鳥人
2025-08-26 11:16:03
7320文字
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蝶と夢と嘘を(一人称視点)

 ──夢だ。いつも見る夢と同じだ。
 そう言い聞かせても、彼の白い手が俺の胸の上にそっと乗せられた瞬間、俺の心臓が激しく脈打ち始めた。
互いの愛情と想いが、二人が最後に笑って逝けたもう一つの理由になれば良いと願いながら綴りました。

好きなバンドの歌詞にインスパイアされて、「死と希望」を自分なりに解釈してオクバデSSを紡ぎました。
また、pixivには三人称視点で描いた別バージョンを掲載しています。
三人称視点→ https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=25710975

初めての一人称で書く挑戦と、三人称ではあえて呼び捨てを極力避ける試みをしていますので、ぜひ併せてお楽しみください。

以下の項目が苦手な方はご注意ください。
⚫︎アニメ14話の処⚫︎前の捏造シーンがあります。
⚫︎オクバデのキス場面が複数あります。
⚫︎性的な行為を匂わす描写があるのでR15タグをつけております。

 

 何かに引き戻されるようにゆっくりと目を開けた。
 
 視界に入るのはくすんだ銀のような薄白い明るみが、ゆっくりと染みこんでいく納屋の壁だった。
 それが冷えた霧の姿と変えて、世界の片隅にある朽ちかけたボロ小屋の中に入り込んでいく。
 朝はそうやって、湿り気と共に世界を仄白く色づかせていった。
 白っぽい薄明けの感触が、俺の脳に目覚めよと身体に命令させている。
 それなのに、少しも休まらない陰鬱な心が朝を受け入れさせてくれない。
 
 瞼をこすりながら朝の白い世界を見ても、まだ俺は夢の続きを見ているのではないのかと思う。
 朝でもなく、夜でもない、虚ろな夢の世界に心を置き去りにしたままなんだと。

 ──ここ数日、眠れない日々が続いている。
 昔から、眠れない夜は珍しくなかった。眠ろうと試みても、夜空に輝く星たちが俺を見下ろしている光景が脳裏に浮かび上がり、その冷たい眼差しが恐ろしくて、朝が訪れるまで目を閉じることができなかった。
 しかし今、夜空の星々はもう怖くない。それなのに、別の新たな理由が、俺の眠りを妨げている。
 
 夕礼の鐘が鳴ると仕事を切り上げ、配給のパンを食べ、納屋に設えた寝床に体を横たえる。それが俺の一日の終わりだ。
 でも目をいくら閉じても、眠りの淵にたどり着けない。頭の中で泉から水が止めどなく湧き出でるように、次々と脈絡もない思考が浮かんでは消える。その感覚が俺には心底不快でたまらない。
 今夜もまた眠れそうにないな……そう思いながら、夜はすっかり更けていた。
 真っ暗な納屋の中、目を開けたまま闇の中でただ呼吸を繰り返す。
 何時間もずっとそうしていれば、運が良ければ眠りの精霊がゆらりと俺の元へ訪れる。
 だがそれを自覚したとき、あれはやってくる。

 ──またあの夢だ。
 彼が、間もなくこの納屋に入ってくる。
 
 今夜も、あの人は俺のところへ来る。そんな予感があった。
 昼間、納屋の扉は開け閉めするたびに、抗議するみたいにうるさく軋む音を立てる。そのはずなのに、夜になると何事もなく静かに開くのだ。
 音もたてずにそっと開く扉を見ていると、きっと扉の向こうは全くの別世界と繋がっている。そう俺は頭の片隅で想像する。
 生き物すべてが眠りについた真夜中の匂いと共に、彼が入ってきた。
 
