sidori
2025-08-12 00:00:00
15634文字
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人妻定食八月号『硬八』

モブ視点で高銀の坂田に失恋するNTRマガジン八月号です。

しどりの『特選!今が旬の君の運命は僕じゃない炊き合わせ定食~夢物語を味わう後味しっとり大人の一杯付き~』


※3Zの世界にオメガバあったらな設定。
オメガバースについてかなり長い独自設定があります。大体何もかも捏造だと思って下さい。オメガバースの基本部分の説明は大分端折ってます。感じて下さい。
──────


僕は多分、他の人よりちょっとロマンチストだと思う。
子供の頃読み聞かせてもらった王子様とお姫様の物語に、少なくともその場にいた他の子供達の誰よりも感動した記憶。それが僕の原体験だった。
まだ自分の最初の性別すらあやふやな幼少期に、強烈に刷り込まれた"運命"の出会い。
なんとなくぼんやりと、自分にもいつかそういう人があらわれるはずだという幼い予感は、その後やってくる思春期の頃、全国の中学校で毎年一斉に行われる第二性の診断結果を持って確信に変わった。
僕はアルファだった。
勿論、アルファとオメガの"運命"というものが、実際にはほとんど出会う確率のない──それこそおとぎ話に近しい、現代の社会においては余り意識されていない生態だということは成長につれ得た知識としてはわかっている。
そもそも第二性にアルファとオメガを持つ人間自体が圧倒的少数派なのだ。まして過去、まだ科学も未発達でオメガ用のヒート抑制剤やアルファ用のラット緊急鎮静剤などの薬がないか、あってもまだまだ不完全なものでしかなかった近代以前の時代ならともかくも、誰もが手軽に、どんな医療をも受けることができるこの現代この国にあって、第ニ性は極めて尊重されるべきプライバシーとされていることもあり、アルファとオメガが互いをそうと知っていて出会う事そのものが極めて稀な事だといってもいい。大抵のカップルは第二性にはあまりこだわらず、外見的特徴の出やすい第一性に従って結ばれている。
わかってはいたが、それでも僕は憧れた。
その瞬間、まるで電流に撃たれたみたいな衝撃で目が覚めるような、体中の細胞が口々にこの人だ!と叫び始めるような……そんな出会いに。
"運命"の人との、一生に一度の恋に。
高校生になって周りが次々に彼女なんかを作ってそんな話題にばかり興じるようになっても、僕はなかなか踏ん切れなかった。告白されたこともある。だけど友達におかたすぎると笑われても、軽い気持ちで付き合うのはやっぱりなんだか違う気がして。
そのまま、地方都市から首都に出て、大学に通い、就職して──
結局、三十を過ぎても夢をみたまま、僕はまだ子供の頃憧れた"運命"を諦めきれずにいた。帰省するたび両親や親戚にそれとなく結婚の当てをうかがわれたり、会社ではちょっと遠慮のない上司にダイレクトアタックをされたりしつつ、それを当たり障りのない言い訳でかわしながら。

