かあかあ、とどこか間抜けに聞こえる烏の鳴き声が響いている。町はいつの間にか朱色に染まり、落ちていく太陽を背に歩いているからか視界には真っ直ぐに伸びた黒い影と、眩しい赤に沈んだコンクリートしか見えない。
ああ、早く帰らなければ。どこへって、会社だ。今日は直帰は許されない。なぜって、そりゃあ、今日は会社にお偉いさんがいるからだ。
いくら営業重点地域とはいえ、弊社から電車で二時間以上かかるような地域に住む老人に向けて弊社商品のローラー営業をかけろ、だなんて。そんな嫌がらせにもほどがあることを押し付けてきたお偉いさんが、今かいまかと営業結果の報告を待っている。手元の薄い板から飛ばせる電子の手紙で事足りるのに、あいつらはそれを許さない。なに、若者はすぐにサボるから、だとのこと。うるせえ。それならサボらせないように給料を上げろ。それと、いい加減に社用車を使わせろ。事故を起こしたらうんぬんではない。弊社のどうしようもない商品を大量に持って電車で移動し、しかも町中を歩き回るこちらの身にもなって欲しい。まあ、お偉いさん方は下々のことなんて少しだって考えもしないのだが。
そんな後ろ向きな独り言をつぶやきながら歩く。この町、もとい、住宅街はやたらと曲がり角が多い。入り組んでいる、というべきか。そういう土地なのだ、と言ったのは大分前に辞めてしまった先輩だったろうか。
ちなみにここは郊外ではあるものの、古くからある程度裕福な人がそれなりに居着いていることで有名で、実際小綺麗で寂れた印象は一切ない。治安の良さからか、最近では子どもがいる家族なんかも住み始めているとも聞く。確かに、昼間なんかは老人のみならず、若い人をある程度目にした。車を持っていれば少し離れたところにある大きいショッピングモールに行けるので、買い物なんかも可能だもんな、と納得したのは、実際にここへ営業にくるようになってからだ。ちなみにバスなんかもしっかり走っているので、運転免許を持っていなくても暮らしてはいける。そうだ、ここは会社から遠いだけで、決してどうしようもない地域ではないし、上手くいけば金脈が沢山いるとも言える。
だが、そんなボロ儲けできそうな場所なのに、自分を含めた営業が過去に何度もアタックをかけてもけんもほろろの対応をされ続けている。本日だけで、何度穏やかな顔をした老人からチェーンをかけたまま辛辣な言葉を投げかけられただろう。これだけは何度やられても慣れないどころか、神経がいつも以上にすり減っていく。
お偉いさんは果たして「この地域の老人は、存外間抜けではない」ということをご存知なのだろうか。知らなければ愚かだし、知っていて営業をさせ続けているとなれば悪辣だ。なんて言ってみるが、弊社は愚かで悪辣なのだ、ととうの昔から分かっている。そしてそんな弊社から抜け出せないのは己のせいだということも分かっていた。そうだ、行動力のある者は弊社にとっとと見切りをつけて辞めている。うだうだと言い訳をして転職をしていない同期は、自分を含めて片手で数えられるくらいまで減ってしまった。
文句をいうくらいなら、弊社がやばい会社だと分かっているならば行動すればいい。分かっている。分かっているのに抜け出せない。大学を卒業してからずっと、この泥の中で藻掻いているような状況が続いてる。
「よかったじゃねえか、河童の手?だがなんかが見れて」
「あれ、明らかに作り物だったじゃないですか!俺の目は誤魔化されないんです!」
「ほら、よく言うだろ、本人が本物だと思えば本物って」
「哲学的なこと言わないでください!悔しくなる!」
暗い独り言を塗りつぶすような明るい声だった。
悔しい、と言いながらもどこか清々しい声音には、言葉の割に後悔が感じられない。
この物言いには覚えがあった。否、忘れられるわけがない。覚えているに決まっている。
ただ、それを素直に認めてしまうと、己の心の隅に追いやって見ないふりをしていた澱みを直視することになる。せっかく忘れていたのに。覚えている必要なんてなかったのに。
それでも、聞こえてしまった。光の気配に満ちた明るく、精気に満ちた声。いつだって朗らかで、元気で、悪くいえば能天気で。そんな陽の下の気配に満ちた存在。
