もち粉
2025-08-25 20:47:50
10194文字
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その結論に、祝福を


カブミス
同情とラベリング


ミスルンと暮らし始めてしばらくたった頃――
ミスルンが仕事で遅くなった夜、彼を待ちながらカブルーは久々にカウンターに座り、控えめに酒を口に運んでいた。

「で、どうなんだ。ミスルンちゃんとの暮らしは。うまくやってるかい?」

店主の彼への呼び名に猛烈な違和感は覚えるが、そこは諦めて答える。

「まあ、案外静かでいいですよ。自分の時間があるし、干渉されないし……俺は、そういうのがちょうどよくて」

「しかしあれだねえ。リンシャちゃんとは、随分違うタイプを選んだもんだ」

……リンは仲間です。大事な幼なじみで、姉みたいなもので。彼女にはずっと世話になったし、今でも感謝しています」

カブルーは少しだけグラスを傾けて、考え考え言葉を紡ぐ。

「彼は……ミスルンさんは、別に恋人とかそういうのじゃなくて。ただ……自分でもよくわかりません。ちょっと事情のある人で、放ってもおけないし、あの人、なんていうか……危なっかしくて」

グラスを揺らして、琥珀色の酒に天井の明かりが映るのを見つめる。グラスの表面には、自分の顔が歪んで映っていた。今の自分は、どんな顔をしているのだろう。

「強いひとではあるんですけど――見てて痛々しいっていうか、可哀想……なんて。思うのは、失礼なことだとは、思うんですが」

店主は笑ってグラスを磨きながら、ちらと視線を向けた。

「それ、十分じゃないかい?……可哀想だた、惚れたってことよ」

ウィンクがひとつ、つぶらな瞳から飛んできた。

カブルーは言葉を失って、ただグラスを握りしめていた。


*****

夜の街が、少しずつ明かりを落としていく。目抜き通りだけに街灯が灯り、他はぽつりぽつりと、夜通し営業する酒屋や娼館の窓から光が漏れるばかりだった。

……可哀想だた、惚れたってことよ」

あのときの店主の言葉を、ひとりごとのように繰り返す。

苦笑するつもりだったが、口元は動かず、胸だけが鈍く重い。
惚れたってこと。――ああ、そうかもしれない。
でも、自分は惚れた相手に"名札"を貼って、輪郭を整えて、それで満足していたのではないか?

ミスルンには、欲がない。悪魔に食べられて失ってしまった――彼自身、そう思い込んでいた。

でも、カブルーは知っている。生きているかぎり、人はきっとまた何かを欲しがる。だから言ったのだ。「新しい欲を、見つけてみませんか」と。

感情まで失ったわけじゃない。ミスルンは、その場その場で、ちゃんと感じている。
ただ――たとえば、食事が美味しくても「もっと食べたい」とは思わない。寒さを感じても、温まりたいとは言わない。
欲がないということは、次の行動を生まないということだ。
思わず拳を振り上げて、自分の怒りに気づくこともない。
ミスルンの感情は、行き場を失って、ただ空中に漂ったままだ。

カブルーはつい、欲求の部分ばかり育てようとしてしまっていた。

雨に打たれたミスルンに、「今、身体が濡れて〈不快〉ですよね? この後どうしたらいいと思いますか?」と聞いたり、
小さな子から花冠を頭に載せてもらったミスルンに、「今、〈かわいくて〉〈嬉しい〉ですよね。そう感じたらどうしますか?」と問いかけたり。
ミスルンがおずおずと子供の頭を撫でて、礼を述べるのを、満足げに見守っていたのだ。

あまりに簡単に――彼の感情を、勝手に分類して、勝手に名札をつけて。
そうして人ひとりを形作る。カブルーの勝手な分類の上で、ミスルンに「正しい行動」を選ばせる。

……それはなんと、傲慢なことか。

気づいたときには、恐ろしくなって、思わず逃げ出していた。


ミスルンが髪飾りを受け取った時の、あの完璧すぎる笑顔。
あれはおそらく――贈り物をもらったら〈嬉しい〉。だから「笑う」、「お礼を言う」。そう学習してしまっただけだ。
きっとあの笑顔は、かつてすべてを見下し、完璧な青年を装っていた頃のもの。

カブルーが本当に見たかったのは、あの笑顔だっただろうか?

