六度目の春
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鍵のかかった男
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この話
1
お前のいない日々はつまらん、そろそろ帰ってきてはどうだ。
——たった一言、モーディスなりの言葉でさみしい、と言ってくれるのを望んで、気づけば五年も経っていた。
言葉を欲しがったのは、モーディスに僕が必要とされていると感じたかったからだ。彼はいつでも最終的に僕の背中を押してくれて、勿論その優しさと愛情を本当にありがたく思っていたけれど、それが僕は時々さみしかった。まるで僕が隣にいてもいなくても、君の人生は変わらないと言われているようだったからだ。
意味不明かもしれないけれど、僕は君の理性的なところに多分嫉妬していた。
君が取り乱してなりふり構わず帰ってこいと一言口にさえしてくれれば、しょうがないな、なんて自分の振る舞いを棚上げにし、甘えたことを言ってすぐにでも帰還しただろう。
だけど君は僕が連絡をするたびに健康と無事を気にするだけで、いつ帰ってくるつもりだ、とは尋ねなかった。わざと僕が誕生日を祝うのを忘れたふりをしても、僕がうるさくカレンダーに毎年チェックをつけさせていた記念日にメッセージを送るのが遅れても、時差があったようだが、とか、電波がないのかもしれないが、なんて言い訳を許す言葉を並べてしまう。
お前がうるさく言っていたから、たまには記念日らしいことをすることにした。
二年前の記念日、そう送られてきたメッセージには、ひとりの食卓には似合わないケーキやちょっと豪華な肉料理や花を並べたモーディスの、滅多に撮らないセルフィーがついていた。写真の中のモーディスの表情は僕から見ても幸せそうで、その現実に少しだけ、勝手に傷ついた。
どうして記念日を覚えていて、豪勢なひとりの食卓の写真を送ってくれるのに、さみしいから帰ってこい、の一言はくれないんだ?
だけどそんな憎まれ口をぶつけるのは嫌で、僕もこっちで君と記念日を祝ったよ、なんて昔撮ったモーディスの写真をラップトップに写してばかみたいなツーショットを送り返した。滅多に飲まないお酒のボトルを咥えていた僕に、「飲むほど寒かったのか?」とモーディスは背後に写っていた月と砂漠への感想をくれる。
砂漠の夜は冷えるんだ、と鼻を啜りながら数日前に僕が言ったからだろう。
ビデオ通話に写るモーディスの顔には少しノイズが走っていたけれど、きっと傷ついていないフリを怠れば、彼は僕の不調にすぐに気づいてしまうだろう。慎重に笑顔を浮かべ、そうなんだ、とにかく寒くてさ、と笑って口にする。そんな僕にモーディスは一瞬眉を寄せ、なにか言いたそうに口を開きかけたが、再び閉じた。
そうか、風邪を引くなよ。
五秒程の沈黙の後、モーディスの静かな声が落ちる。
本心が見抜かれたのかと思ったが、それならモーディスはきっと小言を言っただろう。君が飲み込んだ言葉を教えて欲しい。そう言えばいいのに、言葉は唇を通過しない。
寒いからなんて言うのは本当に嘘で、僕はただただ飲まなきゃやってられない気分だった。君が帰ってこいと言ってくれないからと拗ねているだけで、本当に自分の態度が良く無いことはわかっている。それでも君の言葉がどうしても欲しかった。
付き合ってもう十年近くが経つのに、それでもずっと君に恋をしている。僕が旅に出ているせいで離れている時間が長いから、ずっと新鮮な感情を抱いていると言うだけの話なのかもしれないが、浮気をしたこともされたこともないのに、モーディスの人生に本当に僕が必要なのか知りたくてずっと不安だった。尋ねればきっと必要だと言ってくれるだろうけど、こんなに長い間離れていても何も言ってくれないのは、正直なところさみしい。
身勝手に傷つきながらモーディスに次の行き先を口にすると、モーディスは二秒ほど視線を彷徨わせた、ような気がしたけれど、画面にはノイズが走っていて本当にそうだったのか、あるいは僕の願望が都合よく解釈しているのかはわからなかった。