そう……そんなある日の事だった。
僕はついに出会ったのだ。
それは衝撃──というのとはちょっと違ったかもしれない。だけど彼はその人は、僕にとっての間違いなく特別だった。
それは六月の夜で、僕はちょっとした残業を終えたあと、まだ梅雨も来ていないというのにまるで真夏のようだった陽気を日が落ちて尚引きずり、濃すぎて苦しいような空気の中を、都会の雑踏に流されるようにして歩いていた。金曜日。
一人暮らしのアパートまで電車にのって四十分、それから徒歩で十五分。決して近いとは言えない距離を、ふと、まっすぐ帰るのが億劫になった。どこかで一息つこう。独り身の僕は気楽だった。
それで近くのダイニングバーに入った。以前にも何度か来たことがある。ご飯はおいしいのに、駅からの導線がさほど良くない通りに入り口を向けているからか、いつ来ても程よく混んでいて、程よく座れる席があいている。
その日も、入り口をくぐるとすぐに店員の若い女の子が席に案内してくれた。カウンター席だった。
「こちらのお席にどうぞー」
と、その席を手で指し示しながら、朗らかな笑顔を僕に向ける女の子──の、その背後に僕の視線は向かった。
"彼"がいた。
少し橙味を帯びたあかりの下で、遊ぶようなきらきらとした光を纏わせた白銀の髪。物憂げな表情で傾けるいちごみるく色の飲み物の入ったグラスにはふっくらとした唇が押し当てられ、こくり、こくり、と上下する喉には、確かに僕と同じ立派な成人男性であることをあきらかにする逞しい出っ張りがあり、体躯も少し草臥れたワイシャツ越しでさえよく鍛えられている事がわかるのに、しかしその存在感はなんていうか……瞬きをすればその間にふ、と掻き消えてしまうんじゃないかと焦る気持ちさえ湧くほど何故か儚く感じて。
綺麗だ、と思った。綺麗だった。彼は。
そして今まで感じたことのない衝動を僕は覚えた。ごくりと唾を飲み込んだ。
みぞおちの辺りに何かもやもやとしたものが渦巻き、急に苦しさを覚えた。どくんと胸が鳴った。
その生まれて初めての感覚は、この人が"そう"だ、と確信させるのに十分以上の激しさを持っていた。"この人がいい"と僕は思ったのだ。
気がつけば声をかけていた。
勿論、そんな事をするのも正真正銘、生まれて初めてだった。
「あの」
と、彼の腰掛けた椅子から一つあけて案内された席から、あえて距離を詰めて彼の気を引く。
彼はぼんやりと視線を僕に向け、それから、
「アンタ……
と、僅かに目を瞠った。ように見えた。
僕は密かに嬉しい気持ちを堪えた。彼のその反応は、彼にもまた僕と同じような感覚があったからじゃないのかと期待したからだ。
──ただ、すぐに彼はベータだと言った。

気さくに相席を許され、その夜僕らは大分長いことバーのその席を温めていた。
当然の事だけど、いきなり第二性をたずねたりしたわけじゃないし、僕の性格上、いきなり付き合って欲しいだなんて言えもしない。それでもなんとか僕と彼が"そう"であることを確かめたくて、探るような会話を重ねた。
と言っても、彼自身はどちらかといえばそういう事柄に関して随分あけすけな性格でもあるらしく、訊ねればなんでも、いやな顔をすることもなくあっけらかんと答えをくれたのだが。
だから僕はすぐに彼について色々なことを知ることが出来た。
名前は坂田銀八。今年の秋で二十八才。近くの私立高校に勤める教職で、担当は現代国語。今年は三年生の担任をしているから忙しいらしい。
「いやもう、帰って飯作る気にもなんねーっつーのな」
などとぼやく彼と、僕も大学の時は一応保険として教員免許を取るため教育実習にも行ったので共通の話題もあり、酒の勢いも手伝って──彼が口にしていたのはウォッカのイチゴ牛乳割りというメニューには存在しないオリジナルカクテルだった──お互いどんどん口は軽くなり、僕のほうが先にその事を話した。
つまり、忙しさゆえに相手を探す暇もないという彼が僕に、
「折角の華の金曜にこんなシケた店でわざわざこんなむさ苦しい男と飲もうなんざご同類だろ?いやもったいねえな、アンタ結構イケメンなのにな。まあ、淋しいひとりモン同士仲良くやろうじゃねーの」
などと笑いながら、空になっていた僕のグラスに、多分友好の証ということだろう。そのお気に入りだというピンク色の液体を注いでくれようとした時だ。
その頃になると彼はかけていた細い銀縁の眼鏡を外して、カウンターの上に置いていた。目の前には大きなパフェがあり、それは彼の酒のあてだった。どうやらものすごい甘党らしい。
そう言う間にも次々にチョコソースのたっぷりかかったアイスやクリームを柄の長いスプーンですくい取って食べる彼の嬉しそうにほころんだ頬はすっかり上気して真っ赤に染まっていた。
彼はあまり色素を持たない体質なのだろう。その肌は透けるように白く、酒気が余計に目立つようだった。
そして彼の、髪も肌も真っ白な姿の中で唯一色を持つのが、僕にいたずらっぽく向けられた赤い瞳だった。まるで熟れた果実のようだった。とろりと潤んだ赤色に見つめられ、僕はまたドキドキと胸が高鳴るのを感じながら、とうとう最後の質問──果たしてこの出会いが僕が夢見たものである事を確かめるための言葉を口にした。いや、しようとした。
「ぼ、ぼくは、アルファなんだ。いつか運命の人と出会えるって思っててだから」
「へえ」
彼は笑った。
「なるほどねえ。じゃあアンタにはそのうちイイヒトが現れるってわけだ。いいねえ、ロマンチックでよ。良い出会いになるといいな」
そう言って彼はぐいとグラスを煽った。
「いや、うらやましいよほんとに。俺はそういうのとはほんと、縁がなくって」
「あの、あなたは」
「あー、俺、ベータだからさ」
僕が焦って確かめると、彼はのんびりと言ったのだ。

