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ながひさありか
2025-08-09 06:35:57
22495文字
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STR-Phaidei
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口づけには長く、愛には短すぎて
現パロ。六度目の春の続きです。ファイノンがどうしてなかなか帰ってこなかったのか&どうしようもない欲求の問答。
※web(横書き)で読むことを全く想定していない書き方をしているのでかなり読みづらいと思います。
1
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同居生活がようやく半年を越えた頃、ファイノンが痺れを切らしたようにその、と何故か出先で口を開いた。休みの前日になるとやたらとひっついて眠りたがるファイノンに折れて、二人で寝るには小さすぎるマットレスを買い替える気になり、どれにするか選んでいる最中だった。
僕がわがままを言える立場じゃないことは重々承知で一応提案というか、言うだけ言ってみるんだけど、君の部屋のベッドをそもそも買い替えるって案はどうかな。勿論費用は僕が全部出すから。
そっと手を握ってくるファイノンの顔に視線をやってから、すぐに掴まれた手に落とす。そうすればファイノンは無言で手を離すのが常だったのに、今日に限って俺の手を強く握り返していた。暮らし始めた当初のように感情が混乱するかと思ったがそうはならず、握られたままでも心は凪いでいた。
視線を上げ、何故ベッドを買い替える必要がある? と尋ねた。勿論理由にはとうに察しがついていたが、ファイノンからきちんと言葉として聞きたかった、と言うよりも、そんなことを望む前に、お前は俺に聞きたいことがあるのではないか、と思っていたからだ。
ファイノンの夏の空のような青い瞳が俺をじっと見つめ、形の良い眉が下がる。笑っていれば好青年を絵に描いたような男だったが、情けない顔をすると途端にこちらの良心を刺してくるのだから、得な顔立ちだ。
苦笑したファイノンはようやく話を切り出す場所を間違えたことに気が付いたのか、ごめん、今日は一旦帰らないか? 君と話がしたい、と続けた。どうせ新しく寝具を買うのであれば、使用者が気に入ったものを買うべきだ。そうか、といくつか見繕っていたマットレスをすべて忘れることにし、昼食を食べ、夕食の買い物をして帰宅する。
帰宅し、買い物を片付けた後、飲み物を用意するか少し悩んだが、結局用意はやめた。グラスだろうが液体だろうが、投げるような羽目になれば掃除が大変だからだ。
それで? ファイノンと向き合って座り、背に深くもたれかけさせた。
単刀直入に聞くけど、君ってもしかして、もう昔みたいに僕とする気はない?
いつかは聞かれるだろうと思っていたが、いざ直面するとやはり狼狽した。ファイノンの表情は真剣どころか悲哀まで滲んでおり、まるで雨の中で捨てられた犬のように情けない。大きな丸い瞳はひどく潤み、俺の良心を刺すようだった。
何故そんなことを聞く? と尋ね返す真似はしなかった。何故もなにも、ファイノンがしたがっているのは暮らし始めた当初から知っていて、はっきりと口にされないのをいいことに今日まで保留してきたからだ。五年もの間せずにいたのだから、暮らして行く間にそう言った衝動が起きることはあっても、耐えるのは簡単なことだった。帰ってきて欲しいと願った瞬間にこの男が帰国することはなく、一度完全に諦めてしまったから余計にだろう。
ファイノンは俺の沈黙を行儀よく待った。手持無沙汰を解消するためにか時々視線は俺から逸らされたが、それでも答えを待つように戻って来る。
言葉を探して十分も経つと、
ごめん、今すぐに答えを出してくれとは言えないけど、結構限界でさ。だめならだめで覚悟を決めたいから。
遠慮がちに俺の手を取り、ファイノンが懇願するように情けない声を出した。普段よりも低い声が鼓膜を震わされると、俺の心もざわざわと落ち着かない。限界? 覚悟? それはどういう意味で言っている。思わず手を振り解くと、ファイノンが傷ついたような顔を一瞬見せ、すぐに苦笑へと変える。
したいだけなら外でし、そういう話じゃない。
言葉尻に鋭く被せられた声に、眉が寄るのが分かった。ファイノンが不誠実なことはしないと知っていて口にしたくせに、己の言葉に不快感を覚えていた。