怪我に気をつけろよ、とザビザビにノイズの乗ったモーディスのやわらかい声にうん、と頷いて通話を切る。
そんな、くだらない意地の張り方を何度もしてしまっている。
モーディスが帰ってこいと言うまで帰らないと決めてしまってから、僕の旅は果たして何の意味があるのかわからなくなっていた。もちろん知らない場所に行くのは楽しかったし、美しい自然や建物、素晴らしい文化や歴史を見て、感じるたびに感動はしたけれど、そのたびに、でも、ここには君がいない、と考えていた。
だんだんと愛情は怒りの感情に寄り添い始めて、付き合ってるって言えるのかこれで、やっぱり僕なんかいなくてもモーディスの人生には関係が無いんじゃないか、と考えるようになっていた。
そんな風に思うなら、さみしく思うなら、さっさと帰るべきだった。モーディスはそもそも他人を縛ろうとはしない人で、それが彼なりの愛情なのだと僕が一番知っているはずだった。
僕が両親
——実家の話をするたびに、モーディスは知らない世界の話を聞くような顔をして、少しだけ、他人じゃ気づかないくらいほんの僅かに唇や目尻を歪めていた。幼い頃に母親を亡くして、父親とはあまり相性が良くなく、学校以外の日常は全て父親に管理された生活を送ってきた、と付き合って暫く経った頃に教えてくれ時のモーディスは、少しだけ不安そうに瞳を揺らしていた。
家族と不仲なくらいで、君の人間性を疑問には思わないよ。そう伝えた瞬間、眦ほっとやわらいで、緊張したように息を吐いたのをまだ覚えている。
父上を憎いとは今も思っていないが、相性が悪い。話し合いにならずに喧嘩になってしまうから、お互いきっと不器用なのだろう、とモーディスは今や縁を切ってしまった家の話をそんな風に口にする。
己の過ちを子に歩んでほしく無いと望むのも愛情ではあるだろう。だから父を憎みきれないのだ。
父親に望まれていた道から外れ、家を出たことに、多分、モーディスは罪悪感を覚えているのだろう。父上の望む自分になってやりたかったができなかった、と淡々と口にしたモーディスの表情は何も感じていないように見えたけれど、それが彼なりの防衛反応なのだともう知っている。何も感じなければ傷つかないと信じているかのように。
父親に縛られることに反発したからか、モーディスは僕でさえも言うことを聞かせようとはしない。自分の望みを口にしても、父親と自分のことを考えると碌な結果にならないと確信しているかのようだった。
そう言う考えを持っていることに気づいたのは五年ぶりに帰国してからで、だから、こんなくだらない意地を張ったことを、今はものすごく後悔している。
君が他人に何かを望んでも、それが悪い結果を招くかどうかなんてわからない。少なくとも僕は違う。お互いに納得のいく答えを探っていこう。
もっと早く帰国して、そう言ってあげるべきだった。
三日に一度は送っていた連絡が週に一度、隔週、そしてとうとう月一になって、こうなると変に気まずい。以前は日記のようにモーディスに色々な話をしていたけれど、もう、何を話せばいいのかわからなくなっている。
いつまでも帰らない僕が悪いのに、ついてきてくれないモーディスの愛情や優しさを疑う気持ちと信じる気持ちが日々入れ替わって、もうモーディスは僕の話なんか聞きたくないんじゃないか? と勝手に悪い方へ考えてみたり、いや、モーディスはいつだって僕のくだらない話を聞き流すふりをしてちゃんと聞いてくれてたじゃないか、と揺れていた。
思考はずっとぐるぐると堂々巡りを繰り返している。君の人生には僕が必要だと言って欲しい。素直に尋ねれば、モーディスは帰って来いと言ってくれるかもしれない。僕がいなくてさみしくないのかい? 何度かそう尋ねようとして、言葉の女々しさに嫌悪感が出てやめていた。
誕生日おめでとう、ファイノン。
息災か? 今はどのあたりにいるのだったか。以前連絡を寄越した場所にいるのなら、そちらは冬になった頃だろう。
お前は暑がりだが、油断して風邪を引くなよ。
最後に僕から連絡をしてから半年も経っていたことに気づいたのは、半年も連絡をしなかったのに、僕の誕生日になった直後、こんなメッセージをモーディスが送って来たからだった。