正直に言えば信じられなかった。
殆どの人間が黒髪に濃い暗色の瞳を持って生まれるこの国で、彼の容姿は──これは決して蔑視ではないと先に断っておくが──オメガの特徴と非常に合致しているからだ。基本的にオメガ性を持つ人は皆美しい容姿をしている。それはアルファもまたそういう傾向はあるのだが、オメガの場合はただ造形の良し悪しというだけでなく、彼のように先天的な色彩変異と呼ばれる体質をもっている事が多い。その確率はアルファやベータに比べるまでもなかった。
だから例え彼が僕と同じ高揚を感じていてはくれなかったとしても、彼自身がオメガであろうということは、その時点で既に、僕は殆ど疑っていなかったのだ。
当然、がっかりもした。
せめてオメガなら、番という僕たちだけの特別な関係になることもできたのに……
とは言え、諦めるのはまだ早かった。物心もつくかつかないかの頃から伊達に"運命"に憧れ続けていた訳じゃない。アルファやオメガという第二性のことを知ってから、僕は保健体育の授業て習うこと以上を自力で学んだ。
実を言えばその甲斐もあって、僕の就職先はある大手製薬会社の、第二性に関する分野に特化した研究を扱う子会社である。僕自身は、いつか"運命"に出会う事を確信していたのと同じように、これも人生の早い時点で自分の能力がどちらかといえば文系に特化していると感じていたので、研究職としてではなく営業と事務を兼ねたような立場ではあるが。
ともあれ、この現代においてアルファであれオメガであれベータであれ、一般的な生活を営む上では余り意識されない──必須の知識ではなくなった、と言ったほうが良いだろうか。医療の発展により、ほとんどの人が第二性を気にすることなく日常生活を送れるようになったから、昔の人の、いわゆるいいつたえとか民間療法的なものはある時期を境に急速に忘れ去られていった。──知識も、逆に更に最先端の研究結果も僕は知っているという事だ。