――違う。

本当は。
「野菜クズにも使い道がある」って、通りすがりのセンシに何気なく言われたときに見せた、あの笑顔。

あの笑顔は、
自分は食べ残しの、野菜クズだと卑下していたミスルンの胸の奥から――自然にこぼれて咲いたものだ。

分類なんて不要だ。名札なんて無用だ。

あの笑顔が、もう一度見たかった。
どうしてあの言葉を言えたのが、自分じゃなかったのだろう。
そんな悔しさが、きっとあった。

だから、市場であの髪飾りを見つけたとき、またあんなふうに笑ってくれないかと、つい期待してしまった。

なのに、自分が思ったように笑ってくれなかったからって、失望するなんて――ひどい話だ。

今度は、
「ほら、この不要品がこんなに綺麗な髪飾りに再生されてるんですよ。何か思うところはありませんか?」
なんて、また「正解」に誘導でもするつもりか。

今後、彼にどう接したらいいのか分からない。
思考はからまり続けて、答えはいまだ見えてこない。

――でも、あの暗い部屋に、あまり長く待たせるのは、やっぱり可哀想だ。

夜風が染みる。遠くから、潮の香りがした気がする。
カブルーはぶるりと震えて、部屋への道を引き返し始めた。


*****

酒場の地下。夜半の星の下。
ちょうどカブルーが、城のバルコニーから酒場のあたりを見おろした頃――

ミスルンは、じっと座っていたベッドから音もなく立ち上がった。

ひとりで過ごす酒場の地下は妙に広く感じた。
天井の染みの位置も、椅子のきしむ音も変わらないのに、部屋全体が、静かに引き伸ばされたようだった。

彼の出ていった朝から、机の隅に置いたままの小さな髪飾り。
厚みのある陶片が、窓からの光を受けて表面を鈍く光らせていた。

指先で、そっと触れる。
贈られたときに胸の奥に灯った"なにか"は、今も確かに残っている。
けれど、それが何なのか考えようとすると、霧が立ちこめてしまう。

贈り物をもらったら〈嬉しい〉。
親しい者と離れるのは〈さみしい〉。
――合っているはずだ。

では、どうしてお礼を伝えられたカブルーの顔がこわばったのか。
出ていく彼に〈さみしい〉と伝えたら、どうして困った顔をされたのか。
……間違っていたのだろうか? では今は?

〈さみしい〉以外を探そうと、自分の胸の内に手を伸ばしてみる。

胸の奥が、どこか冷たい気がする。
〈不満〉?〈不愉快〉?〈恐ろしい〉だろうか。〈つまらない〉〈苦しい〉〈悲しい〉〈助けてほしい〉当てはまりそうな単語を並べてみるが、正解がわからない。
答えの出ない夜を、いくつも越えてきた。

……カブルーがいないと、何を感じているのかもうまく認識できない自分を痛感する。


迷宮で、問われるままに開示した己の過去。
長く、複雑で、今なお血を流すその話を、カブルーは見事に整理してくれた。
醜さも、卑小さも、過去の自分はすべて物語の中に収まり、ミスルンの手の中に戻ってきた。

それはあくまで、ライオスに"迷宮の主となった者の末路"を伝えるためで、ミスルンのためではなかったけれど――
ミスルンにとって、それは、長く持て余していた自分を、初めて俯瞰できた瞬間だった。

以来、彼は心の大部分を、カブルーに預けてしまっていた。


髪飾りを手にとって、ゆっくりと縁をなぞる。
丸く磨かれた角が、優しい感触を指先に伝えてくる。

今なら――この感情なら。
カブルーに言葉をもらわなくても、自分で〈選べる〉気がしていた。

髪に留める手はぎこちない。左右のバランスも、見えないからわからない。
鏡のないこの部屋では分からないが、外に出れば、店先の窓にでも映るだろう。

上着を着る。
靴を履く。
外の空気に触れるための準備が、少しずつ形になっていく。

階段を上がる足音が、小さな余韻を残す。まるで、いま名前をつけたばかりの感情が脈打つように。

酒場は、喧騒も過ぎ、わずかに残った酔客たちが、静かに酒を酌み交わしていた。

「あれ、ミスルンちゃん、出かけるのかい? こんな夜中に」

声をかけてきた店主に、ミスルンは静かに微笑んだ。

「カブルーを迎えに行ってくる」

ドアを開けて外に出る。
冷たい夜風が、頬を撫でていく。
星空を切り取るように、黒く沈む城のシルエット。
ミスルンは、まっすぐに歩き出した。