 右目の光を失い、そして左目は──もう夜空の星は見えない。そう彼は言っていたはずだ。
 それなのに、蝋燭ひとつ持たず、ここへ来る。そんなことができるはずはないのに。
 身を滑らせるように、俺の傍へ音もなくゆっくりと近づいてくる。
 ……これはきっと夢だ。
 俺が、あの人のことをずっと考えているせいで。
 だから、こんな邪な夢を見てしまう。
 俺の傍に腰を下ろす気配がした。静寂の中で、彼の視線に絡め取られたような感覚に締め付けられて、じっとりと手のひらが汗ばんでいる。
 暗闇に浮かび上がる一つしかない灰色の瞳が俺を見ている。その瞳には何の感情も表れていなかった。昼間の瞳と全然違う。あの強い意志を秘めた光は消え、今は先の見えない濃い霧と同じ色だった。
 
 これは、俺の願望が見せる夢だ。
 ──そう、こんなふうに。
 衝動の赴くままに、彼の腕を掴んで引き寄せた。彼は抵抗もせずに俺の胸の上に倒れこんでくるのを抱き止める。
 しばらくの間、俺たちは身動きせずにそのままでいた。
 倒れ込んだ時も両腕の中にいる彼は一切声を出さなかった。それでも、肌に彼の息遣いが伝わってくる。心臓の鼓動まで。
 だがそれは俺の皮膚に刻まれた記憶が、ここにいるはずのない彼の熱を錯覚させているのではないか。
 神様はどうして、何のために、夢でもあの人と同じ熱を俺に伝えさせるんだろう。
 
 これは神様が、俺の淫らな罪を知らしめるための夢だ。
 だから──。
 両手で彼の顔を包むように掴むと、そのまま口付けをした。
 柔らかくて温かい唇を舌でこじ開け、中にある熱くて滑らかで、湿った舌を喰むように味わう。
 俺の記憶と同じだ。甘くて濡れた息が互いの口腔を行き来する。
 酷いことをしているのに、止められない。神様はどうして、何のために、俺にこんな夢を見せるんだろう。
 彼の大きく裂けた唇の傷跡の感触まで鮮明に分かるのに。
 命を持った者の熱を確かに感じているのに。

 ──ふと、目を開けた。
 眠れずにまんじりと目を開けている夜よりも、夜明けの方が嫌いだ。あれは夢だったと思い知らせるように、寝床にも、ドアにも、なんの痕跡もない。
 そのことが、俺を重く深く沈めさせる。また今日もろくに眠れないだろう。そう思った瞬間、昨夜の淀んだ霧のような灰色の目を浮かび上がらせる。
 どれだけ悩もうとも、朝が来れば日常の営みが始まる。俺はいつものように、床に脱ぎ落とした上衣を着て、地下道掘りに向かうためにシャベルを手に持った。軋む音を立てるドアを開けると、足元に何かが落ちているのに気づいた。
 
 それは、アゲハ蝶の死骸だった。
 そういえば教会が管理する畑には、薬草となる草花が植えてあった。
 一斉に咲き乱れる花畑の上を、蝶たちが群れをなして舞っている光景を何度か見たことがある。
 今は薬草は全て刈り取られ、春の目覚めを待つ種が眠る土だけの畑。あの蝶たちはいつの間にか見えなくなっていた。
 
 地面に落ちた翅は、黄色と黒に彩られまだ生きているように艶めいていた。
 だが、それはもう羽ばたくことはない。
 気が付けば俺は、どのくらいの時間が経ったのか分からないまま、ただその翅をじっと見続けていた。

 夜が訪れ、赤い月が静かに納屋を照らしている。その月は前も見たことがある。
 みなしごだった俺に神父は、赤い月は不吉な前兆だと教えてくれた。それから俺は赤い月も怖くて仕方がなかった。
 そのことをあの人に話したら、いつものとおり俺の愚かさに呆れたような声で『くだらん』と一蹴された。
 月が赤く見えるのは、夕日が赤く輝くのと同じ理由だと教えてくれた。太陽光が地球の大気を斜めに長く通過することで、青い光が散乱して消え、結果として赤い光が目立つのだと。
 俺にはよく理解できなかったが、月が赤く見える現象が地球の自転によるものであることはわかった。
 『天文学の謎が、地動説によって全てが合理的に説明がつけられる。実に爽快な気分だ』
 そう語るあの人の横顔は、世界の覇者になったように気高く尊大だった。
 寝床にごろりと仰向けになったまま、そんなことを思い出す。そのまま脈絡もない記憶が次々と溢れ出てくる。穴掘りで身体は疲れきっているのに、頭だけがギラギラと覚醒している。この感覚にはうんざりだ。
 神経が休むことを知らず、五感全てが冴えているような気がする。一体俺の何がそうさせるのか、頭の中で次々と思考が騒いで落ち着かない。

