4wsdig
2025-08-19 00:26:22
14535文字
Public
 

恋に世界は殉じない



 北海道で気持ちに区切りをつけ、火村にそれを伝えてから一週間。当然ながら、火村からは何の連絡も入らなかった。彼の心境を思えば当然のことだろう。
 件の土曜日を、もしかしたら火村に恋人ができるのかもしれないのだなぁと何とも言えない感慨とともに迎え、しかしながら感傷に浸るのももう飽きていたので、予定どおり京都の国立博物館へと出向いた。夕飯でもどうかと朝井に声を掛けてみたが、生憎と先輩には先約があるらしい。まあ、そんなこともあるだろう。
 午後一番から夕方になるまでを博物館で過ごし、図録を抱えて大阪に帰り着いたのは夜のはじめ頃だった。自炊をする気分にはなれなかったので、混み始める前にファミリーレストランへ滑り込み、腹を満たして帰宅したのが夜の八時前。風呂をすませて晩酌にビールを開けながら、ひさびさにわが愛する阪神タイガースの試合でも見届けようかとテレビのリモコンを手に取った瞬間にインターホンが鳴った。

 玄関のドアを開けると、そこに立っていたのは火村英生だった。立ち尽くしている、という表現がぴったりくるその表情は暗く、そして体からは酒の匂いがする。
「ど、どうしたんや急に」
 予想外の客人のただならぬ様子に慌てながら、とりあえず中へ入るように促した。友人は素直に框を上がり、のろのろとリビングに入ってくる。彼らしからぬ動きだ。
「君、今日は……だって、」
……飲んでたのか」
 テーブルの上の缶ビールを目ざとく見つけた火村の声に、困惑しながら頷く。君の恋愛成就を祈って盃を傾けていたなどと言える雰囲気ではない。すると火村が「俺にもくれないか」などと言ってくるので、訳も判らぬままに冷蔵庫から冷えたビールを持ってきた。
「悪いな」
「いや別に、それはええけど」
 手渡した缶ビールを受け取るや否や、プルタブを開けて火村が一気にひと缶を一気に飲み干した。空になった缶をテーブルに置く音を聞きながら、既に酒臭かったくせに一気飲みなんかして大丈夫なのかと心配になる。だが口にできる空気ではない。
 この様子では、恋人になりたい相手とやらとはうまくいかなかったのだろう。どう見ても失恋の自棄酒というやつだ。それに同情できるほどには、私の心は凪いでいた。
 それにしても意外と型どおりの落ち込み方をするのだなと思ったが、失恋旅行で傷心に浸ってきた私から言える義理ではない。せめて自棄酒には付き合ってやろうと頭の中で酒の在庫を数えていると、火村がふらふらとした足取りでソファに向かい、どっかりと座り込んだ。
……付き合ってほしいと言われた」
 低い声で、吐き出すように火村が言う。それはまったく予想外の報告であった。自棄酒ではなく祝杯だったのか。もっと判りやすい態度にしてほしい。
「よかったやん! 気になってる相手やったんやろ?」
 はしゃぐような声を上げてみせたが、火村の表情は沈鬱なままだった。弱いくせに浮かれて酒を飲みすぎて、気分が悪くなっているのかもしれない。そんなことを心配していると、火村からは予想外の言葉が続いた。
「断ったよ」
「はぁ!? なんでや」
「それを、お前が言うのかよ」
 据わった目で火村が私をにらみつける。目つきの悪さが酒のせいなのか機嫌のせいなのか、判断がつかない。
「お前が……お前が俺を──好きだったなんて言うから」
 恨みがましいような声で言われて、ひゅっと喉が鳴った。火村が自分の膝を見つめるように顔を伏せる。
……俺に気を遣ったとでも言うんか?」
 自分でも驚くほど冷たい声が出た。火村が伏せていた顔を上げて私へと視線を向ける。だが視線が重なったのは一瞬のことで、すぐに目を逸らされた。その事実に小さく傷ついて、拳を握り締める。
