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4wsdig
2025-08-19 00:26:22
14535文字
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恋に世界は殉じない
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「疲れた
……
」
自宅から伊丹空港まで一時間、伊丹から新千歳まで二時間弱の旅を終え、予約していた新千歳空港近くのホテルにチェックインした私の第一声である。荷解きは後にして、スプリングの効いたベッドに腰を下ろして深く息を吐く。
役目を果たした搭乗券に刻まれた〈新千歳〉の文字としばし見つめ合ってから、窓から覗く空へと視線を移した。いい天気だ。
気分転換に旅行でもしてきたら、と朝井が勧めてくれたのは、梅田で醜態を晒した日の帰り際だった。──私らの仕事ってただでさえ家の中にこもりきりになるやろ、遠くに行ってリフレッシュしてきたら?
朝井は九州沖縄のリゾート地を挙げてくれたが、天の邪鬼なことに私はその提案とは真逆の北海道を失恋旅行の舞台に選んだ。南の島は今の気分には眩しすぎたし、何より、気持ちに区切りをつけるなら一度は火村の生まれ育った土地に行ってみたいと思ったのだ。
思いきり感傷に浸りたかったので本当は大阪にスマホを置いていきたいぐらいだったが、現代の旅行でそれは現実的ではない。何をするにもスマホは必須だし、何より仕事の連絡が入ったら困る。妥協案として、火村からの連絡の通知だけをオフにした。こんなことまでして、旅行中一度も火村から連絡が入らなかったらお笑い草だが。
──北海道には、子供の頃に住んでいたと言っていた。彼の口から聞いたことがあるのはそれだけだ。ただなんとなく、星を見るのが好きだったと言うのは北海道に住んでいた頃の話だっただろうなという予想をしているぐらいだ。
別に探偵の真似事をして札幌にいた頃の火村の手がかりを調べて回ろうと思っているわけではないし、そんな能力もない。本当にただなんとなく、彼のルーツの一番深いだろうところに来てみたかっただけなのだ。
背中を倒して、仰向けにベッドへと横たわる。目の端に涙が滲んでいるのは欠伸をしたせいだ、と自分に言い訳しようとして、別に言い訳などする必要はないのだと思い直した。なぜならこれは失恋旅行で、誰にはばかることなく思いきり感傷的になるためにここまで来たのだから。
◇
ところで私は旅行というものが好きである。火村との旅行ではツアーコンダクターを名乗って幹事を務めることも多かったし、ひとり旅も好む方だ。
というわけで私は、今回の失恋旅行にもいきあたりばったりではなく旅程というものを組んでいた。わざわざ飛行機に乗ってはるばる大阪からやってきたのだ。満喫しなければもったいない。
一日目の夜は旅の疲れもあったのだろう、失恋に浸って泣いているうちにいつの間にか寝入ってしまったため、翌朝は当然空腹で目を覚ました。ホテルの朝食バイキングで心ゆくまで腹を満たしてからチェックアウトする。
南千歳まで出てから〈特急おおぞら1号〉に乗り釧路へ向かい、そこから花咲線で根室に向かうのが今日の予定だ。移動予定距離はおよそ四四〇キロ、北海道はなんとも広大である。
初めて乗る〈特急おおぞら〉はゆったりとした座席幅で、長距離移動も苦にならないシートに体を預けながら車窓から十勝平野の雄大な土地が流れていくのを見つめた。電車に揺られながら本を読むのも好きだが、旅先ではやはり風景を楽しむに限る。
十勝川や利別川など何本かの川を通り過ぎ、水の街と自認している大阪とはまったく違う川幅に感動しているうちに第一の目的地である釧路に到着した。釧路と言えば、かの石川啄木の記念館である。いそいそと資料館へ向かい、展示物を端から端まで見て回った後、手近なラーメン屋に入って腹を満たした。北海道といえば海産物とラーメンのイメージが強いが、はたして釧路にも適応されるのだろうか。名物は抑えておきたいところだ。
駅に戻って花咲線に乗り込み、根室を目指す。山間を抜け湿原を過ぎた先にたどり着いた根室駅には日本最東端の有人駅という看板があって、これはさすがに記念写真を撮ってしまった。やはりスマホを持ってきたのは正解だったなとしみじみ思う。
北海道では適当な回転寿司もうまい、といつぞやに片桐が語っていたのを思い出して、その言葉を信じてチェーン店らしき回転寿司に飛び込んでみる。半信半疑だったことを片桐と北海道の地に謝りたくなるほどネタが大きく、寿司は大変にうまかった。