その頃の僕は薄情の上塗りを続けていて、記念日も君の誕生日にも連絡をしなかった。記念日はモーディスから忘れたのか? と連絡が来ていたが、誕生日にはお祝いの言葉もないのか、の文句すらひとつもなく、なかったものとして月日が流れていた。
それなのに、モーディスはただ僕の誕生日を祝ってくれていた。
スマートフォンには常にモーディスの日付と時間を表示していて、僕がその時にいた場所ではまだ誕生日の半日前だったが、そんなことはどうでもよかった。月曜日の深夜で、送ってすぐに眠りについたとしても、僕の知るモーディスにしては遅い就寝だった。
入力中を示す
…が画面にしばらく表示されているのを凝視し、彼が次に何を言うのか緊張して待っていた。けれども十分は入力中が維持された後、結局文章は続かず消えてしまう。
モーディスが十分も悩んだ末に送らなかった言葉が何だったのか、夜が来るまでずっと考えていた。
帰って来い。簡潔な言葉でも構わない。そうだったらいいのに。そう思うのと同時に、別れを切り出されたらどうしよう、とも思っていた。
もう帰って来ないのだろう、別れるか。あるいは、他に大事な者ができた。帰って来ないお前と違い、傍にいてくれる。そんな風に。
これだけ好き勝手一人で海外をふらふらしていたのに、モーディスの傍に僕ではない誰かがいるかもしれないとは今日の今日まで考えては来なかった。モーディスは頑固でプライドが高くて、そして優しいから、僕の負担にならないためにさみしいと素直に言えないことだって知っていたのに、意味のない意地の張り合いをして、もしかすると僕は彼を失おうとしているのかもしれないとようやく目が覚めた。
そうなると途端に全てが不安になり、意地を張っている場合じゃないと慌てて帰国を決めた。長時間フライトも乗り継ぎも何度もしてきたのに、これほど長く面倒に感じる空路もなかっただろう。
帰国して、まっすぐにモーディスの自宅に向かうと、そこにはすでに他人が住んでいたことに愕然とした。
メッセージを入れて電話をかけてみるが繋がらず、そう言えば仕事中は一切携帯を確認しないことを思い出した。
どうしようどうしよう、と無意味なつぶやきが口から洩れ、心臓がばくばくと脈打ち、冷や汗が大量に流れていた。僕が五年も意地を張っている間に、とっくにモーディスには愛想を尽かされて、引っ越したことすら教えてたくなかったらしい、それはそうだろう。もし僕が逆の立場だったら怒っているに決まっている。
落ち着け、と言い聞かせて、誰なら彼の行き先を知っているのかと考えた。アドレス帳を上からどんどんスクロールし、ようやく、彼の親友と連絡先を交換していたことを思い出した。在学中に二度ほど三人で飲みに行き、二度目の時の話だ。モーディスが席を外した瞬間に、こっそりと。
もし、メデイモスのことで何か緊急で誰かに連絡を取らなきゃいけないことがあれば、僕が繋ぐよ。
もちろんそんな事態にはならないほうがいいけどね。
穏やかな細い声で笑った彼に、当時の僕はなんとか笑顔で善処するよ。と返した気がするけど、内心嫉妬で腸が煮えくり返っていた。モーディスは自分に対して失礼な振る舞いをしない人にはいつだって穏やかで優しい男だったけれど、親しい人はあまりつくらないようにしている気がした。少なくとも僕の知る限りでは、親友と僕意外にはいない。
人間は孤独に生きない方がいい。人々と関わって助け合って行くべきだ。そう思っているのに、親しい人、の席が僕だけの物じゃないことが嫌だった。
親友に連絡をするか一時間はカフェで悩んだが、これ以上無意味な意地を張って、決定的な失敗はしたくなかった。
意を決してメッセージを送ると、十分もせずに返事が返って来る。在宅で仕事をしているから通話はできないけど、と前置きがあり、モーディスが転勤に伴いとうに引っ越ししたことを教えてくれる。
今はどこに? 焦っていた僕は矢継ぎ早に尋ねた。
またすぐどこかに行くのなら、もう連絡をしないでほしい。メデイモスに何かを言われたわけじゃないよ。親友としての、第三者からの客観的な感想だけど、今の君はいいパートナーだとは到底思えない。
