乗りに行くか、狩りをするか、だね。でも
……
」
投げ出されていた謝憐の手を取り、ぎゅっと握る。思わず引っこめかけた手を逆に引き寄せられて、近づいた美しい顔がにこりと笑んだ。
「他の奴らがいると煩わしいばっかりだけど、哥哥と一緒なら何をしててもすごく楽しい」
「
……
そう?」
「うん」
……
“この”三郎に対して、適切かどうかは正直わからない。
わからないけれど、気付けば口にしていた。
「
……
そういう人をね、“友人”って呼ぶんだ」
三郎は、初めて聞いたかのようにその言葉を口の中で繰り返し、照れくさそうにはにかんだ。
「友人?
……
友人かあ! じゃあ、哥哥が俺の初めての友人ってわけだ。ふふ、
……
嬉しい」
(あ
……
)
きゅう、と、胸の奥が甘く疼く。彼と過ごすようになってから、何度彼の頬や額に口づけたいと思ったことか、もう数えきれなくなってしまった。けれど、「したい」と思った瞬間、それはだめだともうひとりの自分が止めるのだ。彼は“花城”ではないのだ、と。
「
……
君と友人になれて、私も嬉しいよ」
こうして微笑むことが、夢の中で謝憐が彼にできることの精一杯だった。
(よく寝てる
……
)
眠る謝憐を、三郎はじっと見下ろす。
初夏とはいえ、夜はまだ少し肌寒い。規則正しく上下する胸元まで薄い掛布を引き上げると、彼はころりと寝返りをうって三郎の方を向いた。頬にかかる髪をそっと退ける。かすかな寝息をこぼす桜桃色の唇が、目に飛び込んできた。
「
……
」
あのとき。気付けばここから視線が離せなかった。触れたい。塞いでしまいたい。そんな強い衝動に駆られたのだ。
常に一緒にいれば、自ずとわかるものだ。
彼も自分のことを、憎からず思っているのだと。
(
……
しちゃえばよかったかな。でも、)
彼が見ているのは“三郎”だ。確かに自分の方を向いてるけれど、琥珀色の美しい瞳には、“三郎”が映っている。
「
……
ん
……
、さん
……
ら」
「ん
……
?」
「
……
ふふ、」
深く眠っているはずの彼が、ふにゃりと笑った。楽しい夢を見ているのだろうか。そこに自分もいることが、なによりも嬉しい。
くすり、と。昼間には見せない大人びた表情で笑う。ゆるりと目を細めて、すこやかに眠るひとを見下ろす。
口づけの代わりに、彼の唇に指先で触れて、そうっと撫でる。見た目通りに柔らかく、ほんのりと温かかった。
「
……
晩安、哥哥」
◇
昼下がり、人で賑わう繁華街。
若い娘を、身なりのだらしない粗野な男三人が取り囲んでいる。困ります、これから用があるんです、と言って立ち去ろうとする娘を阻むように男のひとりが立ち塞がり、にやにやと下卑た笑みを浮かべた顔を近づけている。小間物屋から出た謝憐はその光景を眺め、ため息をついた。
(
……
どうしようもない
下衆
ゲス
っていうのは、どこにでもいるんだな)
道行く人々は視線を寄越してはいくものの、誰もが足早に通り過ぎてゆくばかり。火の粉が降りかかることを恐れるのは仕方がない。彼らを責めることはできない。だが自分は、見て見ぬ振りはできなかった。荷を抱えて、まっすぐ彼らに近づいてゆく。
「やめなさい」
娘の肩を強引に抱き寄せようとした男の手を、掴み上げる。
「なん、
……
っ!