枯れた花とワンカップの水が置かれた薄汚れた電信柱の向こうから聞こえる騒々しい声に導かれるかのように歩く速度を上げる。まるで光に惹かれて飛んでいく虫のようだ、と思わなくもない。そんなことを考えてしまう己に苦笑いする前に歩く速度を上げて、あげて、あげる。
そうしてばったりと出会った、出会ってしまった声の主はやはり彼だった。
記憶の隅に無理やり追いやった友人の――「涼風ハヤテ」のものだった。
思わず漏れた「相変わらずだな」の言葉に目の前の友人はきょとんと目を丸くした後やっとこちらを認識したのだろう、久しぶりだなと感慨深そうに漏らしつつ笑った。
その朗らかな笑みも、無駄に派手な外見も、体から溢れんばかりの光のオーラも、記憶の中のそれと少しも変わらない。記憶の中より、己らは年齢を重ねたはずなのに、それなのに目の前の男の様相は寸分も変わらない。いや、プリン頭だけはここまで酷かったか、と首を捻りかけたが、まあこいつならこうなるな、という納得感すら覚えた。
だから己の「相変わらずだな」の言葉に嘘はない。そうして、その「相変わらず」のお陰か、はたまた友人がこちらに対して少しもネガティブな感情を向けてこないからか、心の片隅にいつまでもいた小さいのにどこか重量のある真っ黒な何かが、灰のように消え去っていることに嫌でも気が付いてしまった。
「元気そうじゃん!え、てか、スーツ姿……もしやこの辺に住んでるとか?え、まだ仕事なのかよ!」
驚いたことに、立ち話は思った以上に弾んだ。そうだ、こいつはとんでもなく人当たりが良く、嫌味な人間でなかったからこそ、大学生だった当時もそこそこの付き合いができていたじゃないか、ということを話しながら思い出す。
この男は、いつもつるんでいた友人らとは別のグループにいた記憶がある。だが、そこに常駐するようなタイプではなかった。この友人は気づいたら様々な人間の横にいて、笑っていた。そう、こいつは良くも悪くも裏表がなく、打算がない。無邪気で、自分の好きなことに一直線の男。それを落ち着きがなく子どもっぽいとするか、はたまたそのひたむきさに心惹かれるかは人によってまちまちだった。自分はどう思っていたか?それは聞かないで欲しい。なに、消えたはずの重い澱みが復活してしまうからだ。
この男はキラキラとした目で世界を見つめ、そこにあるだろうナニカを探していた。否、それに出会えると信じていた。きっと今でもそれは変わらないだろう。だからこそ「そんな格好」をしているに違いない。まともな勤め人であれば、こんな時間に私服姿(しかも笑ってしまうほどダボついただらしないTシャツとジーンズだ!)でうろつくなんてことはしない。それに先ほどからの会話で、この男が定職についていないことは分かっていた。しかも帰ったら動画制作をするとのこと。そうか、まだそんなことをしていたのか、と小さく呟いても、目の前の友人はただ笑っていた。
相変わらず、この友人は「夢」を見ている。そう、大学時代から変わらず、相も変わらず、現実を見ていない。ああ、こいつ、やっぱりそうなんだ。自分の口角が上がっていくような感覚を必死で抑える。やっぱり、この友人はずっと子どものままなのだ。
不意に思い出すのは、ある日突然、この男が大学を辞めた時のことだ。あの時は、退学したと人づてに聞いただけだったが、その時頭に浮かんだ素直な感想を口に出したかまでは覚えていない。
―― 嘘だ、覚えている。しかも、その時にそばにいた者達が、自分と同じような歪んだ表情を浮かべていたことも、しっかりと記憶している。覚えているからこそ、今この瞬間まで、この友人に連絡をとることはなかったし、消えたはずの澱みが新たに生まれることになってしまったのだ。
正直なところ、こんなところで会うとは思っていなかった。住んでいる街から二時間以上もかかる駅から歩いた先の住宅街。穏やかでどこかのんびりした町の空気に似合わない騒がしさに導かれ、再会した。それは大学を辞めてしまった男、否、自分と少し距離があった、ちがう、その真っ直ぐさが疎ましくて、心の奥底で文字にしたくもない感情を向けていた、それこそ歯牙にもかけないと思っていたはずの「友人」だった。
「おい」