物腰の柔らかな男にしては強い言葉だった。あまりに鋭い指摘が心臓にまっすぐに刺さり、ひやりと全身がモーディスを失うかもしれないという恐怖に震えた。
強がって、君には関係のない話だ、と返事をすることはできなかった。それはそうだろう。五年も、仕事の都合でも(ある意味仕事の都合にはなっているが、そういう話ではないことはわかっている)何でもなく、恋人を放っておいた男だ。彼に近しい人間が僕を敵視するのは当然だろう。
どう返すべきか悩んだが、素直に、いや、もうどこかへ行く予定はない。もしどこかへ行きたくなったら、その時はモーディスと話し合って、納得したうえで二人でどこかに行くつもりだ。
……勿論そもそも今の僕を許してもらえるかはわからないけど。
そう、メッセージを送り返した。悪いと思っている、と言うような言い訳は一切書かなかった。感情は僕とモーディスの間で消費されるべきで、彼に言っても意味はないからだ。
君とメデイモスがここまで拗れたのははじめてだものね。
……職場はここだよ。でも、家にいれてもらえるとは思わないで欲しい。わかってるとは思うけど、職場なんだから社会的な迷惑をかけないでね。
マップと一緒に送られて来たメッセージを三度は読み返し、お礼を言ってやり取りを終わらせた。モーディスにもう一度通話をかけるが、当然のようにつながらなかった。もしかして誕生日祝いを最後にブロックされているかもしれない、と一瞬脳裏をよぎったが、モーディスに限ってそんなことはしないだろう。そういうことはしない男だ。
*
図書館でモーディスの手を取った瞬間、驚愕に見開かれた表情に怯みそうになった。もう帰って来ないと思っていた。微かに歪んだ唇の端と細められた瞳には確かにそう書いてあって、モーディスが怒りと苦しみをなんとか押さえつけようとしているのが分かったからだ。
傷ついてるモーディスの姿を見るのは久々のことで、そこでようやく、僕は自分の過ちを本当に理解した。
モーディスはさみしいを素直に言えない男だ。愛情や優しさは有り余るほどまで与えてくれるのに、自分の苦しみを他者に教えようとはしてくれない。カッコつけたいだけだろと解釈することもできたけれど、不器用で、恥ずかしがり屋で、理性的すぎるだけだと僕は知っている。知っていたのに、僕は五年もサインを見逃して帰らなかった。
職場だから迷惑をかけるな言われていたし、確かにそうだと思っていたのに、いざ五年ぶりに会うと焦燥感が理性を圧倒的に上回り、それどころではなくなっていた。モーディスが閉館まで待て、と動揺しながら零し、カフェで待てと言われて一度図書ルームを追い出されてから、うろうろとあてもなく図書館の周りを歩いていたが、冷静になるべきだ、と気づいて図書館併設のカフェに入り、閉館まで時間を潰した。
陽が暮れる少し前に駐車場でモーディスの車を見つけておいたので、その傍で待っていると、ようやくモーディスが姿を現した。僕を見た瞬間瞳を細め、本当に待っていたのか、とでも言いたそうな顔をしている。モーディスがこんな風にあからさまに皮肉そうな顔をする時は怒っている時と、僕を慰めようとしている時の二パターンがある。さすがに今回は前者だろう。
車に乗るなと言われるかと思ったが、モーディスは僕が乗り込んでも拒絶しなかった。カーナビが何故かついていて、目的地までの所要時間を僕に教えてくれる。
その間は喋るなと言う事だろうか、それとも、その間は話をきいてやるってこと? 悩んだが、運転をするモーディスの横顔は冷たく冴えていて、明らかに会話を拒絶していた。
怒りを孕んだモーディスの美しい顔をこんな風にまじまじと見るのは久しぶりで、この五年の間ずっとデータで見ていた君と現実の君の鮮明さの違いに頭がくらくらしそうだった。
家に着くまでの間、黙って横顔を眺めていても、モーディスは見るなとは言わなかった。もしかするとただ意識されていなかっただけかもしれないけれど、今はそれでも構わなかった。この期に及んで彼を驚かせようと、帰国連絡をしなかった。だから急に家に人が来ることになっているのに、どうやら家に上がるのを許してくれるらしい。
ドアの前で暫く待てと言われるかと思ったが、モーディスはそんなことは言わなかった。普段から整理整頓をきちんとしているのだろう。