そのうちそういう気分になるかもしれないのか、それとも今後絶対にならないだろうと思ってるのか、それだけでも教えて欲しい。
……
もし今わかるなら、だけど。
確かにこの男はスキンシップ、と言うより肉体での触れ合いを好む男だった。さすがに学生時代はお互い性欲が強いだけだったが、卒業して何年も経ち、付き合いが長くなっても定期的にしたがっていた。俺もそうだった。。疲れていて相手をしたくない日はお互いにあっても、それで気まずくなることは殆どなく、日を改めればすむ話だった。
旅に出る期間が長くなってからも、帰国したその日は軽い触れ合いに留めることも多かったが、申告がなければ最後までしていたし、できなくとも裸で抱き合って眠るだけの夜もあった。ファイノンがセックスをしたがるのは、なにも性欲解消だけが目的ではないことはわかっている。肉体を通して心の深いところまで触れ合いたいと思っている男で、そういう所が好ましかった。
居心地の悪い沈黙が落ち、俺とファイノンは半ば睨み合っていた。互いに口をきけば、相手を傷つけるような言葉が本意ではなく出てしまうだろうとわかっているかのように、二人して唇を引き結んでいる。
そもそも、だ。お前は好き勝手にひとりで、新しい場所や美しい景色や文化に触れ、心を直接揺り動かされていただろうから、もしかすると俺とは違って雑念が走る瞬間は少なかったかもしれない。腹が立つので言いたくはないが、片手さえ自由であればどうにか発散できるお前と違って、俺はとうにそうではなくなっている。どれほど自分を慰めようと、結局一番奥の空虚と熱は埋まらず、いつまで経っても満たされない。その情けなさ
――
さみしさが、お前に分かるのか? わからないだろう。わかって欲しいとも思わない。どうせ言えば調子に乗るだろう。
これで元より俺があまりしたくない方であれば、きっとファイノンもこんな風に言いはしなかったかもしれない。しかし、残念ながらそうではない。であれば、この男からしてみれば、いくら俺が愛情がなくなったわけではないと示しても納得がいかないだろう。愛情は当然なくなってはいない。しかし、俺が未熟なせいで、問題が拗れている。
したくないのか。勿論、そうは思っていない。ただ、考えたくないとは思っていた。
結局、サイズが変わっていて処分することになった、クローゼットの奥深くにしまっていた服を洗うためにすべて取り出した時、久方ぶりにどうしようもない気分に襲われた。お前がこれを着ていた事実も記憶もあるのに、服にはにおいも何も残っていない。当然だ。そもそも着ていない服を洗ってしまっていたのだから、残っているのは防虫剤やポプリのにおいだけだろう。それでもお前がそれを着ていた日々を思い出し、早く帰って来いと手を伸ばしてしまったのだから。
ごめん、今日はこの話題はもうやめよう。君と喧嘩したいわけじゃない。だけど君の事を愛してるんだ。だから君がずっとこういう、
……
うまく言えないな。というかやめるって言ったのに続けてごめん。
はぁ、とため息を大きくついたファイノンは椅子から立ち上がり、なにか飲むかい? とキッチンへ向かう。
お湯を沸かすよ、お茶でもいれようか。
俺の言葉を待たずにファイノンはケトルをコンロにかけ、ポットと揃いの柄のカップ、味気ない安物のマグカップを用意する。引っ越し後にかった茶器だから、カップは二人分そろっていない。あえてそういう物を買ったはずだと言うのに、今更それを後悔していた。帰ってこないと疑って悪かったが、お前が今更揃いの茶器を俺の家で使うとは思わなかったからな。何度か口にしようとして、さすがに嫌味がすぎると感じて言わなかった言葉だった。
あのさ、これも答えたくなかったら言わなくていいんだけど。
茶葉を棚から取り出し、丁寧にティースプーンで規定量ポットにいれているファインの視線を向ける。茶葉を淹れる前に一度茶器を温めろと何度も言ったはずだが、何故かこの男はそのひと手間をいつまでも忘れている。きっと俺に叱られたくてわざとやっているのだろう。
僕の誕生日を祝ってくれたあの時、実は僕の方は日中だったんだ。思わず、膝の上に置いていた右手を強く握りしめてしまう。
君がメッセージの後、なにか打ち込んでいるのをずっと見ていた。だけど結局なにも続かなかったから、あの時、君が本当はなんて続けるつもりだったのかずっと考えて、すぐに帰ることを決めた。君が僕に言えなくなるくらい酷いことをしたんだなと思ったから。あの時、君はどんな言葉を続けようとしたんだ?