「そうじゃない。でも」
「でも?」
……お前が俺を好きでいてくれて、なのに俺の知らないところで勝手に区切りをつけたって聞いて、頭の中が真っ暗になったんだ」
 真っ暗になるのは目の前で、頭の中は真っ白になるものではないか、と思ったが黙っておく。余計な茶々を入れられる状況ではない。
「俺は何かとてつもなく──大事なものを失くした気がして」
 火村は相変わらず私の目を見ない。ソファに座ったままの友人のつむじを、立ったままの私が見ている。蛍光灯の灯りに彼の若白髪がきらりと光った。
「そんな大層なもんやないやろ。別に俺は、君を好きな気持ちに区切りをつけたからって君への友情まで失くしたわけやない。むしろ素直に君の幸せを喜べるって……
「どうしてくれるんだよ、畜生」
 私の弁解に、火村は聞く耳を持たない。友人はもう一度、吐き捨てるように「畜生」と呟いた。
「俺だって、俺だって……お前を好きだったのに」
 知っている、とは言わなかった。言えなかった。かつて火村が洩らした心の裡。私を喜ばせ、自惚れさせたあの夜。だが、かつての私への好意を振り切って新しい相手に恋をしたのではないのか。
「やっとだぞ、大学の頃からずっとお前を好きでいて、でもお前はそんな素振りちっとも見せなかったから、やっとお前じゃなくてもいいと思える相手だったんだ」
「火村……
「なのにお前が、今更あんなこと……俺を好きだなんて言うから」
 火村が突如ソファから立ち上がる。そんなに急に立ち上がって、先ほど一気飲みした酒が周りはしないかと今更なことを心配していると、いつの間にか目の前に立っていた火村から二の腕を掴んで引っ張られた。
 バランスを崩してたたらを踏んだ私の体を火村が抱きとめる。急な暴挙に火村の意図を測りかねて当惑していると、顎を持ち上げられてそのまま唇を重ねられた。
「──っ!?」
 舌が入ってくるような深いキスでこそなかったが、触れた唇からはビールの味がして、呼気からもアルコールの匂いがする。酔っているのだ。酔っているから、こんな支離滅裂なことをしている。そうに違いない。常の彼ならば絶対に働かないような暴挙だ。
 酔っ払いの蛮行として突き放して、そのまま寝かせてしまえばいい。どうせ火村は、明日の朝に目を覚ましたら何も覚えてはいないだろう。十二年前にそうだったように、先日新しい恋について教えてくれた夜もそうだったように。そう思うのに、体が動かない。
「やっと」
 喉の奥から絞り出すような声だった。聞いたこともない、弱々しいバリトンが耳に届く。こんなに弱った火村の声を、私は聞いたことがない。
「やっとお前以外を好きになれたはずだったのに……
 耳許でその掠れた声を聞きながら、北海道で流し尽くしたはずの涙がじわりと滲んでくるのが判った。成就するはずだった新しい恋を投げ棄てて今こうして私を抱き締めている男には、ふだんの強さも鋭さも、そうして彼の最大の武器であるはずの理知もない。
「アホやなぁ、君は」
 幸せになれるはずだったのに。私への古い恋心なんて見なかったふりをして新しい恋を掴んでしまえば、今頃は幸福の中にいられただろうに。
 私の言葉に火村は反論しなかった。代わりに私の体を抱き締めている腕に力が入る。
「君も俺も、アホすぎるわ……
 自嘲とともに目尻からついにぼろりと涙がこぼれた。私の口を塞ぐようにまた火村からキスをされて、そうして私はそれを拒否せず受け入れる。痺れるようなアルコールの味のする舌が、できたばかりの心の瘡蓋を抉っていく。その痛みがこれが都合のいい──そして悪い夢ではないことを知らしめていた。

(了)