……
おい、離せ!」
男は顔を顰め、手を振り解こうとしたが、なぜかびくともしない。苛立って声を荒げるが、謝憐は表情ひとつ変えず、「やめなさいと言ってるだろう」と繰り返した。謝憐としては
軽く
・・
掴んでいるつもりなのだが、曲がりなりにも武神である。ほんの少し力を込めただけで、男は引き攣った悲鳴を上げた。聞かぬふりをして、謝憐は怯える娘に微笑んでみせた。
「お嬢さん。用があるんでしょう? さあ、もう行ってください」
「あ
……
道士様、ありがとうございます
……
!」
娘は目に涙を浮かべてぺこりと頭を下げ、すぐさま走り去っていった。遊び相手を逃した男たちの怒りの矛先は当然、謝憐へと向かう。
――
だが、別の男が謝憐の顔をまじまじと見るなり、無遠慮に強く顎を掴んだ。
「へえ
……
よく見りゃ綺麗な顔してんじゃねーか。あんたが相手するか? ん?」
「おい、こいつは男だぞ」
「男だろうが女だろうが、やるこたぁ一緒だろ? ちいとばかりガタイが良いのは目を瞑ればいいだろうが」
「へへっ、違いねえ!」
「
…………
」
下品な会話の標的にされながら、謝憐はわずかに目を細めた。胸のうちがすう、と冷えてゆく。袖の下で握り締めた拳がぎしりと音を立てた。
「それじゃ、兄ちゃん
……
相手してくれるな?」
ずい、と顔を近づけた男の生温かい息が掛かり、いよいよ顔を顰めた、そのとき。
「
……
へえ。それはなんの相手?」
(
……
三郎!)
凍り付くような冷たい声。明るく、よく笑う彼とはまるで別人のようなそれ。
街に着いてから、三郎とは別行動をしていたのだ。どこへ行くのかまでは聞かなかったが、まさかこんなときに戻ってくるとは、なんという間の悪さだろう。彼は表情こそ変えないが、謝憐にはわかる。
――
これは、相当怒っている。
「三郎、これは
……
」
「遊ぶの? いいね、俺も混ぜてよ。
……
さあ、なにして遊ぼうか?」
持っていた紙袋を無造作に落とし、腰に手をやった。男たちは、突然現れた紅衣の少年を訝しげに見るばかりで、彼がなにをしようとしているのか気づきもしない。
「あぁ? お坊ちゃんには関係ねえな。大人の遊びだよ、引っ込んでろ!」
三郎はすう、と表情を消して目を細めた。その表情はぞっとするほど美しく、しかし背筋が凍るほど恐ろしい。
(
……
まずい!)
「大人の遊び?
……
じゃあお兄さんたち
……
俺にも教えてよ!」
「ひっ
……
!」
右手を振り翳し、馬鞭が大きく
撓
しな
る。まさに振り下ろされようとした、その瞬間。謝憐は男の手を振り払って三郎に飛びつき、右手を掴み上げた。
「三郎!!」
「
……
ッ、哥哥!?」
鞭の先が逸れて激しく地面を叩き、
抉
えぐ
れたそこを見下ろす男たちが、ひっ、と声を引き攣らせた。さすがにこれだけの騒ぎになれば、人が集まってしまう。捕吏を呼ばれては面倒だ。謝憐は唖然とする三郎の手を引っ掴んで、脱兎の如く駆け出した。
「行くよ!」
笑うに笑えない特技だが、逃げ足は速いのだ。三郎が付いてきているのを確認しながら通りを全速力で走り抜け、角を三つ曲がった路地裏でようやく速度を落とし、足を止めた。額に浮いた汗を拭い、肩で息をする三郎を振り向く。
「
……
三郎! 怒りに任せて手を上げちゃ駄目だろう! 悪いのはあいつらだけど、限度ってものが、
……
ッ」
三郎は掴まれていた手を振り解き、謝憐の手首を些か乱暴に掴み返した。ぐ、と力を込められ、謝憐は痛みに顔を顰める。
「三郎っ!」
「
……
哥哥は誰にでもあんなことを許すの?」
地を這うような、低く掠れた声。ごくり、と息を飲んで手を引こうとするのを彼は許さず、俯いていた顔をゆっくりと上げた。長い前髪の合間から覗く黒いの双眸が、今は冷たく底光りしている。
「
……
痛い。三郎、離して
……
」
「ねえ答えて。誰にでも触れさせるの? あんなことされて平気なの?」
