250817 新刊①

スモロ「深海魚は極彩色の夢を見るか」



第二章

✴︎ 海賊どもの夢の跡
 

 きっかけは、所属する研究室に置き去りにされていた一冊の雑誌だった。小論文の執筆に追われ、泊まり込み、すっかりくたびれていたときに、それを発見した。
 発掘に出かけなければ、普段は論文とデータばかりを睨む日々だ。雑誌だなんてほとんど読むこともないのに、その日のローは、手を伸ばした。気分転換にでもなれば、と思ったのだ。
 その紙面に、記事の末尾にその名前を見つけたとき、何を思ったのか。衝撃的だったこと以外はもう朧げで、思い出せないけれど。
 そう。でも。だから。
 本当は知っていたのだ。『彼』が己と同じようにこの時代を生きていることも。あれだけ似合いの軍人ではなく、柄じゃなさそうな物書きを生業としていることも。
 そして、今となっては解っていた。彼は自分とは違う。何も、覚えていない。
 もし覚えているなら、彼はこの仕事を受けるわけがない。なぜなら、自分と彼は敵同士だった。彼は、自分たちのことを毛嫌いしていた。
 己が知っている『彼』ならば、まかり間違っても相見えようなどとは絶対に、望まないはずなのだ。
 ── だが男は、のこのこと自分の元へとやって来た。どうも、だなんて呑気な口上を口にした。自分に向かって頭を下げた。何事もないように、淡々と話しかけてきた。
 そんなことができるのは、『ロー』のことを何も知らないからにほかならない。
 ムカついた。厳めしい顔は昔と変わらないくせに、自分への敵意を失った彼に。
 そして、魔が差した。真っ赤な目で真っ直ぐ見つめてくるスモーカーのことを、驚かせてやりたくなったのだ。