沸騰したケトルがけたたましい音を立て、ファイノンは俺と視線を交差させることなくコンロへ向かう。俺は詰めていた息をこっそり吐き、握りしめていた拳を開く。あのメッセージに返信がなかったからこそ、お前とはもう終わりだと感じたと言うのに、ファイノンにとってはそれがきっかけなのだと、今更言うのか。どうしてお前はいつもそう、肝心で大事な時ばかり普段はよく回る舌が鈍くなる。たった一言、あの時、帰るとさえ返信してくれれば俺は。
モーディス。慌てた声が耳を打ち、ファイノンが駆け寄ってくる足音がした。近寄るなとすぐに拒絶したかったが、動くことができなかった。我知らず再び握りしめていた拳に熱い雫が一度落ちるが、止まれ、と念じるとそれ以上は溢れない。視界は歪んでもいない。それでも、声を出すことも動くこともできなかった。喉の奥が灼けたようにひりつき、唇を開いて言葉を発するために酸素を求めると、さらなる火種となり痛みが燃え上がる。
体の奥底でファイノンへの怒りと悲しみが沸き上がり、全身を舐めるように痛みが広がって行く。その痛みと激情を、この男へのどうしようもない愛情が鎮めようと躍起になっていた。お前を怒る資格は俺にももうない。何故なら、帰って来いと一言口にすればもっと簡単に解決したことだと分かってしまったからだ。
俺はお前に醜態を晒すのが耐え難く、意味のない虚勢を張った。俺に会いたいのはいつだってお前の方だと思いたがったし、自分で勝手に行き先を決めて旅に出るくせに、帰還すれば君がいなくてさみしかっただの、次は君も一緒に行かないか? と甘ったるい言葉をねだるように口にされることに心地よさを覚えていた。それが事実だ。
ごめん、僕が悪かった。全部僕が悪いよ。足下に跪いたファイノンは握りしめていた俺の手を取り、濡れた手の甲をやさしく親指で撫でる。この男の手はいつだって憎らしいほど優しかった。
焦ったからって感情にまかせて君を責める資格なんてないし、君が僕をまだ愛してくれているだけで満足するべきだった。悪いのは僕だ。君がずっと待ってくれていることを知っていたのに、それでも僕は君から帰ってきて欲しいと言って欲しくなってしまったんだ。すまない。本当にくだらない意地を張ったことを後悔している。僕の方こそしつこく記念日とか君の誕生日の話をしたのに、もう忘れたふりをして傷つけて、なのにそれを許してくれたことだって本当はわかってる。どうして許してくれるんだ? なんて聞いたのも悪かったよ。君が僕を愛しているから許してくれることなんてわかりきってたのに、それでも僕はどうしても君からの言葉が欲しかったんだ。
……
さみしいとか、帰って来て欲しいとかさ。君がそういう感情を人に見せるのが苦手だってことも本当はわかってるよ。そもそも、僕の楽しみを奪わないために、何も言わなかったんだろ? 言ったら、僕は例え百年に一度しか見られない風景を目前にしていたとしても、帰って来るだろうと君は分かってくれてたから。
良く回る舌だ、と感心していた。触れられた手からファイノンの体温が体に染み込んでくる感覚を必死に追っているうちに、段々と体の中で燃え上がっていた炎が小さくなり、心が凪いで行くのがわかる。
そうだ。
ため息のような声が漏れ、ようやく体に自由が戻る。深呼吸を一度し、ファイノンの手を握り返す。
そろそろ帰って来いと何度も送りかけたが、お前にとって大事な場面であれば俺には責任が取れん。お前はきっと俺以上に大事なものはないだとか、そんなことを言うだろう。だが、きっと心のどこかでは後悔してしまうに決まっている。黙って聞け、それが普通だ。いくら納得したと言い聞かせたとて、人生に後悔はついて回る。それを飲み込むのも人生だ。