第一性と違って、第二性は後天的に変化することがある──というのもそうだった。
これは極めて稀な事例ながら、事実であることはかねてより知られていた。ただ、稀である故に、一般的にはほとんど都市伝説の類……そう、僕の信じた"運命"と同じような扱いをされていたのだが、最近の研究によって、そのメカニズムは科学のもとに解明されようとしている。
そしてそのメカニズムというのは、それこそ"運命"と深く関わっているのである。
つまりどういうことかというと、第二性というのは実に繊細な人体の仕組みであるがゆえに、受精から出産、そして幼少期の生育環境に実はに非常に影響を受けやすい。その為、本来アルファとオメガとして生まれ、"運命"になる筈だった互いの片方が何らかの要因でベータとして産まれた場合、運命の番であるアルファまたはオメガと性交し、フェロモン交歓を行うことによって後天的に本来持つはずだった第二性に目覚める場合があるということなのだ。
この不安定さこそが"運命"との出会いが稀である理由の一端であろうことは確実だったし、同時に、僕に残された希望でもあった。
彼の現在の第二性判定がベータだとしても──いや、だからこそだろうか。
そう考えると僕はむしろ、より一層"運命"が素敵なものに思えた。ただ出会うよりもずっと、なんてドラマチックなんだろう。

なんであれ、やっと出会えた彼との繋がりをまずは確かなものにするため僕は頑張った。彼が自分のことを第二性特有の性質を持たないベータだと思って生きてきたなら、いきなり"運命"だなんて言っても信じてもらえないかもしれないし、下手な軟派だなんて思われるのは嫌だったのだ。一晩相席しただけの男から、早急に飲み友達くらいにはならなければならなかった。
とは言え、彼の方が気さくな人物であったので、あたりさわりのない世間話から次の約束を取り付けるのはそうむずかしいことでもなかった。
僕らはそれから日をおかず出会ったダイニングバーで何度か待ち合わせて飲み、それから僕のおすすめの別の店にも彼を誘うまでそう時間はかからなかった。
幸いにも、と言っていいのかはわからないが、教師は随分と薄給だそうで、おごるよと言えば彼は素直に喜んでくれた。
にこにこと機嫌のいい彼とそうして急速に距離を縮め、短い梅雨があっという間に過ぎ去り、七月が来て。台風何号だかが発生して週末には首都圏を直撃しそうになっていたその下旬には、僕はもうすっかり、彼とのそれはデートのつもりでいた。

「まあ、生徒が夏休みっつったって、教師は普通に仕事なんだけどな。授業ない分楽なはずなんだけど、今年はほんとにキツいわ……
「まあまあ、授業の準備ないだけでも喜んどこうよ。銀八先生のクラス、問題児が多いんでしょ?静かに仕事に集中できていいじゃない」
「あ〜……まあ、そのはずだったんだけどよお……
「何かあったの?」
「んー……、まあ、ちょっとな……
八月になっていた。
七月最後に会ってから今日までに、彼──銀八先生と僕は呼ぶことにした。──の学校では夏休みに入っていたはずで、その話題になった時には確かに、その期間に希望者で行く林間学校の引率がある二年生の担任じゃなくて本当に良かった、と笑って言っていたのに。
僕が訊ねると、生徒の個人情報でさえなければ基本的になんでも気軽な調子で答えてくれる彼は珍しく歯切れが悪かった。
僕が首をかしげると、彼は決まり悪そうに目をそらしながら、白い指先で白い皿にのった茹でた枝豆を摘む。流し込んだビールで血の巡りがよくなった唇で鮮やかな緑色のさやを食み、ぷつぷつと直接中身を口にした。
カウンター席で横並びになり、僕は眺める彼の横顔に、もっと踏み込んで良いのかどうか暫く逡巡した。
本当は今日、僕は彼に正式な交際を申し込むつもりだったのだ。もう十分僕のこと──単純に何才でどこ出身で、どういう会社に勤めているのか、なんて事だけじゃなく、僕が軽い気持ちで彼に声をかけた軟派男なんかでは絶対になく、むしろ彼に出会う日を夢に待ち続けた一途なタイプだって事も。──は知ってもらえたと思ったし、僕も彼のことを色々知ったと思う。
恋人はいないことは最初にきいたし、なんなら今だけじゃなくこれまで一度もそういう相手はいなかったらしい事も。ほら、運命じゃないか──僕はそう思った。
僕達はきっと、巡り合うべくして巡り合った筈なんだ。なんの手違いか彼はベータとしてうまれつき、僕を"そう"と認識出来なくなっているけれど、僕に抱かれ、その項に僕がアルファとして誓いのキスのように証を刻めば、彼はたちまち、僕の番……憧れた"運命"のオメガとして目覚める筈だった。
プランは完璧に出来ていた。
盆休みがあると聞いていたので、初めての夜を迎えるのにふさわしいホテルはもう予約済み。勿論甘党の彼のために、ルームサービスのデザートメニューはこれでもかと充実している。
後は彼に承諾を得るだけだった。
僕は……その夜まで本当にうまくいくと思っていたんだ。

