大学卒業を間近に控え、卒業後は各々の道に進むことが決まっていた私たちは、ひとつの区切りを言い訳にして火村の下宿の六畳間で毎夜のように酒盛りを行っていた。この部屋での酒盛りにはかつて天農や大龍などが混ざっていたこともあるが、今では二人きりとなった催しである。
酒盛りと言ってもお互いそんなに酒に強いたちでもないから、ほとんど毎回布団も敷かずに畳の上で寝落ちしていた。若さがあればこそ成せる技だ。
そんな風にモラトリアムを過ごしていたある日、いつものように私よりひと足先にうとうとし始めた火村の体に布団を掛けてやっていた時のことだ。酔い潰れた時の常どおり眠たげな目をして支離滅裂なことを言う友人を適当に相手してやっていると、前触れもなく突然手をぎゅっと掴まれた。
アルコールと眠気のせいなのか、火村の手は平常時よりも熱い。そして高校時代に勤しんでいたというボクシングのせいか、それとも単に酔って力の加減が効かないのか、握られた手はやたらと痛い。
酔っ払いに何を言っても仕方がないと諦めながら、それでも一応不満をぶつけようと口を開いたその時、今にも寝落ちしそうな友人がふだんよりもずっと幼い声音で言った。
「好きだ」
──お前が好きなんだ、アリス。
「……はぁ?」
あまりにも予想外だった言葉に、思わずまぬけな声が出る。それはどういう意味やねんと真意を問い質したくとも、酔っ払いは言いたいことだけ言ってとっくに夢の中だ。
穏やかな寝顔を見ていると──その穏やかさが朝まで続けばいいと願いながら──毒気が抜かれて、何もかも馬鹿らしくなって私も酔っ払いの隣に横になり、そのまま眠りに就いた。
翌朝、前夜の酒を引きずらずすっきりと目覚めた火村は前夜の自分の告白など覚えていないのかいつもとまるで変わらない様子で、だから私も口をつぐんだままでいた。一方的に友人の胸の裡を知っているというのは、人の日記を勝手に覗き見したかのような後ろめたさと独特の甘美さがある。
その日以来、何か火村から口悪く当たられることがあっても「そうは言ってもこいつ、俺のことが好きなんやなぁ」と優越感に浸りながら聞き流すことができた。そしてそれは決して悪い気分ではなかった。なぜなら、私もこの友人のことを憎からず思っていたからだ。
それが、今から十二年前のこと。十二年ずっと、この夜のことを忘れたことなど一度もなかった。
◇
「そういえば君、来月の十八日って空いてるか? 京都に行く用事があるんやけど」
私がその話を切り出したのは、阿倍野区でのフィールドワークを終えた火村が焼売の入った箱と土産話を持って夕陽丘を訪ねてきた夜のことだった。外気温が人間の平熱を追い越すような猛暑日、私はあいにく編集者とのオンラインでの打ち合わせが入っていたため同行することはかなわなかったが、話を聞く限り臨床犯罪学者は今日も快刀を持って乱麻を断つ活躍を見せてきたようである。
七〇二号室のインターホンを押すなり、愛車の冷房の効きがよくなかったのだと言って友人は勝手知ったるバスルームに直行した。彼の愛車の骨董品ぶりを思えば、炎天下の中エンジンに異常を来さなかっただけ上出来だろう。
汗みずくとなっていた哀れな名探偵のために優しい家主が用意してやった部屋着に着替えた火村は、今はこざっぱりとして自分が持参した焼売と餃子をつつきながら缶ビールを呷っているところだ。
「十八日? ……ああ、土曜日か」
ショルダーバッグの中から黒い手帳を取り出した火村が日付を確認して、緩く首を振る。どうしてこの男は仕草のひとつひとつが大仰なのだろう。芝居がかっているとも言える。けれどそれに嫌味がなく、様になっているのだからどうしようもない。
「悪い、その日は先約がある」
「先月もそんなこと言ってたな」
十四年にわたる付き合いの中で、立て続けに誘いを断られたのは初めてのことだ。そもそも約束の取り付けがうまくいかなかったこと自体、数えるほどしかない。まだ大学の業務が立て込む時期でもないのに珍しいこともあるものだ。
「友だちの少ない火村先生にしては珍しい充実ぶりやな。さては恋人でもできたか」
口を横に広げてからかってやると、火村がぽかんとした顔で私を見た。恋人などできるはずもない。だってこの男は、私のことが好きなのだから──……
「よく判ったな……と言いたいところだけど」
別に恋人ってわけじゃないんだ、ただそうなれたらいいなとは思ってる相手がいて、などと火村は上機嫌でしゃべり始めた。その顔には常に見え隠れしていたはずの翳が見当たらず、ひどく穏やかだ。