だが、俺はお前にそんな後悔はして欲しくなかった。俺はただお前を信じて待っていればいいだけで、それが一番互いにとって正しいことだと信じていた。あの日、俺がお前に送った最後のメッセージに、お前は返事を寄越さなかった。当然だろう。俺もお前に帰って来いと言わずに五年も経過していた。何度もお前に共に旅に行こうと誘われたが、それを承諾しなかった。いくら仕事が生活のために大事でも、パートナーを優先すべき瞬間があることもわかってる。それでも、俺はそれを選択することができなかった。この職を選んだ段階で、実家と縁を切ったからだ。それは俺の人生において正しい選択だったとわかっている。そう信じている。しかし、それでもふとした瞬間に、父と縁を切るべきではなかったかもしれないと頭をよぎる瞬間があった。勿論これは錯覚だ。俺とあの男が分かりあえることはない。俺はこの道を選ばなかった人生を歩む方が、きっともっと後悔する機会が多かっただろう。
俺はお前を優先しなかった。そんな俺がお前に傍にいて欲しいと願っても、叶うはずもないだろう。俺は誰よりもお前を優先しなかったのだ。愛想を尽かされても当然だと思っていた。
だからあの日、のメッセージに返事を寄越さぬのがお前なりの三行半なのだと自分を納得させた。言葉はお前の武器のひとつだ。俺を傷つける言葉を言わぬために、沈黙したのだろうと考えた。
……
それは間違いだった。
黙って聞けと言った通りに、ファイノンは俺の言葉を黙って聞いていた。聞いているファイノンの表情はころころ変わり、怒ったり悲しんだり、焦ったり呆れたり、目まぐるしく騒がしい。そんな風に表情豊かで素直なお前に惚れたのだと今更、改めて感じていた。
君を抱きしめて眠りたいと散々主張してくる夜のように、ファイノンが今から君を抱きしめるから、と妙な力強さで言う。好きにしろ、と許してやるふりをするのはやめ、ああ、と首肯する。椅子の上に座ったままの俺の腕を引き、ファイノンが顔に似合わない、俺よりも逞しい腕でがっしりと、痛いほど俺を抱きしめて来る。その姿勢は腰が辛くないのか? と茶化してやろうかと思ったが、茶化す隙間もないほど抱きしめられていて、呼吸をするのもままならない。
責任感が強すぎるせいで君が時々信じられないくらい自罰的になることがあるのを忘れてた。しかも人にそういうところを見せないようにするだろ。はぁ、僕にだけはなんでも言ってくれてるはずだって思いこんでたんだろうなあ
……
。
自罰的? 何を言っている。そう思った瞬間はない。どうにか腕の中から抜け出して呟けば、そう言う事にしてあげたいけどね、と突然調子に乗った声で、ファイノンが言う。
君って基本的にものすごく自信家だろ。だから、僕は時々君は後悔することなんてないし、君には誰も必要じゃないんじゃないかと誤った認識をしてしまう。
……
なぁモーディス、僕は君が何を言ったって、情けないと思ったり、がっかりすることはないよ。他人に本当の自分を見せたくない気持ちはわからなくはないよ。僕だって君にいはいつだってかっこつけたいと思ってるしね。あ、今そうか? って思っただろ! そうだよ。僕は君にはずっとかっこいいと思ってて欲しいんだ。頼って欲しいし、情けないところも見せて欲しい。君に尊敬される部分があるといいなとずっと思ってる。だから、君が褒めてくれたVlogをずっと続けてる。知らなかっただろ。
ファイノンは腕の力を緩めると、中腰で、俺の両手を握ったまま、太陽のように眩しく笑う。俺が褒めたから続けていると言う話は本当に初耳だった。一度も見てやっていないチャンネルなのに、お前は俺の言葉ひとつで続けてきたと言うのか?