「わり、ちょっと便所」
銀八先生が席を立つ音で僕ははっとした。
今日行くか行かないか、いつもと少し様子の違う気がする彼に対して決めかねている内に、ぼんやりとつついていた手元の皿はいつの間にか殆ど空だった。鶏肉と玉葱、帆立とキノコをクリームで包んでオーブンで焼いたそれはいつもならとてもワインが進むのだけれど、冷め始めている耐熱皿と反対に、グラスにはまだなみなみと淡く黄金色に輝く液体が残っている。
銀八先生の後ろ姿を目で追うと、今日は鮮やかな青いシャツを着た背中はどこかふらふらしてみえた。
僕はしまった、と思う。もしかして調子が良くなかったのだろうか。自分の考えで一杯で気が付かなかったことに後悔する。彼は気怠い雰囲気が通常であるとは言え、これだけ何度も会っていてそれは言い訳にならない。
肩を貸したほうがいいだろうかと遅ればせながらも慌てて立ち上がろうとすると、彼が引いた椅子の足元に何かが落ちているのに気がついた。そういえば彼が立ったときに何か小さくて軽いものが落ちるかすかな音を聞いた気がする。屈んで拾い上げると、それはニ包分で切り取られた何かの錠剤のPTPシートだった。
見覚えのある──銀色のアルミ地に印刷された商品名。
それを認識した時、僕は一瞬、突然知らない世界に放り出されたような、まるでそんな錯覚に陥った。
そんなはずはない。
だって彼は自分をベータだと言ったのに。
それならどうして、彼はこれを?
見覚えがあるのは当然で、それは僕の勤めている会社が販売しているオメガ用の発情抑制剤だった。
僕は自分が何に混乱しているのか分からなかった。
彼が本当はオメガかもしれないことに?それとも嘘をつかれていたことに?もし本当にオメガなら、僕を"運命"だと感じているはずなのに、そうではないことに?
それなら僕と彼は……
その時、店の入り口のドアに吊るされたベルがカランカランと新たな来客を知らせた。思わず注意を惹かれ視線を移すと、一人の男が居た。かなり若いようにみえる。もしかしたらまだ学生かもしれないが、シャツとパンツでシックにまとめた服装からは確かなことは分からなかった。
少なくとも──人生のどこの段階でも、モテる男だろうなと思った。少しとっつきにくそうな雰囲気をまとってはいるが、キツめの顔立ちは間違いなく美貌だ。
艷やかな黒髪と左目を隠した眼帯が目立つその男は、鋭い視線で店内をぐるりと見回し、誰かを探しているようだった。待ち合わせなのだろう。声をかけた店員を身ぶりで断ると、迷いのない足取りでずかずかと店内を横切っていく。
その行く先は銀八先生が向かったトイレだった。
あ、と思うまもなく男はトイレ前に設置された衝立の向こうに姿を消し、かと思えば驚くことに、まさにその彼を連れて出てきた。
今度こそ僕は勢い良く立ち上がった。膝が隣の椅子にぶつかってガタンと大きな音が鳴る。店中の視線が集まって、すぐに散っていく。彼と、男以外の。
そう広い店じゃない。二人はすぐ僕の──僕たちが座っていた席のそばまでやってきた。
銀八先生はやはり具合が悪かったのか、男に半分肩を貸される形でぐったりとしている。それでも僕はどういうことなのかよくわからず、戸惑って彼と男の顔を交互に見た。
黒髪の男はすぐに口を開いた。
「コイツが迷惑かけたみてーだな」
そういいながらスマートな仕草で銀八先生が飲んだ分以上の紙幣をカウンターに置き、代わりに彼が外して置いていた眼鏡を取ってケースに収め、自分の小さなショルダーにしまった。
そしてそのまま銀八先生ごと去っていこうとするので、僕はぼんやりしている場合じゃなかった。
それこそ焦ってとにかく声を出す。彼は僕の連れなのだ。そんなに簡単に連れさらわれては困る。
「あの、その人は僕の、」
「あ?」
と、男は振り向いて僕を睨んだ。
「コイツが、てめーの、何だって?」
僕は言葉に詰まった。厳密に言えばまだ何でもない。
男は鼻を鳴らして笑った。
「まァ、勘違いさせたコイツも悪いな。だが、テメーもアルファに生まれついたんなら、テメーの番くらい間違えてんじゃねえよ」
僕は今度は驚いて何も言えなかった。なぜわかったのだろう。いや、アルファ同士なら同種を見分けることは実はできる。冷静になって知覚すれば僕にも男のアルファの気配を感じとることが出来た。しかし男は最初からわかっていたようだ。
そしてそれ以上に僕の言葉を奪ったのは男から感じる匂いだった。アルファには特別な嗅覚がある。勿論それはオメガのフェロモンを嗅ぎ取り番を探すためであり、また同時に、同種を嗅ぎ分け、牽制し合うためでもある。
男と銀八先生からは同じ匂いがした。
それはつまり、彼らが番であることを意味する──。