そんな顔をさせているのが私ではなく見知らぬ他の誰かだという事実に、私の頭はいつぞやの北軽井沢で殴り倒された時のような衝撃を受けた。だってそれは、その顔は、私だけが見ることができるものじゃなかったのか。
そんな私の動揺にはお構いなしに訥々と語るバリトンが耳を素通りしていく。その顔は、私を好きなのだと幼い声で言ったあの夜の寝顔によく似ていた。
◇
年甲斐もなく青天の霹靂のごとき失恋をした日から二週間、私は書斎にこもってひたすらパソコンと向き合っていた。受け入れがたい現実から逃避するように微に入り細に入り入念なロジックを組み上げて、締切にはまだまだ早い長編の雛形が書き上がったところだ。一気に書いたから、冷静になった目で読み返せばいろいろと粗が出てくるだろう。
最低限の家事と食事以外の時間はすべて執筆に充てていたので、やることはそれなりに溜まっている。原稿にキリがついてしまったところで穴倉と化した書斎をのそのそと抜け出して、さしあたって寝具の洗濯から手を付けることにした。洗濯機を回している間に、受け取るだけ受け取って積み重なったままにしていた新聞の山を取り崩し、引きこもっていた期間の世情を追いかける。
どうやら私が穴倉に閉じこもっていた間には、少なくとも京阪神では殺人事件は起きなかったようだ。平和なことで何よりである。それから二週間の阪神タイガースの戦績を確認すると、直近の試合こそ白星だったものの順位表では奮わない位置にいたので見なかったことにした。
洗い終わった寝具を干して、読み終わった新聞をまとめていく。そうしてやるべきことを終わらせてコーヒーでも淹れようかとひと息ついた瞬間、突然火村の顔が脳裏に浮かんできた。
──そうなれたらいいなと思ってる相手がいて。
あの後火村はその相手とやらの話をしただろうか。まったく記憶にない。
台所でインスタントコーヒーを淹れながら溜め息をつくと、静まり返った家の中でその音はやけに大きく響いた。するとまるで溜め息に呼応するようなタイミングでスマホが音を立てる。着信の主が火村であって欲しいような、火村であって欲しくないような、複雑な気持ちで画面を確認すると、何のことはない朝井小夜子からの連絡であった。曰く、大阪に出てきているから夜に会わないかとのことである。
承諾の返事を送ると、トントン拍子で待ち合わせの時間と場所が決まった。約束は夜だが、家事が終われば早めに出て本屋を覗くのもいいかもしれない。二週間も本屋に行っていないなんて由々しき事態である。
この二週間きちんと見ていなかったメールボックスやLINEを確認するが、特に返事が必要なものはなかった。もとよりまめに連絡を取り合うような仲ではないというのに、火村から何の連絡も入っていないことに心がささくれ立つのを感じる。
同時に、ズキッと差し込むように胃が痛んだ。苛立ちのせいか、それとも空腹のままコーヒーなんか飲んでいるせいかもしれない。とりあえず腹の中に何か入れてみた方がいいだろう。
手っ取り早くインスタントラーメンですませることも考えたが、胃に負担がかからないものにしようと思い直し、冷蔵庫から蕎麦を取り出した。片手鍋に水を張ってガス焜炉にかけ、湯が沸騰するのを待つ。ふつふつと泡が浮かんでくるのを見つめながら、ぼんやりと二週間前の夜について考えた。
十二年ぶりに見た、火村の翳も憂いもない穏やかな顔。あんな顔をさせるのはどんな相手なのだろう。知りたい気持ちと、欠片も知りたくない気持ちが相反しながら胸の中で戦っている。
私から振った話題だったとは言え、火村が話に乗ってきたのも意外だった。あの火村英生が、恋をして浮かれてみせるだなんて。
二週間のうちに私には連絡を寄越さなかったが、好きな相手とやらには連絡していたのだろうか。考えても栓のないことをつい考えてしまって、また大きめの溜め息をついた。
◇
「で、あんたは何を落ち込んでんの」
夕方と夜の合間に待ち合わせた朝井小夜子とは、梅田の創作居酒屋に入った。朝井が以前作家仲間から教えてもらったのだというこの店は酒も料理もなかなかのもので、店内は程よく賑わっている。
薄暗い店内でスコッチウイスキーのグラスを片手にローストビーフをつまみながら、朝井が世間話のような口ぶりで切り込んできた。私はと言えば予想していなかった問答に言葉が詰まり、サラダには言っていた蓮根ごと口の中の肉を噛んでしまう。痛い。後で口内炎にならなければいいのだが。
「薮から棒な質問ですね。特に落ち込んだりはしてないですけど」
「そんな辛気臭い顔して何を言うてんのよ」