 その時、音もなく彼が入ってきた。
 赤い光を背にして立つあの人の白くて綺麗な顔は、暗闇の中で青白く光る月のように見えた。
「──バデーニさん……
 冷たい石のように沈黙したまま、俺がいつも見る夢と同じように側に来た。
 金縛りにあったように動けないのに、昂った神経は鋭敏に衣擦れの音を拾う。

 ──夢だ。いつも見る夢と同じだ。
 そう言い聞かせても、彼の白い手が俺の胸の上にそっと乗せられた瞬間、俺の心臓が激しく脈打ち始めた。
 周りの音が聞こえなくなるぐらい鼓動音が耳の奥で鳴り響くのに、俺の顔の上に落ちるあの人の吐息が数えられる。
 その手のひらから伝わる熱と触感が、全身に染み渡っていくのが分かる。
 
 月の赤い光が、バデーニさんの顔を照らす。そこにある二本の傷跡から、血が流れているように見えた。
 鮮血を流したまま、彼が近づいてくる。
 その鮮やかな色は花畑を飛ぶ蝶のように美しかった。だが今ここで、腕を伸ばして捕まえようとしても、きっと逃げられる。
 だから、願うしかできなかった。
……貴方の血を、俺に注いでほしい」
 俺の願いに、灰色の瞳はただ沈黙を返すだけだった。でも次の瞬間、影が覆いかぶさってきた。
 
 夢とは思えない。熱と重みがオクジーの全身を満たし、生々しい存在感が降り積もる。
 夢なら覚めないでほしい。彼の血で全てを染めてほしい。
 もしこれが現なら、どうかこの腕の中にある彼の存在をこのまま信じさせてほしい。
 
 唇が重なった。その口づけに俺は身動きも、息すらもできない。ただ流れていないはずの血の匂いと、震える吐息を感じる以外には。
 その濃密な匂いと熱に俺は何かがぶつりと切れるのを感じた。
 蜘蛛の糸に捕えられた蝶のようにバデーニさんを組み敷く。
 見えない流れ続ける血が、俺の身体を全て染めるまで、俺は彼を腕から解放する気はなかった。
 仰け反り、剥き出しになった白い首元から顎まで舌でゆっくりなぞり上げると、小さな呻き声が漏れた。
 片手で彼の衣服を捲り上げ、布の隙間に指を滑らせて肌を撫でていく。
 彼の吐息が激しくなり、肌が汗ばんでいくのを手のひらで感じた。
 微かに漏れる声を一つも逃さないように、互いに何度も口づけを繰り返しながらそれを捕えた。
 
 これは夢のはずだ。
 声が頭の中で無数の蝶が羽ばたくようにざわめいた。
 激しく息づく自分のものではない熱を感じながら、暗闇に落ちるように、俺はこのまま夢を見させてくれと願った。

 目を開けると、世界は薄く発光するような白い朝に包まれていた。
 胸にぽっかりと穴が空いたようで、冷たい風がそこを吹き抜けていく。
 重い体を無理やり起こし、片手で目を覆う。しばらくの間、虚しさに苛まれた体を動かすことができなかった。
 手を下ろし、ふと枕元を見やる。
 ──そこに置いたはずのアゲハ蝶の死骸がなくなっていた。
 動くはずがない。確かに息絶えていたのを見た。
「なんで……
 