私の組んだ旅程は六泊七日、一週間の北海道鉄道グルメ旅である。三日目は釧路に戻ってから釧網本線で網走へ向かい、四日目は網走から旭川を経由して豊富へ、五日目は豊富から札幌を目指し、札幌を心ゆくまで観光してから千歳へ戻るというスケジュールだ。
一度は乗ってみたかった〈特急オホーツク〉や〈特急サロベツ〉、〈特急北斗〉にも乗ることができて北海道の鉄道を満喫できる、われながら上出来の日程である。美食の地として有名なだけあって、ラーメンも寿司も海鮮丼も、ふらりと立ち寄った店で何を食べてもうまい。
観光地らしい観光地にはあまり立ち寄らず、主に電車に乗り続ける旅だったが、車窓からの景色は存分に私の心を慰めてくれた。電車に揺られているうちに不意に涙が滲んでくることもあったが、幸い車内に乗客は少なかったので人に見られることを心配せずに済んだのも大きい。鉄道ファンとしては経営が心配になるところでもあったが。
五日目の夕方は札幌駅に着いてすぐホテルに荷物を置き、ジンギスカンの看板を掲げている店へ飛び込んだ。やはり北海道に来たら一度は食べておくべきだろう。ふだんあまり食べることのないラム肉を堪能し、腹が文字どおりに膨れたところで店を出た。ホテルに戻る道すがら夜空を見上げてみたが、札幌はさすがに都会なので大阪に較べて星がよく見えると感動するようなことはない。だがそれでよかった。
北海道の広い空で星が見たいのなら、今までいくらだって機会はあったのだ。今からだって、満天の星空が見たいのなら観光名所にでも行けばいい。けれど私が見たかったのは、かつて火村が見ていたであろう、特別ではない夜空だったのだ。
──恋人ってわけじゃないんだ、ただそうなれたらいいなと思ってる相手がいて。
険しさも翳も見当たらなかったあの日の火村の顔は、忘れたくても忘れられない。穏やかな、それでいて新しい恋に浮かれていたあの顔。火村英生という男に似つかわしくもない。だがそれが今の彼なのだ。
目の奥が熱くなってきて、これはまずい兆候だと歯を食いしばって足早にホテルの部屋へと駆け込んだ。ドアガードを閉めてしんと静かな室内を確保できたのだと安心した瞬間、じわりと涙が浮かんでくる。
「なんやねんあいつ、お
……
俺の」
情けなく顫える声が口からこぼれた。みっともないのは声だけではない。なんてあさましくて、醜い言葉だろう。そう思っても止まらなかった。
「俺のことが好きやって言ったくせに
……
!」
手の甲で拭っても拭っても涙が止まらない。そのうちにすべてを諦め、初日の夜と同じように好きなだけ泣くことにした。
十二年前、確かに火村は私を好きだと言った。あの翌朝にでも私から告白していれば、あの男を手に入れることができていたのだろうか。そうすれば今でも、彼にあんな顔をさせるのは私でいられたのだろうか。そんなことを今更考えても、ただ虚しいばかりだった。
涙にはデトックス効果があると聞いたことがあるが、なるほど泣き疲れて眠った翌朝はだいぶ気持ちがすっきりしている。失った水分を補うようにペットボトルの水を一気に飲み干し、部屋のカーテンを開けた。朝七時の街並みは既に明るい。動き始めている札幌の街を見ているうちに腹が鳴った。ちょうどいい、朝食の時間だ。
「現金なもんやなぁ」
昨夜はこの世の終わりかというぐらい泣き明かしたのに、もう腹が減っている。だがまあ、そんなものだ。恋が終わったからと言って人生が終わるわけではないことを、私は高校時代の失恋からよくよく学んでいた。
ひとしきり泣いたおかげだろうか。晴れやかな気持ちで私は残りの日程を満喫し、最終日には今回迷惑を掛けてしまった朝井と、北白川の大家夫人とその店子にたらふくの土産を買い込んだ。
新千歳空港のラウンジで飛行機を待つ間、スマホを取り出して火村からの連絡を確認する。LINEを開くと、奇しくも旅行初日の夜に友人からのメッセージが入っていた。
〈犯罪者会学会の会誌が届いてる。近いうちに取りに来いよ〉
この誘いから二日空けて、もう一言が追加されている。返事の催促のつもりなのかもしれない。
〈婆ちゃんも顔を見せに来いってさ〉
二通のメッセージを、最初のものから数えるとまるまる一週間放置していたことにさすがに申し訳なさが沸いた。まあ、締め切り前とでも思ってくれているかもしれない。
返事の内容に悩んでいるうちに飛行機の搭乗が始まって、連絡は大阪に帰ってからにすることにした。一週間経っているのだ。今更数時間遅れたところで大した問題ではない。
どのみち予定を合わせる必要があるのだから、夜にでも電話をすればいいだろう。そう判断してスマホをしまい、北の大地へと別れを告げるため飛行機に乗り込んだ。
◇