入室を許可された家は、当然だけれどまったく知らない間取りで、全く知らない空気があった。一人暮らしにしては少し広い部屋だったけれど、本人に言えば狭いだろう、ときっと言うだろう。
窓辺にはサボテンの鉢植えが一つあり、昔は植物を育てる趣味なんてなかったのにな、と考えるのと同時に、もしかするとお世話をするなにかが欲しかったのだろうか、と感じだ。それほど手間がかからず、長持ちして、だけど棘のあるサボテンを何故育ているのか。いくらでも邪推はできそうだったけれど、自意識過剰だとモーディスに怒られてしまいそうな気がした。
せめて今夜はこの家を追い出されずに、モーディスの傍にいたい。
*
目が覚めて、腕の中に温もりがあることに安堵した。狭い一人用のマットレスに大の男が二人並んで眠るなんてナンセンスだし狭すぎたけれど、いい気分だ。
二人で寝るには狭すぎる、と嫌がるモーディスを言いくるめて一緒に寝るのは今日で三度目のことで、勿論、翌日に仕事がない日にねだることにしている。
眠っているモーディスの寝顔をじっと眺めながら、これは本当に現実だろうか、と自分の頬をつねる。痛い。どう考えても現実らしい。
モーディスの髪と背をしばらく撫でると、ようやく満足してもう一度抱きしめ直し、目を閉じる。
眠っているモーディスの体温は僕より幾分か高く、抱きしめていると心地がよかった。髪と肌からいいにおいがして、肺いっぱいに深呼吸をする。こういう真似ばかしていると時々嫌がられるが、無視して抱きしめていると呆れているのか諦めてくれるのか、モーディスは何も言わなくなる。
今日で帰国して、というか同棲生活に戻って一か月が経っている。見知らぬモーディスの新居にも土地にもだいぶ慣れて来て、最近はモーディスが仕事の間に買い物を済ませたり、あるいは職場までついて行ってから開館時間になるまで近くのファミレスで作業をして、その後図書館併設のカフェでおやつを食べたり本を借りたり、街を散策したりしている。職場についてくるな、と言われるかと思ったが、意外にもそうは言われない。その代わりに、勤務中は視線が合っても反応はされない。まあ、正しい反応だろう。いずれにせよ、帰国前後でちょっと、いやだいぶ関係は拗れかけたが、モーディスの寛大さで僕は許されているし、以前のように関係は続いている。
――と、思うようにしているが、実際はかなりお互い結構ぎこちない瞬間があることもわかっていた。モーディスは昔から沈黙して思案することが多いが、今はそういうった時間が以前よりもやや多い。
深夜に目が覚めたある夜、モーディスがそばでじっと僕を見下ろしていることに気が付いた。表情は暗がりでよく見えなかったが、僕の肩に手を伸ばそうとして、結局引っ込めてしまったことだけは感じた。今起きたふりをして声をかけるか悩んでいるうちに、モーディスは静かにその場を去り、寝室兼私室へと戻って行ってしまったからだ。
五年分のわだかまりがそう簡単に解決するとは僕も思っていない。元はと言えば本当に僕が悪いのだし、これからは誠意をみせるしかないだろう。
暑苦しい。思考に沈んでいると、腕の中でモーディスが身じろぎし、ため息を吐く。なのに、言葉とは裏腹に、僕の体を押し退けるわけでもない。
おはようモーディス。今日も愛してるよ。
眠たそうな美貌を覗き込んで頬にキスをすると、モーディスは今朝も面食らった顔をして、毎日言う必要はない、と居心地が悪そうに、昨日と全く同じ言葉を口にする。知ってるかい? 君がその言葉を言うのは今日で十回目だ。だけど、居心地が悪そうにさせてしまったのは僕のせいだろう。
いやいや、大事な言葉は毎日口にすべきだよ。だって僕たちはそのせいで危うく全てを終わらせてしまうところだったんだから。
なるべく茶化した声で言い、唇にキスをする。モーディスは僕を許したと言ったけれど、多分それは百パーセントの本心ではないだろう。昔は飽きるまでキスをしてもされるがままだったのに対して、今は三回を越えれば起きるから離れろ、と唇に手のひらを当てて遠ざけられてしまう。葛藤するような表情をするモーディスには気づかなかったふりをして、もう少ししたかったのに、と甘えた事を言っておく。
