もち粉
2025-08-25 20:47:50
10194文字
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その結論に、祝福を


カブミス
同情とラベリング

上から賑やかな酒場の喧騒が伝わってくる。
各々仕事を終えて合流し、いつものように上階の酒場で夕飯を取った。
その後、カブルーの間借りしている地下の部屋に下がったところだ。

「市場もね、必需品ばかりではなく、嗜好品類の店も出始めたんですよ。もっとも、今は好き放題に露天商が出ているだけですが。場所を決めるとか、許可制にするとか、色々考えなくてはいけないことが山積みで」

大げさに嘆いてみせたが、カブルーのその顔は充実感で輝いている。
静かに聞いているミスルンの方の顔付きは、常のごとく、しんとしたものだった。その顔が少しでも動かないかと、カブルーはポケットからそっと小さな包みを取り出した。

「こんなの売ってたんです。割れた陶片を磨いて髪飾りにしたものなんだけど、隊服の色と合いそうだったから」

ミスルンは、手渡された飾りをじっと見つめる。
ぽってりとした質感の、深緑色の陶器の破片が留め金の上に並んでいる。角は磨かれて丸みを帯び、光を柔らかく反射している。形は歪だが、不思議と手に馴染んだ。

……これは、〈嬉しい〉で合っているな?」

チラリと目を上げて、カブルーに問う。
ミスルンの反応を見逃すまいと見つめていたカブルーの視線が揺れる。
迷うように、彼の指が机の縁をなぞった。

……ああうん、そうですね。」
「ありがとう、お前が私の事を思って、選んでくれたことが〈嬉しい〉」

「大切にする」と、にっこりと、きれいな作り笑顔を浮かべたミスルンに、カブルーの表情が翳った。


*****

ミスルンの寝顔を見つめながら、カブルーは先ほど自分の胸を冷やした疑問について考えていた。

ここは、彼が間借りしている部屋――もとは酒場の貯蔵庫だった空間に、無理やりベッドと机を押し込んだだけのものだ。暗くて、うるさくて、冬は寒い。今が夏でよかった。

カブルー自身はこの部屋を気に入っていた。だが、迷宮に潜る合間の短期滞在ならともかく、悪魔が消滅し迷宮が崩壊した今となっては、長く住むには向かない。そして何より、ミスルンを泊めるような場所では、決してなかった。

しかし今、カブルーは一時的に、この暗く狭い部屋でミスルンと暮らしていた。

大使館の仮庁舎が整うまでの間、ミスルンの身柄を預かってほしいと、パッタドルに頼まれたのだ。「隊長もそれを希望されていますし」と言われては、彼をこちらの世界に引き戻した手前、放っておくことなどできなかった。

とはいえ、大家の許可は必要だ。
この部屋の大家である酒場の店主には、ミスルンを「迷宮で知り合い、メリニに残ることになった者」と簡潔に紹介し、今後の食事の用意を頼んだ。

カブルーひとりなら帰らない日も多く、帰っても適当に作ってもらっていたが、ミスルンがいるなら三食きちんと必要だろう。

「しばらく、ひとりじゃ不安なようなので。彼を地下に住まわせます。食費は——まあ、折半で」

カブルーがもう一本の鍵を受け取りながら言うと、酒場の主はニヤニヤと目を三日月に細めた。

「ははーん……お前もとうとう」
「彼、ですよ」

紹介のために自分の前に立たせていたミスルンのその髪を少し持ち上げて、耳を見せる。
半ばまで噛み切られたように欠けてはいたが、それでもエルフ特有の耳の形を残していた。

どうやら耳が髪に隠れていたため、トールマンの女の子に見えたらしい。
だが店主は「皆まで言うな」とばかりに顔をしかめ、ぽんと肩を叩いてきた。

「わかってる、わかってる。今どき細かいことは気にしないさ。いやぁ、若いってのはいいねぇ」

うぐぐ。
ここで変に反論すれば、ドツボにハマる。
カブルーは、うっかり首筋まで熱くなるのを自覚しながら、鍵を握りしめ、そっと視線を逸らした。

まあ、その誤解のおかげで、本来なら一番いい席である奥の半個室を、かきいれ時の夕飯時にも使わせてもらえる。
店内の喧騒が届きにくいその席は、ミスルンにとってはありがたかった。


*****

カブルーが髪飾りを贈ってから数日後、酒場の席はいつもより静かだった。

「なんだい、ミスルンちゃん、カブルーのやつ、まだ帰って来てねぇのか?朝早く出てったきりじゃねぇか」

ミスルンは、いい年の男に「ちゃん」はないだろうと思ったが、正そうという欲も沸かないので、こくりと頷くだけだった。

「政務が忙しいから、しばらく城に泊まり込むそうだ」

「まったく、いくら忙しいからって、恋人を放っておいちゃいけないよなぁ。おれもカカアと付き合ってたころはな……

店主の昔話は延々と続き、長話を遮ろうという欲もないミスルンは、夫婦の馴れ初めから先日の喧嘩の原因、昨晩の夕飯のメニューに至るまで、必要のない知識をふんだんに得る羽目になった。