「三郎」
「答えてよ、哥哥!」
息を荒げているのは、走ったせいではない。喧騒を離れた薄暗い路地裏に、怒りに震える三郎の引き攣った呼吸音だけが広がってゆく。三郎の手は分厚い革の手袋越しでも熱く、ますます力を込められて、ぎしりと軋む。
「
………………
平気なわけ、ない」
三郎は目を見開き、力が抜けたように手を離した。解放された手首をさりげなく袖の中に隠す。見るまでもなく、痣になっているのは間違いない。
「
…………
」
「私のために怒ってくれたんだろ? それは嬉しいよ、ありがとう。
……
でも、やり過ぎはよくない。感情に振り回されて動くのは、子どもの癇癪と同じだ。賢い三郎ならわかるだろう?」
「
……
うん」
こくん、と頷いた頭を、もう片方の手でそっと撫でる。子ども扱いしないで、と文句のひとつも飛び出すかと思ったが、彼は大人しく受け入れている。肩をとんと軽く叩き、するりと腕を辿って、投げ出された手をそっと繋ぐ。
表通りに出ると、さきほどの騒ぎなどまるでなかったかのように賑わっていた。ふたりは手を繋いだまま人混みを縫うようにして進み、屋台が並ぶ一角へ向かった。
「ごめん、せっかく饅頭買ってきてくれたのに、台無しにしちゃったね。代わりになにか買おうか?」
「
……
あれがいい」
三郎が指差したのは、真っ赤な果実を串に刺し、艶やかな飴をたっぷりまぶした菓子だ。
「
糖葫蘆
サンザシ飴
? ふうん、甘いものが好きかい?」
「そういうわけじゃないけど
……
哥哥と半分こする
……
」
ぷい、と横を向いても、高い鼻の先がわずかに赤らんでいるのがわかってしまった。彼が拗ねないように声は上げず、にこりと笑って手を引いた。
「じゃあそうしよう。行こう、三郎」
「
……
うん」
◇
今の謝憐の身分は薬師ではないが、何もせず、ただ無為に過ごすわけにはいかない。幸いにも、薬の知識はある。自分で摘んだ薬草を調合して、市井の人々に分け与えるなど、薬師の真似事をして過ごしている。三郎は特にすべきこともないようで、謝憐についてきて一緒に薬草を摘み、選別の手伝いなどをしていた。
ふたりは、希少な薬草を摘むため遠くの森に来ていた。鬱蒼と木々の生い茂る森はやや薄暗く、不気味で、空気も重く冷たい。こういう陰気な場所には得てして、良くないモノがいるものだ。長居はすべきではないだろうと踏んで、三郎と手分けして手早く目的のものを探してゆく。
昨日の一件もあってか、今日の三郎は妙にしおらしい。あれこれと話しかけることもせず、今は謝憐に背を向けて反対側を探している。
「
……
うぅん、見つからないな
……
どうだ三郎?」
「それらしいものはなさそうだ。もっと奥へ入る?」
「
…………
」
長居はするべきではない。
……
が、せっかく来て手ぶらで帰るのも惜しい。
つい考え込んだせいで、うっかり警戒を怠ってしまった。
「ッ、哥哥!!」
弾かれたように顔を上げる。
視界に飛び込んできたのは、目の前でぱっと散ってゆく、鮮やかな赤。花びらのように美しいそれはしかし、花ではない。鉄錆にも似た匂いが鼻をついた瞬間、反射的に呪符を放っていた。
「
――
散!」
ぴたりと動きの止まった
それ
・・
の脳天に、咄嗟に拾い上げた木の枝を思い切り突き立てる。
(邪祟
……
!? しまった、ここは奴らの巣だったか!)
びく、と激しく痙攣した邪祟が、耳障りな悲鳴とともに霧散するのを見届けて、すぐさま膝をつく三郎のもとへ駆け寄った。
「三郎!」
「
……
平気」
目の覚めるような紅い乗馬服の袖が引き裂かれ、一部が衣より濃い赤にじわりと染まってゆく。邪祟の鋭い爪が、三郎の腕を掠ったのだ。
「見せて!」
三郎はあまり慌てる様子がない。むしろ、またか、とうんざりしているようだ。破れた袖を引き千切り、適当に縛ろうとする手を掴んで、止めさせる。
「
……
慣れてるのか?」
「ん?