紙袋ふたつ分の北海道土産を持って北白川の下宿屋を訪れたのは、大阪に帰ってきたその週末のことだった。旅行に行っていたことを伏せていたので、大量の土産に婆ちゃんと火村が目を丸くしたのを見てにんまり笑ってしまう。サプライズ大成功というやつだ。
婆ちゃんが淹れてくれた宇治の銘茶を啜りながら、北海道の土産話を披露する。電車の中から湿原で白鳥の群れを見たこと、乗っていた電車が山間を走っている時にエゾシカと衝突しかけたこと、適当に入った店の料理がすべておいしかったこと、新千歳空港が広大でなんと空港内に温泉まであったこと。
私が買ってきた定番土産である六花亭のポテトチップスをつまみながらひととおりの話を聞いていた火村が、話の切れ目に「それにしても」と入ってきた。指についたポテトチップスの塩を舌で舐めとっている。行儀が悪い。
「連絡が取れないと思ってたら、なんで急に北海道だったんだよ。取材旅行か?」
まさか君の生まれた街を見てみたかったと素直に答えるわけにもいかず、私は曖昧に笑った。友人にいきなりそんなことを言われても気持ちが悪いだろう。
「いや、そういうわけやない。なんとなく、前から行ってみたいと思ってたんや」
「なんだよ。言ってくれれば道案内ぐらいはしたぜ」
「君が北海道に住んでたのは子供の頃の話やろ。案内なんかできるんか?」
「まあ、そりゃそうだけどさ」
言い淀んだ火村を見て、婆ちゃんが笑う。私が「君は意外といい加減なことを言うよな」と突つくと、火村は面白くなさそうにふてくされた。
ポテトチップスの袋と各々の湯呑が空になった頃合いで、火村ともども二階へ上がる。学会誌のこともあるが、何よりニコチンが切れたのだろう。
勝手知ったる六畳間の座卓には既に学会誌の最新号が用意されていた。彼にしては珍しく、準備のいいことだ。
「そういえば、来週もまた来るんだろ? そっちは何の用事なんだ?」
火村が座布団の上に腰を下ろして煙草に火を点けると、一体いつの間に部屋に入ってきたのか、白黒柄の体をした小次郎がするりと火村の膝へ身を寄せた。
「国立博物館の特別展を見に行こうと思っててな。来週の土曜からなんや」
「へぇ。そういえばお前、博物館とか美術館とか好きだよな」
「そうか? 普通やろ」
趣味と言えるほど通い詰めているわけでもないし、こまめに展示をチェックしているわけでもない。たまたまポスターを見かけたから行こうと思っただけで、人並み程度の興味だろう。好きだと言うには熱意のようなものが足りない気がする。
「俺の用事は別にどうでもええけど、君は」
一瞬、言葉を続けるかどうか悩んだ。けれど今日、私はこれを言うために来たのだ。そう己を叱咤して、肚を決める。
「君は
……
土曜日、頑張れよ」
「はぁ?」
突然のエールに、火村が困惑を隠さず間の抜けた声を上げた。急に何の話だよ、と顔に書いてある。
「前に君、言うてたぞ。恋人になりたい相手がいて、十八日はその人と会うんやって」
「
……
そんなこと、言ったか?」
「言ってた。酒が入ってたから、君は覚えてないかもしれんけど」
火村が苦々しく舌打ちをして、荒い動作で煙草を灰皿に押し付けた。不機嫌なわけではない、動揺しているのだ。その機微を汲み取れる程度には長い付き合いである。
「俺な、君のことが好きなんや。違うな、好きやった」
唐突な告解に、火村が目を見開いた。もう火が消えているはずの煙草を忙しなく押し潰し続けている。
「
……
過去形なんだな」
確かめるような火村の問いかけに、私はしっかりと頷いた。そうだ、過去形にできたことだ。だから君を煩わせるようなことにはならない。
「まあな。北海道に行ったのは失恋旅行のつもりやった。そんでだいぶすっきりしたわ」
「
……
アリス、俺は」
「言わんでええよ。人からの告白を断るのって結構しんどいやろ」
生憎俺にはそんな経験ないんやけど、と軽く笑ってみせたが、火村は少しも笑わなかった。もとよりそんなに表情の豊かな男ではないが、狼狽、当惑、あらゆる困惑の感情がその顔に浮かんでいる。
「俺は俺でもう区切りをつけた。
……
そうなったら言おうと思ってたんや」
本当なら、もう新しい恋を見つけた火村にこんなことを言うべきではないのかもしれない。だが、十二年前に彼の与り知らぬところでその心の裡を知ってしまった以上、自分だけ恋心を胸に隠し持ったまま終わらせるのはフェアではないという気がした。
「せやから、君のいい報告待ってるで」
きちんと心からエールを送れたと思う。言うべきことも言いたいことも全部口にできた。上出来だ。正直なところ、まだ少しだけ胸はにぶく痛むけれど、いつかそれも瘡蓋となって時間とともに癒えていくだろう。そう信じることができた。
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