 軋むドアを開けた時、喉の奥から引きつれたような悲鳴まじりの空気が漏れた。
 背筋に冷たい汗が伝う。そのヒヤリとした感覚に、心臓まで冷たい手で鷲掴みにされたような恐怖が襲う。代闘士時代でも感じなかった緊張感が全身を覆い、息がまともに吸えなかった。
 ──地面に翅をもがれた蝶が落ちていた。
 まるで、誰かが夜にそれを取り上げ、激情の中で翅を指で千切り、バラバラに壊したかのように。

 知らず震える身体を押さえながら、翅の残骸から目が釘付けになる。
 脳裏に蘇るのは、指先にまだ残る熱。唇に焼きついた感触。それはひどく生々しく残っていた。
 あの赤い夜は夢だった、そのはずだ。でも──。
 答えはどうやっても出ない。ただ一つ、身体の奥深くに残された疼きだけが、確かな証のように思えた。

◇◇◇
 
 冷たい石の壁と天井に覆われた牢屋。俺たちは木でできた粗末な椅子に腰掛けていた。
……恨むか?」
「いやまさか」
 異端審問官の拷問は苛烈を極めた。
 俺が痛みで失神すると、バデーニさんは異端審問官に石箱の在処へと案内させられた。
 意識を失っている間、ずっとあの蝶の夢を見続けていた。

 夢から覚めると、そこは牢の中だった。簡単に縫われただけの裂けた口は腫れ上がり、耐え難いほどに激しく痛んでいる。
 しばらくすると、バデーニさんも牢に入ってきた。
……どうも」
 つい、いつものように遠慮がちに話しかけた。
 でも俺は裂けた口の痛みを気にするよりも、彼とどうしても話したいことがあった。

 死の淵から目覚めると、異端審問官によって連れてこられたバデーニさんの姿に驚いた。
 前人未到の宇宙の真理を解き明かした彼の姿は、上辺は威風堂々とした姿勢で何の感情も表情を見せなかった。上辺だけは。
 驚いたのは、まるで薄い膜のような表面から、強固な意思で隠していたはずの脆さが滲み出ているように見えたからだ。

 牢に入ってきた彼は、神から与えられた知性を誇り、研究室で憑かれたかのように一心不乱に執筆していたあの高潔な姿とはまるで違った。
 白い肌は青ざめ、やや背中を丸め、肩を落として座る。
 誰にも見せたことのない脆さを曝け出し、誇り高く輝いていたあの知性の光は、今やか細く震えていた。
 ──そこには、剥き出しのただ一人の人間がいた。
 
 拷問の最中、いやもしかしたら、初めからかもしれない。バデーニさんは俺の苦痛を全て自分の痛みとして引き受けてしまった。
 俺の命なんて見捨ててしまえば良かったのに、この人は全てを白状した。
 『全てウソだ』
 そう告げた声に、俺の中で、真実だと思っていたものが割れる音がした。
 あの時、目の前で本を燃やした冷淡な顔は、完璧に作られた仮面に過ぎなかったんだ。
 この人は、俺が描いた60ページを超える内容をすべて記憶し、それを誰も知ることのない場所に隠した。そして、この世にただ一つしか存在しない鍵で時が来るまで封じた。
「復元されるのは、君の文章だ」
 次々と出るバデーニさんの言葉によって、偽りが一つまた一つと剥がれ落ちていく。そしてその破片は砕け、牢の石床に散らばっていくようだった。
 
「全部、嘘だったんですね……
 そう言いながらも、俺の胸は落胆ではなく、むしろ温かく満たされる。
 砕け散った嘘が、光を宿したように胸に降り積もっていく。
 そうして剥き出しになった彼の本心を初めて知った。
 資料を捨てたことも。俺の本を燃やしたことも。いざとなればヨレンタさんを魔女にして告発すればいいと吐き捨てたことも。
 俺に下級市民が文字を学ぶなど無意味だと冷たく突き放したことも。
 その全てが、この人なりの「守るべき者への嘘」だったんだ。
 