まぁ、定期的にバズったりして二人分稼げていれば格好がついたけど、なんとか暮らしていける程度だからそこはあんまり自慢できないけどね。でも、最近はライターとしての仕事もちょっとあるから、動画仕事だけじゃなくなってるんだ。
物凄く売れたら言おうかなと思って言ってなかったんだけど、と恥ずかしそうに口にするファイノンに、俺は、どうして見ない理由を素直に言ってやらなかったのかと後悔した。
ファイノンが、何か飲む? と再び口にした。喉が渇いていないか? お互いちょっと興奮しただろ。
そうだな。手を引かれるままに立ち上がり、食卓の椅子へ移動する。
せっかく沸かしたのにお湯を入れ忘れてた。
ファイノンはぬるくなってしまったらしいケトルを、再びコンロにかけている。普段は火を使っている傍に寄ろうとは思わないが、俺の腰かけた椅子から立ち上がり、ファイノンの元へ向かう。
ん? モーディスどうかし、
――
……
もしかして、なにかして欲しいことがあったり? 言ってくれないとわからないから、どうして欲しいか教えてくれ。
ケトルがけたたましい音を立てた瞬間、ファイノンはそれを分かっていたかのようにコンロの火を落とす。
期待させたなら悪いが。今度は冷めないよう、俺はケトルをコンロから引き上げ、茶葉をいれたまま放置されていたポットに湯を注ぐ。コルクのポットマットにケトルを置き、そわそわした顔で近付いてきたファイノンに向き直る。
お前のチャンネルを見てやらなかった理由だが。
え? あー、その話か。うん、口出ししたくなるからって理由だけじゃなかったってことか。自己完結したファイノンが、うんうんと勝手に納得しながら首を傾げる。
いいよ、本当はどんな理由か当ててみようか。そうだな
……
、実は僕に会いたくなるから見なかった、なんてどうだろう。
自分で言っておいて恥ずかしくなったか、あるいはありえないとでも思ったのか、ファイノンは初手で正解を出されて沈黙する俺を暫く調子にのった笑顔で見つめていたが、やがて、
……
呆れてるのかもしれないけど、なにか言ってくれよ。恥ずかしいだろ。
少し拗ねたように唇を尖らせて、眉を吊り上げる。お前、自分をいくつだと思っている? よっぽどそう言ってやりたかったが、そういう顔がどうにも似合っている。
ふ、と思わず笑うと、あ、傷つくだろ、と怒った顔をして、全力で慰めてくれないと立ち直れそうにない、と宣い、俺を強く抱きしめた。こういう距離感だったな、と拗ねたふりをして、本当にショックを受けているであろう男の背を優しく叩いた。それだけで、びくっ、とファイノンの体が飛び上がる。風呂場の前でキスをした時のように、気まずい沈黙が落ちた。お前といるのに気まずい思いをこれ以上してたまるか。
そうだ。お前の声や顔が映っていなくとも、お前の姿を見れば会いたくなってしまうだろうと思った。俺はきっとお前の都合も考えず、身勝手に、情けなく、帰ってこいと言ってしまうと思った。だから見なかった。
本当に? 嘘だ、と言って欲しそうな震え声を出す男の体を抱きしめ返し、触れ合った頬に頬を摺り寄せる。懐かしい感触と体温だった。触れ合ったまま硬直しているファイノンにフン、と鼻を鳴らして笑う。
……
悪かった。俺もお前も、十二分に言葉を交わしてきたと思っていたが、そうではなかったな。もう謝るな。俺はお前に言わなければならないことをいくつも言ってはこなかった。そのせいで、お前にも何度も言葉を飲み込ませてしまっただろう。お前を愛し、信じているのであれば黙して待つべきだといつからか俺は思いこんでいた。確認したければお前から口を開くだろうと、お前の信頼と愛情に甘えていた。
……
許せとは言わん、
なんでだよ。許すに決まってる。
もがくように体を離したファイノンは俺の肩に両手を置き、今度こそ本当に怒った顔で俺を見つめている。君ってどうしてそうなんだ? と学生の時分に散々ファイノンがため息と共に吐き出したのと同じ言葉を、歳を重ねた男がうんざりした顔で口にする。
まさかとは思うけど、僕に負い目があるから触れるのを許してくれなかったとか言わないよな?