………い、エド!」
 タブレット端末の画面を睨みながらベッドに転がり、物思いに耽っていたところに降って来た男の呼び声が、現実へと引き戻す。ハッと顔を上げて振り返ると、声の主がいつの間にか部屋に入り込んで、こちらを見ていた。
 突然の襲来に、ぐっと片眉が上がるのを感じる。身体を起こして、ベッドの縁に腰をかける。まず口から飛び出たのは、文句の言葉だった。
「オイ、ノックくらい
「ちゃあんとしたぜ? それも三回。そっちが考え事に夢中になって、気が付いてなかっただけだよ」
 しかし、文句はあっさり一蹴され、ローはグゥと黙り込んだ。思案に夢中になっていると周りの様子が分からなくなることは、今に始まったことではない。よくあることだからだ。自覚だけはあるから、こうなると分が悪いことはすでに学んでいる。
 そして、都合が悪いと黙ることを、相手もまたよくよく理解していた。やれやれと肩を竦めて見せる相手に、やはり返せる言葉はない。
 気まずくした空気を誤魔化すようにごほんと一つ咳ばらいをして、「それで」と切り返す。「何の用だ」と尋ねると、彼はポケットからUSBメモリを取り出して言った。
「今日までの実測とソナーのデータを基に、最新の海底地形図が完成した」
……ということは、明日から船体の発掘作業をメインにできそうだな」
 発掘作業を行う上で、海底の地形を理解することは必要不可欠である。自分たちがどこを潜り、どの程度掘削を進めたのか。どの地点で遺物が発見できたのかを正確に記録・整理することは、考古学の発掘作業に置いてとても重要なことだ。なので正確な地形図がないと、発掘の作業は始められない。
 しかし言い換えれば、正確な地形図が完成したエリアは発掘調査に移行できる、ということだ。
 ── やっと、あの船を迎えにいけるかもしれない。
 黄色い船体が海を泳ぐ姿が、脳裏にありありと浮かんだ。窓の向こうに見ていた鮮やかな世界を、はっきりと思い出す。
「よかったな、『とら男』」
 男は、ローの胸中を察したかのように、けれどわざとらしく逆撫でるかの如く、気に食わないあだ名で呼び立てる。こればかりは我慢ならず、思わず言い返した。
……その呼び方は止めろ、鼻屋。おれはもう、『トラファルガー』じゃない」
「いやいやいや、そっちこそ! 今のおれはもう長鼻じゃねぇの!」
「そっちが先のくせに」
 ローが一睨みしても、わざとらしく顔を背けて見せたウソップ(今世でもって正しくは
『ジェイコブ・ウソップ』である。鼻は平均的な高さだ)は、手にしていたUSBを目の前に差し出した。ローはそれを受け取ると、サイドテーブルに置いていたノートパソコンを膝上に引っ張り込み、立ち上げる。
 そのデスクトップには、数年前に立ち寄った国のアクアリウムで撮ったシロクマの姿が映し出された。スライドショー設定にしているため、自動的にいろいろな生き物が映し出される仕様になっている。今日、真っ先に姿を現したシロクマは、ローが一番好きな動物だ。
 USBを差し込み、アプリを使って、彼が作成した3Dモデルを確かめる。これは前回の調査から導入しているシステムだ。ウソップが調整した様々な機器で測量や探査したデータを基に、海底の地形を3Dで再現している。
 これのおかげで、発掘するエリアについての詳細な情報を得ることができ、二年前は船体の一部を発見することができたのだ。
 そのとき見つかったのは、黄色い塗装は僅かに付着した、ねじ切れた金属製の破片。船体の一部だ。どの辺りの外装なのかは、まだ分かっていない。
 両手に納まる程度の大きさは、何も知らない人間からすれば『たったのそれだけ?』と
言われるだろう代物だろう。けれどローたち考古学者にとっては、歴史を詳らかにする上でとてつもなく重要な証だった。
 脳裏を駆け巡るのは、遙か昔の走馬灯の数々。満身創痍のまま彷徨った海は、肌を刺すように冷たかったことだろう。
 『記憶』とは、出来事の記録だ。自分が何をして、何を言い、何を見ていたのかが残されているだけ。その時の『自分』がどんなことを思っていたのか、感じていたのかという情報はほとんど抜け落ちているため、もはや想像することしかできない。
 だが、きっと屈辱と悲壮に満ちていたに違いない。ローは今も『昔』もずっと負けず嫌いだ。
 ── ぐわん、と視界が歪む。咄嗟に目頭を押さえた。次の瞬間には、脳を締め付けるような頭痛がした。頭を押さえると、それを見たウソップは、ローへと近付く。
「おい、大丈夫か?」
……流石に、多くを思い起こそうとしすぎたな」
 男のささめきに、くぐもった声で返した。『かつてのこと』を思い出そうとすると、その情報量の多さを脳が処理しきれず、拒絶反応を起こす。それが、頭痛として現れる。そ
の症状は今に始まった事ではない、幼い頃からずっとそうだ。
 それは目の前の男も同じだったと聞く。だから彼も、こんなときの対処の仕方をよく知っていた。
 ウソップは、ローがサイドテーブルに置いたままにしていたミネラルウォーターのペットボトルに手を伸ばすと、静かに差し出した。受け取ってすぐさまキャップを開け、口を付ける。こくこくと喉を通り抜ける温い感覚に、激しい信号を飛ばしていた神経が少しずつ凪いでいくのを感じた。
 それでもなおジクジクと痛み続ける感覚は、深い刺し傷を負ったときに似ていると思う。損なわれかけた神経が人体の異常を全身に知らせるが如く、鈍いシグナルを発するのにそっくりだ。
 ── ローは生まれてこの方、何かが身体に刺さった経験はない。そんな大きな怪我をしたことはない。
 なのに男は当然のように、これは刺し傷に似た感覚だと断言できる。
 今のローが体感したことのない経験を、脳だけが確かに記憶しているからだ。


✴︎ 『昔』話と再会


 男には不思議な記憶がある。それは己の細胞分裂が始まるよりも遥か遥か昔の時代の、おとぎ話のような史実と合致する奇妙な思い出だ。

 その思い出の中に登場する幼い『ロー』は、卑しい人々と無知が生んだ迫害によって家族や郷里を失い、世界への復讐を選んだ。しかし、少年が人道を違えようとしても諦めなかった恩人のおかげで人間らしい心と未来ある命を繋ぎ、己を信じてくれる友人に背中を押され、仲間と共に海賊へと身を窶した。成長した『ロー』は恩人が果たせなかった悲願を果たすために戦って、その過程で誰かを貶めて、上へ上へと上り詰めて。
 長い旅の果てで、自分の置かれた宿命の意味を知った。