*****

ようやく店主から解放されて、地下に戻ったミスルンは、机の上の髪飾りを眺めた。

「最近は国土の視察も多くて、出たり入ったりで……さすがに毎回、酒場まで戻るのが手間で。一時的に移るだけですから」

食事は店主に頼んであるから、時間になったら上がるように。決まった時間にトイレに行くこと。二日に一度は風呂屋に行くこと。何か困ったらパッタドルに連絡を――
まるで子どもに言い聞かせるように、細々と注意事項を伝えながら、カブルーは荷造りをしていった。

最後に、ふと、こちらを振り返って尋ねた。

……今、どんな気持ちですか?」

「〈さみしい〉」

ミスルンは即答した。
自分とパッタドルを残して帰国の途につくカナリア隊の船を見送った時、胸のあたりがすうすうする、と言った自分に、カブルーが教えてくれた言葉だった。

カブルーは、困ったような顔でしばらくミスルンを見て、それから「そのうち帰ってきますから」と言い残して部屋を出ていった。



その時、ミスルンは何かを決定的に間違えてしまったような気がした。
けれど、それが何なのかはわからなかった。
階段を上がっていくカブルーの背中を、ただ黙って見送った。

パタン、と扉が閉じる音がした。

名前のつかない何かが、胸の奥でゆらゆらと揺れる。
でもそれが何なのか、やはり言葉にはならない。
ただ、何かが揺れ続けていることだけが、はっきりしていた。

いつもなら、カブルーがミスルンの胸のうちに、名前をつけてくれるのに。

「これは……〈不安〉、なのか? 違う……?」

声にしてみると、音が空気に溶けていくだけだった。

誰かに答えてほしい。この感情は「〈――〉ですよ」と定義してほしい。
でも、その誰かがいない。

だからミスルンは、カブルーと暮らし始めて初めて、
名前のない感情の中に、立ち尽くしていた。


*****

ミスルンはベッドの奥でまっすぐ仰向けになり、目を開けていた。
カブルーは書類整理を終えるとランプの明かりを絞って、ミスルンに声をかける。

……今日も眠れなそうですか?」

ミスルンは答えず、ただ足を片方、布団の下で少しだけずらして見せる。
暗黙の了解。

カブルーはため息をつきながら、布団をめくって冷たいその足に指先をあてる。静かなマッサージが始まる。


数分後――
足が暖まってくると、ミスルンがうとうとしだすので、そのタイミングでランプを消して、カブルーも布団に入る。
ベッドは一つしかないので、小柄な者同士、一つベッドで一緒に寝ている。

少しの沈黙が落ちる。
ミスルンがこちらを向いて丸まり、眠りに落ちるのを見届けると、カブルーも目を閉じる。

マッサージをしてやるのに、仕方ないなぁなんてため息をついてみせるけど、別に全然嫌じゃなかった。
ミスルンと寝るようになってから、一度も寝酒の力を借りてない。
カブルーの指もぽかぽかと暖まり、その熱が引くにつれ、眠気がゆっくりと滲んでくる。

今が夏でよかった。冬だったら、きっとすぐそばのぬくもりを抱きしめてしまっていた。


*****

城の寝室は、妙に広かった。
火を落としても、壁の装飾が目にちらついてうるさい。天井の高さが、考え事を跳ね返してくるみたいで落ち着かない。

カブルーは寝台の上で、何度か寝返りを打った。
枕の柔らかさも、シーツの香りも、なにもかも整いすぎている。

……快適すぎるのも問題か」

そう呟いても、誰も返してはくれない。
目を閉じると、酒場の地下室の上階のざわめきが漂ってくる空気と、隣で身体を丸めて眠っていた気配が思い出される。

一瞬うとうととしたような気もするが、目覚めるとまだ深夜だった。指先に、誰かに触れ損ねたような冷えが残っていた。

昼間、執務の合間にヤアドに気遣わしげな顔で「よく眠れてますか?」と聞かれた。
カブルーは「まあまあです」と答えたけれど、疑わしそうに見られて終わった。

彼はベッドの端に腰掛け、靴を履いて、外に出る。
深夜の城の回廊を歩いていると、自分の足音だけが、広い石造りの廊下にこだまする。

歩きながら、グルグルととりとめのない思考が巡る。来週の晩餐会の席次、オークに怯えるトールマンからの苦情への回答書の草案、ライオスの間食防止策、魔物に食われて消えた故郷の人々――
ここは魔物を退けるという、本人以外にとっては祝福を受けた悪食王のお膝元の黄金城。世界で最も安全な場所。
そんな場所に、一人逃げ込んでいる自分を、どこかで責める声がする。自分を庇って魔物に食われた母が、そんな事を言うはずがないと分かっているのに――

そのとき、ふと気づく。
あの人が隣で、小さくため息をつくように眠りに落ちる夜は、自分の中の"考えすぎる何か"も、少し黙ってくれていた。

そういう時間を、もう一度味わいたい――そう思ったとき、ようやくそいつに名前をつけた。「孤独」という名前だった。

回廊を抜け、街を見下ろす広いバルコニーに出る。
月の光が手すり際を照らしていて、そこに立って深く息を吐いた。
街の一角がまだ明るい。ねぐらの酒場も、たぶんあの辺だ。

ミスルンは、まだあの地下にいるんだろうか。
とっくにパッタドルに連絡して、彼女と同じ宿に移っていてもおかしくない。

でも、不思議と確信があった。
彼はきっと、あの酒場の地下で――薄暗いあの部屋で、ぽつんと自分を待っている。
そう思ったら、胸がきゅっと締めつけられて、ひどく可哀想になった。