考えてもみなかったことを強い口調で詰められ、逡巡する。もしかすると、触れて欲しいがそれは違うはずだ、と感じていたのは、俺がまだファイノンを本心からは許しきれていないからだろうと思っていたが、なにもかも違うのかもしれない。
さてな、と誤魔化すわけではなく、視線を彷徨わせると、君って難しいやつだな、とこれだけ長く一緒にいたとは
――
いや、一緒にいたと言えるのか怪しいかもしれなかったが、少なくとも、好ましいところも、そうでないところももう、とっく分かり合っていると思っていた男が、困ったように眉を下げる。
確かに僕も君に怒ってたのに、それを誤魔化そうとしてたのはよくなかったな。でも僕たちの怒りや悲しみは不幸なすれ違いと言うより、互いの慢心から来るただの言葉足らずだった。そうだろ?
肩から手を離したファイノンは俺の手をもう何度目に持ち上げて、けれど、帰国してからはじめて、本心を確かめるように親指で俺の指輪を撫でる。撫でられている手を数秒見下ろし、顔を上げた。ファイノンの青く大きな瞳は星空のようにきらきらとまたたいて、俺を優しく、慈しむように見つめている。
ああ、お前のそういう顔が見たかった。
心の中で呟き、それから、そうかこう言うところか、と思い至った。しかし、観覧車に乗ってはじめてデートらしいデートをした時から、俺達はずっと言葉足らずだったのだ。お前はもうわかってると思うけど、と最初の告白を誤魔化し、俺も頷いて終わらせてしまった。そこからやり直すべきだった。
ファイノン。お前が何を言いたいのか、俺はもしかするとわかっていなかったかもしれん。
え? ファイノンが目を白黒させながら、俺の言葉が果たしてなにに対する回答なのかと考える顔をした。
俺はわかっていなかった。てっきり観覧車で言われるものとばかり思っていたが、お前は何故か口にしなかっただろう。
そんな昔のことを今更蒸し返すのか!? 今!? というか、てっきりって言ってる時点でどう考えてもわかってるだろ!
ファイノンが恥ずかしそうに顔を真っ赤にして喚くが、なんのことだかわからん、と言う代わりにわざとらしく首を傾げてやる。もしかすると俺たちはそもそも付き合っていなかったのではないか? 互いに愛していると口にしただけで、はじまってもいなかったらしい。当然これは詭弁だ。
ああもういいよ、わかった、やり直せば君は満足するんだな? じゃあ観覧車に乗りに行かなきゃだめだな。そう言うことだろ?
そこまでは望んでいなかったが、そうするより他にはないだろう。この男を焚きつけたのは俺で、俺はそれに応じる責任があった。
*
あの後、すぐさま話を切り上げたファイノンは車の鍵貸して、と言い、着の身着のままの俺を玄関まで追い立てたかと思えば、そのまま玄関の鍵かけから車のキーを取り、車に押し込んだ。スマートフォンを取り出し、画面を見ながら住所を打ち込むと、所要時間は三時間です、と案内音声が読み上げる。正気か? と言うだけ言ってはみたが、ファイノンが止まるとは思わなかった。
唐突なドライブの間、俺たちは離れていた間のすれ違いや勘違いを修正することに注力した。しかしファイノンは何度も言葉を言い淀み、決定的なことは言わないままでいることに気付いた。いや、俺は最初からわかっていただろう。事の発端はそもそも、ファイノンが俺とセックスがしたいと訴えてきたことだからだ。
お前は離れている間ひとりでしたのか? 俺はしたぞ。
信号待ちでそう尋ねると、君さ!? とファイノンが焦ったように大声を上げる。肌の白い男が耳まで赤くする横顔を見つめながら、相変わらずわかりやすいな、と愛らしく思っていると、なんっで今言うかな、と俺の顔を一切見ずに怒った声で怒鳴る。信号が変わり、苛立ったように舌打ちをして、アクセルを踏む。
事故りたくないからその話は着くまで言わないでくれ。
それは構わんが、そうなるとお前は到着まで悶々とするのではないか?
そりゃそうだろ。あのさ、もう今日はこれ以上喧嘩したくないからこんなこと言いたくないけど、時々お前がなにを考えてるのか本当にわからなくなる。なんなんだ? 僕をからかって楽しんでるのか、それともこういうとこばっか鈍感で天然の合わせ技なのかどっちなんだよ。
何を怒っている? 俺とセックスがしたいと泣き言を、
だからそういうところだろ!