……
まあね。でも大丈夫だ、この程度の怪我、三日もすれば勝手に治
……
」
「だめだ!」
「
……
ッ!」
三郎はびく、と肩を震わせ、謝憐の方を向いた。平然としている様子だったが、よく見れば額に汗が浮き、凛々しい眉が僅かに寄せられている。
……
平気なはずがない。この三郎は、あくまで普通の人間なのだから。
「あれは爪に毒を持つ邪祟だ。強い痛みと高熱に浮かされて、幻覚を見ることもある。こっちへ来なさい。解毒は時間との勝負だ。
……
早く!」
有無を言わせぬ強い口調で言えば、三郎は戸惑いながらも頷き、言われた通り倒木に腰を下ろす。呼吸はみるみる荒くなってゆき、汗がつうとこめかみを滑り落ちてゆく。彼は必死に押さえ込もうとしているようだが、謝憐が気付かないはずがない。
(
……
薬師の真似事をしててよかった)
幸いにも、薬はたくさん持っている。傷の少し上をきつく縛り上げて、言った。
「痛むだろうから、
辛
つら
かったらしがみ付いて。爪を立てても構わない。歯も食いしばらないで。肩を噛んでもいいから」
「そんな、こと
……
できるわけない
……
!」
言ったそばからぎしりと歯を鳴らすので、唇を押さえてやめさせる。
「まあ、君はそう言うだろうな。
……
なら、耐えなさい」
言うがいなや、傷口に唇を当て、強く吸い上げた。
「
……
ッ、ぐ
……
っ」
押し殺した呻き声が、肩口から聞こえた。できるわけがない、と言ったとおり、彼は背に爪を立てることも、肩を噛むこともしなかったが、謝憐の道袍をきつく握り締めて耐えている。みち、と力任せに引っ張られた布がいやな音を立てたが、そんなことは構わなかった。苦しむ彼を、少しでも早く楽にしてやりたかった。毒血を吸い上げて吐き出す、ということを何度か繰り返し、持っていた竹筒の水で洗い流してから、薬を塗って布を巻く。すでに意識が朦朧としてる三郎を抱え、少し離れたところに繋いであった厄命のもとへ向かった。
「厄命、頼むよ
……
!」
軽々と飛び乗って、三郎を後ろに座らせる。
「三郎、聞こえてるか? しっかり掴まってて!」
「
……
」
返事はなかったが、彼はしがみ付くように謝憐の腰に手を回した。それを確認して、手綱を強く引く。厄命は力強く嘶き、すぐさま駆け出した。密着している身体は熱く、風を切る音に混じって聞こえてくる呼吸も酷く苦しそうで、不規則に荒い。
(三郎
……
持ち堪えてくれよ
……
!)
三郎は厄命をじゃじゃ馬だと文句ばかり言うが、彼は初めて手綱を握った謝憐にも驚くほど従順に従った。足の運びは力強く、太子時代、名馬に慣れ親しんだ謝憐が唸るほどに良い馬だ。飛ぶように駆けながらも、大きく身体を揺らすことはない。まるで、手負いの主人を気遣っているかのようだった。
家に着き、出てきた家僕に厄命を預けて事情を説明すると、彼らはすぐさま動いた。三郎を抱えて寝室に戻り、寝衣に着替えさせてから、用意してもらった道具で手当てをしなおす。彼は夢うつつを彷徨っているのか、ときおり呻くような声を上げる。それを宥めながらなんとか手当てを終え、熱冷ましと痛み止めの薬湯を煎じ、匙で掬って薄く開いた唇へと運ぶ。
「
……
っ」
口に入れたのはほんのわずかな量だけ。だが彼は苦しげに咽せて、吐き出してしまった。それを拭って、もう一度匙を差し出す。
「三郎、良い子だから
……
少しだけでも飲んで。
……
ね?」
「
……
けほ
……
っ、」
実はこの薬湯、謝憐ですら飲むのは躊躇するほど苦いのだ。意識が朦朧としている中では、身体が勝手に拒絶してしまうのだろう。
(
…………
仕方ないな。
……
三郎、すまない!)
これしか方法はない。謝憐は覚悟して薬湯をひと口含み、三郎の顔を固定して、唇を塞いだ。
「ん、
……
っ」
「
…………
」
顔を背けようとするのを許さず、無意識に突っぱねようとする手を押さえ込んで抱きしめ、さらに深く唇を押し当てる。少しずつ、ゆっくりと薬湯を流し込んでゆく。彼は抵抗をやめ、流し込まれたものを大人しく飲み下した。
「ぅ
……
」
「
……
口、開けて」
もう一回、さらにもう一回、と。何度か繰り返して薬湯が半分に減ったころ、謝憐はようやく椀を置き、抱えた身体を寝台に横たわらせた。どこもかしこも熱い。手拭いを水で絞り、汗の浮いた額や首筋に当てて冷やしてやると、ほうと息をつき、表情が少しだけ和らいだ。桶の水はあっという間にぬるくなってしまい、水を替えに行くために立ち上がると、手首を強く掴まれた。
「三郎?」
「
……
どこ、いくの?」
「少し出てくる。すぐに戻るから、放して
……
三郎?」
筋の浮いた手の甲を軽く叩くが、掴む手にはますます力がこもった。
「だめ
……
離れないで
……
」
掠れた懇願の声。かすかに語尾が震えて弱々しい。
「桶の水を替えてくるだけ。ちょっとだけだから、ね?」
「いやだ、いかないで
……
」
怪我人とは思えない力で掴まれて痛みすら感じるのに、どうしても振り解くことができない。潤んだ目は焦点が合わず、瞬きとともに涙が玉のように転がり落ちてゆく。
「探して
……
探して
……
やっと見つけたのに
……
」
「
……
三郎?」
「ぜったいに離さない
……
ひとりは嫌だ
……
」
「三郎?
