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2025-08-31 22:50:45
7999文字
Public movie100
 

093:めぐり逢い

映画タイトル100題からお借りしました。
コユ→拳、嘘からΔに至る話。
嘘拳は死にます。私の書く嘘拳死にがち。すみません。

 いつでも、小さな瓶を大切に持っていた。
 それはお守りであり、よすがであり、大切な人の分身でもあった。コユキの手のひらにすっぽりおさまる、何のラベルも貼られていない小さな瓶。預けられたうちの数本は必要に迫られて使ったけれど、最後の一本だけはどんなことがあっても使わずに隠し持っていた。
 中にあるのはとろりとした赤い液体で、時が止まったかのようにいつまでも色褪せない。時折こっそり寝床を抜け出して、月に透かして遊んでいた。きっと気づかれていたけれど、これを渡してきた男は何も言わなかった。



 数十年経った今、寝室にさした月明かりに透かしてみる。相も変わらず、濃くて深い赤色だ。持ってろと渡された時から変わらないから、何らかのまじないがかけられているのかもしれない。床についたまま腕を上げているのに疲れて、パタリと布団に戻した。若くて瑞々しかった肌はカサついて皺が刻まれている。柔らかさもなく骨ばっていて、シミだらけ。
 かつて、コユキの手を握り、「ちっせぇ手だな」と薄く笑った男よりも年若いはずなのに、コユキの身体はコユキの思うようには動かなくなっていた。若い頃それなりの無茶をしたのが祟ったのだろう。
 唯一の肉親だった父はすでに他界した。共に戦った仲間たちも歳をとって、何人かを見送った。コユキは一人、平和になった街でゆっくりと時を過ごし、朝起きて夜眠る暮らしを続けていた。時折訪れる客人に茶を出そうとして「俺がやるから座ってて」ときっぱり制止される程には年老いた。
 こんな長いこと生きるならあなたと一緒が良かったですよ、と恨み言を言っても仕方ないのはわかっている。何度目になるのか数えることもやめた。


 真っ黒な羽織を翻した、仏頂面の優しい彼が好きだった。
 何度伝えても受け取れぬと返してきた彼は、俺みたいな野郎にそんなお綺麗なものを押し付けるなと、いっそ迷惑そうに言った。その癖コユキを見捨てなかったし、コユキを紳士的に、丁寧に扱った。それは、兄が歳の離れた弟に対して向ける慈しみと類似したものであっただろうが、理由などどうでも良かった。
 決死の思いで色ごとめいた誘いをかけたこともあった。彼は大層驚いて、ここまでの覚悟とは思わなかった、しかしそれは本当にダメだ、とコユキを諭した。
「お前を嫌ってるわけじゃない、むしろ大切にしてやりたいと思ってる。だからこそ俺じゃダメだ」
 そう言った彼は困ったように笑って、これで勘弁してくれと泣きじゃくるコユキの額に唇を寄せてくれた。わがままは言うまい、それで十分だと、その時は納得した。

 両陣営の緊迫感が最高潮に達する前、彼は自身の弟であるトオルにコユキを預けた。お前はここで待て、と一人去ろうとした黒い羽織に追い縋って、怒って、みっともなく泣き喚いた。
 何で置いていくんですか、わたしも一緒に戦えますよ。抱えられなくたっていい、自分で歩けます、わたしも戦わせて、死ぬ気なら一緒に連れてって。
 後ろで彼の弟が見ているのも構わず、顔をぐしゃぐしゃにして喚き散らした。
 彼はコユキが棺桶に潜り込んだ時と同じく困った顔をして、コユキのくちびるに触れるだけの慰めをくれた。それからコユキの耳に顔を寄せて「わかった、悪かった」と言った。確かに言った。
 わかってくれたと安心した刹那、パン、と手を打つような音がした。途端に景色がぐるりと回転して、気がつくと見知らぬベッドで横になっていた。ベッドサイドで船を漕いでいたマリアがハッとして「起きたか!」と嬉しそうに話しかけてくる。
 慌てて辺りを見回しても彼は居なかった。なんで、と呟いて、ポケットに手を入れて瓶を握る。小瓶はちゃんとポケットに入っていた。ひんやりと冷たい感触がコユキの頭を少しクリアにしてくれる。
 彼はどこですかと問う。マリアはぴたりと動きを止め、小さく唇を噛んだあとハッキリと言った。

 あの男は死んだ。

 予感はしていたから取り乱すことはなかったが、ああやっぱり、と妙に冴えた頭で思った。
 彼は確かに「わかった」と言ったのに、コユキを置いて逝ってしまった。




 みんなを守って死ぬ前に、守らなきゃダメな人、話し合わなきゃいけない人がいたんじゃないですか。
 もし天国で会えたら言ってやりたい言葉ナンバーワンだ。もうそろそろ会えるだろう。何となくそんな気がする。
 上体を起こす。これだけでも数分かかる大仕事だが、何とかやり遂げて息をついた。
 小瓶の栓を思いきり捻る。固まって動かないと思った栓は存外簡単に引き抜けて、コユキの手のひらに転がった。

 独特の香りがする。栓を適当に転がし、小瓶の淵に唇をつけて傾けた。とろとろ、赤い液体が口の中に入ってくる。口の中に広がる濁った鉄錆の味を転がして、こくん、こくんと少しずつ、彼の一部を飲み込んだ。
 コユキに残されたお守り。コユキが死んだら誰かの手に渡るかもしれない。それは我慢ならない。なら、誰にも手が届かない場所にしまっておく他ない。飢えた吸血鬼すら、こんな萎んだ老人を吸い尽くそうとは思わないだろう。コユキの持つ、たった一つの彼の一部。文字通り、これはわたしが墓場まで持っていく。

 空の瓶を枕元に置いて、ほうと息を吐く。頭が痛い。何だかすごく世界の音が遠い。終わりが近いのかもしれない。ここまで生き延びたのだから、もう良いだろう。ゆっくりと身体を横たえて、目を閉じる。


 わたしに嘘をついて置いていったひどい人。
 わたしとは違う生き物だったひどい人。


 願わくは、来世はあなたと同じ生き物に生まれて同じ速度で歩けますよう。