「コイツが何言ったか知らねえが、コイツはとっくに俺のものだ。誰にも渡さねえ。例え相手がどんな野郎でもな。神だろうが仏だろうが、運命だろうが関係ねえ。二度と俺たちの邪魔はさせねえよ。勿論テメーにもな。諦めろ」
宣言するようにそう言うと、男は銀八先生を抱え直した。
「オイ、しっかり歩きやがれ銀時」
立っているのも限界の様子の銀八先生は薄目を開け、薬を握った僕の手元を見て困ったように薄い眉を下げる。ぜいとつく息の下から絞り出すように、
……ごめんな」
と、聞こえた謝罪は果たして僕に向けたものだったのか、男に向けたものだったのか。
僕はただ、唖然として、二人を見送った。見送ることしかできなかった。
乱れた彼の髪の襟足の隙間から、普段は見えないうなじが見え、そこにひきつれた傷跡があることに気づいた時。それがまるで子供がかみついたような小さな歯型の痕だと理解した時、僕は、彼が僕の"運命"じゃなかった事を、嫌でも知らなければならなかったからだ。


彼が"運命"であって欲しかった。
それは僕の勝手な願いにすぎなかったのだ。本当は頭の何処かではわかっていた。
僕は少し焦りすぎていたんだと思う。周囲と自分を比べて。それから故郷の両親の心配を感じてもいたから。
その生まれて初めての失恋は、僕を少し冷静にさせた。多分──探すものじゃないんだろう。探して、望んで手に入れるものは、なるほど確かに、"運命"とは呼ばないのかもしれない。
もし僕にも本当にその相手がいるのなら、いつか出会えればいい。
そうじゃなくても──"運命"じゃなくても、好きだと思える人が出来たら自然にそれを受け入れようと、今まで恋について頑なだった僕はやっとそう思えたのだった。
そのお陰なのだろうか。心の余裕が出来たからなのか、その後僕にはやたらと縁が舞い込むようになり、数年後、今度こそ本当に幼いあの日にから憧れ続けた"運命"と出会うことになるのだけれど、それはまた別のお話。