……
聞こえてるか? 私がわかる?」
呼びかけに対する答えはなく、目の前にいる謝憐を、恐らく認識してはいない。けれど必死に縋る姿に、胸がきつく締め付けられる。
「もう
……
無くしたくない
……
嫌だ
……
いや、」
「三、郎
……
」
――
こんなにも強い懇願を、感情を、“彼”に直接ぶつけられたことが、果たして今まであっただろうか?
もし“彼”が、こんな思いをずっと抱えていたのだとしたら?
それを、この三郎が表しているのだとしたら
……
?
「
…………
そばにいて、哥哥
……
ずっと
……
」
(
……
それが、君の本音なのか?
……
三郎)
「離れないよ。ここにいる。
……
君のそばにいる」
くすりと笑って桶を置き、着ていた外衣を脱いで寝台に乗り上げる。
「もう少し向こう、寄れるか?
……
ん、そう。いい子」
かすかに震える熱い身体を引き寄せ、守るようにそっと抱きしめる。引き攣った荒い呼吸がひどく痛ましく、つられて謝憐も眉根を寄せる。
「
……
哥哥
……
あつい
……
苦し、
……
たすけ、て
…………
」
「うん。大丈夫、私はここにいる。すぐに薬が効いて、ぐっすり眠れるからね。
……
さ、目を閉じて、力を抜いておいで」
「
……
痛い
…………
哥哥、
……
」
「
……
うん」
「哥哥
…………
」
傷に障らないように身体を撫で、鼓動に合わせて背を叩く。しばらくすると、荒い呼吸がゆっくりと凪いでゆき、寝息に変わっていった。
(
……
やっと眠ったか)
穏やかとは言い難い表情で眠る彼の、眉間に寄った皴をを解すように撫でる。熱い身体を抱え直し、謝憐もまた目を閉じた。
(
…………
朝)
次に目を開けたとき、窓の向こうは明るい陽が射していた。すっかり眠り込んでしまったようだ。彼はまだ、腕の中におさまっていた。横を向いているので、乱れた髪が顔にかかって、右目が隠れている。相変わらず目を見張るほど美しいけれど、力の抜けた寝顔は、いっそあどけないほどだ。
(
……
こうしてるとやっぱり似てるな。まあ、本人なんだから当たり前だけど)
まじまじと眺めていると、長いまつ毛が震え、ゆっくりとまぶたが開かれた。
「三郎」
「
……
なに、哥哥? 見惚れちゃった?」
ほんのり潤んだ黒い瞳をゆるりと細め、にやりと笑う。
……
開口一番、それとは。謝憐は顔を顰め、高い鼻を指先でぎゅっと摘まんだ。
「んっ!」
「こら。年上を揶揄うんじゃありません。
……
そんな軽口が叩けるなら、もう大丈夫だな。熱は
……
」
今はもうさらりと乾いた首元に触れると、ほんのりと熱い温度が伝わってきた。昨夜の焼けるような熱さはなく、ほっと胸を撫で下ろす。
「うん、微熱ってところかな。なにか腹に入れた方がいいな。粥でも作ろうか?」
「哥哥が食べさせてくれるなら、食べる」
「
……
甘えんぼ」
くす、と笑いながら起き上がり、寝台から出ようとすると、控えめに袖を引かれた。
「ん?」
「その
…………
ごめんなさい」
俯いたまま、彼はぽつりと言葉を零す。
「三郎?」
「哥哥、昨日怒ってた。自分のことはちゃんと大事にする。もう無茶はしない。
……
だから、許して
……
くれる?」
ゆっくりと顔を上げた三郎は、不安げに瞳を揺らし、上目で謝憐を見上げた。
甘やかすべきではない、それはわかっているはずなのに、どうしてもこの表情には弱いのだ。
「
……
」
深くため息をつく。
困ったように笑い、袖を掴む手をそっと撫でて握った。
「
……
まったく。本当に心配したんだからな。反省した?」
「
……
した」
「なら良し」