低い声だった。だがどこか透き通っている。思わず背筋が伸びてしまうようなその声音につられて顔を上げると、友人の後ろにいた男がこちらをじっと見つめていることに気がついた。
友人よりも大柄な男は久しぶりに見た。自分だって決して身長は低くないはずだが、友人の背後で黙りこくっていたこの男は異様にでかい。だからか自然と見上げてしまうし、友人もその男を振り返って見上げていた。
まず、うつくしい男だと思った。整った顔立ちも、しなやかな体つきも、全てが作り物のようで虚像のように見えるのに、友人の肩に置かれた手の存在に、しっかりとこの世に存在していることを理解する。こんなにも存在感があるのにどこか透明だ。ゆらゆら揺らいで掴めない。だが、この世のものではない程うつくしいことは確かであった。
シンプルな夕焼けに沈む世界の中で、緑にも黒にも見える肩までの艶やかな髪や、カラーコンタクトでもいれているのだろうか、爛々と光る切れ長の紅い瞳が印象的で、まるで芸術品のようにうつくしいと感じさせる。そのような男が、こんな暑苦しいにも関わらず黒一色で統一した服を着ているが、汗もかいていないからか、涼しげにも威圧的にも感じさせる。やはりうつくしい者は何を着ても似合うということなのかもしれない、なんて間抜けな感想を抱いたことを今でも覚えている。
そしてこうも思ったのだ。こんなにもうつくしい男は、友人とは正反対の性質ではないか、と。もしかしたら無理矢理、友人に馬鹿げたことに付き合わせられているのかもしれない。友人の害のないお願いの言葉に絆された人間を過去に何人も見て来てたからこそ思う。そうだとしたら、このうつくしい人に何をしているのだろうか、とお腹の奥底がもやりとした。
何か上手いことをいって、この二人を切り離せないかと思った。現実を見ず、夢しか追えないへらへらした男に、こんなうつくしい男はもったいない。そう、思ってしまった、考えて目を向けてしまった。そこではっとした。
うつくしい男は、温度のない目に己を映しこんでいた。溜息が漏れる程の麗しいヒトが、なんで、そんな咎めるようにこちらを見やるのかと思った。その目を向ける相手が違いのでは、なんてちらりと考えてしまった。無意識に、だ。無意識に浮かんだ考えは腹の底に沈んで、昇華したはずのもやを生み出しては大きくなっていく。
大柄なうつくしい男が不意に口を開く。それを見て、何故か身構えて、手に持っていた重すぎる弊社商材入りの袋をきつく握りしめた。
「こんなとこに突っ立ってないで、さっさと呑みにいくぞ、ハヤテ」
なぜ、身構えたのだろう。あの時のことを思い出すとそんな感想が沸き上がってくる。そうだ、だってあの大柄な男は一度も、一度だって自分に話しかけることはなかったのだ。しかも自分を一瞥して以降はこちらに目をやることはなかった。
頭を殴られたかのような衝撃と共に頰が熱くなり、それなのに胸に氷の礫をぶつけられたような感覚がした。ああ、めまいがする。
この男の透き通るような、何かを見通すような目は、自分の中にある何を見つけてしまったのだろうか。分からない。分かりたくもない。頭を掻き毟って、しゃがみ込んで縮こまりたい。そうか、これは羞恥だ。この世のものではないほどにうつくしい男から泥のような己の内心を見透かされていたことに対する――
あの時、最後に友人が何を言ったか分からなかった。そもそも、何かを口にする前に、うつくしい男が友人の手首を掴んで歩き去ってしまったからだ。夕焼けに染まる町は、烏の鳴き声と行きかう車の音、どこからか漏れ聞こえる日常生活の音と香りによって穏やかに時を刻んでいる。だが、そんな柔らかな町は指先まで冷え切った己を包み込むことはしない。異物でしかない、と突きつけられる現実に呼吸が浅くなったのを覚えている。
それ以降、あの能天気な大学の友人には会っていない。無論、あのうつくしい人にもだ。自分の付き合いのある友人はあいつと交友関係が深い者はいなかったから、今後意識的にあの男を探そうとしなければ会うことはないだろう。そんな予感がしている。
ただ、それでいいと思った。もうこれ以上、己の中に眠る汚れた感情に向き合うのはごめんであったから。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.