たまには僕が作ろうか? と寝間着から着替え、キッチンに立とうとするモーディスに尋ねたが、いい、と首を振られてしまう。
どこになにがあるかわからないだろう。
うん。だから教えてくれ。
…………また今度だ。お前は編集でもしているか、走ってこい。
モーディスの聖域に踏み込むのに今日も失敗し、仕方なく言われた通り、と言うわけでもないが、編集途中のファイルの再チェックを行う。テロップとBGMくらいしかつけていなくても、長尺の動画はチェックが大変だし、レンダリングするのにも時間がかかる。レンダリングをはじめてしまうとPCを放置する必要があるため、今はじめてしまうと手持無沙汰だな、と思ったが、問題がなさそうなのでレンダリングを開始する。いずれにせよ、午後は散歩がてらランチデートの予定だからどうせ作業はできない。
キッチンで朝食を作っているモーディスを振り返り、背中をじっと見つめる。長めの後ろ髪をしばっている姿も、服上からでもわかる肩甲骨のラインも、エプロンの紐をしばっているきゅっと引き締まった腰もその下の長い脚も全部綺麗だ、と思った。
当たり前の話ではあるが、家の中は四六時中モーディスの生活感やにおいで満ちていて、モーディスがひとりで仕事に出て行ってしまうと、今は余計に不在を色濃く感じてさみしい。
再会してすぐの夜、脱衣所でモーディスとちょっとした事故があった、と言うか、僕が暴走しかけたあの日以降、いまだにハグとキスしか許してもらえていない。モーディスは本心ではそれすら不服そうではあるけれど、くっついていると、段々諦めたふりをして体重を僕に預けてくれるし、仕事の後はうとうと眠たそうにまでしてくれるので、多分今は感情と感覚が乖離している複雑な時期なのだろう。
狭すぎる寝具で二人で抱き合って眠るのを許してくれているだけ進歩だよな、と思いつつ、もっと触れ合いたいというのが本音だった。
性欲処理がしたいだけのけだものか、とモーディスに言われたくなくて我慢しているけれど、好きな人とセックスができないのは自業自得とはいえかなりつらい。
もしかしたらモーディスは五年もレスだったからもうその気がないと思っていたりしないだろうか、と考えたりもしたが、それなら、あの日、僕の体に向けられた視線はなんだったんだ? と言う話になる。この五年は離れていたといっても、それ以前は僕たちはずっとうまくいっていて、ものすごく気の合うというか、色々と相性のいい恋人同士だったと思う。
好きだと思うのと同じくらい、嫌だなとか、考え方がわからないなと思うことがあったけれど、それはお互いさまで、踏み込んで欲しくないと主張すればわかった、と譲歩できる関係だった。とはいえ。
僕がいない間、君ってどう処理してたんだ。
朝食を食べ始めたモーディスが口を開くたびに、濡れた唇や赤い口腔内にむらついていた。だけどその衝動にまかせてこんなことを聞くのは、いくらなんでも踏み込みすぎだろう。
今日が出勤日なら彼がいなくなってから一人さみしく抜くのに、としょうもないことを考えながら、無心で萎えそうなことを思い出す努力をしていた。朝食の席でこんなことになるなんて本当にどうしようもない。
でも、好きな人が今も僕を受け入れてくれるのか、そのつもりがあるのかどうか、知りたくてしょうがなかった。
もし、もうその気はないと言われても離れるなんて今は考えられなかったけれど、それならそれで、今以上に深く触れ合うのを諦める覚悟を決めなくちゃいけないからだ。
気に入らなかったか?
むらむらしてぼんやりしていた僕の手は完全に止まっていて、朝食に一口食べただけになっていた。モーディスは気まずそうに味付けに問題はないはずだが、と言いながら僕の皿にスプーンを伸ばし、バターのいい匂いのするスクランブルエッグを掬う。
ごめん、君に見惚れてただけ。今日も美味しいよ。
? 下を向いていただろう。
直視してたら目が灼けそうになったから。
……ばかなことを言うな。
本当のことなのに、と続けつつも、モーディスがこれ以上気にしないために朝食を再開する。とろけたスクランブルエッグの黄色にさえ、段々と君のメタファーに思えて来たから重症だ。