遠慮のない追求は手厳しい。ウイスキーの水割りで口を湿らせると、今しがた噛んだ口内の傷にしみた。
「なんて、言いたくないならいいけどね」
さすがは姉貴分だ。押すばかりではなく引き際も心得ている。
少しの逡巡ののち口を割ることを決めた一因に、酒の勢いがあったことは否定しない。アルコールというものはつくづく口の滑りをよくさせるものだ。そういえば、火村が私を好きだと言った時も、先日好ましく思っている相手がいると言った時も、彼は酒を飲んでいた。
「……昔、好きやと言ってくれた相手がいたんです」
私の答えに、朝井が意外そうに大きく目を見開いた。恋愛相談の想定はしていなかったのかもしれない。
「けど向こうは酔っ払ってて、次の日にはそんなこと忘れてたんです。だからそのままにしてたんですけど」
「改めて告白されたりはせえへんかったの?」
「特には」
「へぇ。まあ、相手が覚えとらんのにあんたからは言えんか」
朝井は納得していたが、どうだろうなと私は思う。火村が私を好きだったのは確かなのだから、妙な悦に入っていないで、さっさと告白しておけばよかったのだ。そうすれば今頃──……
「あんたはどう思ってたの? その相手のこと」
「……悪くない気分でしたよ」
「嫌な言い方するやないの。まさか、相手の気持ちに胡座かいてキープしてたなんて言わんよね」
じろりとした視線での追求にいたたまれなくなって、逃げるように水割りに口をつける。言葉は悪いが、私のしていたことは概ねそのようなことであるという自覚があった。
「悪い男やなぁ、有栖川」
朝井は遠慮なく私の罪悪感を突つき、ついでにフォークでサラダも突ついた。鮮やかな緑色の葉物野菜を器用に浚い、赤い口紅の許へと運んでいく。
「でも、最近向こうには他の相手ができたみたいで」
「あんたにどうこうなる気がないなら、いい話やないの。応えるつもりもないのに惜しくなった?」
少しの棘を含んだ言葉だった。確かに不誠実で悪趣味なことをしていた自覚はある。だが。
「応える気がなかったわけじゃないですよ。告白されたら付き合おうと思ってたし」
「でも、自分から言おうとは思わんかったわけやね」
「……言っておけばよかったと、今は思ってます」
そうしていれば、恋人同士となっていれば火村が他の相手に心を移すことはなかったかもしれない。今となっては何もかもが虚しい仮定ではあるのだが。
「昔って言うてたけど、いつ頃の話やったの?」
フォークを置いた朝井がからりと揚がった手羽先を指でつまみながら訊いてきた。私も同じものに手を伸ばし、少々冷めつつある手羽先の唐揚げにかぶりつく。
「十年くらい前、やったかな」
「十年!?」
私からの返答を、朝井が大声で繰り返した。店内のBGMを掻き消すほどではないが、同じテーブルを囲んだ距離にいると驚く程度の大きさだ。手羽先の肉が喉に詰まりそうになって、慌てて水の入ったグラスに口をつける。
「あんた、十年って……そんなんもう時効や時効! とっくに思い出の一ページになってるに決まってるやないの、相手も忘れてるわ」
指先についた手羽先の脂を拭いながら、気のいいはずの姉貴が冷たい視線を投げてくる。その目は口に出さずとも、雄弁に私への呆れを物語っていた。
「……『言っておけばよかった』ってことは、あんたは今もその人を好きってこと?」
しばしの沈黙の後、サラダの皿が空になったタイミングで問いかけられる。朝井が店員を呼び止めて新しい酒を注文していたので、私も便乗してお替りを頼んだ。
「そう……ですね。十年ずっと、両思いなんだと思ってました。つい最近まで」
そうだ。なんとも頭のめでたいことに、十二年の間ずっと、私と火村は親友以上恋人未満のところにいると思っていたのだ。望めばいつだって恋人にシフトチェンジできるものだと思っていた。私が馬鹿みたいな優越感に浸っているうちに、火村はとっくに心変わりしていたというのに。
あまりの愚かさを自嘲している私に、朝井が気の毒なものを見る目を向けている。その視線に気づいて口を開こうとしたところで、それぞれに新しい酒が運ばれてきた。
「……飲もう有栖川、失恋した時は飲むのが一番!」
くりくりのパーマのかかった髪を揺らす先輩作家にそう言われて、サラダに続いてローストビーフの皿も空にした今更になってからこの夜初めての乾杯をする。合わせたグラスの中で揺れた琥珀色の液体は、先ほどと同じ濃度の水割りのはずなのに一杯目より苦く感じた。
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