 それが海賊であり医者でもあった、『トラファルガー・ロー』という男の、不可思議で
濃密な物語のあらすじである。
 この『物語』という形の記憶は、今世の自分の自我の中でインクのようにじわじわと滲み、幼いローの中に真っ黒なシミを作っていった。一方的に増えていく得体の知れない情報の数々を、小さな脳みそでは納めきれず、何度頭痛に伏したことか。
 また、自分のことなのに自分事とは思えなかった。記憶の中の自分が抱えていた悪辣さは、まだ幼く柔い精神との間にギャップを生み落とす。自分だけど、自分じゃない。おれはおかしいのかもしれない、と精神異常を疑ったこともあった。
 だが、歳を重ねて成熟していくと、記憶の中の自分が、今の自分と織り混ざって、一つになっていくようになった。自分じゃないけれど、自分の一部だと、受け入れることができるようになっていた。
 そして、学校で歴史を学んでいくうちに、自分を蝕んでいた『シミ』が、間違いなく現実にあった出来事だと証明されていると知ったのだ。
 世界の逆賊だった『ロー』に関する話はあまり残されておらず、に世界革新の雄たる『海賊王』の同盟相手として、テキストに名前が載るか否かという程度のものである。
 だが、逆賊であることこそがローの何よりの証明だった。世界なんてクソ喰らえ、と自由気ままな海賊だったからこそのことだと思えば、痛快なことだった。
 加えて、詳しいことを知りたくて足繁く通った図書館で、ハートの海賊団にまつわる史料を見つけた時の、あの高ぶりは、言葉には変えられないだろう。とある大海賊の航海士が残した日誌に存在した『死の外科医』という言葉に、血が湧き立った熱を、忘れることはないだろう。
 ローが海や歴史への好奇心を強めるようになったのは、かつての『自分』が海賊として海へ出ることを選んだ年齢に近付いた頃だった。
 今生でも、少年は類に漏れず優秀に育ったので、今度こそ真っ当な医者になるという選択肢も、なかったわけではない。
 けれど、追究したくなったのだ。自分の正しさを、運命を、そして記憶を持って生まれたことの意味を。
 そんな時に偶然つけたテレビ番組で、水中考古学という学問と、その名において引き上げに成功した大海賊時代の海賊船の存在を知った。
 青い青い水底を這うようにして発掘調査を進め、回収することが出来た物証を一つ一つ文献史学と丹念に紐づける。そうして、歴史の謎を解明していく学者たちの姿をせきららに描いた記録映像に、ローの目は釘付けになった。
 映像の後半で、ヒツジが模られた船首が海から引き揚げられたとき、それが何とも嬉しそうに笑ったように見えたのが、鮮烈だった。
 今の自分が求めているものはまさしくこれだ、と思ったロー少年はそこから、自身の行くべき進路を定めた。そこに向けて着実に勉学に励み、考古学を専攻できる大学に進学。師事する教授の元で勉強を重ね、経験を積み、縁あって、某大学の有名な海洋考古学研究室に所属することとなる。
 そして、そこで、このウィナー島近海域沈没艇探査プロジェクトの存在を知ったのだ。
 ── 無人だったあの島の近くで、大海賊時代の医療器具が見つかったのだとしたら、それはポーラータング号の痕跡以外にありえない!
 そう叫んでやりたかったが、それが実に愚かな行動であることを、ロー青年は理解していた。
 歴史は、文献に残された記述や、見つかった物証をもとにして語られる。それを示さない、或いは示せないのなら、認められることはない。うそつきノーランドと同じだ、確たる証拠がないのだから。
 だったら、真っ向から調べ上げ、確証を掴み、世間に知らしめるしかない。
 絶対にやり遂げると堅く決意してからは、更にこの学問へとのめり込んだ。自分の手で証拠を掴むため、潜れるようになろうと、ダイバーの国際ライセンスも取得した。
 当時、プロジェクトの責任者だった教授に、自分もそのプロジェクトに参加させてほしいと直談判したのは、勝手知らずな若気の至りだったと思う。しかしその熱意は確かに伝わり、二期の調査への参加まで漕ぎ付けた。
 自分と同じように、かつてのことを覚えているウソップと出会ったのは、その頃だ。彼は同大学の工学部に在学し、機械工学や情報工学を学んでいた。ポーラーに同乗していたときに見せたモノづくりを好む性質は、かつてと変わらなかったらしい。
 会話を重ねていくうちに、狙撃の名手であった記憶を生かし、正確な測量を行う機器の発明を自身の研究にしようとしているのだと聞いた。
 当時の海底調査は実測が多く、機械を導入した例は、陸の考古学に比べると随分少なかった。また、機械をもとにつくられたデータは製作者の技術不足によって、記録や研究などの精度を上げるには使い勝手が悪い、という認識が広がっていた。(後者については、もともと工学的な技術を持たない学者が半端な知識で作成するから致し方ない。)
 しかし、器用なウソップなら? 彼と出会ったことで、ローは『あること』を閃いた。悪巧みを思いついたような顔で迫った自覚はある。それを前にしたウソップは昔と変わらぬ小心者っぷりを発揮し、今にも逃げ出したい、という顔をしていた。
「海中での測量に興味はないか?」
 始まりこそ半ば無理やりだったが、お人好しな気質を発揮させた海好きの彼もまた、海底世界の調査にのめり込むようになった。
 二期目の発掘作業の情報を提供し、新たなソナーの開発を正式に依頼。三期目の発掘には彼も現地へ連れて行き、新たな実測を行った。ウソップは、自身が作成した遠隔操作機を用いて、実に精巧な海底地形図を作成させてくれた。
 その結果は言わずもがな。地形図に示したソナーの反応から、他の部分とは異なる隆起をあぶり出し、件の異物を発見する。ローは、自身の権威を押し上げることに成功した。
 そんな成果もあり、前任のプロジェクトリーダーから「次期のリーダーをやってみないか?」と推挙され、晴れてこの調査の主導者となったのだ。