気づけば路肩に寄せられていた車が停まり、ああもう、とファイノンが声を荒げて俺に向き直り、なんなんだよ、ともう一度、苛立ちを一切隠さず、吐き捨てるように言った。
僕がお前としたいっていったのがそんなにおかしいのか? したいだろ、そりゃしたいよ。自業自得なのはわかってるさ、でもそれでも好きなやつと五年もしてないんだ。お前が僕を嫌いになったって言うなら、僕だってこんな情けなくて間抜けでダサいこと言ったりしない。だけど帰ってきたあの日でさえ、僕を愛してるって言ってくれただろ! なら期待すると思わないか? 君だって僕としたいと思ってくれてる筈だと勘違いしたのがそんなに悪いことかよ。
…………
すまない、落ち着くよ。ごめん。今更喧嘩したいわけじゃないんだ、本当に。君と本当に仲直りがしたい。それだけなんだ
……
。
ふーっ、と肩で息をしたファイノンを黙って見つめていたのは、何も俺が理性的だったと言うわけではない。ただ単に、俺はこの男の剣幕にやや驚いていたのだ。この五年、お互い表面を撫でるような会話しかせず、喧嘩らしい喧嘩もして来なかった。それは互いを尊重しているからだと思いこんでいたが、ずっと歪で不健全な関係だったのだろう。驚きが段々鎮まると、次いで、確かにファイノンと言う男は、こんな風に時々爆発する男だったな、と懐かしく感じた。
ファイノン。手を伸ばすべきか悩んだが事故の可能性はないだろう。悩んだ末に太腿の上に手を置く。
ひゅっ、とファイノンが鋭く息を吸い、ちょっと、とさっきまでの剣幕はどうしたのかと逆にからかってやりたくなるほど、か細い声を出した。
お前には想像が難しいだろうが、俺はお前と違ってひとりでは碌に楽しめもしない。達したところでお前とする時とは場所も違うからな。まぁ、勿論多少は慰めになるかと試してみたことはあるが
……
。
俺の方が余程みっともないだろう、と思わず顔が引きつり、唇の端が吊り上がる。果たして俺はどんな顔を見せているのだろう。ルームミラーで自分の顔を確認する勇気はなかった。
顔を真っ赤にした男は、俺の言葉に興奮した様子を隠せず、真剣に耳を傾けている。その素直な顔に免じて、太腿をそっと撫でた。モ、モーディス。慌てた様子でちらちらと顔を伺ってくるファイノンには視線を合わせず、手のひらでファイノンの太腿の筋肉をしっかりと確かめた。忘れようとしていた感覚が体の奥で段々と燻ぶりはじめたのを感じ、さてどうしたものか、とそっとファイノンから手を離す。
お前は俺を好いていて、恋人になって欲しいと思っていたか。今の話ではない、あの時の話だ。
……
思ってたよ。僕は君に恋していた。ずっと、君の恋人にして欲しいと思ってた。好きだよ、愛してるんだモーディス。君にキスがしたい。
ホテルまで我慢できるのならしてもいい。
迫って来るファイノンの顔を無碍に手のひらで押し退け、ナビゲーションを中止する。ホテル、とまるでその言葉をはじめて聞いたかのような声で零したファイノンに視線を向け、この男の好きそうな笑みを、意識して作る。
誘うのも久方ぶりだ。果たしてこんな風にしていたのかどうか、正直に言えばわからない。だが、間抜けでも別に構わないだろう。この男は、俺の情けない姿を見たいと言っていた。
ひとりでしていたのも数年前の話だ。もう初夜のようなものだろう。最後までできるかはわからんが、それでもいいな。
いいのか、と尋ねはしなかった。それはちょっと、と万が一言われでもすれば、反射で手が出そうだったからだ。
裸で抱き合うだけでもいいよ
……
。
少しもいいとは思っていない苦しそうな顔で、ファイノンがいじらしいことを言う。できれば望みを叶えてやりたかったが、本当にどこまで受け入れられるのかはわからない。
五年のすれ違いはあまりにも長い時間だった。
それでも、愛を失うには短すぎる。
近場のホテルを検索し、適当に設定をする。
ナビゲーションの無機質な音声が車中に響いた。
さて、お前はどうする? いつもであれば口にせず、視線を向けて終わりにしただろう。けれど今は逐一言葉にするべきだった。
愛する男は果たして、覚悟を決めたようにハンドルを切る。
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