彼の前髪を掻き上げ、露わにした白い額を、指先でぴんと弾く。
「いっ
……
!?」
こんな仕置きは初めてなのだろう。三郎はほんのり赤らんだ額を押さえ、ぱちりと目を瞬かせた。
「
……
さあ、この話はここまでだ。少し待ってて。粥を作ってくる」
「
…………
うん」
◇
「三日も経てば治る」と本人が言っていたとおり、三日後にはすっかり毒も抜け、熱も下がっていた。傷が完全に癒えるにはまだ少しかかるだろうが、激しく馬を駆るなど無茶をしなければ、普段通りの生活ができている。甘やかしてはいけない、と自分に言い聞かせたはずなのに、傷が痛む、とか、熱が上がってきた、などと言われるたび、ついあれこれと世話を焼いてしまい、自分への戒めを破ってしまっていた。
だが、仕方がないな、というふうを装って過ごしながら、謝憐はある決意を固めていた。
「
――
めでたし、めでたし」
ほぼ毎晩、少しずつ語り聴かせてきた『花夜奇縁記』は、今夜ようやく終わりを迎えた。登場人物の名は変えて語っていたが、これは『謝憐』と『三郎』の物語だ。彼が好まないはずはなく、嬉々として謝憐の語りに聴き入っているようだった。
「ああ、面白かった! こんな物語、書庫のどの本にも載ってないよ。終わるのがもったいないな
……
」
「冒険が終わっても、ふたりの関係はこの先も続いていく。それを想像するのは聴き手の自由だ。それに、どんな物語にも必ず“结束”が用意されてるものだよ。
……
三郎」
「ん?」
寝台の上で居住まいを正す。肘をついて寝そべる三郎を見下ろして、口を開いた。
「私は、そろそろ行かなきゃいけない」
三郎は黙って起き上がり、謝憐に倣って居住まいを正した。
「いつかはそう言うと思ってた」
予想していた反応とはだいぶ異なっていて、いささか拍子抜けしてしまった。てっきり、駄々のひとつも捏ねるかと思っていたのに。
「
……
“離れないで”って言わないのか?」
揶揄うように言えば、三郎はさっと頬先を染め、小さく咳払いをした。
「
……
意地悪。言ってもあなたは行くんだろ?」
「ん、まあね。
……
待ってるひとがいるから」
「
……
そっか」
三郎は小さく鼻を鳴らし、ずい、と顔を寄せた。急に詰められた距離に、思わず目を
瞠
みは
る。
「ねえ、道長哥哥」
「なに?」
額をピンと軽く弾く。額を押さえて目を丸くする謝憐に目線を合わせ、三郎は間近でにっと笑ってみせた。
「『この意気地なし。言いたいことは言えばいいし、したいことはすればいい。手に入れたのなら二度と手放すな』
……
ってさ、
そいつ
・・・
に言ってやってよ」
「
……
三郎」
おもむろに、頭からすっぽり掛布を被せられ、目の前が真っ暗になってしまった。
「わっ!」
「次にあなたに会ったら
……
今度こそ捕まえて、閉じ込めて
……
二度と離さないよ。
……
わかった?」
いったいどんな顔をして、こんなことを言うのだろう?
用意周到なことに、しっかり手まで押さえつけられていて、身じろいでも顔を出すことすらできない。
「わかった、わかったから!
……
なあ三郎、こっち寄って」
「うん?」
近づいた彼を掛布で包み返し、引き寄せてぎゅうと抱きしめる。驚いて固まる彼の、頬に、額に、触れるだけの口づけを落としてゆく。三郎はぱちりと大きく瞬き、両瞳をまん丸に見開いた。
「ッ、哥哥
……
?」
「本当はね、初めて君に会ったときから、ずっとこうしたかったんだ。
……
ん、なに? そんなかわいい顔をして。これ以上はしないよ?」
「哥哥!」
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