 そして、今 ─ 明日からは更に本格的な発掘に挑むことが出来そうだという事実に、心が揺さぶられている。
 音波探査の結果から作成された3Dモデルを基に、めぼしい反応が記されたポイントをいくつか絞り込んだ。他のメンバーにも共有するため、共通フォルダにコピーを移し、確認するようにとチャットを送っておく。タン、とエンターキーを押し、送信されたのを確認してから、USBを抜き取ってウソップへと返却した。
「ありがとう。明日以降はこれまでの記録の方を頼む」
「おう、まかしとけ! ……あ、ってことは『あいつ』にも声をかけるんだよな?」
「あいつ?」
「ほら、あのルポライター、さん」
……ああ、白猟屋のことか」
 彼の名前を呼ぼうものなら海兵への恐怖が蘇るらしい臆病者は、恐る恐る言った。『ルポライター』と言われてすぐにピンと来ないのは、ローもまた、彼が『海兵』であるという古い認識を未だ覆せないでいるからだ。
 咄嗟に脳裏に浮かんだ厳つい顔は、今のものか昔のものか分からない。彼の姿形は、記憶の中のそれとほとんど相違なかった。
 しかし、昔を忘れられないでいる自分たちとは違い、その中身は真っさらで、何一つとして覚えていない。
 それでも再び、出会ってしまった男。
「ビビることねぇだろうよ。今のおれたちは真っ当な研究者で、あいつはただの記者でしかないんだから」
「頭では分かってても、記憶に残ってる印象はそう簡単に覆らないんだよ! よりによって、なんであの男なんだよ。おれらにとっては一、二を争うほど厄介な海兵だったってのに……
 男はがっくりと肩を落とす。それだけ、彼には負の記憶があるのだろう。確かに、海兵だったときの彼は麦わらの一味にいたくご執心だった。特に麦わら屋への執着は凄まじいものだった。
 それに、軽い口調でいなすように正論を説いてはみたが、ウソップの言う通りでもある。記憶にある印象はそう簡単に変わることはない。
 自分にとって少なからず因縁があった人間と、再び相対する羽目になった因果を、ローとて呪いたい気分だった。
……まぁ、悪いようにはならないだろ」
 ふと窓の外を見やる。青々とした空はどうしてか憎たらしいほど眩しく、かつて駆け抜けた大海原を彷彿とさせた。

(続きは誌面で)