 座り込む姿は翅をもぎ取られた蝶のようで、彼はもう飛べない。
 だが初めから俺を守るために、バデーニさんは自分の意思でそれを引きちぎった。
 あの赤い夜に注がれた血を思い出した。──あれは彼の本当の姿だったんだ。

「でも、貴方の想いが分かってよかった……
 そう言うと、バデーニさんの肩が小さく震え、薄く笑みが滲むのが見えた。
 涙も出ず、声も震えず。ただ、彼の心の奥で安堵が小さく芽生えたんだと俺は思う。
 貴方はとんだ嘘つきだ。と笑うしかなかった。
 けれどその嘘が全部、俺には真実に思えてならなかった。
 不思議と心は軽く、清々しい。
 
「ではもう行こう。時間だ」
「あ、まっ待ってください」
 そう言って立ち上がろうとしたバデーニさんを引き留めた。
「何だ」
「あ、あの、あの日……
「は?」
「あの日、俺のもとに来た蝶は貴方ですか?」
……蝶?」
「えっと、いや、その……俺、蝶の夢を見て……
「夢?」
「その……蝶が俺のところへ来るんです。赤い月の下でっていう……
「なんだそれ」
 呆れたようなバデーニさんの声に、思わず心が冷えてしまった。聞くだけ無駄か──そう思った瞬間。
……おい」
 ふいに呼ばれ、顔を上げるとバデーニさんの端正な顔が目の前にあった。
 何度も覗き込んだことがある灰色の左目と、月と同じ色をした動かない右目がこちらを見ている。
 驚いて反射的に身を引こうとしてしまったが、バデーニさんは構わず両手で頬の傷を避けるように俺の顔を掴んで、動きを封じた。
「──っ!」
 そして、一瞬だけ唇を重ねられた。
 確かに感触があったはずなのに、次の瞬間には夢の残像のように消えた。

……夢を見ていたのか?」
 囁くような声で問いかけてくる。
……そうかもしれませんね」
「そのまま夢を見ていた方がよかったんじゃないのか?」
 そうだ、最後まで夢にすれば良い。本当の姿を嘘で塗り固めていたくせに、貴方は俺を捕まえ離さなかった。
 でも貴方は、こんな時まで砕け散った嘘の破片で俺に触れてくる。そのことが、どうしようもないほど愛しかった。
 衝動に駆られ、あの夜と同じように彼の手を掴み引き寄せる。
……いいえ、夢なら十分に見ました」
 あの時と同じように彼は声を出さなかった。そうしてそのまま、ほんのしばらくの間抱き合った。

 牢から引き出され、縄で縛られながら処刑場へと向かう。
 冷たい石畳の感触よりも、唇に残るあの曖昧な温もりに心は縛られていた。
 俺たちの少しも怯えた様子も見せない姿に、異端審問官たちは怪訝そうに、薄気味悪そうに視線を向ける。彼らのその顔が、俺にはちょっと小気味良かった。
 
 外は強い風が吹いていた。
 処刑台以外は何の変哲もない野原が広がっている。
 背筋を伸ばして向かうバデーニさんの僧衣が風にはためく。
 白く長い裾と金色の髪は、強く羽ばたいているように見えた。
 ──風にはためく僧衣が羽に見えたのは、きっと俺の目がそう願ったからだ。

「なんだか空を飛ぼうとしているみたいですね」
 主語もない、たったそれだけの言葉にバデーニさんは笑った。
「悪くない目覚めだな」
 その言葉に、胸が熱くなる。
……ええ、悪くない夜明けでした」
 あの蝶はバデーニさんの想いと優しさの化身だった。それが俺にとっての真実だ。
 そしてその真実は、今から永遠の安らぎへと向かうバデーニさんをも、静かに高潔に、救いの光で満たしているはずだ。

 小さく息をつき、胸に降り積もった嘘の破片を確かめるように縛られた手を握りしめた。
 夜空の星が、狂い咲く花園のように瞬いている。その空を、ひらりと舞う一匹の蝶が見えた気がした。
 ──砕け散った嘘は、確かに希望に変わったのだと、そう感じられた。

【終】